東京都庭園美術館 2010年1月16日(土)-3月14日(日)
*会期終了
公式サイトはこちら
この展覧会のプレス・リリースにお伺いしたのが昨年の9月。残暑の中、来年なんてまだまだ先だなぁ、なんて遠い目で思っていた東京での展覧会が、はたと気づけばあと1週間でおしまいとなっており、泡を食って出かけて行った。時の流れ、恐るべし(というより、私の計画性のなさが恐るべし)。
では、章ごとに感想を残しておきたいと思います。今回ポストカードは売られておらず、一応図録を買ったものの残念ながら作品の印刷状態が今一つで、しかも見開きになっているものも多く、あまり取り入れられませんが:
第1章 カフェ・ミケランジェロのマッキアイオーリ
本展で初めて知った「マッキアイオーリ(またはマッキア派)」という画派。1855年頃にフィレンツェで興り、当時の硬直した美術学校の教育に疑問を呈した芸術家グループ。カフェ・ミケランジェロは、そんなマッキア派の画家たちが集い、議論を交わしたフィレンツェのラルガ通りにあるカフェ。この章には何人かの画家の初期の作品が並び、主題も歴史画、肖像画とまちまちでイントロダクション的な構成。本展ではこの章に限らず、各作家の細かいプロフィールや、全作品に解説がついているのにはちょっと驚かされた。
『カフェ・ミケランジェロ』 アドリアーノ・チェチョーニ (1866頃)
カフェ・ミケランジェロに集う芸術家24名が風刺的に描かれた水彩画。各人物に番号がふってあり、誰であるかわかるようになっている。資料的作品。このカフェが1866年末に閉鎖されたとき、埋葬の儀式が執り行われたそうだ。
『ジュゼッペ・ガリバルディの肖像』 シルヴェストロ・レーガ (1861)
マッキア派の活動の背景にある特殊な事項、リソルジメント(イタリア統一運動)。言われてみれば、5世紀の西ローマ帝国の崩壊後、政治的な統一を失っていたイタリア半島がやっと部分的な統一をみたのが1861年。イタリアの歴史に詳しくない私も、赤シャツ隊は耳にしたことが。リソルジメントで貢献した軍事家、ガリヴァルディが率いた1000人の義勇軍「千人隊」の別称が「赤シャツ隊」。皆こんな赤シャツを着て戦っていたのですね。
第2章 マッキア(斑点)とリアリズム
私が理解した範囲で平たく言えば、マッキアとは斑点を意味し、対象を明暗の中に素早くブロックで捉えて描く手法。マッキア派の画家たちの作品が登場した時、批評家たちはそれらに習作以上の価値を認めることができず、1861年に「マッキアイオーリ」(子供が誤ってつくるようなシミや斑点の意)という新造語の蔑称を与えた。画家たちもあえてこれを受け入れ、自らをマッキア派と名乗るようになる。
『糸つむぐ人』 ヴィンチェンツォ・カビアンカ (1862)
暖かい陽光が照り出す白壁や女性たちの白い頭巾やブラウス、そして暗い影。初秋の午後の穏やかな暖かさと、じきに忍び寄るひんやりした空気が漂ってくるような作品だった。
同じく夕暮れ時の逆光の中に農民たちの姿を描いたクリスティアーノ・バンティの『農民の女性たちの集い』(1861)もよい作品だった。
『わんぱく坊主』 ラファエッロ・セルネージ (1861)
なんてことはないシーンだけれど、イタリアの濃く青い空、白い壁、赤い扉という明快な色構成が目に心地よい。左側の塀など、太めの筆で一気に描き上げられている。よく観ると、いちじくを放ろうとしている少年の左側にある暗い部分は何なのだろうと思うが。この絵を描いたセルネージは、第三次独立戦争に参加して1866年に28歳で夭折。
『回廊の内部』 ジュゼッペ・アッバーティ (1861-1862)
ああ、これがマッキア派ね、と頷く。文字通り石のブロックが色彩のブロックでさっと捉えられている。まあ確かに絵画作品の完成度としてどうかと思わなくもないけれど、彼らがやろうとしていることはよくわかる例だと思う。
第3章 光の画家たち
