担架に乗せられた継之助は休むたびに「ここに置いて行けと」ぐずる、その脇を多くの長岡藩の家族が
通りすぎてゆく、このうえない惨めさを感じただろう。
現代であれば「お前のせいでこんな目に」と罵声が飛んでも不思議ではない。
日が落ちる頃には空堀についた、ここには茶屋があったが継之助はそこには休まず共の者が担いだ
担架で一晩を過ごした、どうせ明日は死ぬ身、幼子や年寄りにその場を譲ったのであろうか、せめてもの罪滅ぼしか。
早朝出立して鞍掛峠に着いた、ここには殿の山本帯刀隊が待っていた。
これより先は会津領、越後が見納めである、二人はどのような言葉を交わしたのであろうか
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句をこの地で詠んだとされている。
これより先は要所要所で会津の農民が避難民を世話をしてくれた、他国の人々に声を掛けられどれほど
勇気付けられたであろうか。
木ノ根峠から先は現在の道(新道)とは違い浅草岳稜線を越える道(古道)であった、途中では多くの
人が近道をしたために河井新道なるものができたそうだ。
その日の遅い時間に会津領只見村に着いた一行は代官の丹羽族と面会する、その後丹羽は事後を部下に託して自害する。
わずか一週間の間に1万五千人以上のものが南会津に流れ込んで来たのである、八ヶ村で二百九十軒程の
寒村にそれを受け入れられる食料があろうはずがなかった。
代官丹羽はそれを訴えるための自害であった、その後農民は志にうたれ来年の種籾さえ非難民に提供して
一人の餓死者も出さなかったと言う。
継之助はその死を聞いてなにを思ったであろう、
そしてみなの願いもむなしく慶応四年八月十六日会津塩沢村に没する。
稲川先生も面白いし
峠いいですね~
継之助フリーク、八十里フリークを増やしましょう!!