l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

モーリス・ユトリロ展 パリを愛した孤独な画家

2010-07-05 | アート鑑賞
損保ジャパン東郷青児美術館 2010年4月17日(土)-7月4日(日)
*会期終了



日本の美術館や展覧会でも、割とよく作品を目にする機会が多いユトリロ。本展の出品作品はすべて日本初公開とあったので、そんなこともあるのかと最終日に駆け込んだ。このじめじめと湿っぽい梅雨時に、冷んやりと空調の効いた展示室であの白い世界に囲まれ、涼めるかもしれない、などと思いつつ。

しかし現実は甘くない。午前10時台に行ったが、目の前には蛇行して並ぶ鑑賞者の長い列と、スタッフの掲げる「ここが最後尾です」のパネル。20分待ちというスタッフの声にいきなりゲンナリしてしまったが、最終日だから選択の余地なし。

やっと42階に上がれて、とりあえず入り口の解説パネルを読む。どうも今回出品されている90点余りのユトリロ作品は、ヨーロッパ有数の美術品所蔵家のコレクションらしい。

結果からいって、誰もがユトリロと聞いて思い浮かべるであろうパリの白い街並みを描いた「白の時代」(1910年から16年頃)の作品は少なかった。ついでに鑑賞者が多くて(自分もその構成員の一人だけど)、展示室の中もそれほど涼しくなかった。が、展示室を進むごとに現れる解説を読んでいくうちに、アルコール依存症と漆喰だけでは語れない、余りに悲惨な彼の人生を改めて知って、憐憫を通り越して暗澹たる気持ちになってしまった。

では順を追って感想を残します。

まずモーリス・ユトリロ(1883-1955)の生い立ちから。亡くなったのはつい50年ほど前と、思いのほか最近の画家であることに気づく。

母はシュザンヌ・ヴァラドン。ルノワールなどの絵のモデルをしつつ自らも絵を描き、様々な画家と浮名を流した女性。モーリスの父親にしても、スペインの画家ミゲール・ユトリロが認知してくれたものの実父は定かではないらしく、いわゆる私生児としてパリに生まれたことになる。母は夫との生活や自分の絵のことなどに忙しすぎて息子のことは顧みず、放ったらかしにされたユトリロは中学生の頃から飲酒癖があったという。

さて、展示は「モンマニーの時代」から始まる。ユトリロはアルコール依存症の治療のためにパリの精神病院に入院し、退院後、21歳のときから治療の一環として絵を描き始めるのだが、その頃移り住んだのがモンマニー。展示されている風景画からは、緑豊かな小さな村が想像される。正規の美術教育を受けておらず、本能に従って描いたというようなことが解説にあったが、あたかも物質的に再現しようとしたような家々の壁の厚塗りや、木々のウネウネとした筆触が個性的。天賦の才とは聞こえがいいが、両親とも絵描きだったので、幸か不幸かその血を引いてしまったのでしょう。

1909年、26歳でモンマルトルに移り、ユトリロの代名詞ともいえる建物の白壁がフィーチャーされた「白の時代」に入っていく。少年の頃から漆喰のかけらで遊ぶ姿が目撃されていたユトリロは、詩人・小説家のフランシス・カルゴに「パリの思い出に何か一つ持っていくとしたら何にするか?」と聞かれ、躊躇なく「漆喰」と答えたと言うエピソードも紹介されていた。しかし純粋に好きだったとういうよりは、アルコール依存症のために家にいても鉄格子のはまった部屋に閉じ込められていた彼が、一番長いこと向き合っていたのが窓から見える白壁だったというのが実情らしい。

いずれにせよ、ユトリロはその質感を出すために、石灰、鳩の糞、朝食に食べた卵の殻、砂などを絵具に混ぜてパリの建物の白壁を描き続けた。画面全体を見渡すと、壁の下方など薄汚れて劣化したような部分も、グレーその他の色を混ぜて丁寧に表現されている。ユトリロが熱中したという画布上でのこのような壁の再現は、きっと楽しい作業だったのではないだろうか?

