富士山で亡くなった叔父の遭難について調べてみる気になりました。
祖母の家に遊びに行ったとき、稀に少しだけ話題になることはあったけれど、そんなとき、祖母も母もとても辛そうなので、今まで詳しく尋ねたことはありませんでした。
小さい頃から今までに聞いた話では、「事故当日はとても悪いコンディションで小屋の中に避難していたのだけど、翌日どうしても外せない仕事がある人がいたため、、リーダーが下山を決断。小屋を1歩出たら、猛吹雪でほんの1m後ろにあるはずの小屋に戻ることができず遭難してしまった。」ということ位しか知りませんでした。
検索結果は、自分の記録に残しておきたいことと、自然の中で遊ぶ上で大切な情報もあったので、ここに記すことにします。
特に「気象と災害」のサイトでは、富士山大量遭難の例以外にも、さまざまな気象状況での災害や事故が紹介・分析され、自然の怖さを見せつけられました。
私も山・川・海など自然の中で遊ぶことが多いので、自然の怖さを知り、無理をしないこと、勇気ある判断をすることの大切さを改めて感じました。
★気象と災害の「強風-富士山大量遭難」より
1972年(昭和47年)3月20日、日本の山岳遭難史上最悪の事故が起きました。場所は富士山です。
この遭難では、春一番の暴風雨が吹き荒れる中、2つのパーティーなどが下山を強行し、凍死や雪崩で24人が命を落とすという痛ましい結果となってしまいました。春一番という言葉に、暖かさをイメージする人も少なくないかもしれませんが、春一番は、そのイメージとはかけ離れた激しい現象で、これまでにも数々の事故や災害を引き起こしてきたのです。
これは遭難当日の天気図です。この日は台風並みに発達した低気圧が日本海を北東方向へ進みました。まさに春一番の天気図です。この低気圧に向かって強い南風が吹き込み、平地でさえも暴風が吹く中、標高の高い富士山では人の命をも奪う嵐となったのです。
この絵の×印は遭難地点を表しています。遭難者は、低気圧の接近を知りながら登山しました。ところが春山の雨などに対する装備をほとんどしておらず、これが大量遭難の原因にもなりました。
富士山測候所の当時の記録を見ると、遭難前日の19日の天気は、薄曇りや快晴となっています。ところが、20日は霧や雪を観測しています。当時の新聞などによると、あるパーティーは19日にビバーク(露営)しましたが、防水の装備はなく、夜半から降り出した横なぐりの冷たい雨で、全員がびしょ濡れになったとのことです。
体験装置で暴風雨を体験してみました。これは、風速30メートル、1時間に20ミリの暴風雨を体験している時の様子です。飛ばされそうな勢いの風と容赦なく吹き付ける雨で、足を踏ん張り、風下に顔を向けないと息もできないほどでした。また風雨にさらされるにつれ、顔や手は冷たくなっていきました。
もちろん遭難時の気象条件は、はるかに過酷なものです。観測記録によると、遭難時の風速は、平均で30~35メートルでした。瞬間的には50メートル前後の風が吹いていたものと思われます。気温は、マイナス2~3℃。春一番の南よりの風で、この時期の富士山にしては高い気温ですが、体で感じる温度とは別です。
これは体感温度をあらわした図です。一般的には風速が1メートル強まるごとに、1℃下がります。今回の場合、気温がマイナス2~3℃でも、風速を考えると体感温度はマイナス40℃くらいだったと推定されます。濡れた体は、衣服ごとバリバリに凍りついていたそうです。
3月も下旬ともなれば、山のふもとは、すっかり春の装いですが、山の上では、まだまだ冬なのです。当時の遭難者のほとんどは、雨や雪に対する装備がゼロで、さらに低気圧の接近が予想されていたにもかかわらず行動したことがこの悲劇につながったのです。
今回は富士山大量遭難を例に挙げましたが、遭難は毎年のように起きています。このような悲劇を繰り返さないために、山の気候はふもとの気候とは全く違うことを認識し、万全の計画や装備で行動することが大切です。そして、気象状況を把握し、悪天が予想されるときには、たとえ登山口まで来ていたとしても引き返す勇気、計画を変更、延期する勇気を持って下さい。
その他、検索してみたサイトの主なものは次のとおり。
★富士山の登山史年表(昭和・平成)より
