今回のフェルメール展に、アイルランドの首都ダブリンにあるアイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵の『手紙を書く婦人と召使い』が滑り込みで貸し出されて展示されたということで、昔のダブリン出張の思い出を一つ。始めに断っておくが、アートとは全く関係のない話なのであしからず。
2004年秋、勤め先の会社で全社的に新しい社内統一システム(いわゆる"Quote To Cash"、要するに見積に始まり顧客からの入金までを一括管理するシステム)を導入することになった。正確に言えば、その2年前に先陣を切ったアメリカや韓国などに続いて、日本も残りの未導入の国々と共にそのシステムを導入せよ、とのお達しが本社から出た。
そのシステムの検分目的で、日本の他ヨーロッパや南米の国々など13ヶ国から関連部署の代表がダブリンに呼ばれ、私も東京オフィスの同僚数名と共に5週間をダブリンで過ごす破目になった。代表と言うと聞こえがいいが、私の場合とりわけシステムに強いからとかではなく、単に人材不足のせいで選ばれてしまった次第
詳しいことは省くが、これがとんでもなくキツイ作業で、毎日朝食もそこそこに7時にホテルを出てオフィスまで車で1時間をかけて通勤(幸か不幸か私はペーパーなので、運転は同僚任せ。スミマセン)、夜遅くにホテルに帰って夕飯もそそくさと済ませて寝るのがやっと、という日々を繰り返し、土日も基本的にナシであった。私は連日のようにホテルの近くのコンビニに通っていたので、しまいには店員に「ダブリンに住んでるの?」と聞かれる始末。体調を崩す人も多く、スペインなどは途中で選手交代もありだったが、我々極東の日本チームはそうもいかず、4人で最後まで頑張った。リーダーなどは4kgも痩せてしまったし、後にこの出張を「ダブリン・島流し」と言った人がいたが、まさに言いえて妙
話が前後するが、私がおかしく思い出すのはダブリンへ向けて出発したときのこと。
ダブリンへの直行便はないので、同僚はそれぞれお気に入りの航空会社、ルートでダブリンに向かった。私はBAでロンドン経由にしたのだが、ヒースローに着いてみると物凄い混雑ぶりでウンザリしてしまった。入管はどこの窓口も長蛇の列で、一体いつ通り抜けられるのだろうと途方に暮れる。あぁ、こんなことなら180度のリクライニング・シートじゃなくてもKLMでアムステルダム経由にしとくんだったなぁ、などと思っているところに、空港の係員が来て列の整理を始めた。列を適当に区切り、はい、ここまでの人は何番窓口へ。はい、ここまでの人は。。。とやっている。
私の前には派手なスポーツ選手の一団がいた。褐色の肌のくっきりした目鼻立ちの人たち。レゲエ風のドレッド・ヘアーの人もいる。何のスポーツかわからなかったが、男女とも皆スポーツ・バッグを持ち、上は赤、下はグレーというお揃いのスポーツ・ウェアーを着ていた。赤い上着の背中にはくっきりとOMANの文字が。へぇ、オマーンの人たちとは珍しいなぁ。。。
と、さっきの係員が私たちのところにもやってきて、私の背後に手を差し入れ、はい、ここ(私)までの人は○番へ、と言った。あれ、何で私だけオマーン・チームに入れられたの?と思った瞬間、自分の服装に仰天した。スポーツウェアではないにしろ、上下ともオマーン・チームのチーム・カラーと全く一緒だったのだ。赤の長袖Tシャツに、グレーのカーゴ・パンツ。
でも、背中にOMANって入ってませんから
ま、それはさておきやっと入管の順番が回ってきた。ビジネス・トリップということで社名を聞かれ、答えると「あぁ、システムのトレーニングでしょう?」。なるほど、ウチの社員が既に沢山この入管を通ったらしい。そんなわけで入管はあっさり終わったが、そこからゲートへの道のりが遠かった。歩いても歩いても着かない
