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アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

円山応挙―空間の創造

2010-10-29 | アート鑑賞
三井記念美術館 2010年10月9日(土)-11月28日(日)



展覧会の詳細はこちら

「三井記念美術館 開館五周年記念 特別展」ということで、円山応挙(1733-1795)を「空間の画家」として捉え、その奥行きのある立体的画面をこの画家がどのように構築していったのか、様々な作品で「視覚体験」するもの。

眼鏡絵、応挙の絵画論が垣間見られる『萬紙』、実験的な絵画、といろいろな仕掛け花火を楽しみながら、最後には水墨で松を描いた国宝、重文の「二大最高傑作」の揃い踏みという大輪の打ち上げ花火が用意されています。

構成は以下の通り:

[展示室1] 遠近法の習得
[展示室2] 応挙の絵画空間理論 「遠見の絵」
[展示室3] 応挙の茶掛け
[展示室4] 応挙様式の確立―絵画の向うに広がる世界
[展示室5] 淀川両岸図巻と小画面の中の空間
[展示室6] (タイトルなし)
[展示室7] 応挙二大最高傑作―松の競演


今回は画像がほとんどなく、私の拙い文章ではあまり参考にならないと思いますが、感想だけ留めておきたいと思います。

[展示室1]

応挙が若かりし頃に描いた眼鏡絵の数々。眼鏡絵は18世紀初めにヨーロッパで誕生し、中国から日本に伝わったもので、鏡に映してレンズでのぞく「反射式」と、直接レンズでのぞく「直視式」があるそうだ。

ここには応挙によるその両方の作例が並び、どれも建物や景色が極端な線遠近法で描かれているものの、立体的に見えるという「のぞき眼鏡」がないので実際どのように見えるのかわからない。

いずれにせよ、小さいながらどれも緻密に描き込まれ、細部も手抜きのない画面で(中には部分的に青いガラスがはめ込まれていて、背後から光を当てると夜景のようになって月が青い光を放つという『石山寺図』も)、それまで東洋の画法になかった概念への応挙のチャレンジャー精神、そして創るからには観る者を喜ばそうというエンターテイナー精神のようなものを感じます。

蛇足ながら、『京洛・中国風景図巻』の中で目に止まったものが。スーパーって、建物の上にそのスーパーのロゴの入った、目印的立方体のものが載っているでしょう?あれの先祖みたいなのが、この絵の中に。。。

[展示室2]

応挙と深い信仰があったという三井寺(みいでら)円満院門主の祐常(1723-73)が残した『萬誌』が展示。この中には、応挙の絵画制作における考えが述べられていてとても興味深い。

その一つは、掛け軸、屏風、襖絵などの大画面の作品には、“近くで見ると筆ばなれなどがあるが、間をおいて見ると真の如く見える「遠見(とおみ)」の絵”にすること。もう一つは、モティーフを三次元的に把握する「三遠の法」(すなわち「平遠」「深遠」「高遠」を捉えること)の重要性。「うまくできなければ鏡に写して描くとよい」とも。

応挙は西洋の解剖学なども学んでいたと聞くし、やはり西洋画のテクニックの研究も相当のレベルだったのでしょうね。

[展示室4]

『雲龍図屏風』 安永2年(1773年) *重文

六曲一双の紙本墨画淡彩で、2匹の龍が天の雲と地の波を逆巻きながら画面を駆け巡る。左隻の龍は天から下り、右隻の龍は地から昇っていく。下で荒れ狂う波はまるで龍の分身か鉤爪のごとくいきり立ち、龍たちの躍動感を盛り立てる。ほとんど墨の濃淡で描かれているが、龍の鱗には薄く金彩が入れられ、顔の表情も豊か。特に右の龍の、昇りながら後ろを見やる眼光にやられました。

『竹雀図屏風』 天明5年(1785年)

こちらも六曲一双の紙本墨画淡彩だが、竹林の中に可愛い雀たちを捉えた平穏な作品。3羽が竹から飛び立つシーンがあるのだが、3羽いるのではなく、枝から飛び立ち、羽ばたいてから滑空に移る1羽の雀の連続した姿を捉えたのかもしれないという解説を読んだら本当にそう観えてきて、なるほど~と思った。別の個所でも地上に3羽いて、こちらも1羽の歩く動作を連続して描写しているようにも観える。

