イヴァンは覚悟を決めると、自分の胸に複数の数印を描いた。描かれた数印は、指先でたどったとおりの紋様を浮かび上がらせ、体の中に溶けこんでいった。
重い衝撃が、イヴァンの胸を襲った。
肉体に刻まれた数印が、イヴァンの意志を捕まえようと、次々に新たな演算式を繰り出した。そこへ、別の数印から伸びた演算式が絡み合い、互いが競いあって形のない意志を追いかけることで、どすん、といった強い衝撃を感じるほどの振動が生まれた。
小さな竜巻が、胸の中で渦を巻くイメージを感じたイヴァンは、呼吸を調整してイメージの竜巻を大きく膨らませ、自分をすっぽりと飲みこむ様子を思い描いた。
と、はっきりとした方向感覚が、よみがえった。すると、それまで見えなかった光が、夜空に輝く北極星のように、しっかりと中天に位置しているのを見つけた。
イヴァンは、水をかくように闇の中を進むと、まぶしく輝く光に向かって行った。
――――
光りを抜けると、そこは見渡す限りの草原だった。
暗闇の中、存在だけを感じていた手足が、はっきりとした実体として、目で確認する事ができた。
足を踏み出せば、しっかりとした大地の重さが、足元から伝わってきた。
しかし、地平線が見えるほど圧倒的に広い草原を前に、イヴァンはただ、立ちつくすばかりだった。やって来たのがどういった場所であるのか、まるで見当もつかなかった。
ほかに、人はいないのだろうか……。イヴァンは、人の形跡を探そうと、勘を頼りに、あてもなく草原を歩き始めた。
と、いくらも進まないうち、緩い上り坂を越えたその先に、一軒の小屋が建っているのを見つけた。
自分の意志が、蜃気楼のような幻を見せているのだろうか――と、不安に思うほど、小屋は、目の前に広がる草原の中に、唐突に現れた。
ポツンと一軒だけ建つ小屋は、山小屋のように木を組んだ無骨な建物で、あたかも世界の最果てに建つ住宅か、大陸と海の境界に建てられた番屋のように、孤独なたたずまいをしていたが、どこかしら不思議な安堵感を漂わせていた。
屋根から伸びる石造りの煙突から、青い空に向かって、ゆらゆらと細い煙が立ち上っているのが、遠目にもわかった。
誰か、人がいるようだった。
正直、イヴァンは信じられなかった。人がいないか探しておきながら、いざ、自分以外の人がいる可能性を見つけても、どんな人間なのか、恐怖に近い不安しか、抱かなかった。
数術が使える自分でさえ、やっと闇を抜け出せたというのに、どうやって、無限の世界から、ここに逃げてきたのか。ここから、現実世界に戻ることはできるのか。自分の希望が作った幻の人間でなければ、聞きたいことは、山のようにあった。
――普通の人間が、無限の闇を抜けることができるのならば、もしかすると、無限の中に捕らえられてしまった少女も、ここに逃げこんでいるかもしれない。
近づいていくと、なぜか小屋の周りにだけ、白い花がびっしりと咲き揺れていた。
「花か……」と、イヴァンは言うと、しゃがんで、咲いている花を見た。
緑一色の草原が、地上の凹凸を覆いつくすように、びっしりと広がっている中、花が咲いているのは、小屋の周りだけだった。
イヴァンは、花の名前がマーガレットだということを思い出しつつ、立ち上がって、小屋のドアをノックした。
「――誰かいませんか。誰か、いませんか」
床を踏むギッ、ギギッ、ギギッキ という足音が、小屋の中から聞こえてきた。
「いらっしゃい」
と、不意に訪れたイヴァンに、やって来た理由をたずねることもなく、ドアが開けられた。
顔を出したのは、イヴァンより頭ひとつ分は背の低い、細身の男だった。
男は、頬がすっきりとこけて小さく、三角のあごは意志の強さをうかがわせた。
肌の白さとは対照的に、血のように赤く見える唇をしていた。太く、切れ上がった眉に似つかわしくない、ぱっちりとした目は、目尻が少し垂れ気味で、おどけているわけではないが、見る者を自然になごませてしまうような、やわらかさがあった。
分け目のないたっぷりの髪は、元々は黒かったはずだが、ところどころに大きく、ブチのような白髪が混じっていた。
相手の目をまっすぐに見る瞳の奥には、そのやわらかい笑顔とは異なり、はっきりとした意志と、強く厳しい信念が感じられた。
「よく、来られましたね」
と、男は驚いたように言うと、さっそくイヴァンを小屋の中に案内してくれた。
「――私は、イヴァンと言います」と、テーブルに着いたイヴァンは、湯気の上るカップを持ってきた男に言った。「ここは、どこですか」
「まぁ、まずは落ち着いてください」と、テーブルにお茶を置いた男は、イヴァンの向かい側に座って言った。「どういう訳で、ここに来たんですか」
男が煎れたお茶を、疑わしそうに見ているイヴァンは、話しづらそうに言った。
「ちょっとした事故があって、この世界に繋がる入口が、開いてしまったんです」
と、男はテーブルに肘を突くと、つまらなさそうに言った。
「ずいぶんと簡単な話ですね。私を警戒しているのでしょうが、余計な気づかいは無用です。ここにいることが、すでに普通ではないということを、あなたは知っているはずだ」――さぁ、話してください。と、男は手にしたマグカップを、口に運んだ。
