損保ジャパン東郷青児美術館 2009年4月25日-7月5日
岸田劉生(1891-1929)の『麗子像』。初めて観たのは、やはり美術の教科書だっただろうか。その異様さは一度観たら忘れられず(試みに美術にほとんど関心のない会社の同僚に、『麗子像』って知ってる?と聞いたら、「知ってるよ。あの座敷童子みたいな絵でしょ?」と即答だった)、誰かから本当の麗子はこんな顔じゃないそうだと聞いて子供心に安心しつつ、でもなぜあのような肖像画を描いたのかとか、のちに彼の静物画や『道路と土手と塀(切通之写生)』を観て、"こんな絵も描いたのか"と瞠目するも、岸田の画業についてはついぞあまり知ることなく来てしまった。
38歳で夭折したその岸田の、自画像や家族、知人らの肖像画に焦点を絞って80点ほど集めたこの展覧会は、そんな私にこの画家の、私なりの理解を深める機会を与えてくれた。
本展の構成は、肖像画の分類ということで以下の通り:
Ⅰ. 自画像
Ⅱ. 友人・知人
Ⅲ. 家族・親族
では、章ごとに追っていきたい:
Ⅰ. 自画像
最初の展示室には、眼鏡をかけた岸田の自画像ばかりがずらり10点以上並ぶ。全30点の自画像のほとんどが22~23歳に描かれているとある通り、そこにある油彩画は全て1912~1914年の期間に描かれた作品。
1912年制作の一作品目は、緑など大胆な色彩を太く力強い直線でエイッとばかりに引きながら顔を造形していて、本人も後述している通りいかにもゴッホ風。あとの作品群では、1作品目のような大胆さは影を潜めて、粗めの筆跡が残る描法ながら落ち着いた肖像画となっている。
話が逸れるが、作品を観る前に押さえておきたいポイントが二つあった。一つは、岸田が成人した頃は明治末期であるという時代背景。パネルの説明にあった通り、日本では急激な西洋化により新旧の習慣、価値観が混乱した時代で、それは岸田を「自分とは何か」「人間とは何か」という根源的な問いに深く向き合わさせる。そんな風潮の中、19歳にして白樺を通じてゴッホ、セザンヌの洗礼を受け、また白樺の思想である"自我の確立"を目指し、「自己を生かす道」として岸田は芸術を選んだ。そんな岸田の生み出す肖像画は、よって人間探究と同義と言っていいかもしれない。また、16歳の時に父を亡くし(ついで母も)、キリスト教に入信して一時宗教家を目指したという事実からは、岸田には若くして彼なりの死生観もが備わっていたことが想像される。
もう一つ、私をはっとさせたのは、"独特の写実"という言葉。岸田のいう写実は、対象物を本物そっくりに支持体の上に再現するということを目指したものではない。そこを超え、対象物と対話する中で対象物から表出してきた、岸田の眼が捉えた「内なる美」「無形の美」を表すことを指す。こうして観ると、岸田は「言葉で表現できないから何はともあれ絵に想いを託す」といった感覚の画家ではない。全10巻にもなる全集ができるほど膨大な量の随筆や日記を残した多弁な人で、絵を描く以前にまずは思想ありきだったのだと思う。
こうして自分探しの旅は自画像を描くことから本格的に始まったのだろう。作品には1913年5月14日等、月日まで入っている。まるで克明に自分との対話の記録を残すかのように。
余談ながら、コンテで描いた自画像(1917年作)の日付が間違っていると説明があった。誕生日に描いたのでJune 23が正しいところをJuly 23と描き込んでいる、と。やや抜けたところがあったのかな、とクスリと笑ったのは、私と岸田の誕生日が同じだからである。
Ⅱ. 友人・知人