[展示室5]

『淀川両岸図巻』 明和2年(1765年)

応挙の「視覚実験」の作品。中央に流れる淀川を挟んで、右岸(画面上部)と左岸(同下部)の川辺の景色を眺めながら右から左へ目を移していくと、急に左岸の景色だけ上下逆さまになってしまう。つまり、例えば川辺に生える木々は最初、右岸も左岸も上を向いて立っているのに、途中から左岸(下部)の木々だけがぱたっとこちらに倒れたような生え方(木のてっぺんが下を向いている)になってしまうのです。と言葉で言ってもわかりにくいと思うので、どうぞ現物を。作品の良し悪しはともかく、応挙って本当にいろいろ試したんだなぁ、と思わずにいられません。

[展示室7]

『雪松図屏風』 *国宝

 左隻

 右隻

初めてお目にかかった応挙の名作(国宝だったのですね)。解説によると、画面両端から中心へ向かい、中央部に空白を残す構図を「迫央構図」と呼ぶそうで、これにより奥行き感、立体感を強く意識した空間の広がりが実現される。ブログの画面の都合上横並びに載せられなくて残念だが、確かに左隻の右上と右隻の左上が白く抜かれていて、二つを合体させると中央上部が空白となる。

単純に左と右の松のフォルムに変化を持たせ、リズムを作っているのかと思っていたが、それ以上の深い計算がされているのですね。塗り残しによって、この松の枝や幹にふんわりと積もる純白の雪を表現したテクニックにもひたすらため息。

『松に孔雀図襖』 寛政7年(1795年) *重文

チラシの下の方に一部が載っている、金箔地に松の木と孔雀が墨で描かれた襖絵。彩色はされていないというのに、金箔マジックなのか線描が真っ黒に見えず、墨の濃淡、線の強弱で色を感じるから不思議。

金箔は大気や地面を表わしていると解説にあり、よく観るとなるほど地面にはうっすら墨が引いてあるし、今まで画面をゴージャスに見せる装飾だとばかり浅はかに思っていた背景の金箔も、透明な大気に色がつけられることによって奥行きが増しているのだと理解された。

下降していく松の枝と、枝の下にいる孔雀の長い尾が呼応して流れるようなリズムを感じる。

以上です。

途中展示替えがあり、後半も別の重文作品が登場しますので、気になる方はサイトの出品目録をご確認下さい。11月28日(日)までです。

バルビゾンからの贈りもの 至高なる風景の輝き―

2010-10-25 | アート鑑賞
府中市美術館 2010年9月17日(金)-11月23日(火・祝)



府中市美術館は今年開館十周年を迎えたとのことで、その記念展として企画されたのが本展。バルビゾン派の作品が明治の日本近代洋画に与えた影響を、「バルビゾン村」と「武蔵野」をキーワードに国内外の作品約120点で展観するという意欲的な試み。

実は観に行ったのは今月あたまの秋晴れの週末。東府中駅から歩いて府中の森公園に近づくと、まだ青々とした葉が茂る美しい並木道が現れ、そこはかとなく金木犀の甘い香りが。公園の中に一歩足を踏み入れれば木々の植わり方が西洋風に感じ、展覧会名のおかげもあって何だかヨーロッパの森を歩いているような気分に(元来単純な性格なので暗示にかかりやすい)。

さて、クールベの風景画が出迎えてくれるこの展覧会は、以下のように四つの章立てになっていた:

第一章 ドラマチック・バルビゾン
第二章 田園への祈り―バルビゾン派と日本風景画の胎動
第三章 人と風景―その光と色彩の輝き
第四章 バルビゾンからの贈りもの―光と色彩の結実