「前」
「次」
重い衝撃が、イヴァンの胸を襲った。
肉体に刻まれた数印が、イヴァンの意志を捕まえようと、次々に新たな演算式を繰り出した。そこへ、別の数印から伸びた演算式が絡み合い、互いが競いあって形のない意志を追いかけることで、どすん、といった強い衝撃を感じるほどの振動が生まれた。
小さな竜巻が、胸の中で渦を巻くイメージを感じたイヴァンは、呼吸を調整してイメージの竜巻を大きく膨らませ、自分をすっぽりと飲みこむ様子を思い描いた。
と、はっきりとした方向感覚が、よみがえった。すると、それまで見えなかった光が、夜空に輝く北極星のように、しっかりと中天に位置しているのを見つけた。
イヴァンは、水をかくように闇の中を進むと、まぶしく輝く光に向かって行った。
――――
光りを抜けると、そこは見渡す限りの草原だった。
暗闇の中、存在だけを感じていた手足が、はっきりとした実体として、目で確認する事ができた。
足を踏み出せば、しっかりとした大地の重さが、足元から伝わってきた。
しかし、地平線が見えるほど圧倒的に広い草原を前に、イヴァンはただ、立ちつくすばかりだった。やって来たのがどういった場所であるのか、まるで見当もつかなかった。
ほかに、人はいないのだろうか……。イヴァンは、人の形跡を探そうと、勘を頼りに、あてもなく草原を歩き始めた。
と、いくらも進まないうち、緩い上り坂を越えたその先に、一軒の小屋が建っているのを見つけた。
自分の意志が、蜃気楼のような幻を見せているのだろうか――と、不安に思うほど、小屋は、目の前に広がる草原の中に、唐突に現れた。
ポツンと一軒だけ建つ小屋は、山小屋のように木を組んだ無骨な建物で、あたかも世界の最果てに建つ住宅か、大陸と海の境界に建てられた番屋のように、孤独なたたずまいをしていたが、どこかしら不思議な安堵感を漂わせていた。
屋根から伸びる石造りの煙突から、青い空に向かって、ゆらゆらと細い煙が立ち上っているのが、遠目にもわかった。
誰か、人がいるようだった。
正直、イヴァンは信じられなかった。人がいないか探しておきながら、いざ、自分以外の人がいる可能性を見つけても、どんな人間なのか、恐怖に近い不安しか、抱かなかった。
数術が使える自分でさえ、やっと闇を抜け出せたというのに、どうやって、無限の世界から、ここに逃げてきたのか。ここから、現実世界に戻ることはできるのか。自分の希望が作った幻の人間でなければ、聞きたいことは、山のようにあった。
――普通の人間が、無限の闇を抜けることができるのならば、もしかすると、無限の中に捕らえられてしまった少女も、ここに逃げこんでいるかもしれない。
近づいていくと、なぜか小屋の周りにだけ、白い花がびっしりと咲き揺れていた。
「花か……」と、イヴァンは言うと、しゃがんで、咲いている花を見た。
緑一色の草原が、地上の凹凸を覆いつくすように、びっしりと広がっている中、花が咲いているのは、小屋の周りだけだった。
イヴァンは、花の名前がマーガレットだということを思い出しつつ、立ち上がって、小屋のドアをノックした。
「――誰かいませんか。誰か、いませんか」
床を踏むギッ、ギギッ、ギギッキ という足音が、小屋の中から聞こえてきた。
「いらっしゃい」
と、不意に訪れたイヴァンに、やって来た理由をたずねることもなく、ドアが開けられた。
顔を出したのは、イヴァンより頭ひとつ分は背の低い、細身の男だった。
男は、頬がすっきりとこけて小さく、三角のあごは意志の強さをうかがわせた。
肌の白さとは対照的に、血のように赤く見える唇をしていた。太く、切れ上がった眉に似つかわしくない、ぱっちりとした目は、目尻が少し垂れ気味で、おどけているわけではないが、見る者を自然になごませてしまうような、やわらかさがあった。
分け目のないたっぷりの髪は、元々は黒かったはずだが、ところどころに大きく、ブチのような白髪が混じっていた。
相手の目をまっすぐに見る瞳の奥には、そのやわらかい笑顔とは異なり、はっきりとした意志と、強く厳しい信念が感じられた。
「よく、来られましたね」
と、男は驚いたように言うと、さっそくイヴァンを小屋の中に案内してくれた。
「――私は、イヴァンと言います」と、テーブルに着いたイヴァンは、湯気の上るカップを持ってきた男に言った。「ここは、どこですか」
「まぁ、まずは落ち着いてください」と、テーブルにお茶を置いた男は、イヴァンの向かい側に座って言った。「どういう訳で、ここに来たんですか」
男が煎れたお茶を、疑わしそうに見ているイヴァンは、話しづらそうに言った。
「ちょっとした事故があって、この世界に繋がる入口が、開いてしまったんです」
と、男はテーブルに肘を突くと、つまらなさそうに言った。
「ずいぶんと簡単な話ですね。私を警戒しているのでしょうが、余計な気づかいは無用です。ここにいることが、すでに普通ではないということを、あなたは知っているはずだ」――さぁ、話してください。と、男は手にしたマグカップを、口に運んだ。
「前」
「次」






