くりぃーむソ~ダ

気まぐれな日記だよ。

数術師(19)

2014-08-11 06:24:24 | 「数術師」
「神君、こいつは私達の何倍もの早さで動くことができるんだ」と、私は彼に言った。「こいつを止めるには、頭から伸びたコードを切るしかない――」
 機械化兵は、滑るように前に出ると、私の首をガッチリと左手でつかみ、力を見せつけるように頭上高く持ち上げた。
 私は、床から離れた足をばたつかせながら、首を絞めている腕にしがみつき、首の骨が折れないようにもがきながら、機械化兵の頭から伸びているコードに手を伸ばした。しかし、どんなに手を伸ばしても、コードには指の先も触れることができなかった。
 彼が、手の甲に術をかけ始めた。と、察知した機械化兵が私を放り投げ、宙を飛ぶように走ると、右の拳を彼の腹に叩きこんだ。
 壁に叩きつけられた私は、うつぶせに床に倒れた。激しく咳きこみながら喉を押さえ、片手をついて顔を上げた。体をくの字に折り曲げた彼が、腹を両手で押さえながら、前のめりに倒れるのが見えた。
 この狭い部屋の中では、彼が術をかける暇を与えず、機械化兵は攻撃を加えることが可能だった。
“わずかばかりのベクトルを与えてやれば”と言った、彼の横顔が思い浮かんだ。
 私は床に伏せながら、彼に教えてもらった数印を、手の甲ではなく手の平に書いた。
 ふらつきながら立ち上がった私は、彼にとどめの一撃を加えようと腕を振り上げた機械化兵に向かって、飛びかかった。

 ボウム――

 私の手の平から、重い空気が破裂したような衝撃がほとばしった。
 機械化兵が、はっとして私を振り返った。
 岩のような拳を振り上げたまま、機械化兵は体を後ろ向きに折り曲げ、ふわりと宙に浮き上がった。
 軽々と宙を舞った機械化兵は、そのまま壁にめりこむほど強く叩きつけられた。
 私は大きく息をつきながら、力が抜けたように膝をついた。
 ぐしゃりと床に落ちた機械化兵は、苦しそうに身もだえていた。
 彼が、フラフラと立ち上がった。手の甲に片方ずつ指を走らせると、体を起こそうとしている機械化兵に向かい、手首を十字に交差した。

 ――ズドドン

 と、雷鳴がとどろいた。
 交差した彼の手首から、目が眩むほどの稲妻がほとばしった。稲妻は、機械化兵の厚い鎧を射抜き、とりどりの火花を四方に飛び散らせた。機械化兵は、体をくの字にさせたまま、錆びたクランクのように体を軋ませ、ずるずると横に傾いた。
 壁に背中をあずけた機械化兵は、そのままプスンと動きを止めた。
 しかし、ほっと息をついたのも、つかの間だった。
 術の影響なのか、目の前の空間が急にゆらいだ。ぽろぽろと、ジグソーパズルのピースがこぼれるようにひび割れ始めた。
 彼が「くそっ」とくやしそうな言葉を吐いた。
 ひび割れた空間の奥は、まさに暗黒だった。光の届かない深海が、目の前で口を開けたようだった。ゆるゆると、ひび割れた空間から、薄墨をこぼしたような不気味な黒いシミが溢れ出し、部屋中に広がってきた。黒いシミが触れた物は、不気味な口を開けた暗黒にゆっくりと吸い寄せられて行った。
 私はすぐに思った。数術によってつなげられた空間が、外から襲ってきた機械化兵によってバランスを失い、ぶれてしまったのだ。本来なら、ドアが空間をつなぐパイプであり、出入り口であるはずだった。しかし、予期せぬ圧力が加えられたことで、私達のいる空間が一種の重量オーバーとなり、許容量を超えたことで、空間自らが圧力を軽減するために新たな出入り口を開き、裂け目となって現れたのだ。
 空間の裂け目が、影のように伸びた黒いシミをゆらゆらと伸ばし、機械化兵を吸い寄せると、頭から飲みこんでしまった。
 私は彼に近づこうとしたが、
「来ちゃいけない」と、彼は後ろ向きのまま手を伸ばし、私を止めた。
 見ると、彼の両足は、いつの間にかひび割れた空間から湧き出る黒いシミに絡めとられていた。
 触れる物すべてを飲みこんでしまう裂け目は、だんだんと小さくなり、徐々に塞がれつつあった。
「外力が加えられて、空間がぶれてしまったんです。あの暗黒の向こうには、インテグラルの果てが広がっています――」と、彼は言った。
「君はどうなるんだ、神君」と、私は彼に言った。「君は知っていたんだろう、私と出会った時から――。私があの化け物を作る手助けをしたということも、その罪の意識にさいなまれ、火を放った研究所から、命からがら逃げ出したことも――」
 足の自由を奪われた彼は、私に背を向けたまま、顔だけをこちらに向けていた。
「やっと思い出しましたか、雪野博士」と、彼は笑顔で言った。「あなただけです。私の発表した理論を真剣に受け止めてくれたのは――」
「これが、君が追い求めてきた理論の成果なのか――」私は、黒いシミに触れないように気をつけながら、彼に手を伸ばした。
「いいえ、これは暴走です。人間がどれだけ宇宙の法則を自在に扱うことができたとしても、制御するにはあまりにも小さく、非力すぎるのです。博士、どうかご無事で。いつかまた、お会いできることを楽しみにしています」
「どうやってそこから抜け出す気だ――」言いかけたが、彼は私が伸ばした腕に手を伸ばすことなく、空間の裂け目の中に飲みこまれていった。裂け目は、彼を飲みこむとすぐに口をすぼめ、ぴたりと塞がった。

 空間の裂け目に飲みこまれた彼とは、その後一度も会っていない。きっと無事でいるはずだと、今でも信じている。
 彼が立ち向かった敵と、私は戦い続けている。それは、自分自身が作り出してしまった凶器と、戦うためなのかもしれない。
 人は、決して人であることからは逃げられないのだ。私が凶器を生み出した事実は、永遠に消し去ることはできない。目をつぶっても、過ぎてゆく時間が止まらないのと同じ。また目を開けると、目をつぶっていた時間だけ、現実はしっかりと進んでいる。
 罪を償えるとは、思っていない。ただし、間違った使い方をさせないことは、できるはずだ。そのために私は、これからも戦い続ける。

 私は、止まらない。

 ――――…… 。

                                    (終)
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数術師(18)

