横浜美術館 2009年6月12日-8月31日
19世紀のフランス画壇の流れを、「アカデミスム」絵画を軸に新古典主義の絵画から印象派他に至るまで、時系列で展観する意欲的な展覧会。世界40の美術館から80点余りが集められて展示。
「そもそもアカデミスムってなんぞや?」という方、もしくは今一度ざっと復習しておきたいという方がいらしたら、本展の公式サイトの「やさしいアカデミスム講座」というセクションがお薦めです。そこにある、キーワードを簡潔にまとめた「アカデミスムを知るための基本用語集」にざっと目を通しておくだけでも、ずいぶん鑑賞しやすくなると思います。
本展の構成は以下の通り:
第1章 アカデミスムの基盤~新古典主義の確立
第2章 ロマン主義とアカデミスム第一世代
第3章 アカデミスム第二世代とレアリスムの広がり
第4章 アカデミスム第三世代と印象派以後の世代
では、印象に残った作品をまじえながら章ごとに:
第1章 アカデミスムの基盤~新古典主義の確立
18世紀後半、古代ギリシャ/ローマの芸術に規範を置く「新古典主義」が台頭。ギリシャ神話や聖書などに主題をとる「歴史画」が尊ばれ、古代彫刻を理想とした人体表現、厳格なデッサン、筆跡を残さない滑らかな画面を特徴とした。これが19世紀のフランスのアカデミスムの基盤となり、ダヴィッド、その弟子であるグロ、ジロデ、ジェラール、次世代のアングルへと継承されていく。尚、国立美術学校に入学→官展であるサロンに出品してローマ賞を獲得→官費でローマに数年留学→凱旋して国からの受注制作に励む、というのがエリート画家の出世の王道であった。
*蛇足ながら、家に帰ってちょっと調べてみたところ、国立美術学校が保持していた「ローマ賞」は1968年まで存続していたということを知り、軽い驚きを覚えた。
『アキレウスの怒り』 ミシェル=マルタン・ドロリング (1810年)
この作品が目に入った瞬間、「はい、ローマ賞決定!」。 実際1810年のローマ賞受賞作品であるこの作品は、ホメロスの詩にとった主題といい表現法といい、まさにアカデミスム絵画の模範的作品。言い争いをしている、ギリシャ彫刻のような滑らかな人体表現で描かれた群像の、それぞれの身振りはダイナミックなのに、かっちりした構図はまるで時間が貼りついたような静止画面。アガメムノンに襲いかかろうとする激昂したアキレウスを制止しようとするアテナの表情はややしかめ面程度。物音のしない絵である。
『男性裸体習作』、または『パトロクロス』 ジャック=ルイ・ダヴィッド (1797年)
ダヴィッドは、5回目の挑戦でローマ賞を獲得。ローマ留学中、毎年タブローを1点、習作を1点提出せよ、というアカデミーの要求に応えて制作されたのが本作。身を後方によじる男性の全裸を、背後から描きだす。男性が下に敷く赤い布の照り返しで臀部に赤味が差し、上部の肩甲骨の辺りの青白さとのコントラストが和らげられている。あまり冷たい感じがせず、筋肉の動きや体温すら感じ、艶めかしい。
『レフカス島のサッフォー』 アントワーヌ=ジャン・グロ (1801年)
ファオンの愛を得られず、竪琴を胸に断崖から夜の海へ身を投げようとするサッフォー。深い絶望を浮かべるその横顔は月の寂光にうっすらと照らし出され、踏み込んだ左足の踵は上がり、指は崖から滑り落ちようとしている。まさに海へ落ちていく寸前を暗い色調の中に捉えたこの絵は、過度に演劇がかったところがなく、画面から滲み出る哀しみに自然と引き込まれる。
『パフォのヴィーナス』 ジャン=オーギュスト=ドミニック・アングル、アレクサンドル・デ・ゴッフ (1852年頃)
