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アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

江戸絵画への視線

2010-08-26 | アート鑑賞
山種美術館 2010年7月17日(土)-9月5日(日)



山種美術館の開館記念特別展Ⅵとして企画された展覧会。このシリーズは私にとってはⅣの「奥村土牛」展に続く2回目の訪問となる。所要を済ませた後の、猛暑の日の午後2時という非常に辛い時間帯に日傘を握りしめながら、あの目の回る螺旋階段を上り下りする歩道橋を渡り、長い上り坂をゆっくりと美術館へ向かった。前回は雨だったし、恵比寿駅から徒歩10分となっているとはいえ、天候によってはアクセスはあまりヴィジター・フレンドリーと言えないかもしれない。

それはさておき、今回は“岩佐又兵衛≪官女観菊図≫重要文化財指定記念”という副題がつく。2008年3月に美術館所蔵のこの作品が重要文化財に指定されたことを記念し、これまでほとんど公開されることのなかったこの美術館が所蔵する江戸絵画作品を紹介する運びとなったそうだ。そもそも設立者の山崎種二氏は、米問屋の小僧時代に観た酒井抱一作の赤く熟した柿の実の美しさが心に残り、それがのちのコレクション蒐集のきっかけとなったとのこと。

しかも解説によると、一本立ちしてやっと手に入れた抱一作品は贋作であることがわかり、一旦は古画を諦めて真贋問題のない現代作家の作品収集に転向するも、やはり抱一への想い断ちがたく(?)、山崎氏はのちに江戸絵画の蒐集に再挑戦。

本展では、そんなコレクションを【琳派】【やまと絵】【狩野派】【文人画】【諸派】という五つのジャンルに分けて展示し、最後の展示室を明治以降の近代絵画で締める構成。全体で重要文化財が3点、重要美術品が3点含まれる。

では、順を追って印象に残った作品を挙げていきます:

【琳派】

㊧『秋草鶉図』 19世紀前半(江戸時代後期) ㊨『月梅図』 19世紀(江戸後期)

 

2点とも酒井抱一の作品で、『秋草鶉図』はそよそよと薄を揺らす秋の涼しい微風が漂ってくるような美しい作品。鶉の写実的な描き方も素晴らしい。左端2羽のポーズはちょっと変わっているように見えるけど、鶉ってこんな動きをするのでしょうか?月が黒く変色する前の、銀に輝いていたオリジナルの色彩感覚を、CG画像でもいいから観てみたいなぁ。。。。(重要美術品)

続いて『月梅図』は、緩急の効いた筆遣いが見事だなぁ、と見入ってしまった。かすれ具合も決まった太い枝の一気描き、瑞々しい薄緑が表面に浮かぶしなやかな若い枝、柔らかい紅白の梅の花びら。おしべも繊細に表現されている。

『伊勢物語図(高安の女』 鈴木其一 19世紀(江戸後期)



本作は伊勢物語からの主題。幼馴染と結婚した男がのちに高安の里の女と浮気し、その浮気相手の元へ久しぶりに訪ねていったところ、女が自分でご飯を盛っているのが見えた。宮廷育ちの男にはその姿が野卑に見え、それ以来関係が終わった、という話らしい。この作品は、ちょうど女がご飯を盛っているシーンに遭遇して男が幻滅している様子。単純なエピソードだけれど、女の茶碗のご飯てんこ盛りには私もビックリ。無表情な顔は色気もないし、座り方も男性っぽいし、これじゃ100年の恋も冷めましょうか?

『白藤・紅白蓮・夕もみぢ図(3幅対)』 酒井鴬浦 19世紀(江戸後期)



鴬浦(おうほ)は酒井抱一の養子だそうだが、初めて知る名。34歳で早世したため、作品数は少ないらしい。これは本阿弥光甫の作品を忠実に模写したものだそうで、画像は3幅対のうち右端の白藤。枝垂れる小さい可憐な花びらが水の流れのように涼やかにしてくれる。

3幅とも、余白ではなく花や葉の上に署名がしてあり、なんでだろうと思っていたら、後でこれを「隠し落款」と呼ぶことを知った。

【やまと絵】

『源平合戦図』 作者不詳 17世紀(江戸前期)

6曲1双の屏風絵。夥しい数の鎧姿の武士たちは、集団で押し寄せ、馬で猛々しく駆け回り、船の上で弓を引き、と画面全体で戦いを交えている。描き込みが素晴らしいが、私はとりわけ群青に金色の荒々しい波を立てる川の描き方に魅了された。

『竹垣紅白梅椿図』 作者不詳 17世紀(江戸前期)

6曲一双の屏風絵。金地に紅白の花が散る作品だが、右隻では竹垣(逆U字型に曲げられた竹で作られている珍しい竹垣。関西地方でよく見られたとのこと)が水平に画面を横切り、それに絡みつくように白梅と赤椿の花。左隻では、竹垣が左上から右下に斜めに降りてきて、白椿に紅梅。その構図のバランスが絶妙で、金、赤、白、緑の4色のみの洗練された装飾空間にうっとり。(重要美術品)

『官女観菊図』 岩佐又兵衛 17世紀前半(江戸前期)

実は今まで岩佐又兵衛のことをよく知らずに、その作品を「上手いなぁ」と呑気に眺めていたのだが、少し前に辻惟男氏の又兵衛に関するテキストを読んで、その数奇な生いたちに驚いたところ。よって今回は(混み合っていないこともあって)今まで以上にじっくり見入ることとなった。

チラシおよび副題にある本作は、官女が牛車の上から菊の花を眺めるという平和な情景を描いたものだが、目を引くのは彼女らの髪の毛の細やかな表現。顔の横に落ちる部分は、それこそ1本1本が絡み合うように丁寧に描かれている。格子模様が施された牛車入り口の縁の部分は妙な感じがしないでもないけれど、着物の紋様や菊など細部の表現はやはり繊細で素晴らしかった。(重要文化財)

【狩野派】

『七福神図』 狩野常信 17-18世紀(江戸前期)

 部分

全長約6mの絵巻。大きく口を開けて笑う布袋、大黒点、福禄寿、恵比寿、上品な笑みを浮かべる弁財天。そしてそれぞれの神の周りに戯れる楽しげな唐子たち。目で追っていくうちにこちらも笑みがこぼれるような楽しい光景が展開していく。最後に登場する毘沙門天と福禄寿だけは笑っておらず、何やら二人で談義中。真剣な面持ちで語りかけている毘沙門天の話を、ちょっと冴えない思惑顔で寿老人が聞き入っている。この二人は楽しそうな他の神々をよそに何を語り合っているのだろう?

『明皇花陣図(めいこうかじんず)』 狩野常信 17-18世紀(江戸前期)

 部分

こちらも常信の約5mの絵巻。唐の玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃が、後宮で女官たちに花を持たせて競わせたという故事を描いたものだそうだ。桜や牡丹の花が先に付いた長い枝を槍に見立て、官女たちが互いを追いやる様子はふわふわと華やかでまことに雅。花で飾られた白い鹿もとても可愛い。

【文人画】

『久能山真景図』 椿椿山 (1837年)



真景図とは、「特定の場所の写生に基づいた図に対して江戸時代の文人画家が用いた呼称」だそうだ。ここに描かれる久能山は、静岡県の南東にあるとのこと。松の枝葉を一枝ごとに淡い色で囲んで色をつける描き方が面白い。真ん中の白い部分が上下を分断しているように見えなくもないが、これは霞の表現だろうか?(重要文化財)

【諸派】

『唐子遊び図』 伝 長沢芦雪 18世紀(江戸後期) 



中国で唐の時代から風雅の嗜みとされた琴・棋(碁)・書・画の四芸を盛りこんだ作品。とはいえ、画中では大人しくそれらの芸に勤しむお利口さんたちと、練習はそっちのけで大暴れの唐子たちが半々。碁石は飛び散り、取っ組み合いのけんかをしている子、他の子が書いた書の作品を頭上で引きちぎるいたずらっ子など、とてもやかましい感じ。自分の5歳の姪っ子と2歳の甥っ子の姿も思い出し、思わず笑ってしまった。(重要美術品)

【江戸絵画への視線(近代絵画)】

『名樹散椿』 速水御舟 (1929年)



初めて実作品と対面。想像以上に色彩が立体的で濃い、というのが第一印象。葉と花のシャープな描き方に対し、幹と枝は何というか西洋の絵本に出てくる木のような、平面的な色の塗られ方がされているように見え、ちょっと不思議な画面だった。(重要文化財)

本展は9月5日(日)までですので、ご興味のある方はお急ぎ下さい。

ついでにお勧めは、恵比寿三越で9月30日まで期間限定販売の“日光天然水のかき氷”。私は黒蜜で頂きましたが、イチゴや抹茶など色々な味が楽しめます。口の中に入った瞬間、綿菓子のようにフワリと溶ける食感はまさに絶品。B2です。

ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新

2010-08-17 | アート鑑賞
パナソニック電工 汐留ミュージアム 2010年6月26日(土)-9月5日(日)



まだ記憶に新しいルーシー・リー展でその名を知った陶芸家、ハンス・コパー(1920-1981)。今度は彼が主役の展覧会が開催中です。

まずはコパーについてちょっぴりおさらい。ドイツのザクセン州に生まれたコパーは、ユダヤ人であったためにナチスの迫害を逃れロンドンに亡命。そこで、同じくウィーンからロンドンに亡命して陶芸の工房を開いていたルーシー・リーのボタン製造の助手となり、やがてはリーの元で手ほどきをうけながら、自身も陶芸家の道を志すようになる。

本展では、そんなコパーの陶芸家としての創作活動の全容を紹介。結局彼は終生イギリスで活動を続けるのだが、創作拠点を4回移しており、大まかに作品の変遷と一致しているとのことで、四つの時代区分に括った構成となっていた。

では、少し作品を挙げながら、順に追っていきたいと思います:

1. 1946-1958 アルビオン・ミューズ

ルーシー・リー展の時も魅了された、オートクチュール用の美しいボタンの並ぶケースで幕開け。このボタン制作の助手を足掛かりに、コパーはリーの工房「アルビオン・ミューズ」で、本格的な陶芸の道へ進み始める。彼が轆轤で成形し、リーが釉薬を施して装飾するなどの作業も行われた。『頭部』(1953年頃)と題された女性の頭部のブロンズ像があったが、これは紛れもなく師匠ですよね?

