JW脱出計画(進行中)

エホバの証人2世(現在不活発)の思いをつらつらと・・・

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辞めた理由

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JWから飛び出す直前まで僕が交わっていた群れの司会者の兄弟(長老)が最近長老の立場を降ろされた、という話しを聞きました。同時にプログラムや注解などの特権も失ったらしい。

例によって理由は発表されなかったようなので、どういう経緯でそんなことになったのかは分かりません。

その兄弟(Y兄弟とします)は僕が知る限り本当に優しくて真面目でいい人でした。いい人過ぎて年下の僕から見ていても大丈夫かな?と思ってしまうこともあったくらいで。元べテラーでしたがそんなこと一切鼻にかけることなく、むしろ控え目に会衆の人を見守っている、そんな感じの人でした。

そういえば僕が集会行かなくなった時も家までお菓子持って来てくれました。でも僕は会わなかった。今会ったら決意が崩れてしまいそうで、何度か足を運んでくれたにも関わらず、結局全て母に応対させて一度も顔を見なかった。

でも辞める前に「実は僕JW辞めるんです。今までありがとうございました」と言いたかった数少ない仲間の一人でしたね。

その彼が長老を降りた・・・その原因にはもしかしたら自分があるのかもしれない、と思うようになりました。一応僕はその群れではY兄弟の補佐という立場だったので「補佐の監督もできない人間に群れや会衆の世話など無理だ!」ということで何らかの圧力がかかって辞めさせられたんじゃないかと・・・。

もちろんこれは推測の域を出ないし、原因が判明することはないかもしれない・・・でも何だか嫌なものです。

僕自身はJWを離れて後悔してる部分と言うのは全くありません。でも離れたくない人の足まで無理に引っ張りたいとは思わない。辞めるなら自分の意志で辞めて欲しい。Y兄弟はおそらくJWの中でしか生きられない人なんだと思う。そういう人もいるわけです。だから自分の行動でJWでの生活で満足してる人まで苦しめる結果になったとしたら辛い。

何だか矛盾してるようですがY兄弟には早く立ち直って欲しいと思います。
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選挙

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統一地方選が終わりまして、我が街にも再び静かな日々が戻ってきました。

JWを離れて2年、その間何度か選挙はありましたが、まだ一度も投票所に足を運んだ事がありません。政治の世界についてはしょっちゅう新聞を読むなどして興味があるんですが、選挙という形で己が参加する気持ちになれない。

正直に言ってしまえば「興味が持てない」というのが本音です。一応TVやその他のメディアを介して候補者たちの主張は耳に入ってくるわけなんですが、みんな同じようなことを言ってる気がするし、だとしたら誰がやっても所詮人間のやることだから一緒だろう、というような感じです。

そういえばある作家さんが選挙に行かない理由として言っていたこんな言葉がありました。
「マイナス4とマイナス3のどちらかを選ぶために投票所に行けっていわれたって、行かないよ、そんなの」

もっとも自分が20歳になった段階で宗教上の縛りがなくて選挙に行ける立場だったとしたら難しいことを考えずにとりあえず行っていたと思います。そういう意味では「投票慣れ」みたいなものも必要なのかもしれません。

次回は夏の参院選ですか。規模としてはかなり大きいものですからさらに報道等による情報も多くなるでしょう。できるだけそれらを集めて選挙に行く気持ちが自分の中に沸いてくるよう頑張ります。
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ピースサイン

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JWに関することに限定して書いている当ブログですが、最近は更新も滞りがちです。

正直、日常生活の方で色々ありまして、あの組織のことを思い出す回数がかなり減っているというのが本当の所です。でも思い出すことはなくてもあそこにいたことで受けた影響は今もしっかり自分の中に残っていますし、それが完全に無くなる事は生涯ないでしょう。だからこのブログもずっと続くと思います。

というわけでご無沙汰の言い訳を書いたところで今日に記事に行きますねw

ローカルルールかもしれませんが「ピースサイン」というものはJW信者はやってはいけないことになってますよね。自分も子供の頃からそう言われて育ったので、たとえば写真の被写体になる場合はかなり苦労したのを覚えています。

だいたい写真に撮られる際には何らかのポーズをしないとカッコが付かないものですが、ことに男子の場合はカメラに向かってピースするくらいしか選択肢はないわけで。だからそれが禁止ということになるとあとは黙って微笑んでいるか軽く手を挙げるしかない。