『スュレーヌ(オー=ド=セーヌ県)』 (1912-14年頃)



ミュージアム・ショップで、壁上方にずらりとディスプレイされていた30種にも及ぶポストカードを見上げた時、一番いいなと思った作品。やはり「白の時代」。

1919年、36歳の時に開いた画廊での個展も成功するが、アルコール依存症は完治せず、ユトリロは結局29歳から40歳まで入退院を繰り返す。母シュザンヌの二度目の夫で、ユトリロより3歳年下のアンドレ・ユッテルは、自らの画業に見切りをつけ、作品の良く売れるユトリロのマネージャーとなって作品を売りさばいて行く。このあたりが「色彩の時代」。ユトリロは二人にとって「貨幣製造機」となり、制作を余儀なくされた。

二人はその売り上げで得た大金で贅沢三昧。ひどい話でしょう?

この時代のユトリロ作品は、色がとても明確で鮮やか。部分的にヴラマンク的な筆触も見受けられる。しかし、ポストカードに遠近法の線を入れ、それを基に定規を使って描いたという街並みは、妙に縦長であったりと違和感も覚える。でもこれらの作品が一般受けして、売れに売れたのでしょうね。

『サン=ドニ・ド・ラ・シャペル教会、パリ』 (1933年)



この作品にも描かれているが、この頃のユトリロ作品には「異常に腰の張った」女性が頻繁に登場する。解説には女性に対する嫌悪感の表れとの指摘があるとあったが、ほとんどが帽子をかぶり、後ろ姿で、ペアで歩いていることが多い。男性の姿もあるが、これらの人物はとてもぞんざいに描かれており、配置も非常に不自然で、確かに心理学的に何かの表れなのかもしれないと思ってしまった。この時代の作品の多くは、多分ユトリロが本心から描きたかった画風ではないような気がしてならない。

ユトリロの悲惨な人生はまだ続く。

1935年、51歳のユトリロは母の薦めでユトリロ作品のコレクターであったベルギーの裕福な銀行家の未亡人、63歳のリュシー・ヴァロールと結婚。彼女にも作品の制作を強要され、またしても囚われの身となってしまう。1940年代の作品を見渡すと、全体が暗いクリーム色の色調を帯びているものが目につくが、ユトリロの心が曇ってしまったような気がするのは穿った見方だろうか?塀に囲まれた広い庭から、ユトリロは紙に包まれた石を外に投げた。そこには「助けてくれ」と書かれてあったという。そしてそれを拾った近所の人々は、名の知れた画家の直筆ということで喜んで保管したという。何ともやり切れない話である。

リュシーとの結婚後は礼拝に費やす時間が増え、母にも祈りを捧げたというユトリロ。傍目には酷い母親に映るが、親子の絆と言うのは当人同士にしかわからないもの。母シュザンヌは1938年に他界しているから、自分の亡き後のことを彼女なりに考え、ユトリロの母親役をリュシーに託したのかもしれない。

『モンマルトルのジャン=バティスト・クレマン広場』 (1945年頃)



『サン=ローラン教会、ロッシュ(アンドル=エ=ロワール県)』 (1914年頃)



上の二つの作品の間には30年ほどの隔たりがあるが、ユトリロの風景画は、普通の家並と並んで教会を描いたものが圧倒的に多い。外観を描くことのみならず、神への祈りも込められていたのかもしれない。入口手前の解説パネルの横にあった、礼拝堂で目を閉じて祈るユトリロの、皺の刻まれた顔が今一度思い出された。

損保ジャパン東郷青児美術館での今後の二つの展覧会のチラシを入手したので、ついでにご紹介しておきます。

トリック・アートの世界展―だまされる楽しさ―
2010年7月10日(土)-8月29日(日)



ウフィツィ美術館 自画像コレクション
2010年9月11日(土)-11月14日(日)



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (一村雨)
2010-07-10 06:14:02
いつも、絵が売れなくて早世したモディリアーニと絵が売れても自由がなく長生きしたユトリロとどちらが幸せだったのかなぁと考えてしまいます。
返信する
Unknown (YC )
2010-09-07 22:22:03
☆一村雨さん

モディリアーニとユトリロですか。う~ん。。。

少なくとも後を追ってくれるような女性がいた
という点で、モディリアーニは人として幸せ
だったような気もしますが、どうでしょうね。
そもそも画家というのは(変な言い方ですが)
割に合わない職業だと思います。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。