のちに現地のダブリン・オフィスで落ち合った、やはりロンドン経由でダブリン入りした同僚は「このまま歩いてダブリンに着いちゃうかと思った」と言っていたっけ。
2004年秋、勤め先の会社で全社的に新しい社内統一システム(いわゆる"Quote To Cash"、要するに見積に始まり顧客からの入金までを一括管理するシステム)を導入することになった。正確に言えば、その2年前に先陣を切ったアメリカや韓国などに続いて、日本も残りの未導入の国々と共にそのシステムを導入せよ、とのお達しが本社から出た。
そのシステムの検分目的で、日本の他ヨーロッパや南米の国々など13ヶ国から関連部署の代表がダブリンに呼ばれ、私も東京オフィスの同僚数名と共に5週間をダブリンで過ごす破目になった。代表と言うと聞こえがいいが、私の場合とりわけシステムに強いからとかではなく、単に人材不足のせいで選ばれてしまった次第
詳しいことは省くが、これがとんでもなくキツイ作業で、毎日朝食もそこそこに7時にホテルを出てオフィスまで車で1時間をかけて通勤(幸か不幸か私はペーパーなので、運転は同僚任せ。スミマセン)、夜遅くにホテルに帰って夕飯もそそくさと済ませて寝るのがやっと、という日々を繰り返し、土日も基本的にナシであった。私は連日のようにホテルの近くのコンビニに通っていたので、しまいには店員に「ダブリンに住んでるの?」と聞かれる始末。体調を崩す人も多く、スペインなどは途中で選手交代もありだったが、我々極東の日本チームはそうもいかず、4人で最後まで頑張った。リーダーなどは4kgも痩せてしまったし、後にこの出張を「ダブリン・島流し」と言った人がいたが、まさに言いえて妙
話が前後するが、私がおかしく思い出すのはダブリンへ向けて出発したときのこと。
ダブリンへの直行便はないので、同僚はそれぞれお気に入りの航空会社、ルートでダブリンに向かった。私はBAでロンドン経由にしたのだが、ヒースローに着いてみると物凄い混雑ぶりでウンザリしてしまった。入管はどこの窓口も長蛇の列で、一体いつ通り抜けられるのだろうと途方に暮れる。あぁ、こんなことなら180度のリクライニング・シートじゃなくてもKLMでアムステルダム経由にしとくんだったなぁ、などと思っているところに、空港の係員が来て列の整理を始めた。列を適当に区切り、はい、ここまでの人は何番窓口へ。はい、ここまでの人は。。。とやっている。
私の前には派手なスポーツ選手の一団がいた。褐色の肌のくっきりした目鼻立ちの人たち。レゲエ風のドレッド・ヘアーの人もいる。何のスポーツかわからなかったが、男女とも皆スポーツ・バッグを持ち、上は赤、下はグレーというお揃いのスポーツ・ウェアーを着ていた。赤い上着の背中にはくっきりとOMANの文字が。へぇ、オマーンの人たちとは珍しいなぁ。。。
と、さっきの係員が私たちのところにもやってきて、私の背後に手を差し入れ、はい、ここ(私)までの人は○番へ、と言った。あれ、何で私だけオマーン・チームに入れられたの?と思った瞬間、自分の服装に仰天した。スポーツウェアではないにしろ、上下ともオマーン・チームのチーム・カラーと全く一緒だったのだ。赤の長袖Tシャツに、グレーのカーゴ・パンツ。
でも、背中にOMANって入ってませんから
ま、それはさておきやっと入管の順番が回ってきた。ビジネス・トリップということで社名を聞かれ、答えると「あぁ、システムのトレーニングでしょう?」。なるほど、ウチの社員が既に沢山この入管を通ったらしい。そんなわけで入管はあっさり終わったが、そこからゲートへの道のりが遠かった。歩いても歩いても着かない
のちに現地のダブリン・オフィスで落ち合った、やはりロンドン経由でダブリン入りした同僚は「このまま歩いてダブリンに着いちゃうかと思った」と言っていたっけ。