というわけで自分は小さい頃から写真に写るのが苦手でした。当時の学校でクラスメートなどと一緒に写った写真が今も数枚手元にありますが、周囲がピースサインしてる中で黙って佇んでいる己の姿というのは随分滑稽に見えます。

たかがピースじゃないか、と言われそうですが、これは子供の頃はかなりプレッシャーでしたね。ある時、何かの行事でカメラが向けられた際にふざけた同級生に無理やりピースを作らされそうになって慌ててそれを振り払い、険悪なムードになったことがありました。

もちろん向こうはふざけただけで悪意なんかありません。でもこっちは「そんなことしたら神サマに滅ぼされる!」と必死ですから自分が友達にどう思われるかなんて考えちゃいない。そんなことが重なって次第にクラスメートから変人扱いされるようになりました。こういう些細な事でJWの子供というのは疎外感を感じたり、卑屈になったりしていくものなんでしょうね。

そしてそういう気持ちを大きくなってからも引き摺ってしまい、みんなが騒いでる中で心底はしゃげない自分にいつもイライラし、次第に内に篭るようになっていきました。「どうせ自分は周りの人を不愉快にさせてしまう人間だから、できるだけ周りと距離を置いていよう」という思いが常に心の中にあるんですね。

JWを出ても拭い去れないこういった感情から少しでも解放されたいと思う今日この頃です。



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泣けない自分

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つい先日の事ですが、会衆のある姉妹が病気で亡くなったという報せを母から受けました。母と同じくらいの年齢の人で、まあ特別親しいという間柄でもなかったんですが、一時期は同じ群れだったりしたこともある姉妹でした。

それを聞いた時、なぜか何の感情も沸かなかった。

あの組織の中で関わっていただけとはいえ少しは悲しいとか寂しいとかいった気持ちが出てくるものだと思ったんですが、まるで別の国に住んでる見ず知らずの人が亡くなったのをたまたま耳にした時のような醒めた感覚しかない自分がいました。

どうしてだろう・・・

別に自慢でも何でもないんですが、自分はどちらかというと感情が豊かな方の人間だと思います。悲しいドラマを見れば涙が出るし、音楽に心揺さぶられてホロッとあることもある。

それでも涙はおろか「悲しい」という感情さえ出てこないなんて・・・

これもJWの教えのせいにしようと思えばできるのかもしれないけど、でもそうじゃない気もする。元々自分はそんな冷たい人間だったのかもしれないと、少し落ち込みました。もしかしたら実の親が亡くなっても自分は泣かないかもしれません。そうなったらどうしよう・・・

答えなんていますぐには出てこないけど、もう一度自分を見つめ直したいと思います。

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どれがいいかなんて言えない

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このところ寝る前に「カルトの子」を数ページ読む日々が続いています。というか、数ページずつしか読めませんね、この本は。

もちろんJWの章はすでに読み終え他のカルト集団の実態を書いた部分に移ってるわけですが、そこで行なわれていた(そして今も行なわれている)残酷な行為の数々には唖然とせざるを得ません。そして何よりショックなのは、そうした集団とJWのやってきたことが大差ないという現実。

教祖の決めた見ず知らずの人間との結婚を喜んで受け入れなければならないという教義のせいで一生を狂わされたある女性の話がありましたが、考えてみるとJWでも自分の意思でもないのに親や周囲の圧力で献身とバプテスマという形で神と「結婚」させられた人がいっぱいいるわけです。

自分もその独りでした。

事情を知らない人からは「そんなの拒否ればいいじゃん」と言われてしまいそうですが、周りの大人たちからのプレッシャーは生易しいものじゃなかった。おそらくですが会衆同士で「競争意識」のようなものが存在していたんじゃないかと思います。A会衆は今年2人も献身したのにうちの会衆は・・・みたいな。

そうやって色々な力によってやむなく浸礼者席に座らされてバプを受け、親の喜ぶ顔を見て「これで良かったんだ」と自分を納得させて数年が過ぎた頃にやってくる組織や信者たちに対する疑問。その疑問に打ち勝てた人たちはそのままJWの中で居場所を見つけて「良い兄弟」「良い姉妹」として生きていくんでしょうね。

逆にその疑問が膨らんでいってしまった人たちは・・・組織での自分の居場所を失うわけですね。もちろんそうやって自由になったほうが結果的にはいいわけですが、でも離れて数年は自己嫌悪やら虚脱感に苛まれる人も多いと思います。