『ポット』 (1954)



色彩豊かな釉薬が施されたリーの作品とは対照的に、コパーの作品は陶土の風情が活かされている。そしてその形状が独創的。土を思わせつつ土臭くないのは、その軽やかで洗練されたフォルムのためなのでしょうね。この作品も、ちょっとソラマメのようなふっくら感を持ちつつ、絶妙に柔らかい窪みが作られ、ほんのりとした陰影が素敵。

『ポット』 (1950年代前半)



轆轤でひいた4つの部分から成る作品。轆轤で成形した部分同士をつなぎ合わせる「合接」という手法が取られているそうだ。ボディの丸味のある部分(球体ではない)は、二つの鉢を口縁で合わせている。この作品のみならず、コパー作品の表面の質感は、何度もスリップ(泥しょう)をかけて乾かし、研磨し、掻き取るという工程を繰り返して出来たもの。

右側の小さな黒いポットは、1973年頃の作品。

2. 1959-1963 ディグズウェル

リーの元を離れたコパーは、ロンドンから北に約30kmのハートフォードシャーにあるディグズウェル・ハウスに活動の場を移す。ディグウェル・ハウスとは、「芸術家を建築家や企業に引き合わせることで社会参画させ、若い作家を支持すること」を目的に、ディグズウェル・アーツ・トラストによって設立された、芸術家たちの住居と制作の場を提供する施設。コパーはここで他ジャンルの芸術家と交流し、工業デザインや公共建造物の壁面装飾の仕事も行った(ヒースロー空港の外壁も手掛けた、と聞くとちょっと身近に感じる)。建築空間へのアプローチを示す「建築時代」といわれるのがこの時代。

ここでは何とスィントン・コミュニティー・スクールというイギリスのヨークシャーにある学校に設えられた、壁の装飾作品『ウォール・ディスク』(1962)が展示されている。初めての試みとのことだが、300x400cmの白壁に、コパーのオリジナルの装飾を再現した形で展示。ランダムに大小の穴が開けられ、それぞれの口縁に様々な形状の陶製の装飾がされている。丸穴から覗ける壁向こうの展示作品も一興。

3. 1963-1967 ロンドン

再びロンドンに戻り、ウェスト・ケンジントンやハマースミスで旺盛な制作活動。あざみ型の「ティッスル・フォーム」やシャベル型の「スペード・フォーム」をシリーズ化するなど多作の時期。ロッテルダムのボイスマン美術館でのリーとの共同展などを通じ、ヨーロッパでもコパーの評価が広まる。

『スペード・フォーム』 (1978)



制作年代はもっと後だけど、これがスペード・フォームの作例。確かにシャベルのような輪郭だが、丸みのある表面を持った独特のフォルム。

4. 1967-1981 フルーム

田舎暮らしへの憧れから、今度はロンドンから西に150kmほどのサマーセット州のフルームに移住。ここが終の棲家となる。

『キクラデス・フォーム』 (1975)



順調に作品を作り続けてきたコパーに最大の不幸が襲う。1975年頃から筋肉が委縮して機能しなくなる病を発症。それでも病と闘いながら、古代のキクラデス彫刻に刺激を受けた「キクラデス」シリーズの作品を作り続ける。

キクラデス彫刻というものを知らないので、お手軽にWikiでちょこっと調べてみた。それによると、キクラデス文明とは新石器時代から青銅器時代初期(紀元前3000年頃から2000年)にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明で、最も有名なのは極度に様式化された大理石製の女性像、とのことで画像も載っている。その洗練された形にビックリ、まるで現代彫刻。

コパーの作品に話を戻すが、展示ケースに並ぶキクラデス・シリーズの作品群は、小ぶりながら細身のシルエットで、シャープな感じ。一見シンプルに見えるが、よく見ると凝った形をしていて、考え抜かれたデザイン・バランスを感じる。

以上、ざっとコパー作品を見渡してきたけれど、どんな形にせよ深淵な存在感を静かに放っているような感覚が印象的だった。「どうやって、の前になぜ」という彼の残した言葉も深い。

最後はルーシー・リーの作品約20点も観ることができます。

本展は9月5日(日)まで。残暑厳しき折(それにしても今年は暑いですねー)、コパーの静謐な世界に涼を取るのもお勧めです。入館料は500円、しかも館内にあるカフェでソフトドリンクが半額になるチケットまで頂けます。

有元利夫展 天空の音楽

2010-08-10 | アート鑑賞
東京都庭園美術館 2010年7月3日(土)-9月5日(日)



展覧会情報はこちら

有元利夫(1946-1985)の個展は4年前に一度だけ、小川美術館で観ている。まだ画家のことをよく知らず、それが彼の命日に合わせて毎年そこで催されている展覧会であることも知らず、2月末の寒風に吹かれながら、市ヶ谷の駅から身を縮めて美術館までてくてくと歩いて行った。

あれ以来この美術館には足を運んでおらず、記憶もやや覚束ないけれど、一歩中に入った時のひっそりとした「石」のイメージと、時が沈殿しているような静寂感、そして最初に目に入った有元作品の前で、「ああ、この人は本当にフレスコ画が好きだったのだ」と思ったことはよく覚えている。私の大好きなイタリアの、ルネッサンス期のフレスコ画。展示室ではバロック音楽も流れていた。

この夏、今度は身体にまとわりつくような湿気の中、蝉の声が降りしきる東京都庭園美術館に有元の個展を観に行った。瀟洒なアール・デコの館で観る有元作品はまた素敵に違いない、とすでに心は躍っていた。

今回の個展は、展覧会名が語るように、有元が愛したバロック音楽が一つのアクセントになっている。実際のところ作品名にもオラトリオ、フーガ、ソナタなど音楽用語を用いたものが多いし(彼自身もリコーダーを吹いた)、今回はヴィヴァルディの「四季」など、彼の好きな楽曲から着想された版画作品を集めた展示室などもある。

本展の鑑賞でとても良かったのは、創作に関する彼の言葉が引用され、適度な間隔で作品の横に置かれていたこと。例えば、展示の最初の方には「素晴らしい音楽を画面いっぱいに鳴り響かせる―、いつかそんな作品を作ってみたい」という言葉があった。

『花降る日』 (1977)



先端がほんのりと赤く色づく可憐な白い花びらが、画面全体に舞う。上記の有元の言葉を思い浮かべてじっと観ていると、花びらが音符にも見えてくる。

美大の授業内容は存じないが、有元は東京芸大のデザイン科出身。明瞭で安定感のある事物の表現は、そのせいもあるのだろうか?それはともかくも、ほとんどの作品において描かれている登場人物は一人だけで、身体の線もわからないゆったりしたドレスを着ている。それらの点については、「なぜひとりなのか。簡単に言えば関係が出てくるからです」、「足を描くと、何をしているかがはっきりわかってしまう」という画家の言葉が聞かれる。普遍性を突き詰めた表現、という風に私には感じられる。

『ロンド』 (1982)



他の場所で紹介されていた言葉だが、バロック音楽について有元は「なるべく自然に、リズムにしても心臓の鼓動に合わせ、人間にとって何が心地よいかというところにすっと入ってきて、僕らを浮き上がらせてくれる」と語っている。この作品は、まさに彼のそんな言葉を思い出させるよう。下の4人の女性は輪を作り、一定のテンポでロンドを舞い続ける。宙に浮くような、心地よい繰り返し。

『花吹』 (1979)



学生時代に初めて訪れたイタリアで、ルネッサンス期のフレスコ画に強い感銘を受けた有元は、日本の仏画との共通点をも見出し、岩絵の具を使った独自の画風を確立する。この作品では、女性の頭上に輝く光輪、上部のアーチ型の壁、山河の情景など、割とストレートにルネッサンス期の教会のフレスコ画を思わせる。

ちなみに彼の大学の卒業制作は『わたしにとってのピエロ・デラ・フランチェスカ』(1973)と題された10点連作の作品。今回もそのうちの5点が展示されていて、有元の創作の原点を見るようでとても興味深い。本作は高く評価され、東京芸大のお買い上げとなったそうだ。

何となく気になって、アレッツォのサン・フランチェスコ教会にあるピエロの『聖十字架伝説』をちょこっと見てみたら、なるほど色遣いや雲の描き方など、有元がピエロからただならぬ影響を受けているような印象を受けた。

『光る箱』 (1982)



櫛のように緻密に走る金色の光の筋は、フラ・アンジェリコを始めルネッサンス期の宗教画を想起させるが、金粉はとても和的。そういえば、私は岩絵の具のことはわからないけれど、確かにフレスコ画を思わせるマチエールを持った日本画家の作品をいくつも観たことがある。

『星の運行』(1974)㊧と、『花火』(1979)㊨

   

「音楽を聴いても、その陶酔感は僕の中で浮遊に結びつく。だからそれを絵としても表現したい時、それこそまさに通俗に徹し、臆面もなく文字通り人間や花を点に昇らせてしまうわけです」との言葉通り、ここに挙げた作品では二人とも身体が宙に浮いている。『星の運行』の方では花も舞い、「花はめでたい時、歓喜の時に降ってくる」との言葉を思い浮かべれば、これはとてもハッピーな高揚感を表わした作品かもしれない。『花火』は、それこそ女性が花火と一緒に空へ打ち上がってきそうな勢い。まさに天にも昇る気持ち、ということだろうか?