「一体人間の顔程、画家にとっていろいろな美術的感興を興させるものは他にない」と語る岸田は、自画像だけでは物足りなくなり、様々な技法を試しながら友人を片端から描いて「首狩り」「千人切り」と言われたそうだ。初期のゴッホやセザンヌ風は影を潜め、北方ルネッサンスの写実描写の巨匠アブレヒト・デューラーにその範を求めたり、肉筆浮世絵の生々しく官能的な生命感を指すという「デロリの美」を取り入れたりと独自の画業を展開する。
『Aの肖像』 1913年7月8日 (油彩、キャンヴァス) *前期のみ
「木彫でもするように一筆ごとに対象にぶつかる。跳らせながら筆をおいていく」という画家の言葉があったが、この作品における顔の上のハイライトの入れ方が跳っているように観えた。
『芝川照吉氏之像』 1919年7月10日 (木炭・チョーク、紙)
岸田の肖像画の顔を観ると、目につくのがその不自然といえるほど強調された(と私には思える)ハイライトの入れ方である。外から光が当たっているというより、まるで顔の内から発光しているようにすら観えることもある。油彩画のみならず、この木炭画においても鼻筋などに目立つ白チョークが引かれており、これは岸田のクセともいえる描き方なのだろうと思った。
『古屋(こや)君の肖像(草持てる男の肖像) 1916年9月10日 (油彩、キャンヴァス)
滑らかな筆触の、北方ルネッサンス風の写実的な肖像画。肌の下のおでこや眼窩など頭蓋骨の形までわかりそうな描写だ。制作年の数字やサイン、題名の英字も装飾的で、デューラーの影響が伺える。モデルの古屋氏は、草を手にどれほどポーズをとり続けたのだろう。全般に言えるが、岸田の描く手や指の形はどこかぎこちない。
Ⅲ. 家族・親族
描写が細密になるにつれ、モデルは劉生の無理が聞き入れられる者に限られていく。要するに妻や娘、近しい親族ということになり、この章では彼らの肖像画が並ぶ。セザンヌもモデルの拘束時間が長いという逸話が残るが、岸田のモデルになった家族も長時間じっとしていることを強いられたことだろう。とりわけ麗子は5歳から16歳まで(岸田の死の半年前まで)モデルを務め、大まかに言ってデューラー風の写実→グロテスクの味→デロリの美、と様々な表現様式で描かれた。悪く言えば岸田の画業探究の実験台、もう少しましな言い方をすれば運命共同体だったと言えるかもしれない。
『麗子肖像(麗子5歳之像)』 1918年10月8日 (油彩、キャンヴァス)
チラシに使われているこの作品は、麗子像の記念すべき1作目。写実表現からのスタートである。祭壇画のような枠が描き込まれ、モノグラムのサインもデューラーを思わせる。とはいえ、頬の膨らみの不自然な強調や喉元のいびつさなどデフォルメされていて、その2年前に描かれた前出『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』からの変遷が観て取れる。
『笑ふ麗子』 1922年5月18日 (油彩、板)
この絵が目に入った瞬間、こちらも思わず笑ってしまった。これは『寒山拾得』の、口元が歯をのぞかせながら左右に大きく引き伸ばされた、あの独特の笑顔の表情を取り入れたもの。岸田は「寒山のグロテスク」として”一見醜く卑しい姿の裏にある複雑な美意識”を表現しようとしたようだが、それにしても『寒山拾得』だから違和感なく鑑賞される顔であって、これを実の娘に重ね合わすことのできる岸田の感性はやはり独特である。
『麗子十六歳之像』 1929年6月1日 (油彩、キャンヴァス)
岸田が亡くなる年のお正月に、日本髪を結って着物を着た麗子を描いた肖像画で、これが最後の麗子像となった。鼻筋の白いハイライトは相変わらずだが、肌の色、顔の描き方もそれまでの作風に比べて普通で、肖像画としては恐らくこれが一番自然で麗子その人に似ているのではないだろうか。前年に描かれた『岡崎義郎氏之肖像』の、唇が艶めかしく赤い"デロリの美"からの流れながら、官能性の強調は影を薄めているように観えた。