上記の章はさらにそれぞれに丁寧なカテゴリー分けがなされていたりもしたが、私はあまり意識せず、次々に立ち現れる風景に誘われるままに展示室を観て回った。

まず、バルビゾン派は戸外制作にこだわったということで、エルネスト・ルヌーという人の野外写生用具一式(絵の具箱、イーゼル、椅子、パラソル)の展示や、シャルル=フランソワ・ドービニーの、自分が使っていた写生専用の舟(「ボタン号」という可愛い名前のこの小舟には、ちゃんと屋根つきの部屋が設えられた本格的なもの)を描いたエッチング作品などが並び、工夫された導入部でスタート。

以下、個人的に印象に残った絵画作品を挙げておきます:

『鵞鳥番の少女』 ジャン=フランソワ・ミレー (1866-67年)

水鳥のいる風景は和むものだが、この喧しそうな鵞鳥たちの群れには思わず微笑んでしまう。上を向いてくちばしをパックリ開けて鳴いているのもいて、彼らの元気な声が聞こえてきそう。

『夕暮れのバルビゾン村』 ピエール・エティエンヌ・テオドール・ルソー (1864年頃)



夕暮れ時の日の名残り。空を染めるバーミリオンが印象的。

『東都今戸橋乃夜景』 松本民治 (1877年頃)

夜空に明るく輝くまん丸のお月さま。中央を流れる川はその月光の反映を川面に棚引かせ、両脇に並ぶつましい家々の障子からは蝋燭の灯りが洩れている。よく目を凝らせば夜空にも雲が浮かび、画家は月光を浴びている部分と逆光になっている部分とをうまく表情をつけて描き分けている。得も言われぬ叙情が漂う明治の東京の街。描かれているのは西洋の街ながら、私の好きなイギリス人画家、アトキンソン・グリムショウが連想された(グリムショウにご興味のある方はこちらをどうぞ)。

『墨水桜花輝燿の景』 高橋由一 (1874年)



歌川広重あたりが油彩を操ったら、こんな絵を描いたかもしれませんね。

『景色』 本多錦吉郎 (1898年)



初めて知る画家だが、上手いなぁ、と思って足が止まった。手前の大きな木や、奥の方の、まるで竹ぼうきを逆さに立てたようなカサカサの木立。日本の秋冬の風土を見事に描き切っているように思います。チラシの裏に、この絵の舞台となった府中のけやき並木の100年前と現在の様子が映っていますが、木々が今も青々と茂っているのにほっとします。

『森の小径(ル・クール夫人とその子供たち) オーギュスト・ルノワール (1870年)

この画家の作品にしては(と言っては失礼だけれど)、風通しのよい、すっきりとした風景画。

『富士』 和田英作 (1899年)



夕日を柔らかく反映する富士山の山肌や、手前の山の稜線が薄紫の落ち着いたグラデーションで描かれていて、清涼な空気感が伝わってくる素敵な絵。

同じく和田による『波頭の夕暮』(1897年)は、着物の裾を端折った明治の農民たちと、目の前を流れるパステル調の虹色の川が何とも不思議なコンビネーションだった。

『信州景色』 中川八郎 (1920年)



珍しく美しい青空がのぞく風景。大気が乾燥した日本の冬の空は、ウェッジウッドのジャスパーウェアーのようなマットな青い色が美しく広がるので、よく見上げる私。

同じ画家による大きめの木炭画、『雪葉帰牧』(1897年)も、上記とは違いモノトーンの世界だが、しんとした日本の雪国の迫力が漂う素晴らしい作品だった。

最後の方に(一旦展示室を出たところに)『鎮守の森』 正宗得三郎(1954年)という作品があって、その解説に「湿度が多く、光が弱いとされる日本の風景にもかかわらず、果敢に色彩を見出している」とあったが、私は常々日本の風景を油彩で描くのは大変なのではないかと思っている(まぁ対象にもよりますが)。別の解説には「湿潤な風土を描く上でも、油彩画は茫洋とした輪郭を光と色で補うのに好都合」とありましたが、さて?