ところで、私は以前誰かに「なぜフレスコ画が好きなのか」と聞かれ、風合い、とだけ答えたことを思い出した。有元はフレスコ画について「風化というのはとりもなおさずものが時間に覆われることだと思う。いかにも時間そのものが喰い込んでいる感じがして気持ちが安らぐ」と言っている。

まさにそういうことなのかもしれない。クリスチャンでもない私が、イタリアで飽くこともなくフレスコ画で有名な教会を巡り、宗教画の大画面に囲まれて得た心の安寧は、時の堆積に包み込まれる安堵感のようなものだったのだろう。

『出現』 (1984)



有元利夫は38歳の若さで世を去ってしまった。でも彼自身の様式で創り出した「風化した画面」は、これからもずっとそこにあり続け、俗世で右往左往している私のような人間に、「人生なんてあっという間。落ち着いていきなさい」と語りかけてくれることだろう。

本展は9月5日(日)まで開催です(第2・4水曜日がお休みなので、8月11日、25日は閉館)。尚、8月14日(土)から8月20日(金)までは夜8時まで開館するそうです。きっと夜も素晴らしい空間が出現することでしょう。

オルセー美術館展2010 「ポスト印象派」

2010-08-05 | アート鑑賞
国立新美術館 2010年5月26日(水)-8月16日(月)



展覧会の公式サイトはこちら

パリにあるオルセー美術館の、印象派及びポスト印象派の展示室の改装に伴って実現した、世界を巡回する「ベスト・オブ・オルセー」展。「モネ5点、セザンヌ8点、ゴッホ7点、ゴーギャン9点、ルソー2点をはじめとする絵画115点が、オルセー美術館からごっそり来日(うち初来日の作品は約60点)」とある。因みに日本の前にはオーストラリアのキャンベルで開催、日本では東京のみの開催で、このあとサンフランシスコのデ・ヤング美術館に巡回するらしい(2010年9月25日-2011年1月18日)。

ついでに言えば、このデ・ヤング美術館は現在、やはりオルセー美術館からの貸し出しで”Birth of Impressionism”という展覧会を開催中(9月6日まで)。こちらにはエドゥアール・マネの『笛を吹く少年』なども巡業に出されている模様。オルセー美術館、凄いですね。

話を東京に戻し、恐らくもう二度と見ることのできない空前絶後の展覧会という言葉に背中を押され、私も夏バテ気味の身体に鞭打って行って参りました。実際のところアンリ・ルソー『蛇使いの女』と、ギュスターブ・モロー『オルフェウス』だけはどうしても観たかったので。

ということで、さっさと本題に入ります。

印象派以降、絵画作品は大きな様式というもので括れなくなり、「個」の時代に入って行く、というようなことが美術書の類に書いてあるが、それを裏付けるかのように本展では以下の通り10もの章に分けられていた:

第1章 1886年―最後の印象派
第2章 スーラと新印象主義
第3章 セザンヌとセザンヌ主義
第4章 トゥールーズ=ロートレック
第5章 ゴッホとゴーギャン
第6章 ポン=タヴェン派
第7章 ナビ派
第8章 内面への眼差し
第9章 アンリ・ルソー
第10章 装飾の勝利


では、個人的に惹かれた作品を挙げていきます:

『ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光』  クロード・モネ (1904) *1章



ビッグ・ベンの愛称で親しまれる時計台で有名なロンドンの国会議事堂。建物としてはウェストミンスター宮殿と言うべきなのかもしれないが、いずれにせよこの作品では、その建物のヴィクトリア・タワーと呼ばれる部分とその周辺のあたりが描かれている。

否、主役は霧の中に差し込む陽光と、テムズ河の川面に映るその反射光。

フランスのセーヌ河は女性的、イングランドのテムズ河は男性的、とよく言われる。周りの建物の雰囲気が多分に影響していて、このチャールズ・バリー設計によるロンドンの国会議事堂の、垂直が強調されたゴシック風建築にも確かにあまり色気は感じられない。そんな場所をも、モネはこんな風に美しい色彩で、叙情的に描き上げてしまう。ロンドンの霧は私も住んでいた頃に体験したけれど、こんな風に陽光が射すのなどついぞ見たことがなかった。単にロンドンの大気の状態がモネが滞在していた頃と異なるのか(昔は工場からの煙が凄かったとは聞くけど)、自分のイマジネーションが欠落していたのか?

1章では、この他アルベール・ベナール『ロジェ・ジュルダン夫人』(1886)が良かった。夕闇に浮かぶ顔に控え目に入れられた陰影も自然で、一歩踏み出したような夫人の動きもワルツを踊っているように優雅。この作品と対をなすように隣に並んでいたアンリ・ジェルヴェクス『ヴァルテス・ド・ラ・ビーニュ夫人』(1889)は、ポーズ、衣裳とも暑苦しい印象だったので、余計前者が軽やかに観えたのかもしれない。

『ポーズする女、後ろ向き』と『ポーズする女、横向き』  ジョルジュ・スーラ (1887) *2章



スーラに関しては完成された緻密な点描技法の作品しか観たことがないので、この章の冒頭にある、少年の口の痕跡がわからないほど粗めのブラッシュ・ワークで描かれた『青い服の少年農夫(競馬騎手)』(1882年頃)が目に入るや、おおっ!となった。そして点描作品の代表作『アニエールの水浴』や『グランド・ジャト島の日曜日の午後』の習作なども並び、彼の構築した「網膜上での混色」技法に至るまでの変容を垣間見ることのできる、大変興味深い一角となっていた。しかしながら分厚い人壁に負け、じっくり作品をそばで見られなかったのは至極残念。

『水浴の男たち』  ポール・セザンヌ (1890年頃) *3章



私は単純に、セザンヌの斜めに走る筆触と色遣いが好き。「堅牢な画面」と言われる通り、確かに見事な三角形の構図だなぁ、と思いつつ、右側の雲に原色に近い赤や黄色がちゃちゃっと入っている辺りにも目がいく。

『自画像』  フィンセント・ファン・ゴッホ (1887) *5章



いろいろな色をすくっては、マッチ棒のような短い線をキャンバスに引きながら構築していった自分の顔。目の周りの青はとても大胆。顔や頭髪が、まるでハリネズミの身体を覆う針のごとし。

『星降る夜』  フィンセント・ファン・ゴッホ (1888) *5章



群青の夜空に瞬く北斗七星の放つ光は闇ににじむ。南仏の眩しい陽光に憧れ、その中に照らし出される明るい風景を描き出そうと一心不乱に絵筆を動かしたゴッホも、夜になるとそのほとぼりが冷める一瞬があったかもしれない。孤独感に襲われ、彼の目に涙がにじんでいたりしたのだろうか、などとつい感傷的にもなる作品。

『紫の波』  ジョルジュ・ラコンブ (1895-96) *6章

海に面してハート形のような口を開いた暗い洞窟の内部から、こちらに向かってなだれ込む波を捉えた変わった情景。波頭を立てるその薄紫色の波は雲のようでもあり、日本の江戸絵画のようでもあり。

『護符(タリスマン)、愛の森を流れるアヴェン川』 ポール・セリュジェ (1888) *7章

小品だが、景色の中にある事物を色の塊に捉えて描かれている抽象画のような作品。画面上の、色の調和がとても美しい。解説によると、画家がアヴェン川のほとりで描いているときにゴーギャンがやってきて助言したそうだ。“黄色に見える木には黄色を、青く見える影にはウルトラマリンを、赤い葉にはヴァーミリオンを”。絵心とはそういうものなのでしょうね。

『ボール(ボールで遊ぶ子供のいる公園』 フェリックス・ヴァロットン (1899) *7章

2007年のオルセー展で初めて観た時もインパクトのあったこの作品に再会できて嬉しい。現実感と白昼夢を見ているような感覚が同時に襲ってくる不思議な作品。

『オルフェウス』  ギュスターヴ・モロー (1865) *8章



想像通り美しい作品。しかしながらここに至る間にすっかり目がポスト印象派の作品群に慣れてしまったようで、この作品の前に立ったら妙に「古い絵」に感じたのには自分でも驚いた。今回出展された115点の中で制作年が最も古い作品でもあり、ある意味浮いてしまうのは仕方ないのかもしれないが。

『目を閉じて』 オルディ・ルドン (1890) *8章

逆にこの絵はすーっと心に入ってきた。海を思わせる水平線の上に唐突に現れる、肩から上の女性の顔。右肩を前に差し出し、やや右に首を傾け、顔と首の左側に淡い光が当たる。両目と口元は固く閉ざされ、深淵なる面持ち。青味がかったグレー・トーンの背景も素敵な色で、それまで人波をかき分け、つま先立ちで絵を観てきた疲れを癒してくれるような作品だった。

『蛇使いの女』  アンリ・ルソー (1907) *9章



『戦争』(1894年頃)と共にルソーの2作品のみで構成された9章の部屋。2作品のみと言っても、そのどちらも物凄い求心力を放つ。ルソーは独学で絵を修めた素朴派の画家と紹介されるが、自分も素人のせいか、この『蛇使いの女』の画面構成などお見事!と言いたくなる。鬱蒼としたジャングルを右4分の3に収め、空いた左側に月とピンクのフラミンゴ。折り重なる様々な葉の色調も驚くほど丁寧に描き分けられていて、その部分をじっと観ているだけでも楽しい。

ということで、この展覧会も残すところあと10日余り。もしこれから観に行かれるのであれば、夜8時まで開いている土日の5時以降が比較的混雑が少なくなっているとのことです(サイトからの情報)。

誕生!中国文明

2010-08-03 | アート鑑賞
東京国立博物館 平成館 2010年7月6日(火)-9月5日(日)