まさに今、自分がそうですから。30近くにもなってこんな思いを抱きながら日々を送らなければならないなんて、本当に情けない話です。

先日TVでいわゆる「就職氷河期世代」に生きた人たちが時代の巡り合わせを嘆いていた場面が移っていました。自分の力ではどうにもできないものに人生を左右されたという点では彼らも僕らと同じなのかもしれません。

もちろん就職で苦労した人と宗教で苦労した人とどっちが良かったかなんて言えません。きっとどちらも辛いです。思えば自分もこの「氷河期」の年代にしっかり入っています。となると万一自分がJWでの被害を受けてなかったとしても結局は現実世界で苦労していたということか・・・なんだか八方塞りというやつですね。

久々の記事が愚痴ばかりになってしまいましたが、こうしてブログを書いて思いの丈を綴っているのも、やるせない気持ちを叩きつける場が欲しいんだと思います。今後ともそんな乱れた思いをここで吐き出していきたいと思います。今日は全然前向きなことが書けませんでした、すいません。
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背教者になる

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夕飯後に突如部屋にやってきた母親に「帰りが遅い!」とケンカを売られ、やむなくこちらもそのケンカを買いましたwとはいっても勿論、手など挙げません。最近の自分のあまりにJWとはかけ離れた暮らしぶりに「どういうつもりか?」と文句を言ってきたので、これはよい機会と思いの丈をぶつけてみました。

「何か言いたいことがあるならいいなさい!」との事だったので、例の「カルトの子」に書いてあった広島での「懲らしめ」による幼児死亡事件のことを伝えました。やはり母は何も知りませんでした。

「組織の指示によって行なった体罰で子供がひとり死んでるんだよ?!真の命を与える宗教のせいでこんなことになるなんておかしいと思わない?」

そう言ってみたんですが母は「それは組織の指示を極端に捉えた人がした事。それで組織が間違っていることにはならない」と言われてしまいました。

「じゃあオ○ムの教えを信じてた人たちがああいう大事件を起こしてたくさんの人が死んだよね?でもあれは信者自身の責任であってオ○ムの教え自体に何にも問題はないという事?」

「オ○ムの教えは最初から全部間違ってる。でもJWの教えは真理だから間違ってない。その2つを比べるのはおかしい」

人数の違いこそあれどちらの宗教でも、そこの上層部の指示に従ったことが悲劇を招いた確かな事実があるというのに、「真理だから」の一言で片付けてしまう母。

この時点でお互いの話の土台が全く異質のものであることに気付きました。まあ当然と言えば当然ですが。こちらはJWを新興宗教の一つとして捉え、一方母は今も唯一絶対の教えだと信じてるわけですからね。

ちなみに例のものみの塔農場で働いてた性犯罪者の件も話してみましたが、母は驚いていたもののやはり「それは本人の性癖の問題。聖書の教えが彼を正せなかったとしてもそれが聖書の教えに欠陥があることにはならない」とのこと。

ここでさすがに自分も諦めて、今度は僕個人の話しになりました。勿論僕も多くの2世の方と同じく「懲らしめ」の名の下に虐待を受けたわけですが、なぜかほとんど具体的な記憶がありません。それで自分については母もあまりムチを振るわなかったのかと思ってましたが、聞けば「おじいちゃん子で全然落ち着きのない子供だったので3歳から散々ムチをした」とのこと。

そういえば・・・一度だけですが、例のごとく懲らしめされそうになった時に当時未信者だった父の元に逃げて助けを求め、おかげでムチを免れたことがありました。でもはっきり思い出せるのはそれだけ。体に傷跡も残ってないし、ムチに絡んだ夢も見ない。この辺の疑問は残りますがまた調べてみたいと思います。

それにしても今までは「うつになって集会を休んでいた」ということになっていた僕ですが今度のことではっきりと組織に疑問を投げかけてしまったので母の目から見ると「背教者の疑いあり」という感じになったようです^^;まあ事実そうなのでいいんですが。

結局特に何かの結論は出なかったわけですが、これがお互いがお互いのことを考える良いきっかけになればと思います。
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1リットルの涙

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一昨日になるかと思いますが、ドラマ「1リットルの涙」の特別編をTVでやってましたね。このドラマの本編を放送してたのはちょうど自分が組織を離れる決意をした時期と重なってました。恥ずかしながら毎週涙しながら見てました。ドラマ見ながら泣くなんて初めての経験だったのでよく覚えています。

