l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

クリスタル・パレス(水晶宮)

2010-03-02 | その他
水晶宮物語」(松村昌家著 ちくま学芸文庫)

もしタイムマシーンがあったなら、私は是非1851年のロンドンに飛びたい。そしてハイド・パークに直行し、クリスタル・パレス(水晶宮)をこの目で観てみたい。

Bunkamuraで先月下旬まで開催されていた「愛のヴィクトリアン・ジュエリー展」にて、とても小さいながらその姿をあしらったブローチを見かけ(#177 『ブローチ「クリスタルパレス」(1851))、久しぶりにこの建物のことを思った。

クリスタル・パレスとは、1851年にロンドンで開催された世界初の万国博覧会のために展示会場として造られた建物。この画期的な建物がどのような経緯を辿って生まれ、そして終焉を迎えたのかを、様々な史実を盛り込みながらもワクワクする冒険談のように描いた好著がある。それが今回ご紹介する水晶宮物語」(松村昌家著 ちくま学芸文庫)

以前読んだのを、上記のブローチを見かけ、ついでに映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」を観て、また読み返したくなった。そして、映画を観る前に読んでおけばよかった、とかなり後悔した。この本の冒頭には、映画の登場人物たちのやや複雑な相関関係が簡略にまとめられているからだ。

映画では、アルバート公は「あらまあ♡」と思わず顔がほころぶイケメンくんで登場するが(実際、公は端正な容姿の人だったと想像される)、イギリスに帰化しても外国人として扱われる偏見に耐えつつ、冷静に、そして賢くヴィクトリア女王と国を支える数々のエピソードには感動すら覚える。

本著によると、そんなアルバート公が成し遂げた最大の功績がこの万国博覧会(正式名称は万国産業製作品大博覧会:Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations)。

まずもって私が何よりスリリングに思うのは、クリスタル・パレス建設に向けて、ものごとがサクサクと小気味よく進んでいく過程だ。遅々として前に進まないどこぞの国会を思うにつけ、このスピード感はまさに爽快。

ちょっと端的にデータを挙げると、世界各国から集められた10万点にも及ぶ大小様々な作品を展示する大博覧会だとういうのに、会場の選定に入ったのが開催のたった1年半前というのだからまずは驚く。しかも会場がハイド・パークに決まるも、そこに建設されるメインの展示会場の設計案に関しては、1850年5月の段階で決定打がなかった。コンペが開かれ、国内外から245人もの参加者が案を提出したにも関わらず(そして時間がないというのに)全て採用されなかったという冷静さにも感心するが、開幕が1851年の5月1日だから、その1年前にこの状況というのは信じがたい。

と書くと、上記の「ものごとがサクサクと小気味よく進んでいく過程」とはほど遠いが、話はここから。

そんな窮地を救うべく登場するのがジョーゼフ・パクストン。農家に生まれ、アカデミックな教育の背景を持たず、庭師からスタートして建築まで手掛けるようになった、まさに現場叩き上げの人。たまたま別件でロンドンに出てきたこの人が、初めてこの展覧会会場の設計図を送ってみようかという気になったのが1850年の6月中旬。「9日間のうちに」設計図を仕上げると約束した彼は、実際1週間で完成させ、それを見たアルバート公も望みをつなげる。

そのパクストン案による建造物は、のちに「鉄とガラスの建築における最高傑作」と言われるように、レンガ造りが主流の当時にあって全面ガラス張りの画期的なもの。しかも、あらかじめガラス板や桟などの建築資材を一定の大きさにしつらえておき、現場で素早く組み立てると言うプレハブ様式が採用された。

ものごとが決定されると全てはスピーディーに進んでいく。パクストンはアルバート公との面会後のその足で建設業者の下に走り、その業者はすぐガラス製造や製鉄の下請け業者に手回しし、1週間後には完璧な見積書を作り上げて入札を勝ち取る。

この時点で、イギリス的だなぁ、と思ったことが二つある。

一つは、懸案となった会場建設予定地に立つニレの大木。ナショナル・トラストを設立するような国の人々がそれを伐採するわけはなく、大胆にもそのまま建物の中に取り込むことになる。ついでに、この万博のために組織された建築委員会会員にて、当時の技術者として名を馳せていたイザムバード・キングダム・ブルーネルは、自らの案が通らなかったにも関わらず、自らニレの木の高さを測りに行き、結果をパクストンに知らせて設計を助ける。「自分が手がけた設計に花を持たせてやりたい気持ちは山々だけれども、貴殿にできるだけの情報を提供するのにやぶさかではない」と言いながら。

そしてもう一つは、その設計のインスピレーションになったのが、「ヴィクトリア・レギア」という大睡蓮の構造であったこと。パクストンが、自らの手で作り上げたガラス張りの大温室でイギリスで初めて人工栽培に成功した睡蓮の、交差葉脈などが大きなヒントとなった。イギリスの、自然科学を実用する伝統を思わずにいられない。

そのクリスタル・パレスの大きさについて大まかな数字を拾ってみると、建物全体の長さは1,848フィート(約563m)x横幅408フィート(約124m)。この本体に加えられた増築部分が936フィート(約285m)x48フィート(約14m)。建物全体の土地面積は約19エーカー、と言われてもピンとこないが、これはローマのサン・ピエトロ寺院の4倍、ロンドンのセント・ポール寺院の6倍に相当するそうだ。

その建物に使われた板ガラスの総量は、縦49インチ(約124.46cm)x横10インチ(25.4cm)のものが29万3665枚、重さ400トン!しかも外部の雨どい設置や、内部の水蒸気、換気、床の埃の処理など細部に渡った構造も抜かりがない。

繰り返すけれど、これだけの一大事業を、それこそ開催地選びから始めて設計、資金・資材の調達、建設まで1年半足らずで成し遂げたヴィクトリア朝期のイギリスって、やっぱり凄いと思いませんか?

チャールズ・ディケンズに「へとへとになってしまいました」と言わしめたこの万国博覧会の様子は、大変興味深いながらとてもここに書き切れないので省きます。一つ加えるとしたら、アルバート公を総裁とする博覧会王立委員会は、万国博覧会閉会後にその収益を投入し、ヴィクトリア&アルバート博物館、科学博物館、自然史博物館など、現在に見るサウスケンジントンのアカデミックなエリアの礎を作ったのでした。

ここまで読んで頂いた方の中には、きっと私の中途半端な紹介ぶりにたくさんの疑問を持ったり、不明瞭な説明に首をかしげた方もおありかと思います。さぁ、是非本をお手にとってご一読を。

そして映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」をご覧になって、アルバート公の身を張った献身ぶりに涙された方、またはこれからこの映画をご覧になる方(まだ都内の映画館で上映中のようです)にも、この「水晶宮物語」を読まれることを強くお勧めします。