本展の公式サイトはこちら



「中国文明」と言われると、“数千年の歴史”という言葉がのしかかり、不勉強な私など身構えてしまうのだが、今回はあっけらかんとした展覧会名と、チラシの可愛いヒヨコちゃんに誘われるまま、とりあえず会場に行ってみた。

展示室では、恐らく何度も中国に行かれたことがありそうな年配のご婦人方が、解説パネルを見上げながら「殷と商が同じなんてビックリねぇ」などと言い合い、作品に解説を加えたりしていたが、私のようなビギナーには次から次へと立ち現れる多様な作品たちの造形が単純に興味深く、肩肘張らずに楽しめる展覧会でありました。

感想に入る前に、サイトを参照しながら少しばかり本展のご説明を。今回お目にかかれるのは、中国の河南省で出土した青銅器、金銀器、漆器、陶磁器、壁画、彫刻、文字資料など約150点の作品群。その河南省とは、黄河中流域に位置し、中国最初の王朝と言われる夏(か)の中心地であったとされ、以降、商(殷)、東周、後漢、魏(三国時代)、西晋、北魏、北宋などの王朝が都を置いた地域。夏が始まった紀元前2000年頃から北宋が滅亡した12世紀頃まで、中国の政治、経済、文化の中心地であった。

ということで、紀元前18世紀頃から紀元12世紀頃までの作品が並ぶ、いわば中国文明のエッセンスを垣間見られる展覧会かもしれません。

では、個人的にインパクトのあった作品を少し挙げていきます:

第1部 王朝の誕生

『動物紋飾板(どうぶつもんかざりいた)』  夏時代・前17~前16世紀



チラシで見て以来、一体どんな作品なのだろうと思っていたのだが、いざ対面したら全長16.5cmの小さなものだった。とはいえ、モザイクのように敷き詰められたトルコ石が織りなす面は、何となくクレーの色面構築を思い出させたりもし(こんなに濃い緑青色の作品はないかもしれないけど)、色が好みのせいもあってその美しさにしばし見入った。被葬者の胸の位置で発見されたそうで、顔の横に両手を揃えて伏すキツネに似たこの動物は、つり上がった目で邪気を払いながら主人を護っていたのかもしれない。

『白陶盉(はくとうか)』  夏時代・前18~前17世



独特の形状をした3本足は空洞で、立脚するためのみならず、この部分にも液体が入ることになる。安定感のあるこの器の何かが私をとても惹きつけるのだが、じっと見詰めてもそれが何なのかよくわからず。

『兕鐄(じこう)』  西周時代・前11~前10世紀



肉を煮るための堂々たる『方鼎(ほうてい)』、罪人を処刑するための刑具である『鈌(えつ)』など、大小様々な青銅器が並ぶ一角にちょこんとあった、液体を注ぐための器。古代中国の青銅器には造形と装飾に優れたものが多いとのことだが、建造物を思わせるような構築美を放つ作品が多い中、蝸牛のようなのんびり感が漂うこの作品は可愛い部類。

尚、もう少し進むと、肉を盛る大ぶりな鼎(てい)が9口、穀物を盛る簋(き)が8合、同じく食べ物を盛る鬲(れき)が9口という大所帯セットが、一つの大きな展示ケースにズラリと並んでいて壮観だった。

『玉壁(ぎょくへき)』  西周時代・前11~前10世紀



磨くと美しい色を発する石を「玉(ぎょく)」と呼ぶ。本展ではその玉を素材とした様々な作品が並んでいるが、壁(へき)は中心に小さい穴のあいた平たい円盤のことを言うそうだ。石は硬いから、現代の研磨機のない時代に人の手のみでこのようにまん丸く造形したり、穴をあけたりするのはとても大変だったことでしょう。しかもこの作品は、中央の穴の周縁部だけ数ミリ高く残してあるという手の込みよう。この玉壁から「完璧」という言葉が生まれたそうです。

『盉(か)』 春秋時代(黄国)・前8~前7世紀



青銅製の容器。先端がくるくると丸まった把手のせいか(注ぎ口との位置関係はちょっと変だけど)、丸っこい胴体が子ブタの後ろ姿みたいで単純に可愛らしく思えた。上部の面には「獣面紋」と言われる象形文字のようなものが刻まれている。そういえば、盉とは香草の煮汁で酒に香りをつけるための容器だそうで、他にもそんな説明の器が出てくる。どんな味のお酒だったのか、ちょっと気になるところ。

『金縷玉衣(きんるぎょくい)』  前漢時代・前1世紀



玉が死体を腐敗から守ると信じられていたため、皇族や王侯貴族は亡くなるとこのような玉を縫い合わせた衣で全身を覆ったそうだ。全長180cmもあるこの作例では2008枚もの玉札が使われており、寸分の隙間なく縫い合わされ、頭頂部も丁寧に円形に覆っている。付随展示されていた耳栓、鼻栓、口に含む蝉型含玉(がんぎょく)、手に握る玉豚(ぎょくとん)も全て玉製。

第二部 技の誕生

高さ180cm以上ある『七層楼閣』(後漢時代・2世紀)に迎えられる第二部は、「暮らし」「飲食の器」「アクセサリー」という三つのテーマの下、陶製、金製、銀製、玉製、ガラス製など様々な素材の作品が並ぶ。

『金製アクセサリー』 (左)と『金製耳飾り』 (右)、共に北宋時代・11~12世紀



何とも精緻な細工。金製アクセサリーは下部の一番大きな石が取れてしまっているが、どんな宝石が入っていたのだろうと想像するのも楽しい(ルビーなどいかがでしょう?)。耳飾りの方は全ての石がなくなってしまっているが、入っていたらさぞやゴージャスだったでしょうね。

第三部 美の誕生

『神獣』  春秋時代・前6~前5世紀



舌を出す怪獣の頭上には6匹の龍、背中には小さめの龍のような怪獣が立ちあがり、更にその口にも龍がくわえられている。何となく中国雑技団の力技的バランス感覚を思わせた。

『神獣多枝灯(しんじゅうたしとう)』  後漢時代・1世紀



こちらも入り組んだ造形の作品。3層構造の燭台で、人やら動物やらがにぎやかに装飾している(一番下の台座には28体もの動物と人が時計回りに貼りつけられているそうだ)。動物の角か木の枝のように飛び出す龍たちの背には、帝天の使いであるという羽の生えた「羽人(うじん)」たち。てっぺんが鶏というのがちょっとメルヘンチックでもあり、いわば後漢風シャンデリアとでも言いましょうか。

『卜骨(ぼっこつ)』  商時代・前13~前11世紀

画像は省くが、動物の骨に刻まれた甲骨文字。中国で文字が始まったのは前13世紀頃で、当然紙はまだなかったため、亀の甲羅やこの作品のように動物の骨に刻まれた。この甲骨文字が現在知られている中国最古の本格的な文字とのこと。このコーナーでは、他に青銅、石、竹の上などに刻まれた漢字の先祖たちが見られる。その中の1点、黒い石に端正に漢字の列が刻まれた『王尚恭墓誌(おうしょうきょうぼし)』(北宋時代・11世紀)は見惚れるほど美しい。全ての文字を彫り終えるまでに、一体どれほどの時間がかかったのでしょう?

『画像磚(がぞうせん)』  南北朝時代・5~6世紀



磚(せん)とはレンガのことで、これを積み上げて造った墓室を「磚室墓」と言うらしい。その磚に紋様を施したのがこの作品。西洋の礼拝堂の壁面を装飾するフレスコ画に近いのかな?などと思いながら眺めた。本展では、その作例として6点が並ぶが、画像に取り込んだのはそのうちの『出行図(しゅっこうず)』と題された2点。上の作品では男性4人が弓矢や盾を持って行進し、下の作品では女性たちが香炉や傘を持って歩いている。とりもなおさず色彩が美しいことと、衣服のモダンさが印象的だった。

本展は、東京で9月5日(日)まで開催した後、以下の予定で九州と奈良を巡回します:

九州国立博物館 2010年10月5日(火)~11月28日(日)
奈良国立博物館 2011年4月5日(火)~5月29日(日)

カポディモンテ美術館展 ルネサンスからバロックまで

2010-07-12 | アート鑑賞
国立西洋美術館 2010年6月26日(土)-9月26日(日)

本展の公式サイトはこちら




A4サイズの二つ折りといっても、このように1枚の絵を縦にデザインしたチラシは珍しい。広げた瞬間ウキウキしてしまった方も多いのでは?

この絵を日本に送り出してくれたのはカポディモンテ美術館。この美術館が日本で紹介されるのは初めてとのことなので、まずはその概要についてサイトから転載しておきます(青字部分):



ナポリを見下ろす丘の上に建つカポディモンテ美術館(「カポディモンテ」とは「山の上」の意味)は、イタリア有数の美術館のひとつです。1738年にブルボン家のカルロ7世(後のスペイン王カルロス3世)によって建造が開始された宮殿が、そのまま美術館となっています。そもそもこの宮殿は、美術品を収納・展示することを目的のひとつとして建てられたものでした。というのもカルロは母エリザベッタ・ファルネーゼからファルネーゼ家の膨大な美術品コレクションを受け継いでいたからです。

コレクションが展示されるようになると、ナポリを訪れる文化人たちは競ってここを訪れるようになります。その中にはドイツの文豪ゲーテら、名だたる知識人、画家たちがいました。その後さまざまな変遷をたどった後、国立美術館として一般に公開されることとなりました。ファルネーゼ家およびブルボン家のコレクションを中核としながら、その後もコレクションの拡充を続け、現在の姿となっています。

本展では前半にファルネーゼ家が収集したルネッサンスからバロックまでの作品、後半はブルボン家が蒐集した17世紀のナポリ絵画を紹介。絵画、彫刻、工芸、素描と約80点の作品が並ぶ。

では、構成に従って印象に残った作品を挙げていきます:

Ⅰ イタリアのルネサンス・バロック美術

『貴婦人の肖像(アンテア)』 パルミジャニーノ (1535-37年)