2014-08-10 06:14:06 | 「数術師」
 催涙弾が、吹き上げる煙で弧を描きながら、廊下に転がった。
 ガスマスクを着けた迷彩服の男達が、物陰に隠れながら銃を構え、部屋の様子をうかがっているのが見えた。
 私は、急いでドアの陰に身を隠した。と、新たな催涙弾が一個、二個。次々と部屋の中に投げこまれた。
 子供に変わった部屋の主人が外に出て行った時、同時に術が解かれたのだろう。その隙をつかれ、私達はまんまと包囲されていた。
 彼は、窓に向かったままだった。ビシッ、ビシッ、と彼の挑戦を受けるように次々と銃弾が撃ちこまれた。窓ガラスが、点々と花を咲かせたように何カ所もひび割れていた。
 なにをするつもりなのか、見ると、彼は唇を噛みながら、手の平を銃弾が撃ちこまれる方向にかざしていた。
 部屋の中には、廊下から放り込まれた催涙ガスが、みるみるうちに充満しつつあった。
 どうすればいいのか、このままでは、男達の侵入を許してしまう――。
 追いつめられた私は、ぐっしょりと冷たい汗をかいていた。突入しようとしている男達から、なんとか彼を守らなければならなかった。
 半ば捨て鉢になった私は、彼が教えてくれた数術を、もう一度試してみることにした。
 左手の甲に数印を描くと、私は開け放たれたドアの前に飛び出した。じりじりと迫ってきていた迷彩服の男達が、銃口の狙いを定めつつ、びくりと動きを止めた。
 私は廊下の真ん中に立つと、男達の正面に向かい、指で作った輪をくちびるにあてた。
 深く息を吸い込むと、つむじ風があちらこちらで吹き上がる手ごたえを感じた。
 彼を守らなければならない、という強い意志が働いたせいだろうか、部屋の壁といわず、廊下の壁までもが、ギシギシと今にも崩れてしまいそうな音を立て、列車で術をかけた時とは桁違いなほど大量の空気が、私の手の中に集まってきた。
 迷彩服の男達は、立っていられないほど強い風から身を守りつつ、廊下に低く体を伏せ、なす術もなくじっとこちらの様子をうかがっていた
 私は、十分に息を吸いきると、片膝を床について構え、男達に向かって思いきり息を吹き出した。
 黒々とした渦を巻き、巨大な竜巻が猛々しく吹き荒れた。部屋に迫ってきていた迷彩服の男達は、投げこまれた催涙弾もろとも、一人残らず散り散りに吹き飛ばされた。
 私は、開け放たれたドアを閉めると、すぐに鍵をかけた。そして、彼がビルの壁に描いていた数印を思い出しつつ、足下に落ちていたガラスの破片を拾って、素早くドアに描いた。
 ドアに描かれた数印が明滅しながら消えていくのを確かめると、私は彼を振り返った。
 彼は、窓の正面に立ち、しっかりと足を踏ん張って、なにかを捕らえようとするように腰を落としていた。
 ビシッという音を立て、窓に銃弾が撃ちこまれた。ひび割れが幾重にも重なった防弾ガラスが、ザザッと滝のように崩れ落ちた。
 パン、と風船が割れるような音が響き、彼が手でなにかを受け止めると、遅れてキューンという金属音が、風に乗って遠くから聞こえてきた。
 彼は、すぐに大きく腕を振りかぶると、窓の外へ、受け止めたばかりの物を力一杯放り投げた。
「まさか――」と、私は驚いて彼にたずねた。「今のは、銃弾を受け止めたのか――」
「飛んでくる方向さえわかれば、造作もないことです」と、彼は外を見たまま言った。
 新たな銃弾は、それから一発も撃ちこまれなかった。
「ドアは閉めた――」と、私は彼に言いながら、数印を描いたドアを指さした。
「さすがですね。ほんの短い時間で、これほどまで術を操れるようになってしまった」と、彼はにっこりと目を細めた。「完璧です。わずかばかりのベクトルを与えてやれば、この部屋はすぐにでも移動を始めるでしょう」
 彼は窓から離れると、ドアに向かって歩き始めた。列車と同様、彼がドアを開ければ、その先はもはや建設会社のビルではなく、どこか別の場所へつながっているはずだった。

 ヒュン、ヒュン、ヒュン―――

 プロペラの音が、遠くから近づいてきた。
 重々しく風を切る機械音が、ガラスが割れ落ちた窓の下から、少しずつ強さを増して聞こえてきた。黒いヘリの機体が、私達の前に勢いよく姿を現した。
「離れて!」と、彼は私に言いながら、壁を背にして身をかがめた。
 長い影を部屋に伸ばしたヘリの中から、人影が踊り出した。割れ残った防弾ガラスを砕き、粉々になった破片をまき散らしながら、どしんと部屋に着地した。
 機械とも、人ともつかない巨体の兵士が、むくりと立ち上がった。
 黒いヘリは、男が立ち上がるのを確認することなく、すぐにどこかへ飛び去っていった。
 二メートルは優にあるだろう。天井につかえそうなほど大きな兵士が、私の前にそびえ立った。首から下は、中世の甲冑のような鋼鉄の鎧に身を包み、短く刈られた髪の下からは、数本の色違いのコードが生え、赤いレンズをはめたゴーグルに伸びていた。
 私は、機械と同化したような男の、にやりと浮かべた笑顔を見た。
 その悪意に充ちた顔を見たのは、二度目だった。
 私の記憶が、雪崩を打つようにすべて甦った。
 ぐらり、と地面が揺れた。
 記憶が甦ったショックで、めまいを起こしたとのか思ったが、そうではなかった。部屋全体が、大波に浮かぶ小船のようにゆっくりとうねっていた。
 異変が起こり始めていた。
 大男の身にまとっている鎧が、小さな光の線をいくつも走らせた。鎧の表面を、まるで生き物のような光が縦横に走り回っていた。
 人間の能力を、何倍にも向上させる機能を持った強化鎧。その量産型第一号を身にまとったのが、目の前に立つ、機械化兵と名付けられた兵士だった。鎧の表面を走る光は、その起動を意味していた。
 ヒュン――と、彼が手を払って空気の刃物を抜きはなった。
 機械化兵は、残像を残すほど素早く足を引き、空気の刃物が切るはずだったポイントを、たくみにずらした。人間を遙かに超えた速さだった。
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数術師(17)

2014-08-09 11:05:59 | 「数術師」
 クッ、クッ、クッ――と、首を絞められたかのような不気味な笑い声を上げつつ、男は銃の狙いをつけたまま、後ろ向きにドアの前に立った。顔をねじって、横目でノブを確認すると、片手を伸ばし、カチリとわずかにドアを開いた。
「ふふふ……」と、男は私達の方を勝ち誇ったように見ながら、「ハッハッハッ……」と、大きな声を上げ、開け放ったドアから一目散に廊下へ飛び出していった。
 勢いよく開いたドアが、ばたんと音を立てて閉まった。
 反射的に後を追いかけようとしたが、私は踏み出した足を止めた。目の端でとらえた彼が、微動だにしていなかったからだ。彼はなにかを待つようにじっとしたまま、遠くを見つめるような面持ちで、正面のドアに向かっていた。
 立ち止まった私は、予想がつかない状況に心拍数の急上昇を胸の痛みで感じながら、彼とドアとに目を走らせた。
 と、たった今出て行ったばかりの男が、再びドアを開けた。大声を上げ、笑いほうけながら部屋に戻ってきた男は、私達に目をとめると、かわいそうなほど顔を青ざめさせた。
 満面の笑顔を凍りつかせたまま、男はその場にヨロヨロと膝をついた。
「この檻からは、誰も出られない――」と、彼が静かに言った。
 彼がビルの壁に描いていた数印は、この不思議な空間を作るためのものであったと、私はこの時はじめてわかった。
「くそう――」と、男は膝をついたまま地団駄を踏み、口惜しさに満ちた顔を上げると、私に銃を向け、引き金を引こうとした。
 私はとっさに身をかがめた。

 ボンッ――

 と、空気が破裂したような衝撃があった。拳銃が、炎を吹き出した。
 銃口から逃げるように足を引くのと、彼が片手で水をすくうように宙を払うのとは、ほぼ同時だった。
 ヒュッ、とかすれた口笛のような音が聞こえた。