主人公・亜也さんはJWのいうところの「今の命」を精一杯に生きた人です。でもバリバリのJW信者がこのドラマを見てたらきっと「将来の永遠の命の希望があるんだからどうしてそこまで今の命に執着する必要があるの?」と思ったでしょうね。

それでふと「彼女がこのJWの教えに触れていたら一体どうだっただろう・・・」などという事を考えてしまいました。彼女は喜んで「将来の命」への希望を抱いただろうか、それとも冷静にJWの事を調べてその教えを退けただろうか。

僕はきっと後者ではないかという気がしました。亜也さんの詩にこんなのがあります。

いいじゃないか転んだって
また 起き上がれば いいんだから
転んだついでに仰向いて 空を見上げてごらん
青い空が 今日もお前の上に限りなく広がって
ほほえんでいるのが見えるだろう
お前は 生きてるんだ (1リットルの涙:幻冬社文庫 木藤亜也)

最後に亜也さんは「生きるんだ」ではなく、力強く「生きてるんだ」って言ってますね。

もちろん亜也さんもできるなら長く生きたかったことは間違いないでしょう。それでも彼女は今この瞬間に自分が懸命に生きてるという実にほんとうに誇りを持っていたんじゃないかと思います。だから根拠も曖昧なJWの教えなんかはきっぱり退けて、残された時間を精一杯生き抜くことに集中できたんじゃないかと。これはもちろん僕の予想ですが。

でも自分には「今の命」しかないと思って生きている人はその命を味わい尽くそうと精一杯生きますよね。逆に「自分は将来の命のほうが大事だ」と思いながら暮らしているJWの人たちは、もしかしたら心のどこかで「今の命」を「おまけ」みたいに考えてる部分があるかもしれない。

実際あそこにいた頃の自分はそうでした。とりあえず今の生活は何の刺激も興奮もないけど、親や組織の敷いたレールの上を歩いてさえいれば「ご褒美として」永遠の命がもらえるからいいや、そんな風に思いながら過ごす毎日だった気がします。

それに比べれば不老不死などという絵空事をキレイサッパリ忘れた今は、そりゃ悩んだり苦しんだりすることもあるけどよほど人間らしい日々を送れていると思います。亜也さんの放った命の輝きには到底及ばないかもしれないけど、これからも限られた命の中で出来る事をやってそして生きてることを楽しんで一生を終えられたらと思います。
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読みました

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別に避けていたわけではないものの何となく読めずに今まで来ましたが、ついに先日ページを開く事ができました。

人に心を開けない、人の愛し方が分からない・・・これまで自分の感じていた事が次々に出てきて、少し辛い気持ちになったのは事実。

でも目を背けちゃいけませんね、ここから這い上がっていかないと。

それにしても本の始めの部分に出てきた日本のJWの最初の指導者である明石順三に関する記述がちょっと引っかかりました。

この本の注釈では明石氏は特高の厳しい取調べを耐え抜いて信仰を貫き、戦後進駐軍に解放された後、組織への疑問を抱くようになって協会に手紙を書いたところ高慢、不謹慎と決め付けられ除名処分された、となってますが・・・

JWのライブラリーで調べてみたら何となくニュアンスが違う・・・以下貼り付けます。

明石順三自身についてはどうでしょうか。刑務所から釈放されて2年もたたないうちに明石は,ものみの塔協会の会長に宛て一通の手紙を書きました。1947年8月25日付のその手紙の中で,明石は,1926年以降の協会の出版物の中で説明されている事がらには同意していなかった旨を述べています。1926年と言えば実際,明石が支部の監督として日本へ来る任命を受けた時よりも前です。したがって明石順三は,彼が自分の述べたところによると,20年以上にわたり偽善者を演じていたわけです。

こうなると何だか最初から彼は背教者だった、といっている書きっぷりですね。つまり彼は真のJWではなかったのだから彼が組織に逆らったからと言ってそれでJWの教えが間違っていたことにはならない!とでも言いたいんでしょうか。

組織に少しでも疑問を持った者は、それまでどんなに忠誠を示していてもトカゲの尾っぽ切りのごとくスパッと見捨てる。人を人とも思わない上層部のやり方は昔も今も変わりませんね。

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他人の良心を考慮にいれる?