暗緑色の背景の中、豪華な衣装を身にまとってすっと立つ麗人。解説にある通り、真正面ではなく、やや右肩を差し出すポーズを取っている。その右肩にかかる貂の毛皮は、口から小さくも鋭い牙をむき出していて、ギョッとする。

貴婦人、もしくは高級娼婦でパルミジャニーノの愛人アンテアであると言われているらしい。一度娼婦と聞くとそのインパクトが尾を引き、襟元から覗く胸元がやや淫蘼に感じてしまう。西洋のドレスによく見るように、四角、あるいは丸い形に襟が大きく開いて、胸が堂々と見えていたらそんなことは思わないだろうに、この着物のような襟元からチラリと見えるあたりが、日本人の私に必要以上にそう感じさせてしまうのかもしれない。

この作品を描いたパルミジャニーノは、その名の通りパルマ出身の、マニエリスムの画家。ファルネーゼ家は、1534年に一族のアレッサンドロ・ファルネーゼがパウルス3世としてローマ教皇に即位して以来、16世紀に大きく勢力を伸ばした。パルマ公国も支配したため、パルマ出身の画家の作品も多く蒐集されている。解説には、他にファルネーゼ家とつながりのある芸術家としてミケランジェロ、ティツィアーノ、グレコの名があった。

そういえば、数年前に3チャンで放映していた「世界美術館紀行」でカポディモンテ美術館が取り上げられ、コレクションの中から、ティツィアーノが描いた『パウルス3世と二人の孫(アレッサンドロとオクターヴィオ)』が紹介されていたのを思い出した。自分の息子を司教にしたいがために、パウルス3世の注文に応えてせっせと肖像画を描くティツィアーノと、なかなか約束を飲まないパウルス3世との駆け引きが非常に興味深かった。

『マグダラのマリア』 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ (1567年)



フィレンツェのピッティ美術館所蔵の作品と全く同じポーズを取るマグダラのマリア。裸体であるフィレンツェの作品と異なってこちらは着衣のマリアで、服の縞模様が印象的。香油をキリストの足に注いだことになっている彼女の持ち物、油壺が左端に見える(この画像では切れてしまっているが)。

作品のそばに「対宗教改革と美術」という解説パネルがあり、1563年のトレント公会議で美術の役割が明確になったとの説明があった。要するにカトリック信者の信仰心をかきたてるための美術作品を、ということだが、そのためヌードを描くことも難しくなってしまった。よって、1533年頃に描かれたピッティ美術館のマリアはヌードであったが、この作品ではティツィアーノは服を着せ、改悛を示す頭蓋骨や本も追加している。

『リナルドとアルミーダ』 アンニーバレ・カラッチ (1601‐02年)



16世紀末頃に書かれた、タッソーの叙事詩『解放されたエルサレム』からの場面。十字軍の騎士リナルドを殺そうとした魔女アルミーダであるが、リナルドの魅力にすっかり参ってしまい、魔法をかけて自分の恋人にしてしまう。

この作品は、ずばり視線のドラマ。大きな瞳が蠱惑的なアルミーダに抱かれたリナルドは、彼女の瞳に映る自分を見上げ、かつ自分が映り込んだ彼女の瞳をアルミーダ自身にも見せようと鏡を差し出している図(ややこしいが)。そして左側にそんな二人を見詰める二人の騎士の顔が。ちょっと唐突に顔が出ているようで笑ってしまったが、彼らはリナルドを救出に来た十字軍の仲間。でもなんだか救出に馳せ参じたというより、草むらに隠れていちゃつく恋人を覗き見ているような図に見えなくもない。

このあたりから、17世紀始めの30年間に制作された初期バロック作品が並ぶ。パルマ及びピアチェンツア公のオドアルド・ファルネーゼ枢機卿はアンニーバレ・カラッチを重用し、その弟子グイド・レーニらも庇護した。

『アタランテとヒッポメネス』 グイド・レーニ (1622年頃)



絵だけぱっと見ても、二人のダイナミックな動きが目に飛び込んでくるものの解説を読まないと何の場面かよくわからない。アタランテは美貌、俊足、男嫌いで有名な女神で、求婚者は願いを叶えるために彼女に駆け足で勝たなければならず、負けると殺されてしまう。挑戦者の一人ヒッポメネスは策を練り、愛の女神ヴィーナスからもらった三つのリンゴを競走中順次落としていく。アタランテもまんまとその作戦に引っ掛かり、この画中では2個目を拾っているところ。後ろに回したヒッポメネスの左手には3個目が握られていて、レース後半のここぞと言う時に投げられるのでしょう。しかし、このふくよかなお腹周りで疾駆するアタランテは迫力がありそうですね。

『ヘラクレスとエリュマントスのイノシシ』 ジャンボローニャ (16世紀第四四半世紀)

昔行ったフィレンツェのバルジェッロ美術館で、何の前知識もなくジャンボローニャの動物のブロンズ像群に対面した時は、「ブロンズでこんなに繊細に造れるのか」と驚いたものだった。小さい作品ながら、この展覧会で期せずして彼の作品にお目にかかれて嬉しい。本作品もイノシシの毛並や、ヘラクレスの手の甲の血管など、細やかな表現が美しい。

Ⅰ章の余談:ジョルジョ・ヴァザーリ『キリストの復活』(1545年)という作品があるが、不謹慎ながらキリストがゴールを決めて得意げに走っているサッカー選手に見えて仕方がなかった。W杯、終わっちゃったなぁ。。。 シャビなんて、バロック絵画にぴったりの顔だった。

Ⅱ 素描

この美術館には、約2500点もの素描作品が所蔵されているそうだ。Ⅰ章に展示されていた油彩画『聖母子とエジプトの聖マリア、アンティオキアの聖マルガリタ』の作者、ジョヴァンニ・ランフランコに関しては476点も収められているとのこと。

この類の作品は保管が難しい故、数百年の年月を経て残っているだけでも貴重であるし、グイド・レーニ、パルミジャニーノ、ポントルモらの素描が一度に観られたのは嬉しい限り。ポントルモ『正面から見た馬と二つの手の習作』(1522‐25年頃)では、馬の横の空白に人間の二つの握りこぶしが黒鉛筆でラフに描かれているが、画家の試行錯誤がリアルに伝わってくるようだった。

Ⅲ ナポリのバロック絵画

17世紀のナポリは港町として、スペイン、フランドル、オランダ、イギリス、ドイツなとど取引があり、それらの国の商館も建てられた。人々の流入も増え、世紀半ばには人口が45万人に達し、高層建築も出現。1692年には宗教建築が504もあったという。教会の注文をさばくべく、画家も大忙しだったことでしょう。というわけで、この章では宗教絵画がズラリと並ぶ。

『聖アガタ』 フランチェスコ・グアリーノ (1641‐45年)



17世紀当時のナポリはバロック美術の中心地の一つ、と聞いて反射的に思い出さなくてはならないのがカラヴァッジョ(勿論私は解説を読んでから膝を打つ)。この作品でも、主人公が暗い背景の中に光を当てられて浮かび上がり、その描き方にカラヴァッジョの影響を見なくてはならないのでしょうが、肌の青白さはどちらかというとレーニのそれに近い気もする。ちなみに聖アガタは、シシリア島のローマ総督の求婚を信仰心ゆえに断ったため、拷問の末に鋏で乳房を切り取られた聖女。聞くからに痛ましい話だが、この作品で血の吹き出る胸を押さえてこちらを見据える聖アガタの表情は、「これで気が済んで?」と言わんばかりの強さを感じる。

『エデュトとホロフェルネス』 アルテミジア・ジェンティレスキ (1612-13年)



この時代に、女性の画家がこのような作品を描いていたことにまず新鮮な驚きを覚える。ユディトが、酒に酔って眠りに落ちたアッシリアの将軍ホロフェルネスの首を切り落とすという、お馴染みのシーン。ホロフェルネスの顔を押さえてまさにその首にナイフを立てるユディトや、彼女を補佐して将軍を押さえつける侍女の表情、寝具に流れ落ちる血、とカラヴァッジョの同題の絵よりも迫真に満ちている。

『「給仕の少年を助けるバーリの聖ニコラウス」のための下描き』 ルカ・ジョルダーノ (1655年)



ナポリ人の画家、ジョルダーノ。ヴェネツィアに滞在していたこともあるので、ヴェネツィア派の影響も指摘される画家だが、この作品もきれいな三角形の構図の中に、厳格さより甘美な雰囲気を醸し出している。解説によると、ここに描かれているのは異教の残忍な王の奴隷にされた貴族の少年が、聖ニコラウスに助け出されるシーン。少年が手にお盆を持っていて、ちょうど給仕の仕事の最中に救い出されたというエピソードが大衆の信者に身近な感じを与えるのでしょう。

9月26日(日)までのロングラン開催です。

ストラスブール美術館所蔵 語りかける風景

2010-07-09 | アート鑑賞
Bunkamura ザ・ミュージアム 2010年5月18日(火)-7月11日(日)



公式サイトはこちら

「ストラスブール美術館のコレクションがまとまったかたちで紹介されるのは、日本で初めてとなります」とある。まずストラスブールについておさらいですが、フランス北東部、ドイツやスイスと国境を接するアルザス地域圏の首府であります。1944年以降はフランス領となりますが、それまでその領有をめぐりドイツと争った地域。本展にも、デオフィル・シュレールという画家の描いた『1814年の戦いの逸話』(1879)という、ドイツ軍に身の丈もありそうな長い銃を向けるアルザスの女性兵士を取り上げた作品が出ています。ドイツ国境沿い、ライン川左岸にあるストラスブールは、現在はドイツ文化の香りが濃い文化都市で、かつグルメな街でもあるそうです。