絵としては不完全で(ヴィーナスの左手の位置の修正は途中で終わっている)違和感のある、おかしな作品であるが、アトリエにおける師匠と弟子の共作というアカデミスムの伝統を代表する作品として鑑賞されるべきものと理解した。名の挙がっているアレクサンドル・デ・ゴッフは本作で風景を担当。ヴィーナスの体は複数の視点から描かれているので、左肩の位置がいびつになっている。
第2章 ロマン主義とアカデミスム第一世代
1820-1830年代になると、新古典主義に対してドラクロワを代表とするロマン主義が台頭してくる。感情表現や豊かな色彩表現などに重きを置き、主題も幅広くなっていく。とはいえ新古典主義と厳密に線引きできるものではなく、ここではロマン主義と新古典主義を折衷させていった中庸派(ジュスト・ミュリュー)と呼ばれる画家たちをアカデミスム第一世代とし、その作品を観ていく。
『廃墟となった墓を見つめる羊飼い』 アシル=エトナ・ミシャロン (1816年)
1816年、ローマ賞コンクールの新部門として「歴史的風景画」が美術アカデミーに承認され、これはその第1回目の受賞作品。申し訳程度に古代の遺物が転がっているが、明らかに画家の関心は風景を描くことに注がれている。遠景に霞む山、中景の清々しい木立と、中央でアクセントとなっている白くしぶきを上げる滝、前景の墓と人物。堅固な構図だが、人物を排除しても成り立つ美しい風景画。
『シビュレと黄金の小枝』 ウジェーヌ・ドラクロワ (1838年)
「アエネイス」からの主題。父に会うために冥界を訪れようとしているアエネイスに、冥界の女王プロセルピナの供物に捧げる金の枝をシビュレが指し示している場面。顔や人体は丁寧に描かれているが、顔の血色は彫刻よりも人間に近く、左手の指などは端折った表現になっている。金の枝や背景の樹木、シビュレのまとう朱の衣も筆跡を残した筆触で、絵画技法としては明らかに新古典主義と一線を画す。
『クロムウェルとチャールズ1世』 イポリット・ドラロッシュ、通称ポール・ドラロッシュ (1831年)
ロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されている『ジェイン・グレイの処刑』で私には馴染みのある画家。本作では、英国で唯一断頭刑に処された王、チャールズ1世の遺体が納められた棺の蓋を、断頭台に送った張本人のオリヴァー・クロムウェルが開けて覘いているシーンである。本当にこんなことがあったのか知らないが(ドラクロワは否定していて、たまたまクロムウェルがカーテンを開けて遺体と対面してしまった、という別の構図で同じテーマの作品を残している)、あまり気味の良い絵ではない。棺がとても小さくて、チャールズ1世の体がきつそうだ、などと妙なことを思ってしまった。
第3章 アカデミスム第二世代とレアリスムの広がり
19世紀半ばになると、市民階級の台頭により、それまで王侯貴族だけのものであった絵画が広く一般市民にも鑑賞されるようになる。そのような社会を反映し、現代に生きる民衆の生活をありのままに描こうとするレアリスムが勃興。クールベやミレーなどにより、画面にも民衆や農民の姿が登場し、歴史画と風俗画の境界線があいまいに。芸術の大衆化により美術アカデミーの権威も揺らぎ始め、1863年には皇帝ナポレオン3世によりサロンの「落選展」が開催される。
『眠れる裸婦』 ギュスターヴ・クールベ (1858年)
目に観えるものしか描かない、天使を描いてほしいなら天使を連れてきてくれ、と言ったクールベ。画中で可愛い寝顔を観せる女性だが、だらしなく開いた両脚、太めの腕、たるんだ脇の肉。レアリスムといえばそうだが、どうしてもポーズが美的にどうかと。ベッドの右端にはパレット・ナイフで絵具を載せている(と思われる)。