落ち葉の積もる秋の府中の森公園もいい雰囲気ですので、まだ行かれてない方は散策がてら本展をのぞくのもいいかもしれません。

三菱が夢見た美術館 岩崎家と三菱ゆかりのコレクション

2010-10-24 | アート鑑賞
三菱一号館美術館 2010年8月24日(火)-11月3日(水・祝)



本展の公式サイトはこちら

この美術館は水曜日・木曜日・金曜日は夜8時まで開いているので、私にとって前回のエドゥアール・マネ展に続いてこの美術館への2回目の訪問となる本展に、珍しくスーツ姿で平日の夜に行ってみた。

前回は気づかなかったのだが、ヒールのある靴で歩くと、この美術館の木の床は靴音がコツンコツンとひと際大きな音を立てる。展示室入口のドアの手前に、床に使われている資材が靴音を反響させやすいのでご留意を、というような但し書きがあり、しかもこの日は鑑賞者の数も少なめで展示室が静まり返っていたので、私も極力音を立てないようにそろそろと歩いた。

うっとりするほどピカピカの木の床に比べるとグレーの階段が味気ない感じがして、前回来た時はこの階段も木造りだったら更にいいのに、なんて思ったけれど、その思いは霧散。木だときっとタップダンス教室のようになってしまうでしょうね。

ついでと言っては何ですが、映画のチケットのような当日券もやっぱり味気ない気がします。本展に関しては私が入手しただけで3種類もの紙質の良いチラシがありますが、それだったらもう少しチケットを工夫願いたい、とまあこれは鑑賞者の勝手な要求でありますが。

では、本題に。

この展覧会は、簡単に言えば三菱を興した岩崎家の芸術パトロネージを、その蒐集品の中から総数約120点(会期中入れ替えを含む)を実見しながら紹介するもの。作品のカテゴリーごとに章が組まれており、すっきりした展示でとても見易かった。

序章 「丸の内美術館」計画:三菱による丸の内の近代化と文化

ここは岩崎家や三菱の依頼によりコンドルが手がけた建造物の設計図の並ぶ、本章への導入部。『丸の内美術館』(1892年)というものもあるが、ここはまずチラシからおさらい。

明治初年に岩崎彌太郎(1835-1885)が土佐藩の行っていた海運業を引き継いで興した三菱は、1890年に丸の内の土地を政府から一括購入し、地震に耐えうる洋風建築の並ぶオフィス街の建設を目指す。

二代目社長の岩崎彌之助(1851‐1908)は、英国人建築家ジョサイア・コンドルに最初の洋風事務所建築である旧三菱一号館建設(1894年竣工)を依頼。

明治20年代、三菱は丸の内を単なるオフィス街ではなく文化的な要素を取り入れた近代的な街にしようとコンドルに相談し、美術館や劇場の設計を試みる。

そこで「丸の内美術館」の設計がされたわけですが、計画は実現しなかったものの、旧三菱一号館の再生である三菱一号館美術館が今年誕生し、こうして岩崎家及びそのゆかりのコレクションが展示された、ということで本展のタイトルにつながる。

第一章 三菱のコレクション:日本近代美術

明治・大正期の富裕層の興味の対象が骨董や茶道具などに限られていた中、三菱のように同時代の芸術文化を支援した例は稀だった。この章には当時で言えば現代美術(今振り返れば日本近代美術)の洋画作品が並ぶ。

『十二支のうち午「殿中幼君の春駒」』 山本芳翠(1892年)

いきなり山本芳翠の作品が3点並ぶ。本展のサイトにリンクのあるmarunouchi.comに詳しい説明があった。それによると、この十二支にちなんで描かれたシリーズは二代目社長の岩崎彌之助の依頼により芳翠が制作したもので、12点中10点が現存し、今回はそのうちの3点が並んでいるとのこと。ちなみに午の他の2点は丑と戌。

画像はないが、私はとりわけ午が気に入った。先に挙げたサイトにある通り、徳川家光(竹千代)が張り子の午で遊ぶ様子を春日局と侍女が見守るという図だが、どことなくラファエル前派というか、着物の刺繍の質感描写が私の好きなヴィクトリア朝時代のイギリス人画家、J.W.ウォーターハウスを思わせ(そういえばウォーターハウスの『シャロット姫』の制作年も1888年だから両者はほぼ同じ頃に描かれたのですね)、芳翠独特の画世界に引き込まれた。

それと、同じく芳翠による『花』(制作年不詳)は、筆触の残し方がエドゥアール・マネの静物画を思い出させた。マネの作品の背景も、こんな茶系の色じゃありませんでしたっけ?