 ――……。

 私は、思わず閉じた目を開きつつ、顔を守るように構えた手を、おそるおそる下ろしていった。
 爆音を轟かせた拳銃が、再び炎を吹き出すことはなかった。引き金が引かれるたび、カチン、カチンと弱々しく乾いた音を立てるばかりだった。
 膝立ちで銃を構えている男は、ぎゅっとかたく目を閉じたまま、祈るように何度も引き金を引いていた。
 ブルブルと震えている男は、信じられないといった表情を浮かべて顔を上げた。男が持っていた拳銃は、手に握られたわずかな部分を残し、すっぱりと、鋭利な刃物で切り落とされたかのように床に転がっていた。男の顔色が、輪をかけて蒼白になった。もはや鉄くず同然になってしまった拳銃を、いら立ちまぎれに床に叩きつけると、立ち上がって後じさりしながら、激しい口調でまくし立てた。
「私一人を倒しても、結社の仲間は、まだまだ世界中に山ほどいるんだぞ」
 男は言いながら、ゲラゲラと、気が触れたように笑い始めた。
「知ってるか? お前を狙っている兵隊達もな、数え切れないほどいるんだよ。モグラのように地面の下に潜って、暗闇の中を恐怖におののきながら逃げ回るがいい」
「あなた一人も倒すことができなければ、ほかの誰かを倒すことなどできるわけがない――」
 彼は静かに言うと、右手の二指を素早く空間に走らせ、パチンと指を鳴らした。男が、白目を剥いて床に崩れ落ちた。
「彼の知能は、幼児に戻りました……」と、彼がポツリと言った。
 男はうつぶせに倒れたまま、まったく動かなくなってしまった。
 私は、男の無事を確かめるため、おそるおそるそばに近づいた。と、倒れていた男が、はっと我に返ったように顔を上げた。その目は、先ほどまでの男とはまるで別人だった。無邪気な子供のような優しい光をたたえていた。顔の輪郭までもが、幼い子供を思わせるほど丸みを帯びていた。
「どうしたの?」と、男は舌足らずな口調で、そばにいる私に聞いた。
 私は、男の変化に思わず息をのみ、伸ばしかけた手を戻して、足を止めた。
「いや、なんでもない」と、彼が言った。「まだ、遊んでいてもいいんだよ」
 なにを言っているのか……。私は耳を疑い、彼を見た。
「じゃ、晩ご飯まで遊んでくるから」と、跳ねるように立ち上がった男は、大股に走りながら、ドアを開け放したまま廊下の奥に消えた。
 男が走り去った廊下を見ながら、私は言った。
「これで、終わったのか――」
 振り返ると、彼は男が座っていた机の横に立ち、大きな窓の外に広がる景色をカーテン越しに見ながら、耳をそばだてるようにじっとしていた。
「――どうかしたのか」
 と、大きな窓ガラスにビシッと放射状のヒビが入った。どこからか、彼を狙って銃弾が撃ちこまれたのだった。防弾ガラスでなければ、間違いなく、彼は凶弾に倒れていただろう。
「いいえ、まだ終わりじゃありません」彼は言いながら、両手でレースのカーテンをつかむと、乱暴に引き破り、銃弾が撃ちこまれたガラスの前に挑発するように近づいた。
 彼は、高層ビルが建ち並ぶ都会の景色を正面に見ながら、見えない狙撃手に向かって挑むように胸を張った。
 私は、狙撃手から狙われないように窓のそばを離れ、ドアに近い部屋の隅まで下がった。

 ――トントントン、コロン。

 と、煙を噴く小さな缶詰のようなものが、私の横に転がってきた。
「神君、催涙弾だ――」私は言いながら、飛びつくように拾い上げ、開け放たれたドアに向かって、片膝をついたまま放り投げた。
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数術師(16)

2014-08-08 06:56:57 | 「数術師」
 矢を射るようだった守衛の目が、とろんと焦点を失い、寝ぼけたように宙をさまよった。
「いえ、何でもありません――」
 守衛は目をしばたたかせながら、我に返ったように元の場所へ戻っていった。
「いいえ、こちらこそ」と、彼は小さく会釈をしながら、笑顔を浮かべて言った。
 注意深く、こちらの様子をうかがっていたほかの守衛達も、私達に向けていた視線を、再び周囲に巡らせ始めた。
 私達は、なにもなかったようにエレベーターに乗りこんだ。
 彼は迷わず、最上階にほど近い数字のボタンを押した。
 乗り合わせた数人の社員達が、次々に目的の階で降りていくと、残ったのは私達だけだった。

 ティン――、と小さな音が鳴り、重い荷重を膝に感じさせて、ふんわりとエレベーターが止まった。
 厚いドアが左右に開くと、凛と張り詰めた空気が漂ってきた。それまでの階とは違い、廊下には毛足の長いカーペットが敷かれていた。どうやら会社の重役達が、机を置いている階のようだった。
 人の気配がしない廊下を進むと、二人の女性が並んでいる受付が現れた。秘書と書かれたプレートが、二人の間に置かれていた。彼女達は、廊下をやって来る私達に気がつくと、席に着いたまま、深々と頭を下げた。
 受付の前に来ると、火傷を負った私の顔に驚いたのか、彼女達は私と視線を合わさず、彼の方を見ながら「いらっしゃいませ」と笑顔を浮かべた。
「あの人は、いるかな――」と、彼が聞いた。
「……?」と、二人は顔を見合わせた。
「どちらと、お約束なさっていらっしゃいますか」と、女性の一人が言った。
 彼はその問いに答えず、もう一人の女性に言った。
「君は、私達のことを忘れなければならない」
 守衛の時と同じ、経文を唱えるような、独特のイントネーションだった。
 無視された女性が、表情を曇らせた。
 と、もう一方の女性が「はい」と、満面の笑みを浮かべてうなずいた。
 隣に座った女性はあっけにとられ、信じられないというように手で口を覆うと、返事をした女性と彼の顔を交互に見比べた。
 動揺を隠せない女性は、逃げるように椅子を引きながら、机の上に置かれた電話を手に取った。
「君にも、お礼を言わなければならない」
 彼は手の平をかざしながら、電話を手にした女性に言った。
「ありがとう――」
 電話を手にしたまま、女性が凍りついたように動きを止めた。その目は、彼がかざした手にくぎ付けになっていた。
”もしもし――”と、受話器から誰かが問いかけている声が聞こえてきた。彼女は答えることなく受話器を置くと、電話を元の場所に戻し、笑顔で言った。
「いってらっしゃいませ」
 二人の女性は、深々と頭を下げた。
 私達が訪れたのは、会社の部長室だった。彼がノックをすると、低く野太い声が、中から「ああ」と、面倒くさそうに答えるのが聞こえた。
 ドアを開けると、濃いグレーのスーツを着た年輩の男が、いかにも権力の塊といった風体で、大きな机に頬杖をついたまま、どっかりと微動だにせず、じっとこちらを向いていた。
「……誰だ貴様は、何者だ」と、男は彼を睨んで一喝した。「出て行け!」
 しかし男の額には、遠目にもじっとりと脂汗が浮かんでいるのがわかった。男が彼の素性を知っているのは、明らかだった。
「はじめまして」と、彼は笑みを浮かべながら、小さく頭を下げた。「けれどあなたは、私のことを知っているはずです。このひと月ほどで、あなたが雇った人間に何度もお会いしましたから――」
 机の前で立ち止まった彼を、男は眉をひそめながら見上げていた。緊張のあまり息を詰め、顔を紅潮させながら、歯を食いしばっていた。どうするべきか、考えあぐねているようだった。
 と、その視線が私に移った。
「博士……?」と、男が驚いたように言った。「なぜあなたが、この男と一緒にいるんですか―― 」
 私は、帽子のひさしで顔を隠すようにうつむくと、片目だけを出すように顔を上げ、黙って男の視線を受けた。記憶を失っている私は、目を丸くしている男のことなど、なにひとつ覚えていなかった。