『ヴィーナスの誕生』 アレクサンドル・カバネル、アドルフ・シェルダン (1864年)
オルセー美術館所蔵のオリジナルのレプリカ。複製権を買い取ったグーピル商会がアドルフ・シェルダンに描かせ、カバネルが加筆修正し、署名したもの。相当人気のあった作品であることが伺える。1863年のサロンには本作と、ボードリーの『真珠と波』、アモリー・デュヴァルの『ヴィーナスの誕生』(2点とも本展に並ぶ)の3点が人気を分け合い、「ヴィーナスのサロン」とも呼ばれたそうだ。カバネルのこの作品は、ヴィーナスは海の波の上に横たわり、上をキューピッドが舞っていてとても装飾的。ヴィーナスのうっすらと開けた目も蠱惑的で、一般大衆に受けそうだ。本展に出ているカバネルの作品としては『狩りの女神ディアナ』(1882年)の方が個人的には好きだった。
『真珠と波』 ポール・ボードリー (1862年)
もしカバネルの作品とこちらではどちらが好きかと聞かれたら、私はこちら。磯の香りがしそうな浜辺に白い体を横たえ、振り返って微笑むヴィーナスは健康的な美しさがあっていい。
『弟子にベルヴェデーレのトルソを見せるミケランジェロ』 ジャン=レオン・ジェローム (1849年)
18世紀末から19世紀中葉のフランス絵画では、古の巨匠の生涯のエピソードを表した作品が多数描かれたそうだ。古代の風俗を描く「新ギリシャ派」の画家として登場したジェロームのこの作品では、盲目のミケランジェロが徒弟の手を借りてベルヴェデーレのトルソに触っている場面が描かれる。しかしこれは事実ではなく、言葉は悪いが鑑賞者の受けを狙った画家が創り出したもの。祖父と孫を結ぶ愛情といったような、大衆が好みそうなセンチメンタリズムも感じる。しかしながらトルソの質感描写は職人技。
『酔ったバッコスとキューピッド』 ジャン=レオン・ジェローム (1850年)
楕円の画面の中、酩酊状態のバッコスと、その腕を取って一緒に歩くエロス。二人ともぽっちゃりした幼児の姿で描かれる。その滑らかな絵肌と描き込まれた二人の表現は技量的には感嘆するが、大衆的と言えば大衆的。
『フローラとゼフュロス』 ウィリアム=アドルフ・ブグロー (1875年)
野原で花と戯れる花の女神フローラの元へ、蝶の羽をつけた西風の神ゼフュロスが舞い降りたところ。ゼフュロスが体にまとった青い布はふわりと風をはらみ、右足も宙に浮いている。フローラは愛する人の訪問に嬉しくも恥じらいの表情で顔を伏せ、抱き寄せられつつ白い身をよじらす。ゼフュロスはフローラの耳元で愛の言葉でも囁いているのだろう。ある意味フランス絵画と聞いて真っ先に浮かべるような、まったく甘美な絵である。
第4章 アカデミスム第三世代と印象派以後の世代
戸外での制作や、パレット上で色を作らずそのままキャンバスに置いていく筆触分割の技法を編み出した印象派の画家たちは、作品の発表の場も自らグループ展を開催するなど画壇に変革をもたらした。サロンも1891年から民営となり、それがさらに分裂したり、新しい美術協会が創設されたりという動きにつながっていく。作品発表の場も増え、印象派に続き、1880年代以降は新印象主義、象徴主義など様々な画風の作品が世に送り出されていった。
『フロレアル』 ラファエル・コンラン (1886年)
滑らかな裸婦の筆致はアカデミスム絵画を思わせるが、何といってもこの裸婦は草原の中に寝転んでいる点で神話の世界からは逸脱する。題名の「フロレアル」(花月)とは、フランス革命暦(共和暦)の4月20日頃から5月19日頃までの、春爛漫の花の季節を指すそうだ。つまり、これは花の季節の擬人化。花はそれほど目立って描き込まれていないが、野原の緑と裸婦の白い身体の対比が美しい。ふつう野原に裸婦が寝転んでいると唐突な感じがしそうだが、不自然さが感じられない。