マッキアイオーリの最大の支援者であった評論家ディエゴ・マルテッリは、自分が相続したリヴォルノ近郊のカスティリオンチェッロの広大な土地をマッキア派の画家に開放。フィレンツェ近郊のピアジェンティーナもマッキア派が好んで通った田園地帯。この章ではそれらの場所などで描かれたトスカーナの風景画が並ぶ。
『カスティリオンチェッロの谷』 ジュゼッペ・アッバーティ
明暗対比に重きを置いたマッキア派にとって、やはり室内より郊外での制作活動だろうな、と思う。このセクションには横長の風景画の作品が多く(アッバーティの『カスティリオンチェッロの眺め』(1867)なんて10x86cm)、図録も見開きになっていて画像が取り込めない。でもこの作品からも、カスティリオンチェッロがどういう場所なのか何となく伝わってくる。他の作品からは、この場所が海の入り江に近いこともうかがい知れるが、赤茶けた土や岩やコバルトブルーの海が印象的な、自然味溢れる所なのでしょう。
『荷車をひく白い牛』 ジョヴァンニ・ファットーリ
ファットーリは今回もっとも出展数が多い画家だが、やたら白い牛を描く人だなぁ、と思っていると解説が。それによると、「それは奥深い田舎の地帯であるマレンマをふちどるトスカーナの海岸における重要で特徴的なもの」であり、アッバーティとファットーリはカスティリオンチェッロで白い牛の研究に熱心にとりかかった、そうだ。恐らく光の反射を捉えるのに格好のモティーフだったのでしょうね。この作品では、牛の眩しそうな顔が印象的。
第4章 1870年以降のマッキアイオーリ
1870年にローマの併合によりイタリア半島の統一を見るのに伴い(1865年から1970年まで首都であったフィレンツェからローマへ遷都)、マッキアイオーリの芸術運動も凋落し始め、画家たちはそれぞれの芸術の道を進み始める。
『セッティニャーノ通りの子供たち』 テレマコ・シニョーリ (1883)
ちょっと印刷が今ひとつなのだが、いい作品だった。高台の、陰になった通りに子供たちが佇んでいるだけなのだが、冷んやりした大気と、左にある家の白壁に射す陽光の照射がこの場所の空気感を運んでくる。セッティニャーノはフィレンツェ近郊の丘の上の村だそうだ。
『母親』 シルヴェストロ・レーガ (1884)
こんなに大きい作品(191x124cm)だとは思わなかった(ちなみにチラシに使われている、同じくレーガの『庭園での散歩』は小さくて驚いたが)。ガリバルディの肖像を描いた人が、20年後にこのような作品を描いているなんて、時代の変化を如実に感じる。
第5章 トスカーナの自然主義たち
1870年代以降、マッキアイオーリの画家の中にはイギリスやフランスなど海外に活路を見出す画家も相次ぎ、グループの結束も失われ、ついには消滅へとつながる。その一方でマッキアイオーリ第二世代たちも育ち、この章ではそんな画家たちの作品をみていく。
『水運びの娘』 フランチェスコ・ジョーリ (1891)
プレス・リリースで初めて目にして以来、実作品を観るのをとても楽しみにしていた作品。実際に対面してみると、縦に147cm ある、結構大きい作品だった。女性の立つ野原などは感覚的に素早く絵の具が置かれている。よくよく考えれば、労働に従事する女性の後ろ姿が単体でこんなに大きく描かれる構図は斬新でもあるかもしれない。少しだけのぞく横顔やほつれ髪を見ながら、女性の顔を想像したりした。髪の色からいって、力強い眉の、目鼻立ちのくっきりした顔ではなかろうか。
以上、一通りざっと書き出してみたけれど、19世紀中頃のフィレンツェでこのような芸術の動きがあったこと自体全く知らなかったので、本展はそれに触れられる良い機会となった。
もう少し言えば、イタリアには何度か行ったことがあるけれど、言うまでもなくルネッサンス及びその前後だけで質・量ともに観切れない芸術品に溢れているので、観光者の短い滞在では近代美術にまでとても手が回らないというのが正直なところ。実際2006年に訪れたミラノのブレラ美術館の図録をめくってみると、ファットーリ、レーガらの作品がちゃんとあるのに、ほとんど記憶にない。でも今はほら、一目で「おお、ファットーリ!」とわかるようになりました。
*会期終了
