JW脱出計画(進行中)

エホバの証人2世(現在不活発)の思いをつらつらと・・・

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忙しいとはありがたいことで

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このところJWであった事のコンプレックスやら世間に対する負い目などを感じる間もなく日々が過ぎていきますw

そんな中、つい先日ですが母からこんな相談を受けました。

「実家に帰省した時などに何度かお会いした親戚の叔母さんが亡くなった。来週早々に葬儀があるらしいが行くかどうか迷っている」。

それに対し僕は「もし行くなら一日休みを取ってもいいけど、たとえ行ってもあなた自身は崇拝行為はできないわけだし、こっちも一度も会った事がない人に手を合わせるのも気が引けるので、結局会場に送ってあげる事しかできないよ」と伝えました。

まあ冷たいようだけどこれが僕の正直な気持ちなので。

もしかしたら母は僕が焼香することで親族に対して帳尻を合わせようと思ったのかもしれませんがこちらも上手に利用されるつもりは毛頭ありませんw

母は、少し考えてみる、と言葉を濁していましたがおそらく行かないでしょうね。特に日本の場合、「葬儀における崇拝行為」についてはその行為自体よりもそこで生じる人間関係のいざこざの方がやっかいです。

そういえば以前自分のいた会衆に、旦那さんの圧力に負けて「形だけ」仏壇の前で手を合わせたのを長老に咎められて排斥に追いやられた姉妹がいました。

まあ「形だけ」というのは本人の心の中だけの問題で、ハタから見れば立派な「排斥事項」に当てはまるわけですから致し方ない面もあるんでしょうが、それにしても融通の効かない団体ではありますね。

これから親も歳を取っていく中でこういうケースが多くなっていくことでしょう。特に義理堅い性格の母は色々と苦労しそうですが、まあこちらはそれなりに対応していきたいと思います。
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母の日という事で

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今日車に乗ってたら、たまたまかかっていた某ラジオ番組で「皆さんは母の日にどんなものあげましたか?」みたいなお題で募集したメールを読んでるのを聞いていたんですが・・・みんな今日のために色々と考えているんですね。

一番多かったのはエプロンだったようです(笑)面白いのでは「ロデオボーイ」(爆)でもその人がそれをあげた理由というのは「お母さんが足を怪我して日課だったジョギングをできなくなったから」だとか。・・・泣かせますね。

JW信者にとって母の日は異教の祭りに由来した忌み嫌うべき日なので、当然自分も祝った経験はありません。確か「家族への愛がないのでは?」というギモンに対する組織の言い分は「母の日でなくても日頃から感謝する機会は沢山あるから」というものだった気がします。

何だかお役所みたいな答えですな(笑)

日頃は組織の拡大のために信者を急き立て、息つくヒマもないくらいに奉仕や集会でガンジガラメにしておいて・・・その中でどうやって家族がお互いの事をゆっくり考えたり思いやったりすることができるんでしょう?

JWの教えに染まれば染まるほど人間本来の持っている愛情や思いやりの気持ちを失っていく人がいかに多い事か・・・それすら「個人の努力の足りなさ」で片付けてしまうのですから全く大した神経だと思います。

まあ我が家族の中で母の日も父の日も互いの誕生日も祝う事は今後もまずないでしょう。願わくば組織に囚われている人たちにもぜひ立ち止まって、上層部の意のままに感情まで支配されてる自分達の感覚がおかしくないか考えてみて欲しいと思います。


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微妙な立場

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つい最近ですが仕事が変わりまして、今までの工場勤務からいわゆる営業職というやつになりました。営業という仕事柄、毎日車に乗ってあちこち移動します。とはいってもまだペーペーですから先輩と一緒に、ですが^^;

そういう時にほぼ毎日見ちゃうんですよね、街中を闊歩するあの一団を(笑)

ある時は兄弟の二人連れだったり、またある時には道の隅で姉妹ら数名が「作戦会議中」だったり・・・こうやって第3者的な立場で見るとその存在はかなり目立ちますし正直言ってかなり異様です。

おそらくこういう仕事してる人たちは同じく外回りしてる彼らが何者なのかよく知っているんでしょうね。そうやって見かけても特に何も言いません。だから僕もあえて「あ、あれってJWですよね~」などと会話の接ぎ穂に使うこともしません。

もちろん自分がかつてあの中の一人だった事も会社の人に言うつもりはありません。でももしあえてカミングアウトしたら・・・一体どんな顔されるんでしょうね。それには少し興味があります(笑)

まあ考えてみれば正式に「脱会」したわけではないから立場上はまだあそこの一員ではあるのでしょうが、もはや戻る意志はないし心も離れてるから精神的には一員ではないわけで・・・そう考えると先輩にそういう自分の状況を理解してもらおうとするだけで何だか疲れそうです^^;

これも己が「自然消滅」という道を選んだゆえの苦労なのかもしれませんね。ただどうやら組織はいずれこちらに白黒はっきり付けさせようと挑んでくる傾向にあるようで、既にそのために難しい立場に追いやられてる仲間もいるとの由。

こちらも別に組織壊滅を計ろうと活動してるわけではないので、あちらにも是非ほっておいてもらいたいものです。それがお互いのためだと思いますよ。
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時代が変われば解釈は変わる?