岸田劉生(1891-1929)の『麗子像』。初めて観たのは、やはり美術の教科書だっただろうか。その異様さは一度観たら忘れられず(試みに美術にほとんど関心のない会社の同僚に、『麗子像』って知ってる?と聞いたら、「知ってるよ。あの座敷童子みたいな絵でしょ?」と即答だった)、誰かから本当の麗子はこんな顔じゃないそうだと聞いて子供心に安心しつつ、でもなぜあのような肖像画を描いたのかとか、のちに彼の静物画や『道路と土手と塀(切通之写生)』を観て、"こんな絵も描いたのか"と瞠目するも、岸田の画業についてはついぞあまり知ることなく来てしまった。
38歳で夭折したその岸田の、自画像や家族、知人らの肖像画に焦点を絞って80点ほど集めたこの展覧会は、そんな私にこの画家の、私なりの理解を深める機会を与えてくれた。
本展の構成は、肖像画の分類ということで以下の通り:
Ⅰ. 自画像
Ⅱ. 友人・知人
Ⅲ. 家族・親族
では、章ごとに追っていきたい:
Ⅰ. 自画像
最初の展示室には、眼鏡をかけた岸田の自画像ばかりがずらり10点以上並ぶ。全30点の自画像のほとんどが22~23歳に描かれているとある通り、そこにある油彩画は全て1912~1914年の期間に描かれた作品。
1912年制作の一作品目は、緑など大胆な色彩を太く力強い直線でエイッとばかりに引きながら顔を造形していて、本人も後述している通りいかにもゴッホ風。あとの作品群では、1作品目のような大胆さは影を潜めて、粗めの筆跡が残る描法ながら落ち着いた肖像画となっている。
話が逸れるが、作品を観る前に押さえておきたいポイントが二つあった。一つは、岸田が成人した頃は明治末期であるという時代背景。パネルの説明にあった通り、日本では急激な西洋化により新旧の習慣、価値観が混乱した時代で、それは岸田を「自分とは何か」「人間とは何か」という根源的な問いに深く向き合わさせる。そんな風潮の中、19歳にして白樺を通じてゴッホ、セザンヌの洗礼を受け、また白樺の思想である"自我の確立"を目指し、「自己を生かす道」として岸田は芸術を選んだ。そんな岸田の生み出す肖像画は、よって人間探究と同義と言っていいかもしれない。また、16歳の時に父を亡くし(ついで母も)、キリスト教に入信して一時宗教家を目指したという事実からは、岸田には若くして彼なりの死生観もが備わっていたことが想像される。
もう一つ、私をはっとさせたのは、"独特の写実"という言葉。岸田のいう写実は、対象物を本物そっくりに支持体の上に再現するということを目指したものではない。そこを超え、対象物と対話する中で対象物から表出してきた、岸田の眼が捉えた「内なる美」「無形の美」を表すことを指す。こうして観ると、岸田は「言葉で表現できないから何はともあれ絵に想いを託す」といった感覚の画家ではない。全10巻にもなる全集ができるほど膨大な量の随筆や日記を残した多弁な人で、絵を描く以前にまずは思想ありきだったのだと思う。
こうして自分探しの旅は自画像を描くことから本格的に始まったのだろう。作品には1913年5月14日等、月日まで入っている。まるで克明に自分との対話の記録を残すかのように。
余談ながら、コンテで描いた自画像(1917年作)の日付が間違っていると説明があった。誕生日に描いたのでJune 23が正しいところをJuly 23と描き込んでいる、と。やや抜けたところがあったのかな、とクスリと笑ったのは、私と岸田の誕生日が同じだからである。
Ⅱ. 友人・知人
