JW脱出計画(進行中)

エホバの証人2世(現在不活発)の思いをつらつらと・・・

仕事ができないのに褒められる人たち

2007-10-21 20:25:52 | Weblog
現在、自分が営業という仕事をしていて感じるのは「とにかく世の中では結果を残さなければダメなんだ」という事です。勿論一般の人から見れば至極当たり前の話なのかもしれませんが物心付いたときからJWに身を置いていた人間からするとこれを本当の意味で理解するのに時間がかかったのは事実です。逆に言えばJWでは結果というものはあまり重視されない世界だったと思います。

その最たる例が「開拓者」と呼ばれる人たちの存在ですね。

ご存知のように開拓者というのは1年間のうちに組織の要求する奉仕時間を「費やす」という事を求められている人たちです。そのために彼らはあの手この手で奉仕時間を「費やす」ための策を講じています。

でも、例えば何人の人を組織に加入させたとか、何十件の家で機関誌を受け取ってもらったとか、そういった面で何かを要求されているわけではない。営業用語で言えば「活動時間の報告」は求められているけど「売上げ実績の計上」に関してはとやかく言われないわけです。ですから何年も開拓者やっているのに一人も信者を導いていない・・・としても彼らは気に病む必要はありません。たとえ「ご新規さん」を獲得したってそれは個々の実績ではなく全て「神のお導き」として処理されるわけですからw

それでも自分は開拓奉仕をしています!と言ってさえいれば組織内では一定の評価を得て立派な人間として認められる・・・そういう意味では開拓者というのは非常に楽なポジションだと思います。

でも聖書なんかにはイエスの、あるいはパウロの話を聞いて何千人がバプテスマを受けた、という表現がよく出てくることからも分かるようにJWでは「実績」も非常に重要視している事は事実です。でなければ洗礼を受けた人数なんてイチイチ書く必要ないわけですからね。

だからあの組織の人たちもみんな気付いているはずです。いくら「最初の一軒目方式」を利用したり、ガソリンを大量に消費してわざわざ遠隔地にある家を訪れたりして奉仕時間を引き延ばすことで組織の要求を果たしても、信者の一人も獲得できない開拓者というのは意味がない存在だということを。

彼らの活動が役立つのは年に一度機関誌に載せるJWの年間統計の「活動時間」の項目を増加させる時だけwそれ以外はいてもいなくても同じだと思う。でもそんな事を実績のない信者たちに実感させたら莫大な量の単なる無職人間を世の中に送り出すだけなのでとにかく「開拓者」という名前を与えて彼らを飼い慣らしているのではないかと。

まあかつて自分もそんな人間の一人だったわけですがね^^;

先日とある県のとある宗教施設で暴行殺人事件がありましたが、こういうことが続けば今後この日本でも新興宗教に対する風当たりは強くなっていくことでしょう。今のような税金の優遇措置のようなものもなくなるかもしれない。その時に今のような大量の無職同然の人間を抱えているJWが持ちこたえれるかどうか分かりませんね。組織は今のうちに「仕事のできない」開拓者を「世俗の仕事」に就くよう奨励して収入の道を確保したほうがいいと思います。

こんな組織を後世に残したいならばの話ですがw

今思えば恥ずかしい

2007-10-14 00:05:15 | Weblog
たいしたことではないんですがちょっと思い出したことがあったので書きます。

これは日本だけなのかもしれませんが大会の最終日の結びの話なんかで大会運営に関わる世の人(警備員や会場職員等)のコメントが読まれる事がありましたよね。「これだけの大人数でもJWの皆さんが整然としている姿に感動しました」とか「JWのお子さんは本当にお行儀が良くて驚きました」とか・・・。まあ当時はそんな歯の浮くようなコメントに不思議とも思わずただ拍手してたんですが、今思えば何であんな事いちいち発表したのかな?と疑問が沸いてきました。

これは憶測ですが・・・もしかしたら信者たちの自己暗示を手助けするためかなと。

はっきり言ってJW信者というのは一般社会の人からすれば迷惑な存在です。何事においても自分たちの宗教を優先し、自分たちのルールに固執し、自分たちの利益にならないことには協力しない・・・そんな人間の集団を邪魔に感じてる人はたくさんいると思います。

もちろん信者自身もそういう周囲の目をはっきりと感じているはずで。そんな目線を常に浴びていれば次第にこの組織に従っていくことに疲れを感じ出すでしょう。自分はこのまま社会の厄介者でいていいのかと。

そんな信者たちの気持ちをふるい立たせるために組織がわざわざ大会でおべんちゃらのコメントを集めて信者たちに聞かせ「自分たちは社会の皆さんからこんなに賞賛されている!感謝されているんだ!!」という思いに浸らせようとしているのではないかと。

だとすればそうやって僕らは毎年結構な時間と旅費をかけて騙されに行ってたわけですね(笑)まあ大会都市の人たちとしては大勢の信者が泊りがけで来てくれれば街も潤うし、そうなると頼まれれば「大事なお客さん」にお世辞の一つも言いますって。でも組織にいた頃にはそんな当たり前に事に全く気付かずのほほんとしていたんですがね。