「動くな!」

 と、男が急に大きな声をあげた。
 いつの間に取り出したのか、その手には拳銃が握られていた。彼が私の方をちらりと見た隙をついて取り出したようだったが、もしかすると、私達が部屋に入る前から、机の下で隠し持っていたのかもしれなかった。
「知っているでしょ、私に銃は通用しない」と、彼は男に向かって静かに言った。
「ハハハ……」と笑いながら、男は椅子から立ち上がった。
 勢いよく後ろに引かれた革張りの椅子が、大きな窓にかけられたレースのカーテンを揺らすと、壁一面にはめ込まれたガラスにぶつかって、どすんと横向きに倒れた。
「おまえじゃない」と、男は引き金に指をかけたまま、銃の先を危なっかしく振りながら言った。「博士は弾をよけられないんだろ?」
 銃口が、私に向けられた。男は机を離れ、私達との距離を広げると、近くの壁に背中を預けた。男は拳銃だけをこちらに向けたまま、背中をこするようにしてドアに向かった。私達は二人とも、ドアに近づいていく男の様子をじっとうかがっていた。
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数術師(15)

2014-08-07 07:03:05 | 「数術師」
 終点を告げる車掌のアナウンスが入った。窓の外は、深い山々が広がる景色ではなく、コンクリートのビル群が、背の高さを競うように林立する大都会の風景に変わっていた。
 彼は列車を降りると、改札口を足早に目指す多くの乗客達とは違い、人々とは反対の方向にホームを進み始めた。商品が窮屈そうに並ぶ売店を過ぎ、”関係者以外立ち入り禁止”と書かれたドアの前で立ち止まると、右手の指先で文様を描いて術をかけ、ためらうことなく中に入っていった。
 ドアの向こうは、車が行き交う大通りに面した駅のはずれだった。
 ピロロロロロロ――――
 と、列車の出発を知らせる小気味のいい電子音が、遠く離れた頭上のホームから聞こえてきた。
 彼に続いて、私がくぐってきたドアを閉めると、四角いドアの枠が、コンクリートの壁の中に沈むように溶けこみ、跡形もなく消え去った。
 私達は、街の中心部に向かった。途中、街路図を描いた看板を見つけた。記憶を失う前ならば、きっと知っていたに違いない街の名前が書かれていた。しかしこの時の私は、街の名前を知ることはできても、果たしてどこに位置しているのか、思い描いた地球儀にピンを刺すこともできなかった。
 気がつけば、彼は列車の中とは違い、ほとんど口をきかなくなっていた。どことなく、緊張感を漂わせるような表情だった。ぴりぴりとした様子が、こちらの緊張感を否応なく高め、新たな衝突の訪れを予感させた。私は、帽子を目深に被り直すと、辺りに注意を払いながら、黙って彼の後ろについていった。
 ちょうど、昼休みが始まる時刻だった。彼は、建設会社の大きなビルの前に立った。昼食をとりに出かけて行く社員達が、行列を作って次々と自動ドアをくぐり、私達の前を楽しげに通り過ぎていった。
 ロビーの奥にちらりと見えた守衛の男が、外の私達に厳しい目を向けていた。
 もしかするとあの守衛も、私達を襲ってきた連中の仲間なのかもしれない。この大きな会社が、”神の杖”の総本部なのだろうか……。だとすれば、どこといって変わったところもない会社の雰囲気は、裏の顔を巧妙に隠した仮そめの姿にほかならなかった。
 彼は正面玄関を離れると、そばにあった生け垣に近づいた。びっしりと葉を茂らせた枝をかき分け、中を覗きこみ、指でつまめるほどの小石を二・三粒、手にとって確かめるように拾い上げた。
 一体なにをするつもりなのか、好奇心を持って見ていると、彼は拾った小石をズボンのポケットに入れ、人の往来が少ないビルの横に回っていった。
 壁に沿って歩く彼は、きれいに装飾された壁が途切れている箇所を見つけると、くるりと振り返り、方位を確かめるためか、腕を伸ばしながら空を見上げた。なにか特別な違いがあるのか、同じような箇所を見つけて何度か往復すると、納得したように足を止め、ポケットにしまった小石を取り出し、壁に向かっておもむろになにかを書き始めた。
 それまで黙って見守っていた私は、驚いて思わず注意しようとしたが、彼が文様を描いて術をかけていることに気がつくと、伸ばしかけた手を下ろして声を飲みこんだ。
 彼が描いた文様は、書き終えると脈を打つようにまぶしく明滅し、壁にくっきりと太く浮かび上がった。浮かび上がった数印は、脈が弱くなるように少しずつ光を失い、しぼんで細い線に戻ると、ひっかき傷のようなかすかな跡を残して、壁の中へ溶けるように消えてしまった。
 どのような術をかけようとしているのか、私の直感が、彼が描く文様になんらかの法則を読み取った。しかし、その法則が表現している内容がどんなものであるのか、すぐには考えもつかなかった。
 数印を書き終えると、彼はまたビルの周囲を回り、壁の空いている箇所を見つけると、同じように小石で文様を描いていった。私は、消えかかった数印を指でなぞってみた。一見すると、ギリシア文字やアラビア数字をつなぎ合わせ、数学記号をアクセントにもちいて、幾何学的に組み合わせているように思えた。
 なにが書かれているのか、彼の筆跡を何度か指でたどっていくうち、いくつかの数式が含まれているのに気がついた。短い二重線として描かれたものがイコールならば、方程式を用いて、解を求めているのかもしれなかった。だが、書かれているのが数式だと仮定して、絵文字のように崩された字体は、決められた規則に基づいたものなのか、また、文様のように崩して描くことで、なぜ様々な現象を起こすことができるのか、わからないことは多かった。
 彼が壁に書いている数印の意味を知るには、かけられた術の効果を、この目で見届ける以外に方法はなかった。
「これで、最後です」と、彼は言いながら、ビルの壁に小石を走らせた。
「さあ、それではご挨拶にうかがいましょうか――」彼は数印を書き終えると、持っていた小石をそばの生け垣に放り投げた。

         8
 私達は、ビルの正面に戻って自動ドアを抜け、一階のロビーに入った。昼休みとはいえ、スーツ姿の人達が途切れることなく出入りしていた。
 受付の女性の前を過ぎ、エレベーターに向かった。人の出入りが多いため、部外者である私達も、それだけで周囲から違和感を抱かれることはなかった。だが火傷を負った顔を隠すため、目深に帽子を被っていた私は、どうしても人目についてしまうようだった。
 背の高い守衛の一人が、歩いている私達に無言で近づき、壁のように立ちふさがった。
「どのようなご用件ですか――」
 と、目をそらして口ごもってしまった私にかわって、彼が守衛の顔を見上げながら答えた。
「あなたこそ、なにかご用ですか――」
 守衛は、険しい表情を浮かべながら、恐い視線を彼に向けると、同じ質問を繰り返した。
「どのようなご用件ですか――」
 彼は、守衛とぶつかりそうなほどそばに近づくと、じっと目を合わせながら言った。
「あなたは、自分がしなくてはならないことをしなくてはならない。だから私達も、ここにこうしているんです」
 静かに本を朗読するような、経文を唱えるような独特のイントネーションだった。
 私はふと、自然に下げられた彼の手が、言葉に合わせてわずかに指を動かしているのに気がついた。
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数術師(14)

