西の空にあかね色が傾いている。
心地よい風が、川面を渡っていく。
さざ波が、生きているように風に逆らう。
川岸に揺れる木々ざわざわと梢を鳴らしている。
硬い枯れ枝の先に止まるカワセミが、青い翼に風を受けながら、キラキラと反射する流れに、じっと目を落としていた。
気がついているのだろうか。ぬめるような鱗を持った鋭い目が、赤い舌をちょろりちょろりと出し入れしながら、静かに枝を這い上ってきているのを――。
ぶるる、とカワセミが身を震わせた。
蛇が、はたと動きを止めた。
カワセミが、小さく翼を広げ、そのまま川へダイブした。
飛び散る水しぶきとともに、カワセミは再び舞い上がり、止まっていた枯れ枝に戻ってきた。その黄色い嘴には、捕らえられた小魚が勢いよく暴れていた。
小魚をぺろりと平らげ、カワセミは満足げに羽ばたいた。
その様子をうかがっていた蛇は、生唾を飲むように舌をのぞかせ、そろりと滑るようにカワセミに近づくと、大きな口を開いて、ひと息に距離を詰めていった。
シャッ、と鋭く延びた牙が、鞭のように襲いかかった。
サクッ――
と、光が弧を描き、蛇の首がぞろりとずれ落ちた。
――――――――
もうもうと、黒い煙が立ちのぼっていた。
人間の声が、騒々しく聞こえていた。
生まれてからずっと、人の戦争が続いていた。
カワセミの母親が、練習に集中するようにうながした。
こくり、とすぐに川面に意識を集中し、カワセミは小魚の影を探した。
きらり、と光るわずかな魚影をとらえ、カワセミは素早くダイブした。嘴を開くタイミングに戸惑い、危うく逃がすところだった。
水から戻ると、尾の近くを捕まえられた小魚が、逃げだそうと必死で暴れ、カワセミの顔を何度も叩いた。
失敗を隠すような涼しい顔で、カワセミは足下の枝に小魚を打ちつけてとどめを刺し、頭から飲みこんだ。母親の顔が心なしかほころんだ。
と、黒い鳥が頭上を威嚇するように飛んでいった。見れば、逃げまどう人間達が、河原を必死で駆けて来ていた。
みるみるうちに、川岸の木々がカラスの群れで一杯になった。
(帰りましょう)と、母親が小さく羽ばたいた。
その日は、ろくに練習もできないまま、川をあとにした。巣立ちの日は、いつになるのだろうか……。
――何度練習しても、同じことさ。
カワセミは苛立ち、母親を振り切るように、木から木へ飛び移っていった。
まだ独り立ちには早い。と、母親はからかうように後を追ってきた。
(いい加減にしろよ)と、カワセミは声をあげて振り返った。
と、カラスが、その黒い嘴で、母親を捕らえるのを見た。
一撃だった。
声をかけるまもなく、母親の目は、光を失っていた。
涙を流す暇もなかった。背中に痛みが走った。覚えているのは、獲物を捕らえ損ね、くやしそうに鳴くカラスの声と、遠ざかる眩しい空だった。
――お香の臭いで、目が覚めた。川ではなかった。
人間の子供が、大きな目でのぞきこんでいた。
また、気を失った。
カワセミが助けられたのは、寺だった。やんちゃそうな子供が、河原で遊んでいた時、悪いカラスから助けたんだ、とさかんに自慢していた。
ふかふかの草が敷かれた篭の中、横になったカワセミの様子をうかがいながら、若い僧侶が子供の話を目を細めて聞いていた。
寒さで、目が覚めた。夜だ。まだ死んではいないようだった。
カツン、カツン――と、何度も木を打つ音が聞こえていた。
カワセミを助けた子供とは、すぐに仲良しになった。仲良く遊ぶ様子を見て、まるで人のようだ、と年長の僧侶が、若い僧侶に話していた。
みるみる回復し、疲れ知らずの子供も、自由自在に空を飛ぶカワセミを、さすがにもてあまし気味だった。
――夜、木剣を手にした若い僧侶が立木に向かい、何度も激しく打ちこんでいた。
カツン、カツン――と、風を切っていた木剣が、不意に動きを止めた。
若い僧侶の目の前、器用に枝をくわえたカワセミが、僧侶の真似するように、立木に枝を打ちこんでいた。
その夜から、稽古が始まった。
若い僧侶を真剣にさせるほど、カワセミの腕はみるみるうちに上達した。立木が、若い僧侶が打つのと変わらぬ音を立て、梢がざわざわと揺れ動いた。
――――――――
互いに木剣を持った若い僧侶とカワセミが、対峙した。
カワセミが飛ぶ。早い。僧侶がさばき、うなりを上げて木剣を振る。
しかし、カワセミの姿はなかった。
ぽん、と後ろ肩が叩かれた。若い僧侶が、微笑みながら振り返る。得意気な様子のカワセミが、その場で羽ばたいていた。