そんな当時の自分を思うと今更ながら汗顔の至りなわけです。つくづく恥ずかしい人間だったんだなあと。自分が周囲にどう見られているかを常に気にしなければいけないとは言いませんが、「空気を読めない人間」にはなりたくない。あの恥ずかしい団体を離れた今そう思います。

平凡な日々のありがたさ

2007-10-13 23:56:02 | Weblog
このところJWに関係したことが身の回りに起きていないので当ブログも開店休業状態です。非常に平穏な毎日です。

たとえば・・・JW時代の友達から毎日のように「励ましの」メールが届くとか、「愛ある」会衆の長老たちから牧羊訪問の要求がしょっちゅうあるとか、そういった事が頻繁にあるとしたらそういした圧力に負けぬようこちらもそれなりの周到な準備をしようという気持ちになるわけですが、そういうことが一切ない以上こちらも警戒を解かざるを得ません。

今更ながらですが僕は現在、奉仕の僕の任を解かれただけで「排斥」とも「断絶」とも裁定が下されてはいません。非常に宙ぶらりんの状態です。色々な方のブログ等を読んでいると、僕のように組織との繋がりをシャットアウトしているだけの人もいれば、はっきりとJWと縁を切る事を相手方にも宣言している方もいるようです。

勿論後者の方がスッキリとした気持ちで第二の人生を歩めるとは思うし、できれば自分もそうしたいんですが・・・なかなか踏ん切りが付きませんね。いっそ何かの年間会員のように「1年間利用実績がなければ自動的に退会となります」みたいなルールになっていればいいんですが、JWに関してはそうもいかないですからね。

組織としても「信者がJW組織の矛盾や問題のために追い込まれて去っていった」というようりも「信者自身が自己鍛錬を怠り個人的な問題に陥ったせいで組織を離れた」というほうが自分たちにとって都合がいいでしょうし。彼らに元信者のアフターケアをするなんて概念はありませんからね。排斥者を訪問して復帰の手助けをするように・・・なんて指示もありましたけどそんなのあくまでポーズ。

寄付をたんまりしてくれる金持ち信者のような、組織にとってメリットのある人間ならまだしも、僕のように批判的な目しか向けない様な人間には用がないでしょう。ある意味会社と一緒で利益優先ですからね(笑)

組織と距離を置くようになって約2年が経過しました。初めの頃は本当に苦しかったけど、今ではそれなりに世の中における自分のポジションの取り方が分かってきたようです。JWにいた頃のような「自分は神の忠実なる僕だ!」などという大それた(そして寝ぼけた)妄想を抱かずとも一般の人と同じようにごくごく平凡な毎日を送っていることに違和感を感じなくなったのが何よりも嬉しい。

これからもぼちぼち生きていきたいと思います。

現実を受け止める

2007-10-04 00:30:24 | Weblog
表のブログには書いたんですが、田舎に住むウチの母の母親(僕の祖母)が入院することになりまして。

まあ年齢も年齢なのですが、どうやら重い病気も患っているようで、一緒に住んでいる身内には「ある程度覚悟はしていて下さい」という話もされたようです。母は数年前に既に父親(僕の祖父)も亡くしているので、これで祖母に何かあれば両親を失うことになるわけです。

JWであろうとなかろうと自分が生きている限り肉親の死というのは必ず訪れるわけで。まあ組織の教義からすれば「復活の希望があるのだから悲しむ必要などない!」と言うことになるのでしょうが、実際にこういう状況に直面すればそんな教えの言葉など何の役にも立たないものですね。

この祖父母は我が家がまだ神権家族で、他の親戚などから村八分のような扱いを受けていた頃から親切にしてくれていた人たちで、まあ冷たい言い方かもしれませんが自分にとっては親以外の唯一の血縁関係にある人達だと思っています。

それでも祖父の死の際には僕はまだ「現役信者」だったので何とか冷静に対処できたのですが、組織から離れ邪教の呪縛から放たれた今の状況で祖母がそうした状況となったのを聞いて、「これで本当にお別れなんだな」ということをにわかに実感しています。

・・・ただ正直に言えば、ハルマゲドンやら血の問題はあっさりとクリアできた僕ですが、「復活の教え」については組織の教えをまるっきり信じてはいないものの心のどこかではあってほしいなと思っている面があります。

仏教は輪廻だから死んだ人が確実に「人間として」蘇るという教えはないし、イスラームにも地上での復活という教えはなかった気がします。他の宗派を調べたわけではないのではっきりとした事は分かりませんが、死んだ人が元のまんま地球に蘇るというこの教えはかなり特殊なんですね。そこがまた大勢の人を引き付ける要因にもなっているんだとは思いますが。

もしこの希望があれば身内の死という迫り来る現実にこんなに落ち込むこともないわけですからね。でもまあ宗教の中の自分の信じたい教義だけを受け入れるというのは随分と勝手な話ですから、そこはもう僕自身はしっかり割り切って現実的に受け止めたいと思います。