『花畑』 浅井忠 (1904年)

浅井忠というと秋の黄金色の情景の印象が強いので、このように鮮やかな緑の中に咲く赤や黄色の花を描いた風景は新鮮だった。塀の向こうに霞む山の稜線で奥行きや大気感が増して、取り立てて目を引くものが描かれているわけでもないのに引き込まれ、観飽きない。

『童女像(麗子花持てる)』 岸田劉生 (1921年)

チラシにある、赤いタータン・チェックのワンピースが印象的な麗子像。絵から離れて振り向くと、麗子の放つ存在感に驚く。

第二章 岩崎家と文化:静嘉堂

二代目彌之助により設立された静嘉堂は、明治初期から昭和前期にかけて古典籍20万冊、古美術6500件を蒐集した文化施設で、国宝7点、重文83点、重美79点を含む。四代目岩崎小彌太(1879‐1945)が彌之助の跡を継いで更に所蔵品を充実させ、1924年に現在の世田谷に静嘉堂文庫が、そして1992年に美術館が建設される。

『色絵吉野山図茶壺』 野々村仁清 (江戸時代) *重文



ゴージャスな仁清の茶壺。堂々とした存在感があって美しいけれど、個人的には出光で観た白地の壺(色絵芥子文茶壺)の方がすっきりしていて好みかな。

『江口君図』 円山応挙 (江戸時代) *重美



吸い寄せられるようにこの絵の掛かる展示ケースの前へ。この流麗で気品のある線描は見事ですね~。

『浪月蒔絵硯箱』 清水九兵衛 (江戸時代 17‐18世紀)

上方に細い三日月が浮かぶ箱の表面。下方の、岩や海藻には緑に光る螺鈿細工が施され、その間にうねる波や、箱の中の控えめな松の線がとても繊細。

第三章 岩崎家と文化:東洋文庫

三代目岩崎久彌(1865‐1955)が1917年に購入した、中華民国総統府顧問であったイギリス人のアーネスト・モリソンが蒐集した極東に関する文献(モリソン文庫)に、同じく久彌が購入した和漢書のコレクション「岩崎文庫」などが加えられ、1924年に建設されたのが東洋文庫。

原本である『ターヘル・アナトミア』 ヨハン・アダム・クルムス(1734年)と共に並ぶ『解体新書』 杉田玄白訳(1774年頃)、くっきりした活字で思わず読み出してしまう『ロビンソン漂流記』 ダニエル・デフォー(1719年)、江戸をCittie Edooと書いている『ジョン・セーリスの航海日誌』 ジョン・セーリス(1617年)、資料的に興味深い16世紀から18世紀に作られたアジアや日本の地図など、珍しいものが並んでいて楽しめた。

第四章 人の中へ街の中へ:日本郵船と麒麟麦酒のデザイン

日本郵船と麒麟麦酒も三菱系の企業だったのですね。前者は橋口五葉、後者は多田北烏(雑誌「主婦の友」の表紙を手掛けた人だそうです)などの大正ロマン風ポスター作品が並ぶ。昔はビールのコップも小さくて、慎ましやかな感じ。

第五章 三菱のコレクション:西洋近代美術 

『波』 モーリス・ド・ヴラマンク (制作年不詳)

個人的にこの章で一番良かった作品。嵐の海の波を画面一杯に描いた作品で、白い波頭は画面全体で荒れ狂い、水平線も判然としない。白と濃紺のほとんどモノトーンの世界だが、この人の油絵具を画布に乗せるセンスといいましょうか、とても好きです。ポストカードがあればよかったのに。

そういえばこの章の解説パネルに、久彌はバルビゾン派やラファエル前派を好んだと言うようなことが書かれていた。1章の芳翠の絵も好きだったかしら?