そんな都市にある美術館から、19~20世紀の風景画約80点が並ぶのが本展。風景画といっても多様な作品が紹介されており、個人的には知らない画家も多くて楽しめました。

構成は以下の通り:

1.窓からの風景―風景の原点
2.人物のいる風景―主役は自然か人間か―
3.都市の風景―都市という自然―
4.水辺の風景―崇高なイメージから安らぎへ―
5.田園の風景―都市と大自然を繋ぐもの―
6.木のある風景―風景にとって特別な存在―


では、印象に残った作品を挙げていきます:

『女性とバラの木』 ギュスターブ・ブリオン (1875)



私はさほど花に関心がないのだが(この点については、ガーデニングが趣味の母からいつも激しく非難される)、バラというと昔2年滞在したイングランドと結びつき、ノスタルジックな想いにとらわれる。放っておいてもどこまでも蔓を伸ばし、見上げる高さにたわわに花を実らせるその野性的力強さや、6月になると街がバラの芳香で包まれたりするのには新鮮な驚きを覚えた。

この作品からは、とりわけある情景が思い出される。イングランド西部のブリストルという町で、7歳の女の子のいるイギリス人家庭にホーム・ステイしていたときのこと。夏は夜10時くらいまで真昼のように明るい北国、夕食が終ると彼女はよく、「ねぇ、バラの花びらを摘みに行こう」と私を誘った。近所に大きな公園があり、芝で覆われた地面のあちらこちらに楕円形に掘られたバラの花壇があって、赤、ピンク、白、黄色と色とりどりのバラが色ごとに植えられていた。ちょうどこの作品に描かれているように柵もなく、広い芝地と花壇のランダムな間隔が自然でとても美しかった。「どの色が一番いい香りだろうね」などと言いながら、花に顔を近づけて香りを嗅いでは花壇から花壇へとのんびり歩き、しゃがんでは落ちているバラの花びらをビニール袋に入れる、という他愛もないひと時。

付け足しのようになってしまうが、この作品の女性の、口元に当てた指がバラの花弁のように可憐だった。

『年老いた人々』 モーリス・エリオ (1892)



点描風の画風で、眩しい光を感じる作品。逆光の陰の中に描かれる老夫婦の顔と、老人の髭や女の子の三つ編みに照り返す光の粒の明暗対照がとても効果的に描かれていた(ポストカードでは潰れてしまっているが)。

『ガロンヌ河畔の風景』 イポリット・プラデル (制作年不詳) 



パレットナイフを使って描いたという左の大木の立体感、存在感が素晴らしかった。

『ヴォージュ地方の狩り』 アンリ・ルベール (1828)



何とも不思議な感覚の絵だった。獲物の猪が横たわっているので、狩りの終わったところか、谷から湧きおこる雲を見ながら狩りの続きの画策を練っているところなのか、滑らかな岩肌の上に人々や犬たちがたむろしている。それらがまるでプラスティックのフィギュアのような感触。右に描かれた木々はフランドル風なのだが。

『ヴュー=フェレットの羊の群れ』 アンリ・ジュベール (1883)



別段珍しい作品ではないが、またしても個人的記憶が甦り、ついポストカードを買ってしまった。随分前だが、夏休みを取った私はイングランド中央部の牧草地を一人ぶらぶら歩いていた。そして前方からやってきたイギリス人ハイカーたちに、こともあろうに羊飼いに間違われたのだった。いつの間にやら子羊が3匹、私の後ろについて歩いていることに私は全く気づいていなかった。

『木の幹の習作』 テオドール・ルソー (1833)



習作にしてはとても完成度が高い作品だと思った。何故か幹が人間の終焉の姿にも見え、メメント・モリの主題を想起した。

『サン=クルー公園』 ヴァシリー・カンディンスキー (1906)



筆触の妙。

この他、雲の速い動きを追ったジョルジュ・ミシェル『雷雨』(1820-30年頃)や、モーリス・ド・ヴラマンクのひしゃげたような『都市の風景』(1909)、漆黒の中に赤、青、緑がちらつくマックス・エルンスト『暗い海』(1926)等、いろいろ印象に残った作品があった。6章に渡って丁寧になされた解説は読んでいても勉強になったし、一口に風景といっても様々な切り口があること、そして「絵になる風景」は画家が「絵にしている」のだと改めて思った。

会期は明後日、7月11日(日)までです。

モーリス・ユトリロ展 パリを愛した孤独な画家

2010-07-05 | アート鑑賞
損保ジャパン東郷青児美術館 2010年4月17日(土)-7月4日(日)
*会期終了



日本の美術館や展覧会でも、割とよく作品を目にする機会が多いユトリロ。本展の出品作品はすべて日本初公開とあったので、そんなこともあるのかと最終日に駆け込んだ。このじめじめと湿っぽい梅雨時に、冷んやりと空調の効いた展示室であの白い世界に囲まれ、涼めるかもしれない、などと思いつつ。

しかし現実は甘くない。午前10時台に行ったが、目の前には蛇行して並ぶ鑑賞者の長い列と、スタッフの掲げる「ここが最後尾です」のパネル。20分待ちというスタッフの声にいきなりゲンナリしてしまったが、最終日だから選択の余地なし。

やっと42階に上がれて、とりあえず入り口の解説パネルを読む。どうも今回出品されている90点余りのユトリロ作品は、ヨーロッパ有数の美術品所蔵家のコレクションらしい。

結果からいって、誰もがユトリロと聞いて思い浮かべるであろうパリの白い街並みを描いた「白の時代」(1910年から16年頃)の作品は少なかった。ついでに鑑賞者が多くて(自分もその構成員の一人だけど)、展示室の中もそれほど涼しくなかった。が、展示室を進むごとに現れる解説を読んでいくうちに、アルコール依存症と漆喰だけでは語れない、余りに悲惨な彼の人生を改めて知って、憐憫を通り越して暗澹たる気持ちになってしまった。

では順を追って感想を残します。

まずモーリス・ユトリロ(1883-1955)の生い立ちから。亡くなったのはつい50年ほど前と、思いのほか最近の画家であることに気づく。

母はシュザンヌ・ヴァラドン。ルノワールなどの絵のモデルをしつつ自らも絵を描き、様々な画家と浮名を流した女性。モーリスの父親にしても、スペインの画家ミゲール・ユトリロが認知してくれたものの実父は定かではないらしく、いわゆる私生児としてパリに生まれたことになる。母は夫との生活や自分の絵のことなどに忙しすぎて息子のことは顧みず、放ったらかしにされたユトリロは中学生の頃から飲酒癖があったという。

さて、展示は「モンマニーの時代」から始まる。ユトリロはアルコール依存症の治療のためにパリの精神病院に入院し、退院後、21歳のときから治療の一環として絵を描き始めるのだが、その頃移り住んだのがモンマニー。展示されている風景画からは、緑豊かな小さな村が想像される。正規の美術教育を受けておらず、本能に従って描いたというようなことが解説にあったが、あたかも物質的に再現しようとしたような家々の壁の厚塗りや、木々のウネウネとした筆触が個性的。天賦の才とは聞こえがいいが、両親とも絵描きだったので、幸か不幸かその血を引いてしまったのでしょう。

1909年、26歳でモンマルトルに移り、ユトリロの代名詞ともいえる建物の白壁がフィーチャーされた「白の時代」に入っていく。少年の頃から漆喰のかけらで遊ぶ姿が目撃されていたユトリロは、詩人・小説家のフランシス・カルゴに「パリの思い出に何か一つ持っていくとしたら何にするか?」と聞かれ、躊躇なく「漆喰」と答えたと言うエピソードも紹介されていた。しかし純粋に好きだったとういうよりは、アルコール依存症のために家にいても鉄格子のはまった部屋に閉じ込められていた彼が、一番長いこと向き合っていたのが窓から見える白壁だったというのが実情らしい。

いずれにせよ、ユトリロはその質感を出すために、石灰、鳩の糞、朝食に食べた卵の殻、砂などを絵具に混ぜてパリの建物の白壁を描き続けた。画面全体を見渡すと、壁の下方など薄汚れて劣化したような部分も、グレーその他の色を混ぜて丁寧に表現されている。ユトリロが熱中したという画布上でのこのような壁の再現は、きっと楽しい作業だったのではないだろうか?

『スュレーヌ(オー=ド=セーヌ県)』 (1912-14年頃)



ミュージアム・ショップで、壁上方にずらりとディスプレイされていた30種にも及ぶポストカードを見上げた時、一番いいなと思った作品。やはり「白の時代」。

1919年、36歳の時に開いた画廊での個展も成功するが、アルコール依存症は完治せず、ユトリロは結局29歳から40歳まで入退院を繰り返す。母シュザンヌの二度目の夫で、ユトリロより3歳年下のアンドレ・ユッテルは、自らの画業に見切りをつけ、作品の良く売れるユトリロのマネージャーとなって作品を売りさばいて行く。このあたりが「色彩の時代」。ユトリロは二人にとって「貨幣製造機」となり、制作を余儀なくされた。

二人はその売り上げで得た大金で贅沢三昧。ひどい話でしょう?