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この展覧会のプレス・リリースにお伺いしたのが昨年の9月。残暑の中、来年なんてまだまだ先だなぁ、なんて遠い目で思っていた東京での展覧会が、はたと気づけばあと1週間でおしまいとなっており、泡を食って出かけて行った。時の流れ、恐るべし(というより、私の計画性のなさが恐るべし)。
では、章ごとに感想を残しておきたいと思います。今回ポストカードは売られておらず、一応図録を買ったものの残念ながら作品の印刷状態が今一つで、しかも見開きになっているものも多く、あまり取り入れられませんが:
第1章 カフェ・ミケランジェロのマッキアイオーリ
本展で初めて知った「マッキアイオーリ(またはマッキア派)」という画派。1855年頃にフィレンツェで興り、当時の硬直した美術学校の教育に疑問を呈した芸術家グループ。カフェ・ミケランジェロは、そんなマッキア派の画家たちが集い、議論を交わしたフィレンツェのラルガ通りにあるカフェ。この章には何人かの画家の初期の作品が並び、主題も歴史画、肖像画とまちまちでイントロダクション的な構成。本展ではこの章に限らず、各作家の細かいプロフィールや、全作品に解説がついているのにはちょっと驚かされた。
『カフェ・ミケランジェロ』 アドリアーノ・チェチョーニ (1866頃)
カフェ・ミケランジェロに集う芸術家24名が風刺的に描かれた水彩画。各人物に番号がふってあり、誰であるかわかるようになっている。資料的作品。このカフェが1866年末に閉鎖されたとき、埋葬の儀式が執り行われたそうだ。
『ジュゼッペ・ガリバルディの肖像』 シルヴェストロ・レーガ (1861)
マッキア派の活動の背景にある特殊な事項、リソルジメント(イタリア統一運動)。言われてみれば、5世紀の西ローマ帝国の崩壊後、政治的な統一を失っていたイタリア半島がやっと部分的な統一をみたのが1861年。イタリアの歴史に詳しくない私も、赤シャツ隊は耳にしたことが。リソルジメントで貢献した軍事家、ガリヴァルディが率いた1000人の義勇軍「千人隊」の別称が「赤シャツ隊」。皆こんな赤シャツを着て戦っていたのですね。
第2章 マッキア(斑点)とリアリズム
私が理解した範囲で平たく言えば、マッキアとは斑点を意味し、対象を明暗の中に素早くブロックで捉えて描く手法。マッキア派の画家たちの作品が登場した時、批評家たちはそれらに習作以上の価値を認めることができず、1861年に「マッキアイオーリ」(子供が誤ってつくるようなシミや斑点の意)という新造語の蔑称を与えた。画家たちもあえてこれを受け入れ、自らをマッキア派と名乗るようになる。
『糸つむぐ人』 ヴィンチェンツォ・カビアンカ (1862)
暖かい陽光が照り出す白壁や女性たちの白い頭巾やブラウス、そして暗い影。初秋の午後の穏やかな暖かさと、じきに忍び寄るひんやりした空気が漂ってくるような作品だった。
同じく夕暮れ時の逆光の中に農民たちの姿を描いたクリスティアーノ・バンティの『農民の女性たちの集い』(1861)もよい作品だった。
『わんぱく坊主』 ラファエッロ・セルネージ (1861)
なんてことはないシーンだけれど、イタリアの濃く青い空、白い壁、赤い扉という明快な色構成が目に心地よい。左側の塀など、太めの筆で一気に描き上げられている。よく観ると、いちじくを放ろうとしている少年の左側にある暗い部分は何なのだろうと思うが。この絵を描いたセルネージは、第三次独立戦争に参加して1866年に28歳で夭折。
『回廊の内部』 ジュゼッペ・アッバーティ (1861-1862)
ああ、これがマッキア派ね、と頷く。文字通り石のブロックが色彩のブロックでさっと捉えられている。まあ確かに絵画作品の完成度としてどうかと思わなくもないけれど、彼らがやろうとしていることはよくわかる例だと思う。
第3章 光の画家たち