終章 世紀を超えて:三菱が夢見た美術館

『三菱ヶ原』 郡司卯之助(福秀) (1902年)

手前から広がるだだっ広い野原の向うに大きな木が数本あって、その背後に洋風の建物が数軒のぞくだけの牧歌的なこの絵はまるで印象派の風景画のようだが、これがたった120年くらい前の丸の内の風景だと言われてもにわかに信じがたい。

この絵の前に居合わせた老紳士たちが、「やっぱり不動産だよなぁ」。本当ですね(笑)

三菱の「大番頭」と呼ばれていた荘田平五郎という人が、イギリスで知見したことを踏まえて岩崎彌太郎に丸の内の土地を買うことや、美術のパトロンになることを進言したらしい。彌太郎はこの何もない広大な野原で「虎でも飼うか」と冗談を言ったそうだが、近年の再開発に伴ってこうして本当に美術館も加わった今の繁栄ぶりに、きっと天から目を細めて見ていることだろう。

本展は残すところあと少し、11月3日(水・祝)まで。通常月曜日はお休みですが、11月1日(月)は開いているそうです。

次回の展覧会は「カンディンスキーと青騎士展」ということで、個人的にも最近目覚めたドイツ表現主義の作品をいろいろ観られそうで楽しみ。ブリックスクエアのクリスマスの雰囲気も良さそう♪

 

レンバッハハウス所蔵美術館所蔵「カンディンスキーと青騎士展」
三菱一号館美術館
2010年11月23日(火・祝)-2011年2月6日(日)

フランダースの光 ベルギーの美しき村を描いて

2010-10-01 | アート鑑賞
Bunkamura ザ・ミュージアム 2010年9月4日(土)-10月24日(日)



ベルギー北部のフランダース地方にシント・マルテンス・ラーテムという小さな村があり、この村及び周辺に19世紀末から20世紀初頭にかけて芸術家たちが移り住み、創作活動を行っていたそうだ。本展では、そのラーテム村で制作を行った芸術家の作品89点を紹介するもので、日本初公開の作品も多いとのこと。

実はチラシを入手したときから密かに期待していたのだが、果たしてとても素晴らしい内容だった。何よりも良かったのは、世代ごとに三つ(すなわち「象徴主義」、「印象主義」、「表現主義」)に区切ったシンプルな構成の下、一人の作家の作品が複数揃えて展示されていること。1点やそこらでは画家の印象はなかなか残らないし、スーパースターの作品が1点もなくとも、このように質の高い作品を上手い切り口で展示して頂けると見応えがあります。

では、印象に残った作品を挙げながら感想を記しておきたいと思います:

第一章 精神的なものを追い求めて

1900年頃、産業革命による生活環境の変化や都会の喧騒から逃れるように、ラーテム村に移り住んできた第一世代の芸術家たち。彼らは深い精神性を表現した象徴主義的絵画を発展させた。

上は『春の緑』(1900年)、下は『シント・マルテンス・ラーテムの雑木林』(1898年)。共にアルベイン・ファン・デン・アルベール作。

 

『春の緑』の目の覚めるような黄緑色が目に飛び込んできた瞬間、わぁ、なんてきれいな絵なのだろうと思った。そして解説にある「象徴主義」の文字が頭の中で回り出す。

いわゆる「風景画」と、景色を描きながら「象徴主義」と呼ばれるこれらの絵を違わせているのは何だろう、と思ってしばらく眺めていた。確かにアルベールの画面には、例えば1本だけ抜きん出た大木であるとか、群れる動物であるとか、風車であるとか、鑑賞者の目を誘導するいわゆるフォーカル・ポイント(焦点)というものが全くない。しかしこの「何もなさ」は、鑑賞者の視覚のみならず、さまざまな感覚を覚醒させる。

アルベールはラーテム生まれで村長まで務めたというから(初めて絵筆を取ったのは39歳のときだそうです)、この村のことは隅々まで知り尽くしていたことでしょう。そんな彼が選んで切り取った情景には、産業革命云々という表層的なことよりも更に深い精神性を感じます。