2014-08-06 06:30:09 | 「数術師」
 私達は階段に向かう人の波をかき分け、小走りにホームを移動した。
 一度、駅の外に出るのかと思ったが、彼はホームを結ぶ連絡通路には降りたものの、出口には向かおうとしなかった。
 ふと、通路の奥で、関係者専用のドアを開け、重そうなケースを山ほど荷車に積んだ女性が、低い凹凸に車輪をつまずかせながら、ぎくしゃくとドアの奥へ入っていく姿が見えた。
「ちょうどよかった。あそこから入りましょう」と、彼は女性が入っていったドアを指さした。
 私は、何人かの足音が後ろから追いかけてくる気配を感じながら、彼から遅れないように急いで通路を進んだ。

「すみません、お客さん――」

 と、通路に響く声で呼び止められた。

「ちょっと待ってください」

 行き交う人達が、声をかけられたのが誰なのかわからず、キョロキョロと、互いの顔を探り合うように見合わせた。私は歩みを止めず、肩越しに振り返ると、ベルトの腰に手を当てた警察官が、駆け足でこちらにやって来るのが見えた。
 走りにくそうに片手を腰に当てた警察官のほかにも、何人かの駅員が、後ろから早足でついてきていた。そのうちの一人は、ホームで私達を指さしていた乗客と、なにやら話をしていた駅員だった。
 私は、ドアの前で立ち止まった彼の後ろで、勢いづいた足を止めた。
「ちょっと待て――」
 警察官の声は、明らかに怒気をはらんでいた。私は目深に被った帽子のつばに手をかけながら、追いかけてくる警察官達の様子を、横目でうかがった。
 彼は、間近に迫ってきた追っ手に少しもあわてることなく、右手の指先で素早くドアに術をかけると、
「じゃあ、行きましょうか――」
 と言って、カチャリとドアを開けた。
 警察官の手が、私の肩に触れる寸前だった。彼に続いてドアをくぐると、私はすぐにドアの反対側に回った。両手でしっかりノブをつかむと、押し返されないように肩をあて、体重をかけながらぴたりとドアを閉めた。
 ドアが閉まる直前、「開けろ!」と叫ぶ声が聞こえた。しかしドアが閉まると、がやがやとした駅の喧噪もろとも、嘘のようにプッツリとかき消えた。
 もしかすると、手を離したとたんに警察官が飛び出してくるのではないか――。私は息を詰めながら、おそるおそるドアから離れた。
 振り返ると、そこはまた明らかに違う駅のホームだった。
 驚いて、すぐにまた振り返った。たった今出てきたばかりのドアを確認すると、私が閉めたドアには、赤いスカートを履いた女子トイレのマークが描かれていた。
 椅子に座っているおばあさんが、トイレから出てきた私達を見て、目を丸くして驚いていた。その膝に手を乗せながら、怪訝そうな顔をしている小さな男の子が、ふっくらとかわいらしい手でこちらを指さしながら、「女のトイレから出てきた」と、大きな声で何度も繰り返し、おとなしくさせようとするおばあさんを困らせていた。
 売店に立つ女性が子供の声を聞きつけ、不審な面持ちで私達を一瞥した。特に変わった様子がないとわかると、女性は何事もなかったようにくるりと背を向けた。
 列車は、すぐにやってきた。私達は迷わず、やってきた列車に乗りこんだ。
 彼は、狭いデッキで立ち止まると、わざわざ半開きになっている客室のドアを閉め、ドアのガラスに素早く指先を走らせてから、中に入っていった。彼の後に続いて中に入ると、ガラスの向こうに見えていた客室とは、まったく別の客室に変わっていた。
 私は思わず息を飲み、足を止めた。あっけにとられ、客室中に目を走らせた。彼は、立ち止まった私を気にすることなく、どんどん先へ歩いて行った。置いていかれそうになった私は、あわてて後を追いかけた。
 彼は、先頭の車両に向かいながら、客室のドアの前で立ち止まるたびに術をかけ、繰り返される変化に戸惑っている私をよそに、別の列車へと次々に移動を繰り返した。
「さあ、このドアをくぐれば、後は終点に到着するのを待つだけです」と、ようやく立ち止まった彼が、私を振り返って言った。
 私達はまた新たな列車に移動すると、空いている席を見つけ、並んで腰を下ろした。追っ手が迫ってくる様子はなかった。窓からは、澄み渡った青空の下、ずいぶんと色づいた山々の景色が見えていた。お互いにとりとめのない話を交わした。公園のベンチで目を覚ましてから、一番心が落ち着いた時間だった。
 この時も、彼はまだ私が誰なのかを話そうとしなかった。彼は私が何者であるのか、本当に知らないのだろうか――。しかし彼は、私と出会った時から、すでに私が何者であるかを知っていた。私がリーダーとして采配を振るっていたプロジェクトのことも、体に火傷を負うことになった原因のことも、当然知っていたに違いない。
 研究とは名ばかりで、私はただ自分の好奇心を満足させることに夢中になり、結果、闇で取引される非合法な兵器の密造に手を貸していた。
 あの日、彼が男達に追われていた私を助けたのは、気まぐれな正義感に駆られたためではなかった。悪事に手を貸してしまった後ろめたさから、自らの手ですべてを消し去ろうとしたあげく、かろうじて命を取り留めた私が、これからどこに向かっていくのか、その目で確かめようとしたからだった。
 研究者の道を捨て、一人で戦うことを選んだ彼は、自分の選択が果たして正しかったのかどうか、自問自答を繰り返していたに違いない。彼と同じように自ら研究の道を断った私が、自分の生き方、考え方を目の当たりにした上で、これからどのように生きていくのか――。人知れず身を隠し、後悔の日々を送るのか。勝ち目はないかもしれないが、戦い続ける道を選ぶのか。その答えを私がどう導くのか、彼は見極めようとしたのだ。その選択を下す材料として、彼は記憶をなくした私を、自分の生きる世界へ、わずかな時間ではあるが招待し、誰にも知られたくないはずの数術まで、目撃し、使用することさえ許したのではないだろうか。
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数術師(13)

2014-08-05 06:56:44 | 「数術師」
おそるおそる顔を上げると、列車の天井が、大きな球体をぶつけられたように丸くへこんでいた。
「わかりましたか」と、彼は私に言った。「あいつらも、気圧を扱うんです。多少は数術の心得があるらしい――」
 彼は、私の腕を取りながら立ち上がると、姿の見えない敵にくるりと背中を向け、襲いかかる衝撃波を次々によけながら、私を先に行くようにうながし、前方の車両へと足早に向かった。
 ドン、ドドン――と、車両の内壁が、続けざまにへこんでいった。彼はなす術もないのか、狭い通路をよろけながら駆け抜け、さらに前の車両へ移動した。
 列車が何両編成なのかはわからなかったが、逃げられる車両は、もうほとんどないはずだった。
 乗客のいない車両に駆けこむと、閉じたばかりのドアが、バン、と激しい音を立てて押し破られ、はずれたドアが回りながら頭上をかすめ飛んだ。私達は間一髪床に伏せ、宙に舞った重いスチール製のドアから逃れた。
 彼は一人立ち上がると、見えない追っ手に向かっていった。
「姿を消せば、有利になれると思うのは大間違いですよ」
 私は身を伏せたまま、這い進んで座席の下に体を滑りこませた。彼は、両手の甲にそれぞれ素早く指を走らせると、シンバルを打ち鳴らすように大きく腕を広げ、左右の拳骨を胸の前で勢いよくぶつけ合わせた。