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↑僕がJWと距離を置く2,3年前からこういう表現がしきりに出版物に出てきた気がします。一応「洞察の本」より少し引用しますね。

~他の人の良心を考慮に入れる 物事を正しく評価するには良心が神の言葉によって十分に,また的確に訓練されていなければならないことを考えると,訓練されていない良心は弱いと言えるでしょう。つまり,その良心は容易に,また賢明ではない仕方で抑制されるかもしれず,その人は悪行が全く関係していない場合でも,他の人の言動によって感情を害されるかもしれないということです。パウロは食べることや飲むこと,また特定の日がほかの日に勝ると判断することに関連してその例を挙げました。(ロマ 14:1‐23; コリ一 8:1‐13)知識を持ち,良心を訓練されたクリスチャンは,良心の弱い人に対して思いやりを示し,酌量するよう命じられており,自分の自由を最大限に用いたり,個人的な“権利”すべてを主張したり,いつも自分のしたいと思うとおりにしたりしてはなりません。(ロマ 15:1)仲間のクリスチャンの弱い良心を傷つける人は「キリストに対して罪をおかして」います。(コリ一 8:12)他方パウロは,自分が弱い兄弟の感情を害するようなことをしたためにその兄弟がパウロを裁く,というようなことが生じないよう望むと共に,その弱い人も同様に自分の兄弟を思いやるべきであり,自分の良心を容易に害されて他の人を悪く見るということがないよう,知識を増し加え,訓練を積んで円熟に向かって奮闘すべきである,という意味のことを述べています。~

要は「他の人の弱い良心が傷付かないように自分の行動に注意を払うように」ということ。その根拠としてパウロの「自分が偶像に捧げられた肉を食べる事で仲間が躓く恐れがあるのでその人の良心を守るために肉を食べなくなった」みたいな記述が引き合いに出されています。まあ当時は「全く持ってそのとおりだな」という感じですんなり受け入れていたわけですが、今考えてみると随分と迷惑な教えでしたね。「自分の感情」より「他人の良心」を優先させなければいけないとなるとこちらの行動はかなり制限されるわけですから。まあそれも「キリストに対して罪をおかして」いることになる、なんて言われたらグッと堪えて生きるしかないわけですが^^;

例えば・・・

普段は欠かさず参加している週末の奉仕。しかしある土曜日にサッカーの試合が開催されることになった。なかなか見る機会はないしぜひ行ってみたい。でも・・・「サッカー見るために奉仕を休んだ」ということを良心の「弱い」あのI姉妹が知ったらどうなるだろう。きっと傷付くんじゃないか。もしかしたら長老に話に行くんじゃないか。そしたら次の集会であのH長老にまた嫌味言われるかもな・・・仕方ない、せっかくのチャンスだけど今回は我慢して奉仕に出よう。

という事が起きうるわけです(経験者は語るw)こういう事が続くと確実に生きる喜びというのは奪われていきます。もちろん一般社会に生きていても自分の気持ちを抑えるという場面はたびたび訪れるわけですが、しかしその回数はJWの比ではないと思いますね。

おそらくこの教えを遵守するのは男性より女性のほうが大変なんじゃないかと思います。やっぱり女性は同性の行動に目を光らせるのが好きですからwたとえば相手が自分より人生を謳歌してるように見えたり、あるいは自分より幸せそうに見えたりすると嫉妬心が芽生えますよね。男にも当然そういう感情はあるわけですが、すぐには表には出さない。よって何らかの行動に出ることも少ない。でも女性はその点なかなか我慢できないようで・・・あ、別に女性蔑視じゃありませんよ。そういうつまらない嫉妬に嫌気が挿して組織を離れる人も多いんじゃないですかね。まあ離れたほうが正解なわけですからいいんですが。

話しを戻すと、出版物では「個々の成員の個性を尊重する」なんて言っておきながら結局JWでは「個性的であってはいけない」という事なんですよね。できるだけみんなが同じようにしていなければいけない。もちろん奉仕時間や研究の数では目立っても構わないんでしょうが、普段の生活とかライフスタイル(同じかw)においては個性を押し殺していなければならない。もともと地味でひっそり暮らしたいという人ならそれでもいいんでしょうが、しかし世の中そういう人ばかりでもないわけで。

それに「個性的な人」が現れれば当然その人を羨ましがる人たちも出てくる。でもそれだと組織として統制が取れないからパウロやらキリストを引き合いに出して、「他人の良心を・・・」みたいな御触れを出して各々の個性を抑えようとしてるという風に思えて仕方ありません。

今冷静に考えてみると本当に矛盾だらけの宗教だったことがよく分かります。
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