この時代のユトリロ作品は、色がとても明確で鮮やか。部分的にヴラマンク的な筆触も見受けられる。しかし、ポストカードに遠近法の線を入れ、それを基に定規を使って描いたという街並みは、妙に縦長であったりと違和感も覚える。でもこれらの作品が一般受けして、売れに売れたのでしょうね。

『サン=ドニ・ド・ラ・シャペル教会、パリ』 (1933年)



この作品にも描かれているが、この頃のユトリロ作品には「異常に腰の張った」女性が頻繁に登場する。解説には女性に対する嫌悪感の表れとの指摘があるとあったが、ほとんどが帽子をかぶり、後ろ姿で、ペアで歩いていることが多い。男性の姿もあるが、これらの人物はとてもぞんざいに描かれており、配置も非常に不自然で、確かに心理学的に何かの表れなのかもしれないと思ってしまった。この時代の作品の多くは、多分ユトリロが本心から描きたかった画風ではないような気がしてならない。

ユトリロの悲惨な人生はまだ続く。

1935年、51歳のユトリロは母の薦めでユトリロ作品のコレクターであったベルギーの裕福な銀行家の未亡人、63歳のリュシー・ヴァロールと結婚。彼女にも作品の制作を強要され、またしても囚われの身となってしまう。1940年代の作品を見渡すと、全体が暗いクリーム色の色調を帯びているものが目につくが、ユトリロの心が曇ってしまったような気がするのは穿った見方だろうか?塀に囲まれた広い庭から、ユトリロは紙に包まれた石を外に投げた。そこには「助けてくれ」と書かれてあったという。そしてそれを拾った近所の人々は、名の知れた画家の直筆ということで喜んで保管したという。何ともやり切れない話である。

リュシーとの結婚後は礼拝に費やす時間が増え、母にも祈りを捧げたというユトリロ。傍目には酷い母親に映るが、親子の絆と言うのは当人同士にしかわからないもの。母シュザンヌは1938年に他界しているから、自分の亡き後のことを彼女なりに考え、ユトリロの母親役をリュシーに託したのかもしれない。

『モンマルトルのジャン=バティスト・クレマン広場』 (1945年頃)



『サン=ローラン教会、ロッシュ(アンドル=エ=ロワール県)』 (1914年頃)



上の二つの作品の間には30年ほどの隔たりがあるが、ユトリロの風景画は、普通の家並と並んで教会を描いたものが圧倒的に多い。外観を描くことのみならず、神への祈りも込められていたのかもしれない。入口手前の解説パネルの横にあった、礼拝堂で目を閉じて祈るユトリロの、皺の刻まれた顔が今一度思い出された。

損保ジャパン東郷青児美術館での今後の二つの展覧会のチラシを入手したので、ついでにご紹介しておきます。

トリック・アートの世界展―だまされる楽しさ―
2010年7月10日(土)-8月29日(日)



ウフィツィ美術館 自画像コレクション
2010年9月11日(土)-11月14日(日)


細川家の至宝―珠玉の永青文庫コレクション

2010-07-03 | アート鑑賞
東京国立博物館 平成館 2010年4月20日(火)-6月6日(日)
*会期終了

   

公式サイトはこちら

私は永青文庫に一度も足を運んだことがないし、戦国時代の知識も情けないほどにあやふやという体たらくであったので、今回は細川家の歴史を少しばかり学びつつ、その所蔵のお宝について超ビギナーの観賞会となった。最終盤(7期)に行ったので、チラシに使われている菱田春草の黒猫には会えなかったが、所詮一度に観られるようなコレクションではないので仕方なし。お勉強のために買った図録の重さは2kgもあり、作品リストがホチキス留めというのも初めてです。

ということで、まずは細川家とそのコレクションについて端折りに端折ったメモを残しておきます:

細川家の歴史は、鎌倉時代に足利義季(よしすえ)が三河国額田(ぬかた)郡細川郷を本拠とし、名字を細川としたことに始まる。旧熊本藩主・細川家はその分家の一つで、細川藤孝(幽斎 1534-1610)を初代とする。その細川家に伝来する文化財の散逸を防ぐために、16代目の細川護立(もりたつ)によって1950年に設立されたのが永青文庫(えいせいぶんこ)。所蔵品は8万点を超え、今回はその中から総数350点余りが展示。ちなみに元首相の細川護煕は18代目当主。

本展の展示構成は以下の通り:

第1部 武家の伝統―細川家の歴史と美術―
 第1章 戦国武将から大名へ―京・畿内における細川家―
 第2章 藩主細川家―豊前小倉と備後熊本―
 第3章 武家の嗜み―能・和歌・茶―

第2部 美へのまなざし―護立コレクションを中心に―
 第1章 コレクションの原点
 第2章 芸術の庇護者
 第3章 東洋美術との出会い

では、観た中で印象に残ったお宝を挙げていきます:

第1部 武家の伝統―細川家の歴史と美術―

前半の第1部では、武家としての細川家に伝来する品々が並ぶ。甲冑や刀剣など武器・武具類に加え、武人としての教養を示す茶道具や能関連の作品、歴代当主の肖像画、書状など。

『時雨螺鈿鞍』 鎌倉時代 13世紀 *国宝



うっとり見とれるような螺鈿細工が施された鞍。櫛の歯のように細い線で表された松と、丸味のある葛の葉が流れるように絡み合う柄が何とも言えず美しい。

国宝なので、図録の解説からうんちくを少々。この図柄には、王(わ)・可(か)・恋・染・原・尓(に)の文字が隠されており、文字と図柄で「新古今和歌集」に収められている慈円の歌「わが恋は 松を時雨の染かねて 真葛が原に風騒ぐなり」を表現したもの。このような作品を「葦手絵(あしでえ)」と呼ぶそうだ。

『黒糸威(くろいとおどし)二枚胴具足』 細川忠興(三斎)所用 (安土桃山時代 16世紀)



細川家二代目、忠興(ただおき)が関ヶ原の戦いで用いた具足。まず目を引くのは兜の上の飾り。頭立(ずたて)と呼ばれるそうで、山鳥の羽で出来ている(遠目には竹ぼうきかと。。。)。これなら、戦の最中もトップがどこにいるのかすぐわかりますね。

今こうして書きながら、時節柄、ピッチ上で目立つためにブロンドに染めたと言う現代のサムライ、本田圭佑選手を思い出した。本田選手と間違われて「ホンダ!ホンダ!」と南アフリカの人々にサインを求められる稲本選手はちょっと可哀そうだったが。

話を東博に戻して、このコーナーにはこのような具足や鎧がズラリと並び、見渡しているうちに細川家が武家であることを実感すると共に、ちょっとぞくぞくしてしまった。

『幟(のぼり) 白地紺九曜に引両』 (江戸時代 17世紀)



細川家の家紋、「九曜星」が染められた幟。熊の足跡のような、向日葵のような、ちょっと可愛らしい感じに見える。双頭の鷲やら猛々しく立ちあがるライオンやらが目白押しの西洋の家紋と比べ、やはり我々農耕民族の家紋は大人しいですね。

『毛介綺煥(もうかいきかん)』 (江戸時代 18世紀)

  部分

18世紀の日本は博物学が大いに盛んとなった時代で、大名たちの間に動植物などを図鑑としてまとめる作業の流行をもたらしたそうだ。8代当主、細川重賢(しげかた)も熱中し、ここに並ぶ様々な写生図はその一端。朱色も鮮やかな蟹の迫力もさることながら、狼の毛並みもデューラーとは言わないが、とても写実的に描き込まれている。

『縫箔 黒地花霞模様』 (江戸時代 17~18世紀)

   クローズアップ

ボーッとなるほど幻想的で美しかった。大小の花々が敷き詰められているが、そのランダムさ加減(に見せながら全体の風景がちゃんと計算されている)が絶妙。作った人の美的感覚に脱帽です。

『唐物尻膨茶入れ 利休ふくら』 (中国 南宋時代 13世紀)



その形から尻膨(しりふくら)と呼ばれる茶入れ。千利休所持の伝来を持つ名品で、細川家の茶道具の中でも最も名高いものの一つだそうだ。関ヶ原の戦いの軍功として、徳川秀忠から細川忠興(三斎)が懇望して拝領したとある。6cmほどの小さい茶入れなのに、何やらとてもパワフルな存在感。

第2部 美へのまなざし―護立コレクションを中心に―

後半の第2部では、永青文庫の創立者である細川護立(1883-1970)のコレクションを紹介。「いいものはいい」と、分野を問わず気に入った作品を蒐集したというそのコレクションは、考古学的な出土品から近代絵画まで幅広い。

『乞食大燈像』 白隠慧鶴 (江戸時代 18世紀)

 

いきなり白隠慧鶴の作品が沢山並んでいて嬉しい驚きだったが、実は護立コレクションの出発点が白隠の収集にあったそうだ。そのきっかけは、重病の護立が熊本出身のジャーナリストに薦められて病床で読んだという、白隠著の『夜船閑話(やせんかんな)』。実はこのセクションの最初にその実物が展示されているが、ドイツ人医師にかかっても全快しなかった護立が、この本に「何物にも比す可からざる尊さを覚え」、その後回復していったというからよっぽど勇気づけられる内容だったのでしょう。

『落ち葉』 菱田春草 (1909) 重要文化財

 左隻の一部

護立は10代の頃から、新進の日本画家であった横山大観や菱田春草に注目していたそうで(私が行った時は横山大観の作品が多く観られた)、これは菱田春草の重文作品。実物を初めて観たが、想像以上に美しい作品だった。まだ枝に残る葉の、緑から茶へのグラデーション、地面に散る色づいた葉、写実的に描かれた手前の幹の木肌、霞んで立つ奥の木々。朝靄がかかっているのか、淡い色彩で丁寧に丁寧に描き込まれていて、おぼろげで夢想的な情景にも思えた。

ついでながら、今回の東京展には出品されていなかったが、普段は東京国立近代美術館に展示されているお馴染み安井曾太郎『金蓉』(1934)が、護立の注文で描かれたことを初めて知った。護立は、古美術蒐集のみならず、同時代の芸術家と交流し、その活動を支援する偉大なるパトロンでもあったのですね。

『桃花紅合子(とうかこうごうす)』 (中国 清時代 康煕年間 1662-1722)



護立の眼は東洋美術にも向けられ、そのコレクションには国宝となった、細川ミラーと呼ばれる『金銀錯狩猟文鏡(きんぎんさくしゅりょうもんきょう』(中国 戦国時代 前4~前3世紀)なども。そんな凄いものが並ぶ中で、私はこの直径7cmほどの、景徳鎮窯で焼かれた一組の合子に吸い寄せられた。そのまろやかな形といい、桃色と緑の微妙な混ざり具合といい、なんとまぁ可愛いらしい。しかし実は非常に高価だそうで。。。