『カルメンに扮したエミリー・アンブルの肖像』 エドゥアール・マネ (1880年)
描かれた女性が画面から大きな存在感を放つ。卓抜したマネの筆捌きが素晴らしい。エミリー・アンブルはオペラ歌手で、オランダ王ヴィレム3世の愛人であったそうだ。
『干し草』 ジュール・バスティアン=ルパージュ (1877年)
2メートル四方の大きな画面に、干し草作りの合間の休憩を取る二人の農民が描かれる。身を横たえる男に対して女は座っているが、少し開いた口元、やや放心したような大きな目、無造作に開いた足などから肉体労働の疲労のあとが伺える。最初に観たドロリングの歴史画を振り返ると、この作品に至ってその主題、技法に大きな隔たりを覚える。と言うのも、バスティアン=ルパージュはカバネルに師事し、ローマ賞を狙ってコンクールに挑戦するも5度失敗し、画風を転換。その分岐点となったのがこの作品だそうだ。
文字数が限界なのであとは端折るが、この他、この章にはルノワール、ドガ、ピサロ、モネ、シスレー、モロー、ドニなど、印象派や象徴主義等の作品がたくさん並んでいた。
最後に付け加えるなら、本展のカタログが通常版と豪華版の2種類があった割にはポストカードの種類が少ないのと、頼めば頂ける出展作品リストがカタログからコピーしたもので、歪んだ紙面がしょぼい感じであったのが残念であった。
19世紀のフランス画壇の流れを、「アカデミスム」絵画を軸に新古典主義の絵画から印象派他に至るまで、時系列で展観する意欲的な展覧会。世界40の美術館から80点余りが集められて展示。
「そもそもアカデミスムってなんぞや?」という方、もしくは今一度ざっと復習しておきたいという方がいらしたら、本展の公式サイトの「やさしいアカデミスム講座」というセクションがお薦めです。そこにある、キーワードを簡潔にまとめた「アカデミスムを知るための基本用語集」にざっと目を通しておくだけでも、ずいぶん鑑賞しやすくなると思います。
本展の構成は以下の通り:
第1章 アカデミスムの基盤~新古典主義の確立
第2章 ロマン主義とアカデミスム第一世代
第3章 アカデミスム第二世代とレアリスムの広がり
第4章 アカデミスム第三世代と印象派以後の世代
では、印象に残った作品をまじえながら章ごとに:
第1章 アカデミスムの基盤~新古典主義の確立
18世紀後半、古代ギリシャ/ローマの芸術に規範を置く「新古典主義」が台頭。ギリシャ神話や聖書などに主題をとる「歴史画」が尊ばれ、古代彫刻を理想とした人体表現、厳格なデッサン、筆跡を残さない滑らかな画面を特徴とした。これが19世紀のフランスのアカデミスムの基盤となり、ダヴィッド、その弟子であるグロ、ジロデ、ジェラール、次世代のアングルへと継承されていく。尚、国立美術学校に入学→官展であるサロンに出品してローマ賞を獲得→官費でローマに数年留学→凱旋して国からの受注制作に励む、というのがエリート画家の出世の王道であった。
*蛇足ながら、家に帰ってちょっと調べてみたところ、国立美術学校が保持していた「ローマ賞」は1968年まで存続していたということを知り、軽い驚きを覚えた。
『アキレウスの怒り』 ミシェル=マルタン・ドロリング (1810年)