 ズドドン――と、閃光がほとばしった。

 まるで、光が爆発したようだった。内蔵が、腹の中で躍り上がるほどの重々しい衝撃が、車両中にとどろいた。私は両手で光を遮りながら、強く目を閉じた。しかし一瞬早く、目の前が真っ白になるほどのまぶしさで目が焼かれ、再び目を開けると、見えるものすべてが緑色のシロップをかけたように変色して見えた。私が彼に初めて出会った時に体験した、雷鳴のような衝撃と同じだった。
「ぐあっ……」という声が聞こえた。
 出入り口の前の空間が、ゆらゆらと陽炎のようにぶれていた。生肉が焦げたような匂いが漂ってきた。幾筋もの細い煙が、人の輪郭に沿って立ちのぼっていた。
 私は座席の下から這い出すと、立ちのぼる煙に目を据えたまま立ち上がった。ぷつぷつと、炎がはぜるような音が聞こえた。見ていると、陽炎のように揺らめいていた空気が、はっきりと人の形を浮かび上がらせた。半透明のフィルムを全身にまとった男が、赤黒い炎を体のあちらこちらでいぶらせながら、宙をつかむようにヨロヨロと前に進み、力なく通路の床に倒れ伏した。
 彼は、倒れた男をじっと見下ろしていた。深い呼吸をゆっくりと繰り返し、荒くなった息を整えているようだった。その額には、うっすらと汗がにじんでいた。
 私は、うつむいたままじっと動かない彼に声をかけようとした。
 と、不意に視線を感じ、はっとして後ろを振り返った。
 破壊された車両のドアの陰から、騒ぎを聞きつけて集まってきた乗客達が、おそるおそるこちらの様子をうかがっていた。
 私は彼の腕を揺すって我に返させると、先に行くようにうながし、前の車両に移動した。
 ドアの前で、足下に落ちていた帽子を拾った。つばが山折りになった野球帽だった。私は目深に被りながら、ちらりと乗客達を振り返り、後ろ手に枠だけになったドアを閉めた。
 騒ぎを聞きつけてやってきた乗客は、誰一人として、私達の後をつけてこようとしなかった。
 前の車両に移動した私達が座席に腰を下ろすと、いくらもたたず列車がスピードを落とし始めた。いつのまにか、窓の外はうっそうとした山林に変わり、木々の中に溶けこむようにして建てられた住宅が、転々と見え隠れしていた。
 車掌のアナウンスが、まもなく停車する駅名を告げた。あらかじめ騒ぎが起こることを知っていたような、不自然なほど落ち着いた口調だった。
「ここで、私達を拘束するつもりだったらしいですね」と、彼がくすりと笑った。
「別の追っ手が、待ちかまえているんじゃないだろうか……」と、不安を覚えた私は、窓に顔を寄せ、近づいてくる駅の様子をうかがった。
「心配することはないと思います。この列車の有様を見れば、連中は早々に姿をくらますでしょう」と、彼は立ち上がりながら言った。「私達も、この駅で乗り換えましょう。今度は、こちらが挨拶にうかがう番です」

         7
 私達は、停車した駅で列車を降りた。
 朝の通勤時間に入り、ホームは、列車を待つ多くの人々でにぎわっていた。
 人々は、口々にどよめきの声を上げていた。振り返って見ると、私達が乗っていた列車が、傷だらけの変わり果てた姿をさらしていた。
 迷彩服の男達が襲ってきた車両は、窓ガラスがすべて割られ、中に飛びこんできた時のロープが、屋根からそのままぶら下がっていた。見えない迷彩服の男に追われ、私達が走り抜けた車両は、どの車両も、内側からボコボコとあぶくのように膨れあがり、針を刺せば今にも破裂しそうなほど変形していた。
 駅員達が、ホームに溢れている乗客をかき分け、息を切らせて右往左往している姿があった。列車の運休を知らせる案内が、困惑する人々の声に混じって、何度も繰り返し流れていた。混乱した様子からすると、列車で起こった事については、なにひとつ連絡が入っていないようだった。おそらくは、乗っていた車掌達も、私達を襲った連中の仲間から、運転を続けるように脅されていたのだろう。被害にあった乗務員達は、はたして無事だったのだろうか……。人混みに邪魔され、それらしい姿はどこにも見つけることができなかった。
 列車の中で見かけた乗客の一人が、集まった人々の対応に追われている駅員の一人と話をしながら、私達の方を指さしている姿が目に入った。私は気がつかないふりを装いながら、前を行く彼にそっと耳打ちをした。
「早くここを離れた方がいい――」
 ちらりと様子をうかがった彼は、
「ええ。あまりゆっくりもしていられないようです」
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数術師(12)

2014-08-04 06:58:31 | 「数術師」
 彼が、目を開けて体を起こした。赤く浮かび上がった男の上半身を払いのけると、勢いよく立ち上がり、私の首を絞めている人間に拳を振るった。