左は『冬の果樹園』(1908年)、右は『冬景色(大)』(1926年頃)、共にヴァレリウス・ド・サードレール作。

 

少し前に観に行ったアントワープ王立美術館コレクション展で、私が思わず「近代のブリューゲル!」と感動した人の作品が沢山並んでいてとても嬉しかった。この画家も最初は印象派風の作品を描いていたそうだが(その作例が1点展示されている)、15世紀フランダース絵画展を観て方向転換。静謐な、心象風景ともいえる独特の世界を構築した。

この他、『静かなるレイエ川の淀み』(1905年)の、墨絵のような諧調を見せる空の表現、『フランダースの農家』(1914年)の、琥珀色の闇に落ちていく大きな農家から発せられる時の堆積。筆跡の残らない滑らかな画面に描かれる、これらの人の気配のない風景画の数々はじんわりと心に沁みてくる。余談ながら、写真を見ると随分恰幅のいい人であったようだ。

『悪しき種をまく人』 ギュスターヴ・ヴァン・ド・ウーステイヌ (1908年)



異彩を放っている作品だった。金地の上に人物が切り絵で貼られたような、まるでルネッサンスの宗教画が紛れ込んだのかと思うようなマチエール。この画家も、「初期フランダース美術の展覧会を見て以来、ルネッサンス以前の美術と文化に対する崇敬の念を持ち続けていた」と解説にあった。モデルになっている男性はデースという名の農民で、他の作品にも登場する。

第二章 移ろいゆく光を追い求めて

印象主義の画家たちが移り住み、第二世代を形成。村の美しい情景や、ブルジョワ的な美しい室内なども描いた。

『ピクニック風景』 エミール・クラウス (1887年)



第二世代の先駆となったのが、リュミニスム(光輝主義)と呼ばれる作風で外光表現を追求したエミール・クラウス。チラシに使われている作品(『刈草干し』1896年)を描いた人です。何と今回彼の油彩画が12点も大集合、そこだけ眩しい一角が。

この作品は、手前の人物たちの一群が写実的に描写されているのに対し、彼らを取り囲む川辺の草花がやや粗い乾いた筆捌きで描かれており、独特の効果を生み出していた。

『レイエ川沿いを歩く田舎の娘』 エミール・クラウス (1895年)



日本からベルギーに赴き、エミール・クラウスに絵の指導を受けた太田喜三郎(今回初めて知りました。ちょっと長友選手似)が残したノートには、師の言葉として「いつでも日に向かって画をすえて」とある。

その言葉通り、クラウスは逆光の中に飛散する光の粒子を追い求め、彼の描く人物達はその粒子をまとっている。この作品も、実物を観ないとわからないと思うのだが、右側の女性の横顔にちらりとのぞくおくれ毛にきらきらと光が宿り、私はこの画家の逆光に対するフェティシズムのようなものを感じずにいられなかった。

太田喜三郎と、太田と共にゲントの美術学校に学び、同じくクラウスに作品批評などをしてもらっていたという児島虎次郎の二人の作品も展示されていた。太田の『樹陰』(1911年))などはかなり師の教えに肉薄しているのではないでしょうか。

『運河沿いの楡の木』 エミール・クラウス (1904年)



151x184cmの大きな画面に現れた、ともすればどこにでもあるような風景ではあるが、絵の中に入り込んで左側の坂を上ってみたくなる。

『梨の木』 アルベール・サヴレイス (1912年)



印刷だと何だか色が薄くなってしまうような気がするが、絵具の置かれ方が、点描というよりモザイクに近い触感を醸し出す印象深い作品だった。

第三章 新たな造形を追い求めて

第三世代を形成したのは第二世代の画家たちだが、第一次世界大戦中に疎開していた先でドイツ表現主義やキュビスムなど新しい美術の潮流に触れ、戦争前とは異なる画風を成立させる。

上が『レイエ川』(1927年)、下が『レイエ川のアヒル』(1911年)、共にギュスターヴ・ド・スメット作。

 

左が『オーイドンク城の鳩舎』 (1923年)、右が『庭の少女』(1909年)、共にフリッツ・ヴァン・デン・ベルグ作。

 