「一体人間の顔程、画家にとっていろいろな美術的感興を興させるものは他にない」と語る岸田は、自画像だけでは物足りなくなり、様々な技法を試しながら友人を片端から描いて「首狩り」「千人切り」と言われたそうだ。初期のゴッホやセザンヌ風は影を潜め、北方ルネッサンスの写実描写の巨匠アブレヒト・デューラーにその範を求めたり、肉筆浮世絵の生々しく官能的な生命感を指すという「デロリの美」を取り入れたりと独自の画業を展開する。
『Aの肖像』 1913年7月8日 (油彩、キャンヴァス) *前期のみ
「木彫でもするように一筆ごとに対象にぶつかる。跳らせながら筆をおいていく」という画家の言葉があったが、この作品における顔の上のハイライトの入れ方が跳っているように観えた。
『芝川照吉氏之像』 1919年7月10日 (木炭・チョーク、紙)
岸田の肖像画の顔を観ると、目につくのがその不自然といえるほど強調された(と私には思える)ハイライトの入れ方である。外から光が当たっているというより、まるで顔の内から発光しているようにすら観えることもある。油彩画のみならず、この木炭画においても鼻筋などに目立つ白チョークが引かれており、これは岸田のクセともいえる描き方なのだろうと思った。
『古屋(こや)君の肖像(草持てる男の肖像) 1916年9月10日 (油彩、キャンヴァス)
滑らかな筆触の、北方ルネッサンス風の写実的な肖像画。肌の下のおでこや眼窩など頭蓋骨の形までわかりそうな描写だ。制作年の数字やサイン、題名の英字も装飾的で、デューラーの影響が伺える。モデルの古屋氏は、草を手にどれほどポーズをとり続けたのだろう。全般に言えるが、岸田の描く手や指の形はどこかぎこちない。
Ⅲ. 家族・親族
描写が細密になるにつれ、モデルは劉生の無理が聞き入れられる者に限られていく。要するに妻や娘、近しい親族ということになり、この章では彼らの肖像画が並ぶ。セザンヌもモデルの拘束時間が長いという逸話が残るが、岸田のモデルになった家族も長時間じっとしていることを強いられたことだろう。とりわけ麗子は5歳から16歳まで(岸田の死の半年前まで)モデルを務め、大まかに言ってデューラー風の写実→グロテスクの味→デロリの美、と様々な表現様式で描かれた。悪く言えば岸田の画業探究の実験台、もう少しましな言い方をすれば運命共同体だったと言えるかもしれない。
『麗子肖像(麗子5歳之像)』 1918年10月8日 (油彩、キャンヴァス)
チラシに使われているこの作品は、麗子像の記念すべき1作目。写実表現からのスタートである。祭壇画のような枠が描き込まれ、モノグラムのサインもデューラーを思わせる。とはいえ、頬の膨らみの不自然な強調や喉元のいびつさなどデフォルメされていて、その2年前に描かれた前出『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』からの変遷が観て取れる。
『笑ふ麗子』 1922年5月18日 (油彩、板)
この絵が目に入った瞬間、こちらも思わず笑ってしまった。これは『寒山拾得』の、口元が歯をのぞかせながら左右に大きく引き伸ばされた、あの独特の笑顔の表情を取り入れたもの。岸田は「寒山のグロテスク」として”一見醜く卑しい姿の裏にある複雑な美意識”を表現しようとしたようだが、それにしても『寒山拾得』だから違和感なく鑑賞される顔であって、これを実の娘に重ね合わすことのできる岸田の感性はやはり独特である。
『麗子十六歳之像』 1929年6月1日 (油彩、キャンヴァス)
岸田が亡くなる年のお正月に、日本髪を結って着物を着た麗子を描いた肖像画で、これが最後の麗子像となった。鼻筋の白いハイライトは相変わらずだが、肌の色、顔の描き方もそれまでの作風に比べて普通で、肖像画としては恐らくこれが一番自然で麗子その人に似ているのではないだろうか。前年に描かれた『岡崎義郎氏之肖像』の、唇が艶めかしく赤い"デロリの美"からの流れながら、官能性の強調は影を薄めているように観えた。