 バチン――

 と、厚いガラス窓をビリビリ震えさせるほどの衝撃が、後ろの座席から響いてきた。喉を絞めていた力が、「ゲグッ」という苦悶の声と共に消え失せた。
 私は、首に残った細いロープをはずすと、手で喉を押さえながら体をかがめ、激しくむせびかえった。
 彼は、私の脇に腕を回して立ちあがらせると、半ば引きずるように前を走る車両へ急いだ。
「あれは……」と、私は咳きこみながら聞いた。
「おそらく、カメレオンのように色素を変化させることができる迷彩服でしょう」と、後ろ手にドアを閉めた彼が言った。「思ったより早く連中がお出ましになりましたね。もっとも今回は、簡単に逃がすつもりはないようですが――」
 逃げこんだ車両にも、乗客は数えるほどしかいなかった。今し方の爆音が聞こえなかったのか、全員ぴくりともせず、不自然なほどぐっすりと寝入っているようだった。
 車両の通路を中ほどまで進むと、後ろのドアがガタンと大きな音を立て、勢いよく開けられた。しかしドアの向こうには、誰の姿も見えなかった。
「下がっていてください――」と、彼は私と場所を入れ替えながら言った。
 開けられたドアの方を向いたまま、彼が私の後ろに立つと、車両の左右の窓が一斉に割れ、迷彩服を着た男達が、ロープにつかまりながら中に飛びこんできた。
 どうと吹きつける風に舞って、小さなガラスの破片が、プチプチと頬をかすめていった。
 私はとっさに身をかがめ、両腕で顔を守った。
 迷彩服の男達は、座席の背もたれを盾にすると、私達に拳銃の銃口を向けた。
(撃たれる――)
 一瞬目を閉じたが、引き金は引かれなかった。いや、彼らは引き金を引くことができなかった。
 なぜなら、眠っていたはずの乗客達がフラフラと立ち上がり、そばにいる男達につかみかかって、自由を奪ったからだった。
 乗客の背中には、人の形をした小さな紙が張り付いていた。どうやらこの紙切れが、夢うつつの乗客達を、意のままに動かしているらしかった。
 迷彩服の男達は、つかみかかる乗客に手を焼いていた。制服を着た高校生や、作業着を着た年寄りもいた。一見すると、力では男達にまったく歯が立たないはずだったが、背中の紙に操られている乗客達は、片手で軽々と男を持ち上げてしまうほど、体格的な差をものともせず、驚くべき怪力を振るって、男達を翻弄していた。
 ぐずぐずしてはいられなかった。迷彩服の男達が手をこまねいている隙を縫って、私達はさらに前方の車両へ急がなければならなかった。この機会を逃せば、前後を塞がれて退路を断たれ、無事に逃げ延びられる確率が、ほとんど失われてしまうかもしれなかった。
 私は、ひと息に通路を駆け抜けようと足を踏み出した。しかし、後ろの彼は、後をついてくるどころか、いまだ姿の見えない追っ手と対峙したまま、微動だにしていなかった。
 迷彩服の男達は、乗客の背中に張られた紙に気がつくと、拳銃の底で次々に叩き落としていった。魂が抜けたようになった乗客達は、背中に張られた紙がはがされるたび、怪力を振るっていたことが嘘のようにピタリと動きを止め、次々とその場に崩れ落ちていった。
 どうやら、二人が無事でいられる方法は、命がけで戦うこと以外、ほかに残されていないようだった。覚悟を決めた私は、前に踏み出した足を戻し、腰を低くして身構えた。
 邪魔する者がいなくなった男達は、士気を取り戻し、体勢を素早く立て直すと、私達に銃を向けながら、じりじりと距離を詰めてきた。
 私の後ろに立つ彼も、見えない迷彩服に身を包んだ追っ手から目を離さず、ゆっくりとこちらに後ずさりをしてきた。
 なにか武器にできるものはないか――。私は無駄な抵抗と知りつつ、いくつもの銃口を向けられながら、車内に目を走らせていた。
「あの護符を覚えていますか?」と、彼が後ろ向きのまま、小声で私に言った。
 トラックのドライバーに渡したメモだと気がつき、前を向いたまま、すぐに「ああ……」とうなずいた。
「あの時の文様を使うんです」
「でも、どうやって……」
「私が書いた護符を思い出してください。あの文様は、圧力の式を元に組み立てた数印(じゅいん)です。手の甲に指でなぞり、指で輪を作って口に当ててください。そして、できるだけたくさん息を吸いこみ、嵐を起こすように意識しながら、思いっきり吹き出すんです」
 すぐには、彼がなにを言ってるのかわからなかった。だが頭のどこか隅の方では、彼が護符に書いた文様の力を悟ったようだった。迷っている余裕はなかった。私は銃を構えた男達が間近に迫ってくる中、彼に言われたとおり、左手の甲に素早く文様を描くと、指先を合わせて輪を作り、口に当てて大きく息を吸いこんだ。
 ゆるい風の流れが、私の手の中に流れこんできた。車両中の空気が、すべて口の中に集まってくるようだった。
「動くな!」と、男の一人が私の顔に銃を向けた。「両手を上げるんだ――」
「今です――」と、彼が横目で私を見た。
 私は、両手を上げる代わりに勢いよく息を吹き出した。
 立っていられないほど大きな風が、竜巻のような渦を巻いて、私の口もとから吹きつけた。迷彩服の男達はなすすべもなく、飛びこんできた窓から、一人残らず列車の外へ投げ出されていった。
 あっけにとられた私が我に返ると、彼はまだ、姿の見えない人間とにらみ合っていた。
私は、彼を助けようと、教えてもらったばかりの不思議な術を試みた。しかし、左手の甲に印を描き始めたとたん、
「だめです。こいつには通用しません――」
 彼が言い終わるが早いか、「伏せて!」と、彼が私の腕をつかみながら床に体を伏せた。
 あわてて身を低くした私の頭上で、ドン、と硬い物のつぶれる音が、振動と共に伝わってきた。
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数術師(11)

2014-08-03 06:31:06 | 「数術師」
 ドアが閉まると、列車はゆっくりと走り始めた。閉じられたドアの窓から、私は次第に速度を上げ、飛ぶように過ぎていく外の様子を見ていた。すると、おかしなことに気がついた。窓の外は、私達がいた小さな無人駅ではなかった。どこの駅かはわからなかったが、数台の列車が、それぞれのホームで出発の時刻を待っているのが見えた。早朝のせいか、人影はまばらだった。黒いバッグを重そうに肩から提げた駅員が一人、こちらに背を向けてホームを歩いていた。
 どのような仕掛けをすれば、こんな事ができるのか、私には考えもつかなかった。
「どうなってるんだ……」と、私は冷たいガラス窓に額をつけ、食い入るように外を見ていた。
 彼に問いただそうと、後ろを振り返ると、
「さぁ、中に入りましょう」
 彼は、振り返った私をはぐらかすように言うと、ドアに手を伸ばしながらうながし、進行方向の車両に入った。彼がドアを開けると、こちらに背を向けた座席が、奥の出入り口まで、通路をはさんでずらりと両側に並んでいた。
 まだ時刻が早いせいか、空席が目立つ車両には、思い思いの席に座る乗客が、数えるほどしかいなかった。後ろから見る限り、乗客の誰もが心地よさそうに目をつぶり、小さな寝息を立てて眠っているようだった。
 彼は私の先を歩いて、前に見える出入り口近くまで通路を進むと、空いている席を後ろ向きに変え、窓側の席に座った私と向かい合わせになって、腰を下ろした。
 気が張りつめていたせいだろうか、座席に座っていくらも経たないうち、我慢しきれないほどの眠気が襲ってきた。
見れば、向かい側に座った彼も、腕組みをしたまま目をつぶり、窓側の壁にもたれて首をかしげ、小さな寝息を立てていた。
 昨夜からの一連の出来事で、きっと疲れていたのだろう。彼の横顔が、急に年をとったように見えた。
 不可解な事故を自ら演出した後、おそらく彼は、街の人混みの中で、じっと息を潜めていたに違いない。自分自身を目立たなくすることで、執拗な追っ手から逃れ続けてきたのだ。それまでの彼は、他人とほとんど接することなく、自らの研究に没頭していたのだろう。くしくも身を潜めた街で、様々な人と出会い、彼は科学者として、たとえば自らの研究を鼓舞すべく、いたずらに命の核にメスを入れてしまうような、失ってはならない倫理の尊さを、改めて見いだしたのではないだろうか。
 本人は口にこそしなかったが、彼自身が数術(じゅじゅつ)と呼ぶ不思議な術を使えば、二度と追われることなく、透き通った海に囲まれた楽園のような土地で、のんびりと生きていくこともできただろう。しかし、命を落としかねない危険にさらされながら、彼が戦うことを選んだ理由とは、単に隠されているという真理を暴き、無責任に世界中へばら撒くためなのだろうか……。それはきっと、真理を我が物にして科学の進歩を妨げ、自分の意のままに人々を操ろうとする特権的な利己主義を認めず、打ち砕くためであるはずだった。個人的な思い入れに過ぎないかもしれないが、そうであってほしかった。
 ただ、彼が言う神の杖という組織が、どれほど大きな組織なのか、私には想像もできなかった。神秘に包まれたオカルティックな秘密結社と同じく、実体があるのか無いのかもわからない、ただその存在だけがまことしやかに噂されているだけなのではないか。
 だがだとすれば、私達を襲ってきた連中は何者なのか……。仮に秘密結社が送りこんだ刺客としても、昨夜のように訓練された連中を次々と敵に回し、その度に打ち破ったとして、果たして組織の追求を逃れるためにどれほどの効果があるというのか。たった一人で戦いを挑む小さな抵抗を、彼はいつまで続けるつもりなのか……。
 砂浜に作った砂の城郭が、決して大きくはない波に足下をさらわれ、簡単に崩されてしまうのにも似た愚かな行為を、捨て鉢になった彼が、無闇に繰り返しているだけのようにも思えた。

 タタタン、タタン。タタタン、タタン――。

 小気味のいい音を立て、列車は、山の斜面で寒そうに枝を張った灌木の横を走っていた。私もいつの間にか、温かい車内の暖房に眠気を誘われ、彼と同じようにゆっくりと目を閉じ、うとうとと心地のよい眠りに落ちていった――。