『菩薩坐像』 (中国 唐時代 8世紀)



白隠や仙の絵画に始まり、刀、日本画・洋画、東洋の古美術品ときて、今度は仏像。次々にジャンルを超えて立ち現れる出展作品に、改めて護立の関心の幅の広さを思う。

この菩薩様にはとりわけ親しみを覚えた。身体や首の傾け方、何かを語りかけてきそうな口元が、人っぽいからだろうか。

本展は、以下の通り巡回予定です:

【京都展】
京都国立博物館
2011年10月8日(土)-11月23日(水・祝)

【福岡展】
九州国立博物館
2012年1月1日(日・祝)-3月4日(日)

ルーシー・リー展

2010-06-29 | アート鑑賞
国立新美術館 2010年4月28日(水)-6月21日(月)
*会期終了



公式サイトはこちら

美術雑誌で名前と少しばかりの作品を知っていた陶芸家、ルーシー・リー。1995年に93歳でこの世を去った彼女の、没後初の本格的な回顧展だという本展覧会で、私は初めてその実作品に対面した。

というわけで、まずは図録を参照しながら彼女についてざっと触れておきたいと思う。

ルーシー・リー(1902-1995)は、父が医者、母が名家出身というウィーンの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。1921年にウィーン工業美術学校の聴講生となり、翌年正規に入学。たまたま通りかかった陶芸科の教室で見かけた轆轤に魅了され、すぐさま陶芸家になることを決心。ブリュッセル万博(1935)やパリ万博(1937)など7つの国際展に出品して銀賞等を受賞するなど活躍するも、1938年のナチス・ドイツによるオーストリア侵攻により、夫と共にイギリスへの逃亡を余儀なくされる。イギリスではバーナード・リーチの知遇を得たりしながら、以降半世紀に渡り制作を続けた。

では、印象に残った作品を挙げながら章ごとに見ていきたいと思います:

Ⅰ. 初期―ウィーン時代 1921-38年

#4 『鉢』 (1926年)



解説によると、ルーシーがウィーン工業美術学校で指導を受けたウィーン工房のヨーゼフ・ホフマンのスタイルを踏襲した作品とのこと。ちょっとゴテゴテした印象ではあるが、この鮮やかなターコイズ・ブルーは後の作品にも多用され、彼女が初期からこの色が好きだったことを伺わせる。

この章には資料として彼女の「釉薬ノート」が5冊展示されていた。小さ目のノートに鉛筆でびっしり書かれた、アルファベットや数字を羅列した釉薬の調合法は私が見てもさっぱりわからないが、科学者や数学者による神経症的に細かいメモなどに比べたら大らかな覚書。柔和な字体やところどころにちゃちゃっと描かれている作品のラフなスケッチなどを見ると、几帳面さと良い意味での雑把さとのバランスがとれた人という印象を受けた。

#16 植木鉢 (1936-37年頃)



ルーシーのウィーン時代の作品は①ウィーン工房タイプ、②前熔岩釉タイプ、③バウハウス・タイプの3種類に分けられるそうだ。これは②。後に本格的に「熔岩釉タイプ」と言われる作品群に取り組む彼女の、言わば予兆的作品となったことから「前」がつく。素地の土色が見えているが、ほんのり発色する明るい緑色のせいかあまり土臭さが感じられず、軽やかに思える。

Ⅱ. 形成期―ロンドン時代

本当はロンドン経由で夫と共にアメリカに渡るはずが結局別離の道を選んだルーシーは、ハイド・パークの北に小さな家を見つけ、そこを工房兼住居とした。これがアルビオン・ミューズ。ちなみにミューズとはMews、馬小屋のことで、昔の貴族が馬小屋にしていた建物を住居に改築したもの。私もロンドンで何軒か見たことがあるが、正面は間口が狭く、こじんまりした印象ながら、貴族の馬小屋であるからして高級住宅街に立地していることが多く、プロパティとしての価値は非常に高い。このような瀟洒な建物の中でルーシーは以降50年間制作を続けたのですね。

#19 『黄色文鉢』 (1947年頃)



弥生土器のような素地の薄さと、たわんだ縁がルーシーの器の特徴の一つ。

#27 『線文花器』 (1950年頃)



友人に連れられて訪れたイングランド西部のエイヴベリー(ストーン・サークルで有名なところ)の博物館で、表面に鳥の骨で引っ掻いて描かれた模様を持つ新石器時代の土器がルーシーに新たなインスピレーションを与えた。彼女は細い金属棒を使ってフリーハンドで模様をつける手法を発展させていく。この、ちょっとギリシャの古代土器を思わせる花器は、恐らくその初期の作風例ではないでしょうか。

#49 『線文薬味入れ』 (1956年頃) 



薬味入れ3点セットは、これの他にもう一つ、線文の入らない#32 『薬味入れ』(1950-55)も出ていた。上にちょんちょんと開けられた穴がいじらしく、目玉焼きとかにしゃかしゃかこれでお塩を振りかけてみたくなる。他にも蓋の部分が可愛い#44 『線文ドレッシング瓶(オイルとビネガー)』 (1955年頃)や、ピノキオの鼻のような取っ手のついた#45 『茶釉手付注器』(1955年頃)、#46 『手付注器』(1955年頃)などのテーブルウエアーも。彼女の手から生まれる小物類はしっくりと手に馴染みそうなものばかりで、見た目も可愛い。そそっかしい私はピノキオの細い鼻は折ってしまいそうでちょっと怖いけど。

#53 『黄釉線文鉢』 (1957年)



先述の引っ掻いて紋様をつける「掻き落とし」(スグラッフィート)技法は、垂直、斜め、格子、それらのコンビネーションと様々な表情を見せる。この作品ではとろみのある黄色の胴の上の縁にこげ茶の格子が引かれ、作品を引きしめている。

#54 『青釉小鉢』 (1957年頃)



薄い青色が好み。

#79 『白釉花器』 (1960年頃)



縁の広がった帽子を被った貴婦人が立っているような気品を感じる。首が長く伸び、朝顔のように口が開くフォルムはルーシーの作品によく観られる。

#108 『熔岩釉鉢』 (1968年頃)



ルーシーが生み出した釉薬の一つ、「溶岩釉」。表面の気泡のような穴が溶岩の肌を思わせるために彼女がそう呼んだ。カプチーノの泡のようにも見え、苔のような色から抹茶を思わせもする。

【ルーシー・リーのボタン】



ルーシーはウィーン時代からガラス製のボタンを作っていたが、ロンドンに亡命後戦争が激しくなり、器の制作がままならなくなると、ロンドンの高級衣料店の注文で陶製ボタンを制作し、生計を立てた。誠にお気の毒な状況ではあるが、暗い展示室に宝飾店のように置かれたケースの中にたなびくそれらのボタンは、ルーシーの手からまき散らされた天の川のように美しかった。

#R14 『水差しとカップ』 (1950-55年頃)



ボタン制作に忙しいルーシーの工房へ仕事を求めてやってきた、彫刻家志望のハンス・コパー。彼女のアシスタントとなったこの18歳年下の青年は、その後長きに渡ってルーシーが最も信頼を寄せる友人となり、共作のパートナーとなった。これはそんな二人の共同制作品。

そう言えば、ハンス・コパー展-20世紀陶芸の革新パナソニック電工 汐留ミュージアムで開催中です。9月5日(日)まで。

Ⅲ. 円熟期

#150 『線文円筒花器(青)』 (1974年頃)



基本的にこの形で数色のヴァリエーションがあったが、私はこの濃い青とこげ茶の落ち着いたコンビネーションが一番好みだった。

#170 『白釉線文鉢』 (1970年代)



何かを静かに語りかけてくるような器。

#175 『ピンク線文鉢』 (1980年頃)



歪んだ口縁、すぼみながら下に収斂していきつつ、高さのある高台を持つ器はルーシー独特のフォルム。ピンク色を主体に、縁にはブロンズ色、その間に青緑の筋が入れられ、なんて美しい色のコンビネーションだろうと見入ってしまう。

㊧ #174 『ピンク線文鉢』 (1980年頃) ㊨ #171 『ピンク線文鉢』 (1970年代後半)

 

ルーシーの器の色彩は、白いものには清廉さと穏やかさが漂い、色彩のついたものにはマカロンやウィーン菓子を想起させる西洋的な甘い香りがする。それも、田舎の素朴なお菓子ではなくて、都会の洗練されたケーキ類。そういえば、彼女は工房を訪ねてきたお客さんにお手製のチョコレート・ケーキをふるまったそうだ。きっと美味しかったことでしょう。

ここに紹介したのは、約200点の出展作品のほんの一部。次々にケースの中に現れる器たちは観ていてとても楽しく、会場にいる間ほんわりと幸せな気持ちに包まれた。

工房で制作中のルーシーの写真が飾ってあったが、鼻筋の通った気品ある美しい彼女の横顔には、生真面目さや、穏やかな中にも芯の強そうな人柄が想像された。1939年7月にバーナード・リーチ宛に送ったルーシーの手紙には“「陶芸」はいつも私の心のなかにあります”とあって、本当にその通りの制作活動を全うしたのだと思う。

東京展は終わってしまったが、以下の通り巡回するそうなので、お近くの方は是非!

【栃木展】
益子陶芸美術館
2010年8月7日(土)-9月26日(日)

【静岡展】
MOA美術館
2010年10月9日(土)-12月1日(水)

【大阪展】
大阪市立東洋陶磁美術館
2010年12月11日(土)-2011年2月13日(日)

【三重展】
パラミタミュージアム
2011年2月26日(土)-4月17日(日)

【山口展】
山口県立萩美術館・浦上記念館
2011年4月29日(金・祝)-6月26日(日)