――――――――
若い僧侶がカワセミを呼ぶ。どこで拵えたのか、小さいが、見事な剣を肩からかけてやった。
「元気でな――」
若い僧侶が言うと、カワセミは振り返らず、どこかに飛び去っていった。
――久しぶりだった。カワセミは、生まれた川に戻ってきた。
聞き覚えのある風の音、水のにおい、すべてが、新鮮に感じられた。
しかし、カワセミを歓迎する気配はなかった。
突き刺さるようなするどい視線。耳に痛みを覚えるほどの鳴き声。カラス達だった。
何度も止まった枝で、羽根を休めた。カワセミは、遠くを見るような目をしていた。
カラスの一羽が、身を隠すことなく、カワセミの後ろから近づいていった。
カラスは、カワセミの頭上でわざとらしく羽ばたいたが、カワセミは微動だにしなかった。
遠巻きに、その様子をうかがっていたカラスの群れの一羽が、カカカカカ――と、からかうような甲高い鳴き声を上げた。
ガガァ――。
と、答えたカラスが、カワセミの正面から襲いかかった。
一瞬だった。
翼を広げたカラスが、ずるりと二つに割れた。
どぼん、どぼんと、二つになったカラスが川に落ちた。
剣を収めたカワセミが、飛び去ろうとした。
なにが起こったのか、我に返ったカラスの群れが、狂ったように騒ぎ始めた。
数羽のカラスが群れから飛び出し、飛び去ろうとしたカワセミのぐるりを取り囲んだ。
カワセミは別の枝にとまり、取り囲んだカラスを首をかしげて見回した。
カワセミが翼を広げたのが、合図だった。
黒い羽根を振り乱したカラス達が、カワセミに襲いかかった。
――カワセミを取り囲んでいたカラス達は、羽根のついた黒い塊に変わった。
どぼん、どぼぼんと、カラスだった黒い塊が、次々と川の流れに落ちて、姿を消した。
カワセミが、かちりと剣を鞘に収めた。
カラス達のリーダーだろうか、カワセミになにかを訴えるように鳴いていた。
カワセミが、ちらりと目をやった。幼いカラスの子供達、母親達、怒りを押し殺している群れの目があった。
無言のまま、カワセミは舞い上がった。ぐんぐんと、空高く飛び去っていった。
誰一人、カワセミの後を追っていく者はいなかった。
おわり。そして、つづく――。
心地よい風が、川面を渡っていく。
さざ波が、生きているように風に逆らう。
川岸に揺れる木々ざわざわと梢を鳴らしている。
硬い枯れ枝の先に止まるカワセミが、青い翼に風を受けながら、キラキラと反射する流れに、じっと目を落としていた。
気がついているのだろうか。ぬめるような鱗を持った鋭い目が、赤い舌をちょろりちょろりと出し入れしながら、静かに枝を這い上ってきているのを――。
ぶるる、とカワセミが身を震わせた。
蛇が、はたと動きを止めた。
カワセミが、小さく翼を広げ、そのまま川へダイブした。
飛び散る水しぶきとともに、カワセミは再び舞い上がり、止まっていた枯れ枝に戻ってきた。その黄色い嘴には、捕らえられた小魚が勢いよく暴れていた。
小魚をぺろりと平らげ、カワセミは満足げに羽ばたいた。
その様子をうかがっていた蛇は、生唾を飲むように舌をのぞかせ、そろりと滑るようにカワセミに近づくと、大きな口を開いて、ひと息に距離を詰めていった。
シャッ、と鋭く延びた牙が、鞭のように襲いかかった。
サクッ――
と、光が弧を描き、蛇の首がぞろりとずれ落ちた。
――――――――
もうもうと、黒い煙が立ちのぼっていた。
人間の声が、騒々しく聞こえていた。
生まれてからずっと、人の戦争が続いていた。
カワセミの母親が、練習に集中するようにうながした。
こくり、とすぐに川面に意識を集中し、カワセミは小魚の影を探した。
きらり、と光るわずかな魚影をとらえ、カワセミは素早くダイブした。嘴を開くタイミングに戸惑い、危うく逃がすところだった。
水から戻ると、尾の近くを捕まえられた小魚が、逃げだそうと必死で暴れ、カワセミの顔を何度も叩いた。
失敗を隠すような涼しい顔で、カワセミは足下の枝に小魚を打ちつけてとどめを刺し、頭から飲みこんだ。母親の顔が心なしかほころんだ。
と、黒い鳥が頭上を威嚇するように飛んでいった。見れば、逃げまどう人間達が、河原を必死で駆けて来ていた。
みるみるうちに、川岸の木々がカラスの群れで一杯になった。
(帰りましょう)と、母親が小さく羽ばたいた。
その日は、ろくに練習もできないまま、川をあとにした。巣立ちの日は、いつになるのだろうか……。