この作品が目に入った瞬間、「はい、ローマ賞決定!」。 実際1810年のローマ賞受賞作品であるこの作品は、ホメロスの詩にとった主題といい表現法といい、まさにアカデミスム絵画の模範的作品。言い争いをしている、ギリシャ彫刻のような滑らかな人体表現で描かれた群像の、それぞれの身振りはダイナミックなのに、かっちりした構図はまるで時間が貼りついたような静止画面。アガメムノンに襲いかかろうとする激昂したアキレウスを制止しようとするアテナの表情はややしかめ面程度。物音のしない絵である。
『男性裸体習作』、または『パトロクロス』 ジャック=ルイ・ダヴィッド (1797年)
ダヴィッドは、5回目の挑戦でローマ賞を獲得。ローマ留学中、毎年タブローを1点、習作を1点提出せよ、というアカデミーの要求に応えて制作されたのが本作。身を後方によじる男性の全裸を、背後から描きだす。男性が下に敷く赤い布の照り返しで臀部に赤味が差し、上部の肩甲骨の辺りの青白さとのコントラストが和らげられている。あまり冷たい感じがせず、筋肉の動きや体温すら感じ、艶めかしい。
『レフカス島のサッフォー』 アントワーヌ=ジャン・グロ (1801年)
ファオンの愛を得られず、竪琴を胸に断崖から夜の海へ身を投げようとするサッフォー。深い絶望を浮かべるその横顔は月の寂光にうっすらと照らし出され、踏み込んだ左足の踵は上がり、指は崖から滑り落ちようとしている。まさに海へ落ちていく寸前を暗い色調の中に捉えたこの絵は、過度に演劇がかったところがなく、画面から滲み出る哀しみに自然と引き込まれる。
『パフォのヴィーナス』 ジャン=オーギュスト=ドミニック・アングル、アレクサンドル・デ・ゴッフ (1852年頃)
絵としては不完全で(ヴィーナスの左手の位置の修正は途中で終わっている)違和感のある、おかしな作品であるが、アトリエにおける師匠と弟子の共作というアカデミスムの伝統を代表する作品として鑑賞されるべきものと理解した。名の挙がっているアレクサンドル・デ・ゴッフは本作で風景を担当。ヴィーナスの体は複数の視点から描かれているので、左肩の位置がいびつになっている。
第2章 ロマン主義とアカデミスム第一世代
1820-1830年代になると、新古典主義に対してドラクロワを代表とするロマン主義が台頭してくる。感情表現や豊かな色彩表現などに重きを置き、主題も幅広くなっていく。とはいえ新古典主義と厳密に線引きできるものではなく、ここではロマン主義と新古典主義を折衷させていった中庸派(ジュスト・ミュリュー)と呼ばれる画家たちをアカデミスム第一世代とし、その作品を観ていく。
『廃墟となった墓を見つめる羊飼い』 アシル=エトナ・ミシャロン (1816年)
1816年、ローマ賞コンクールの新部門として「歴史的風景画」が美術アカデミーに承認され、これはその第1回目の受賞作品。申し訳程度に古代の遺物が転がっているが、明らかに画家の関心は風景を描くことに注がれている。遠景に霞む山、中景の清々しい木立と、中央でアクセントとなっている白くしぶきを上げる滝、前景の墓と人物。堅固な構図だが、人物を排除しても成り立つ美しい風景画。
『シビュレと黄金の小枝』 ウジェーヌ・ドラクロワ (1838年)
「アエネイス」からの主題。父に会うために冥界を訪れようとしているアエネイスに、冥界の女王プロセルピナの供物に捧げる金の枝をシビュレが指し示している場面。顔や人体は丁寧に描かれているが、顔の血色は彫刻よりも人間に近く、左手の指などは端折った表現になっている。金の枝や背景の樹木、シビュレのまとう朱の衣も筆跡を残した筆触で、絵画技法としては明らかに新古典主義と一線を画す。
『クロムウェルとチャールズ1世』 イポリット・ドラロッシュ、通称ポール・ドラロッシュ (1831年)
ロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されている『ジェイン・グレイの処刑』で私には馴染みのある画家。本作では、英国で唯一断頭刑に処された王、チャールズ1世の遺体が納められた棺の蓋を、断頭台に送った張本人のオリヴァー・クロムウェルが開けて覘いているシーンである。本当にこんなことがあったのか知らないが(ドラクロワは否定していて、たまたまクロムウェルがカーテンを開けて遺体と対面してしまった、という別の構図で同じテーマの作品を残している)、あまり気味の良い絵ではない。棺がとても小さくて、チャールズ1世の体がきつそうだ、などと妙なことを思ってしまった。
第3章 アカデミスム第二世代とレアリスムの広がり
19世紀半ばになると、市民階級の台頭により、それまで王侯貴族だけのものであった絵画が広く一般市民にも鑑賞されるようになる。そのような社会を反映し、現代に生きる民衆の生活をありのままに描こうとするレアリスムが勃興。クールベやミレーなどにより、画面にも民衆や農民の姿が登場し、歴史画と風俗画の境界線があいまいに。芸術の大衆化により美術アカデミーの権威も揺らぎ始め、1863年には皇帝ナポレオン3世によりサロンの「落選展」が開催される。
『眠れる裸婦』 ギュスターヴ・クールベ (1858年)
目に観えるものしか描かない、天使を描いてほしいなら天使を連れてきてくれ、と言ったクールベ。画中で可愛い寝顔を観せる女性だが、だらしなく開いた両脚、太めの腕、たるんだ脇の肉。レアリスムといえばそうだが、どうしてもポーズが美的にどうかと。ベッドの右端にはパレット・ナイフで絵具を載せている(と思われる)。
『ヴィーナスの誕生』 アレクサンドル・カバネル、アドルフ・シェルダン (1864年)
オルセー美術館所蔵のオリジナルのレプリカ。複製権を買い取ったグーピル商会がアドルフ・シェルダンに描かせ、カバネルが加筆修正し、署名したもの。相当人気のあった作品であることが伺える。1863年のサロンには本作と、ボードリーの『真珠と波』、アモリー・デュヴァルの『ヴィーナスの誕生』(2点とも本展に並ぶ)の3点が人気を分け合い、「ヴィーナスのサロン」とも呼ばれたそうだ。カバネルのこの作品は、ヴィーナスは海の波の上に横たわり、上をキューピッドが舞っていてとても装飾的。ヴィーナスのうっすらと開けた目も蠱惑的で、一般大衆に受けそうだ。本展に出ているカバネルの作品としては『狩りの女神ディアナ』(1882年)の方が個人的には好きだった。
『真珠と波』 ポール・ボードリー (1862年)
もしカバネルの作品とこちらではどちらが好きかと聞かれたら、私はこちら。磯の香りがしそうな浜辺に白い体を横たえ、振り返って微笑むヴィーナスは健康的な美しさがあっていい。
『弟子にベルヴェデーレのトルソを見せるミケランジェロ』 ジャン=レオン・ジェローム (1849年)
18世紀末から19世紀中葉のフランス絵画では、古の巨匠の生涯のエピソードを表した作品が多数描かれたそうだ。古代の風俗を描く「新ギリシャ派」の画家として登場したジェロームのこの作品では、盲目のミケランジェロが徒弟の手を借りてベルヴェデーレのトルソに触っている場面が描かれる。しかしこれは事実ではなく、言葉は悪いが鑑賞者の受けを狙った画家が創り出したもの。祖父と孫を結ぶ愛情といったような、大衆が好みそうなセンチメンタリズムも感じる。しかしながらトルソの質感描写は職人技。
『酔ったバッコスとキューピッド』 ジャン=レオン・ジェローム (1850年)
楕円の画面の中、酩酊状態のバッコスと、その腕を取って一緒に歩くエロス。二人ともぽっちゃりした幼児の姿で描かれる。その滑らかな絵肌と描き込まれた二人の表現は技量的には感嘆するが、大衆的と言えば大衆的。