マッキアイオーリの最大の支援者であった評論家ディエゴ・マルテッリは、自分が相続したリヴォルノ近郊のカスティリオンチェッロの広大な土地をマッキア派の画家に開放。フィレンツェ近郊のピアジェンティーナもマッキア派が好んで通った田園地帯。この章ではそれらの場所などで描かれたトスカーナの風景画が並ぶ。
『カスティリオンチェッロの谷』 ジュゼッペ・アッバーティ
明暗対比に重きを置いたマッキア派にとって、やはり室内より郊外での制作活動だろうな、と思う。このセクションには横長の風景画の作品が多く(アッバーティの『カスティリオンチェッロの眺め』(1867)なんて10x86cm)、図録も見開きになっていて画像が取り込めない。でもこの作品からも、カスティリオンチェッロがどういう場所なのか何となく伝わってくる。他の作品からは、この場所が海の入り江に近いこともうかがい知れるが、赤茶けた土や岩やコバルトブルーの海が印象的な、自然味溢れる所なのでしょう。
『荷車をひく白い牛』 ジョヴァンニ・ファットーリ
ファットーリは今回もっとも出展数が多い画家だが、やたら白い牛を描く人だなぁ、と思っていると解説が。それによると、「それは奥深い田舎の地帯であるマレンマをふちどるトスカーナの海岸における重要で特徴的なもの」であり、アッバーティとファットーリはカスティリオンチェッロで白い牛の研究に熱心にとりかかった、そうだ。恐らく光の反射を捉えるのに格好のモティーフだったのでしょうね。この作品では、牛の眩しそうな顔が印象的。
第4章 1870年以降のマッキアイオーリ
1870年にローマの併合によりイタリア半島の統一を見るのに伴い(1865年から1970年まで首都であったフィレンツェからローマへ遷都)、マッキアイオーリの芸術運動も凋落し始め、画家たちはそれぞれの芸術の道を進み始める。
『セッティニャーノ通りの子供たち』 テレマコ・シニョーリ (1883)
ちょっと印刷が今ひとつなのだが、いい作品だった。高台の、陰になった通りに子供たちが佇んでいるだけなのだが、冷んやりした大気と、左にある家の白壁に射す陽光の照射がこの場所の空気感を運んでくる。セッティニャーノはフィレンツェ近郊の丘の上の村だそうだ。
『母親』 シルヴェストロ・レーガ (1884)
こんなに大きい作品(191x124cm)だとは思わなかった(ちなみにチラシに使われている、同じくレーガの『庭園での散歩』は小さくて驚いたが)。ガリバルディの肖像を描いた人が、20年後にこのような作品を描いているなんて、時代の変化を如実に感じる。
第5章 トスカーナの自然主義たち
1870年代以降、マッキアイオーリの画家の中にはイギリスやフランスなど海外に活路を見出す画家も相次ぎ、グループの結束も失われ、ついには消滅へとつながる。その一方でマッキアイオーリ第二世代たちも育ち、この章ではそんな画家たちの作品をみていく。
『水運びの娘』 フランチェスコ・ジョーリ (1891)
プレス・リリースで初めて目にして以来、実作品を観るのをとても楽しみにしていた作品。実際に対面してみると、縦に147cm ある、結構大きい作品だった。女性の立つ野原などは感覚的に素早く絵の具が置かれている。よくよく考えれば、労働に従事する女性の後ろ姿が単体でこんなに大きく描かれる構図は斬新でもあるかもしれない。少しだけのぞく横顔やほつれ髪を見ながら、女性の顔を想像したりした。髪の色からいって、力強い眉の、目鼻立ちのくっきりした顔ではなかろうか。
以上、一通りざっと書き出してみたけれど、19世紀中頃のフィレンツェでこのような芸術の動きがあったこと自体全く知らなかったので、本展はそれに触れられる良い機会となった。
もう少し言えば、イタリアには何度か行ったことがあるけれど、言うまでもなくルネッサンス及びその前後だけで質・量ともに観切れない芸術品に溢れているので、観光者の短い滞在では近代美術にまでとても手が回らないというのが正直なところ。実際2006年に訪れたミラノのブレラ美術館の図録をめくってみると、ファットーリ、レーガらの作品がちゃんとあるのに、ほとんど記憶にない。でも今はほら、一目で「おお、ファットーリ!」とわかるようになりました。