――何度練習しても、同じことさ。
カワセミは苛立ち、母親を振り切るように、木から木へ飛び移っていった。
まだ独り立ちには早い。と、母親はからかうように後を追ってきた。
(いい加減にしろよ)と、カワセミは声をあげて振り返った。
と、カラスが、その黒い嘴で、母親を捕らえるのを見た。
一撃だった。
声をかけるまもなく、母親の目は、光を失っていた。
涙を流す暇もなかった。背中に痛みが走った。覚えているのは、獲物を捕らえ損ね、くやしそうに鳴くカラスの声と、遠ざかる眩しい空だった。
――お香の臭いで、目が覚めた。川ではなかった。
人間の子供が、大きな目でのぞきこんでいた。
また、気を失った。
カワセミが助けられたのは、寺だった。やんちゃそうな子供が、河原で遊んでいた時、悪いカラスから助けたんだ、とさかんに自慢していた。
ふかふかの草が敷かれた篭の中、横になったカワセミの様子をうかがいながら、若い僧侶が子供の話を目を細めて聞いていた。
寒さで、目が覚めた。夜だ。まだ死んではいないようだった。
カツン、カツン――と、何度も木を打つ音が聞こえていた。
カワセミを助けた子供とは、すぐに仲良しになった。仲良く遊ぶ様子を見て、まるで人のようだ、と年長の僧侶が、若い僧侶に話していた。
みるみる回復し、疲れ知らずの子供も、自由自在に空を飛ぶカワセミを、さすがにもてあまし気味だった。
――夜、木剣を手にした若い僧侶が立木に向かい、何度も激しく打ちこんでいた。
カツン、カツン――と、風を切っていた木剣が、不意に動きを止めた。
若い僧侶の目の前、器用に枝をくわえたカワセミが、僧侶の真似するように、立木に枝を打ちこんでいた。
その夜から、稽古が始まった。
若い僧侶を真剣にさせるほど、カワセミの腕はみるみるうちに上達した。立木が、若い僧侶が打つのと変わらぬ音を立て、梢がざわざわと揺れ動いた。
――――――――
互いに木剣を持った若い僧侶とカワセミが、対峙した。
カワセミが飛ぶ。早い。僧侶がさばき、うなりを上げて木剣を振る。
しかし、カワセミの姿はなかった。
ぽん、と後ろ肩が叩かれた。若い僧侶が、微笑みながら振り返る。得意気な様子のカワセミが、その場で羽ばたいていた。
――――――――
若い僧侶がカワセミを呼ぶ。どこで拵えたのか、小さいが、見事な剣を肩からかけてやった。
「元気でな――」
若い僧侶が言うと、カワセミは振り返らず、どこかに飛び去っていった。
――久しぶりだった。カワセミは、生まれた川に戻ってきた。
聞き覚えのある風の音、水のにおい、すべてが、新鮮に感じられた。
しかし、カワセミを歓迎する気配はなかった。
突き刺さるようなするどい視線。耳に痛みを覚えるほどの鳴き声。カラス達だった。
何度も止まった枝で、羽根を休めた。カワセミは、遠くを見るような目をしていた。
カラスの一羽が、身を隠すことなく、カワセミの後ろから近づいていった。
カラスは、カワセミの頭上でわざとらしく羽ばたいたが、カワセミは微動だにしなかった。
遠巻きに、その様子をうかがっていたカラスの群れの一羽が、カカカカカ――と、からかうような甲高い鳴き声を上げた。
ガガァ――。
と、答えたカラスが、カワセミの正面から襲いかかった。
一瞬だった。
翼を広げたカラスが、ずるりと二つに割れた。
どぼん、どぼんと、二つになったカラスが川に落ちた。
剣を収めたカワセミが、飛び去ろうとした。
なにが起こったのか、我に返ったカラスの群れが、狂ったように騒ぎ始めた。
数羽のカラスが群れから飛び出し、飛び去ろうとしたカワセミのぐるりを取り囲んだ。
カワセミは別の枝にとまり、取り囲んだカラスを首をかしげて見回した。
カワセミが翼を広げたのが、合図だった。
黒い羽根を振り乱したカラス達が、カワセミに襲いかかった。
――カワセミを取り囲んでいたカラス達は、羽根のついた黒い塊に変わった。
どぼん、どぼぼんと、カラスだった黒い塊が、次々と川の流れに落ちて、姿を消した。
カワセミが、かちりと剣を鞘に収めた。
カラス達のリーダーだろうか、カワセミになにかを訴えるように鳴いていた。
カワセミが、ちらりと目をやった。幼いカラスの子供達、母親達、怒りを押し殺している群れの目があった。
無言のまま、カワセミは舞い上がった。ぐんぐんと、空高く飛び去っていった。
誰一人、カワセミの後を追っていく者はいなかった。
おわり。そして、つづく――。