『フローラとゼフュロス』 ウィリアム=アドルフ・ブグロー (1875年)
野原で花と戯れる花の女神フローラの元へ、蝶の羽をつけた西風の神ゼフュロスが舞い降りたところ。ゼフュロスが体にまとった青い布はふわりと風をはらみ、右足も宙に浮いている。フローラは愛する人の訪問に嬉しくも恥じらいの表情で顔を伏せ、抱き寄せられつつ白い身をよじらす。ゼフュロスはフローラの耳元で愛の言葉でも囁いているのだろう。ある意味フランス絵画と聞いて真っ先に浮かべるような、まったく甘美な絵である。
第4章 アカデミスム第三世代と印象派以後の世代
戸外での制作や、パレット上で色を作らずそのままキャンバスに置いていく筆触分割の技法を編み出した印象派の画家たちは、作品の発表の場も自らグループ展を開催するなど画壇に変革をもたらした。サロンも1891年から民営となり、それがさらに分裂したり、新しい美術協会が創設されたりという動きにつながっていく。作品発表の場も増え、印象派に続き、1880年代以降は新印象主義、象徴主義など様々な画風の作品が世に送り出されていった。
『フロレアル』 ラファエル・コンラン (1886年)
滑らかな裸婦の筆致はアカデミスム絵画を思わせるが、何といってもこの裸婦は草原の中に寝転んでいる点で神話の世界からは逸脱する。題名の「フロレアル」(花月)とは、フランス革命暦(共和暦)の4月20日頃から5月19日頃までの、春爛漫の花の季節を指すそうだ。つまり、これは花の季節の擬人化。花はそれほど目立って描き込まれていないが、野原の緑と裸婦の白い身体の対比が美しい。ふつう野原に裸婦が寝転んでいると唐突な感じがしそうだが、不自然さが感じられない。
『カルメンに扮したエミリー・アンブルの肖像』 エドゥアール・マネ (1880年)
描かれた女性が画面から大きな存在感を放つ。卓抜したマネの筆捌きが素晴らしい。エミリー・アンブルはオペラ歌手で、オランダ王ヴィレム3世の愛人であったそうだ。
『干し草』 ジュール・バスティアン=ルパージュ (1877年)
2メートル四方の大きな画面に、干し草作りの合間の休憩を取る二人の農民が描かれる。身を横たえる男に対して女は座っているが、少し開いた口元、やや放心したような大きな目、無造作に開いた足などから肉体労働の疲労のあとが伺える。最初に観たドロリングの歴史画を振り返ると、この作品に至ってその主題、技法に大きな隔たりを覚える。と言うのも、バスティアン=ルパージュはカバネルに師事し、ローマ賞を狙ってコンクールに挑戦するも5度失敗し、画風を転換。その分岐点となったのがこの作品だそうだ。
文字数が限界なのであとは端折るが、この他、この章にはルノワール、ドガ、ピサロ、モネ、シスレー、モロー、ドニなど、印象派や象徴主義等の作品がたくさん並んでいた。
最後に付け加えるなら、本展のカタログが通常版と豪華版の2種類があった割にはポストカードの種類が少ないのと、頼めば頂ける出展作品リストがカタログからコピーしたもので、歪んだ紙面がしょぼい感じであったのが残念であった。
罵ったこともあって、アカデミズムって、どうかなぁを思っていました。
しかしどうしてどうして、アカデミズムの絵画って
いま見ても素敵な作品が多いですね。
裸婦も多いし~ うっとりです。
私も実は、このヴラマンクと佐伯のエピソードを思い出していました。
佐伯は泣いてしまったのですよね。さぞや面食らったことでしょう。
確かにアカデミスムって言葉には否定的な要素を感じる側面も
ありますが、デッサンなど研鑽を積んだ絵画技術はやはり
素晴らしいと思います。歴史画ばかりが並ぶと辟易しますが、
仰るように美しい裸婦などは溜息が出ますよね。