 タタタン、タタン。タタタン、タタン――。

 ――……。
 
         6
ふと、意識が先に目を覚ました。どの位眠っていたのだろうか、誰かに見られているような気がして、慎重に目を開けた。
 と、目の前の空気が、陽炎のようにゆらゆらと透明な波を起こし、光を屈折させて揺らめくのが見えた。
 光の屈折は、やい刃がくの字を描く奇妙な形のナイフを宙に持ち上げ、いまにも、すやすやと寝息を立てている彼の胸に突き立てようとしていた。
「やめろ!」と、私は叫んだ。
 グイッ、と後ろから、細いワイヤーロープのようなもので喉を締めあげられた。私は必死で、喉に食いこむ硬いロープを両手でつかみ、窒息させられまいと歯を食いしばって抵抗した。
 うっ、と短いうめき声が聞こえた。ぽとりと足下に赤い色の滴が落ちた。なにもないはずの目の前の空間から、にょきりとナイフの切っ先が顔をのぞかせていた。切っ先は、ゆらゆらとたゆたう陽炎を、ざっくりと貫いているようだった。赤い色の滴は、そのナイフの先からしたたり落ちていた。すぐにナイフが見えなくなるほど、目の前の空間ががみるみるうちに赤く染まり、人の形が、竜巻のような渦を巻いて浮かびあがった。
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数術師(10)

2014-08-02 07:02:15 | 「数術師」

         5
 トラックは、寝静まった無人駅に着くと、私達を降ろし、短くクラクションを鳴らして走り去った。
 別れ際、彼は持っていた手帳を一枚破り、なにかの数式のような、幾何学的な文様のようにも見える文字を走り書きした。書き終えると、角をそろえて半分に折り、イヤイヤと首を振って遠慮するドライバーの手に無理矢理握らせた。
 いぶかしげな表情で見ていた私を気にせず、彼は駅に来るまでの車内で、すっかり意気投合したドライバーに言った。
「私の連絡先です。ここまで乗せていただいたお礼は、ぜひさせていただこうと思います。街に到着して、仕事がひと段落したなら、読んでください。それまでは、なにがあっても肌身から離さないようにしてください。決して、簡単に捨てたりしないでください」
 言葉にどこか北国の訛りがあるドライバーは、照れたようにうなずくと、上着の胸ポケットに手渡されたメモをそっとしまった。
 真っ赤な朝焼けが瞳に映ったからだろうか、目を赤く潤ませたように見えるドライバーが、にっこりと笑ってこちらに手を振った。ブルルンと大きな車体を震わせ、トラックが走り出した。私達は、小さく手を振りながらお礼を言い、走り去るトラックを見送った。
 トラックの姿が見えなくなると、彼が言った。
「無事、荷物を届けられるといいんですが――」
 私は、どうしてそんなことを言うのか、彼に聞いた。
「私達がトラックに乗っていたとわかれば、昨夜襲ってきた連中が彼を放ってはおかないでしょう。なんとしても、私達の行方を聞き出そうとするはずです。物騒な連中を送りこんできた黒幕は、自分の所へ私がやって来るのを恐れていますからね」
「しかし彼は、なにも関係ないじゃないか……」私は、ドライバーを見殺しにしたような気がして、声を荒げた。
「社会的な地位を得て、二つと無い貴重な宝物に囲まれ、逃げも隠れもできない人間にとって、彼らは最強の武器なんです。汚れた金をエサの変わりに与える限り、決して主人を裏切らない忠実な猟犬のようなものです。彼らを使い、危険な火の粉は、自分に危険が及ぶ前に速やかに消し去っておく。誰だって、そう考えるのが普通でしょう――」と、彼はおどけたように肩をすぼめ、小さく首をかしげた。
「君は知っていたんじゃないのか、私達に関わる事で、彼がどんな目にあうのか――」私は、思わず怒りをあらわにした。「少なくとも、無関係の人間が巻きこまれてしまうことぐらい、容易に想像できたはずだ」
「…………」
 彼は、じっと私の目をのぞきこんだ。
「私が彼に手渡したのは、一種の護符です」彼は、笑みを浮かべながら言った。
「護符?」
 笑みを浮かべたまま、彼は大きく頷いた。
「――君が、どうしてあんなデタラメな走り書きを彼に渡したのか、どうにも腑に落ちなかったんだ。あのメモには、一体どんな意味があるんだ」と、私はメモに書かれた文様を思い出しながら言った。「覚えている限り、なにかの数式を幾何学的な文様に似せて書いたようだったが  」
 と、彼はうなずきながら言った。
「一見、意味のない文様のようにも見えたでしょうが、あの紙を持つことで、彼は私達の事を、ぼんやりとしたイメージでしか思い出せません。たとえ、私達の顔写真を見せられても、はっきりと会ったことがある人物だとは、自信をもって答えられないでしょう。そして、あの紙が彼の手元にあることで、私が彼に術をかけた証拠になる。紙を失うか、もしくは取り上げられでもすれば、その時点で、彼の記憶から私達のことは一切消えてしまいます。そうなれば、どれほど情報を聞き出そうと手段を尽くしても、まったくの徒労に終わることは、これまで私を追いかけてきた連中なら、いやというほど思い知っているはずです。おそらく彼は、私達のことを問いつめられこそすれ、ひどい目にあうことは決してないでしょう――」
 私達は、朝日にまぶしく照らされた駅に入った。木造の小さな駅には、暖をとるストーブも、改札口もなかった。出入口の横に貼られた列車の時刻表と、天井に近い壁に掛けられた小さな時計のほかは、心ばかりのテーブルと、ひどく古ぼけたベンチが置かれているだけだった。
「始発が出るのは、まだ先のようだ――」と、私は文字の消えかかった時刻表と時計を見比べながら言った。
「いいえ、時刻どおりのダイヤは不要です。鉄のレールと、路線という限られた条件に支配されている列車であるなら、なおさらです」
 彼は言うと、駅とホームをつなぐ引き戸をしっかりと締め、その前に立った。右手を伸ばし、人差し指で引き戸のガラスになにかを書くような仕草をすると、静かに戸を開け、誰もいないホームに歩み出た。
 彼に続いて、私も誰もいないホームに出た。落ち葉を舞い運んでくる冷たい風が、音階の合わない口笛のような楽曲を奏でていた。
 そのまま、まんじりともしない時間が流れた。黙って立ったまま、微動だにしない彼を横目でうかがいながら、私は本当に列車が来るのか、半信半疑だった。ときおり鼻をすすりながら、寒さをこらえるために何度も足踏みを繰り返した。
 と、遠くに小さな灯りが見えた。汽笛が聞こえた。始発列車ではなかった。時刻表に載っていない列車が、減速しながらゆるゆるとホームに滑りこんで来た。列車は、鉄の車輪を軋らせながら、私達の目の前で停車した。
 当たり前のように列車のドアが開くと、女性の案内がホームに流れた。駅名が告げられたが、なぜか私たちが乗りこんだ駅名とは違っていた。木製の看板に書かれた毛筆の黒い文字は、長い間風雨にさらされ、木目の地肌が見えるほどかすれて読みづらくなっていた。もしかすると、独特の読み方をする、あて字なのかもしれなかった。次に停車する駅名が呼ばれたが、記憶を失っている私には、どの地方を走っている列車なのかも、まったく見当がつかなかった。
 ピロロロロロ……と、出発を告げるベルが鳴った。私達は、列車に乗りこんだ。
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