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とある方のブログで偶然JWの教義に関するこんな話を発見しました。もしかしたら僕が知らなかっただけなのかもしれませんが、読んでいてあまりに「?」という思いが強かったのでここで書いてみたいと思います。

一応かいつまんで書くと、これまでは(僕が知っている話では)もしJW信者が神から与えられた「未信者の人に真理を宣べ伝える」という責任を果たさなかった場合にはいわゆる「血の罪」を負うことになるが、もし未信者の人がJW信者に伝道を受けたにも関わらずそれを受け入れなかった場合、その罪は未信者本人が負うことになる・・・ということだったと思いますが、

そのブログによると最近の解釈では「JW信者によってその宣べ伝える業の技量は異なるため、宣教の巧みな信者に訪問を受けた人は真理を受け入れないなら滅びに定められるが、そうではない(宣教が下手な)信者に訪問を受けた人がたとえ真理を受け入れなかったとしても、それが即家の人が真理を退けた滅びに値する人となるわけではない」ということらしいです。

このブログにはこの解釈の根拠となる聖句は載ってなかったので判断のしようがないんですが、もしかすればニネべの事例が利用されているのかなという気がします。

確か神に遣わされたヨナが大いなる都市ニネベで、「あと40日でニネベは滅ぼされる」という音信を宣べ伝えるとそこに住んでいた人々が悔い改めて神の前にへりくだったので神はこの都市を滅ぼすことを容赦されたという記述があるわけですが、そこに至る前にニネベに行きたくなかったヨナが神の前から船で逃げたという話が載ってますよね。

つまりヨナがもし音信を伝えに行かなかったらニネベはそのまま滅ぼされていたのかというとそうではなく、ヨナが海に投げ込まれて魚に飲み込まれその腹の中で改心することによって真理を伝える者として「整えられるよう」神が取り計らわれたという部分が、「伝える側の技量」を神が考慮されるという先の「新?解釈」の根拠になっているのではないかと・・・

まあどういった解釈がなされているにしろ別に再び立派な宣教者になりたいというわけではないので生活に影響があるわけではありませんが、本当の所はどうなのか気になるところではあります。
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街宣車とJW

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本日は祝日・憲法記念日ですね。

たまたま今日の朝は用事があって関東の某都市の駅前にいたんですが、その駅のターミナルに黒塗りの「街宣車」が入ってきて停車し、中から降りてきた60代前半とおぼしき男性がマイクを片手に大音量で「憲法とは何ぞや?」というお話をしていました。

ヒマだったので聞くとはなしに聞いていたんですが、一応そこに「憲法」という骨子があるものの話の端々に自分の生活環境や小話を織り交ぜていて正直言って少し分かりずらい内容でした^^;

でも考えてみると自分もかつて彼と同じようにJWの機関誌を片手に家々を練り歩き、時事ニュースを無理やり記事の内容に結び付けて家の人に強引に手渡す・・・なんてことをしてたわけで。そういう意味では街宣車前に陣取って己の主張を誰彼構わず拝聴させているその男性と大して変わらなかったんですよね。

今思えばどうして自分にそんなことが出来たんだろうと思います。きっと訪問された家の人たちは苦痛だったろうなあ・・・だいたい話してる本人も自分の話の内容に「何かおかしいなあ・・・」と心の中で首を傾げながらやっていたわけですから。

でも疑問を感じてもそれを口にするなんて事は恐ろしくてできませんでした。というか、長年のJW的教育を受けている人間には組織の解釈に疑問を感じるという能力そのものが培われなかったんだと思います。聖書の内容ではなくあくまで組織の出版物の内容を「鵜呑み」にするよう教えられていたわけですからね。そのくせ「書いてあるそのままを話すのではなくあくまで自分の言葉で話せるようにしなさい」という指示もあったから、何とか言い回しだけを変えて注解したり奉仕で使ったり。今思えばバカですねw

だいたい、ある出版物の中で理解できない内容があったとしたら、あくまで「JWの」他の出版物を使って調べ、それでも理解できなかったら・・・神が明らかにされるのを待つというのが彼らの言うところの「聖書研究」なわけですが、本当の意味での「研究」とは発見された事象を疑ってかかりそこに含まれている問題を炙り出すというものなんじゃないでしょうか。その基本的な事がJWにおいてはNGなわけです^^;

そんな風に大の大人が「物事を自分で解釈する」という人間としての基本的な事すら許されず、組織の用意した文章をそらんじる事に人生を何年あるいは何十年も費やしている。傍から見れば随分滑稽に移った事でしょう。思えば本当に無味乾燥な日々を送ったものです。

それに比べればたとえ話の組み立てがイマイチでも自分で集めた資料を使って独自の視点で考えた(であろう)街宣車のオジサンの講話のほうがずっと立派ですw
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