「1972年3月20日、御殿場口で雪崩が発生、翌日の捜索で18人が遺体で収容され、10人が行方不明に。日本海低気圧の通過によるもので山は大荒れとなった。」
★ザ・20世紀1972年より
「3月20日:【富士山で遭難多発】 春嵐の影響で猛吹雪と豪雨に見舞われた富士山が遭難多発した。死者20人、行方不明5人。」
★さんきのつぶやき(三基計装という会社のサイト内)より
昭和47(1972)年3月20日、富士山で日本の山岳遭難史上最悪の事故が起きた(注:八甲田山雪中行軍=つぶやき№55死の彷徨での遭難が実際は最大の事故だが、軍隊ではなく一般登山という意味で)。春一番の暴風雨が吹き荒れる中、2つのパーティーなどが下山を強行し、凍死や雪崩で24人が命を落とすという痛ましい結果となった。この日は台風並みに発達した低気圧が日本海を北東方向へ進み、この低気圧に向かって強い南風が吹き込み、平地でさえも暴風が吹く中、標高の高い富士山では人の命をも奪う嵐となった。この日は風速30~35m、瞬間的には50mの突風が吹いたと想像されている。さらに体感温度は一般的には風速が1m強まるごとに1℃下がるそうだから、このときの場合、気温が-2~-3℃でも、風速を考えると体感温度は-30~-40℃くらいだったと推定される。濡れた体がバリバリに凍りつき、死を迎えたのだろう。
★雪崩のデータベースの静岡県-御殿場市-1971年から1980年までより
発生日時 1972年3月20日 21:00
被災場所 富士山 御殿場口 2合5勺付近
遭遇者34人 死者6人 負傷者-
被害概要 3パーテイと単独登山者の大量遭難事故で,一部はスラッシュ雪崩に巻き込まれ,一部は疲労凍死するなど24人が死亡した.行方不明となった6人を雪崩埋没死亡とする.
気象状況 平年に比べ気温が10℃以上高かったところに大雨が降った
十代の頃(30年前)、
信濃毎日新聞社の本をいくつか読みました。
その中の一冊がこのタイトルです。
剣岳での同時大量遭難や、
愛知大の薬師岳東南稜遭難(13名)、
富士山のこの件も載っていたと思います。
装備品やその素材は格段に進歩し、
現在なら生存できた可能性もありますが、
昨年の山岳遭難史上最高の記事を読むと、
最後は人の判断力だなと感じさせられます。
山だけでなく、水の事故にも
教訓になりますね。
教えていただいた本を探してみましたが、まだ行き当たりません。
絶版になってしまったのかしら?
ちょっと時間をかけて、図書館のレファレンスで調べてもらおうかな、とも思っています。
実は結婚したての頃太郎坊のスキー場(とはいっても太郎小屋のロープトウが一本有るだけ)では、大変な目に有っています。
友人と駐車場で待ち合わせの約束がして有ったのですが、3月20日の当日の朝、雨が降っていました。しかし平野部が雨でも、この時期、富士山は必ず雪と成っていたので、新雪で滑れると楽しみにして出掛けたのですが、御殿場に入っても雨・・・上に行けば雪だよなぁ・・自衛隊基地の滝が原まで上がっても雨・・・やや風も強くなって来た・・引き返すかぁ・・でも友人が先に行って待ってると悪いしなぁ・・・表富士周遊道からの右に入るころ強風、横殴りの雨・・ここまできたなら一番上の駐車場まで行くか・・駐車場に着いたら暴風雨・・・視界が悪い中見渡すが車は5.6台、友人の車はいない・・・煙草を一服し、帰ろうと・・下りはじめて30m位進んだところで、道が見えない、無い・・昔の事ですから、雨降りの時は窓ガラスがすぐに曇り大変に見難い・・手でガラスを拭うが・・道が見えない・・・目を凝らすと・・何と高さ5,6メートルの高さの灰色の雪の壁が逆巻きながら物凄い勢いで、流れていて道を塞いでいたのです。慌ててリバース、フルスロットルで駐車場に逃げ込みました。
逃げ道を塞がれた、此処は雪崩の通り道と地元の人に聞かされていたのを思い出し、すぐに二本目、三本目の雪崩がくる・・・此の駐車場に・・ヤバ・・・どこに逃げれば・・・
大変な思い出すのは辛いご経験について書き込みしてくださって、ありがとうございます。
結局、詳しく調べずに今日に至っております。
雪崩など、自然災害は本当に恐いですね。
ご参考までに。
新田次郎さんの「春富士遭難」という作品、探してみます。