上に挙げた二人の画家による4点ですが(ともに新しい年代の方が第3章に、古い方は第2章に展示)、どちらもとても同じ画家が描いたとは思えない画風の変貌ぶりでしょう?スメットなど同じ川の情景を描いてこの違い。

実は今までベルギー近代美術の展覧会で私が個人的に苦手だったのが、この3章に並ぶごっつい表現主義の作品たち。でも今回はあら不思議、朴訥とした色彩のブロックに何とも言えない味を感じてしまったのでした。

本展は10月24日(日)まで。お勧めします。

ウフィツィ美術館 自画像コレクション 巨匠たちの「秘めた素顔」 1664-2010

2010-09-26 | アート鑑賞
損保ジャパン東郷青児美術館 2010年9月11日(土)-11月14日(日)



今まで2回ほどフィレンツェに行ったことがあるが、見学期間が限られた上に事前予約が必要な「ヴァザーリの回廊」には、ついぞ足を踏み入れたことがない。ポンテ・ヴェッキオに並ぶ目も眩むような宝飾店の連なりに目をやりつつも、私はいつも頭上の、丸窓の並ぶ上階部分を見上げては「ああ、いつかあの中を歩きたいなぁ」と思って終わっている。

まぁそれはさておき、まずは「ヴァザーリの回廊」に関連する歴史をざっとおさらいしてみましょうか。

初代トスカーナ公コジモ1世(1519-74)は1560年、それまで使用していたヴェッキオ宮殿に代わる行政庁舎としてウフィツィ宮殿を造営。1565年には息子の挙式に向けて、ヴェッキオ宮殿、ウフィツィ宮殿、そしてコジモ1世妃エレオノーラが1550年に私邸として購入していたピッティ宮殿(ここだけアルノ川を挟んで反対側にある)の3ヶ所を結ぶ回廊を建造。これが「ヴァザーリの回廊」であります。

ヴァザーリとはジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)のことで、建築家、画家としてのみならず、彼が功績を認める美術家たちを列伝として紹介する著書『美術家列伝』でも有名な人。上記にあるヴェッキオ宮殿の改築、ウフィツィ宮殿や回廊の建造などを手掛けた、コジモ1世の美術政策に重要な役割を果たした芸術家でした。

父の跡を継いで第2代トスカーナ公となった芸術好きのフランチェスコ1世(1541-1587)が、1581年にその蒐集品をウフィツィ宮の最上階に陳列。これがウフィツィ美術館の誕生となりました。

ところで、中世まで西洋美術には自画像というジャンルはなかった。作者は飽くまで裏方。しかしルネッサンス期にメディチ家主導による人文主義の下、美術家の自意識が高まり、祭壇画や壁画に自分を描き込んだりするようになる。やがて自画像が描かれるようになり、ヴァザーリの『美術家列伝』には紹介されている各美術家の肖像画が掲載されていたとのこと。

第5代トスカーナ公フェルディナンド2世の弟、レオポルド・デ・メディチ(1617-1675)が自画像コレクションを開始。ここを出発点とし、多様な流派の作品を集めることを念頭に収集が重ねられた結果、今やその数1700点に。全長1kmに渡って上下2段展示で並んでいるそうです。

本展はそのコレクションの中から78点が来日し、うち60点余りが東京会場で展示。図録を見ると、どうも今年「ヴァザーリの回廊」は改装工事をやっているようで、そのおかげで叶った展覧会なのかもしれません。東京の会場もどうしたことか展示室の壁が穴だらけで、こちらも改装中か何かなのでしょうか?

展示は時代に沿って5つの章に区切られて進んでいくので、1500年代から現代に至る西洋絵画の変遷を追うような感覚でも楽しめます。

第1章 レオポルド枢機卿とメディチ家の自画像コレクション 1664-1736

『自画像』 ラヴィニア・フォンターナ (1579)



直径15.7cmの円形の銅板に描かれた細密画。ペンを持ってこちらに斜め横顔を向ける女性は、画家というより宮廷の女官風。豪華な襟飾り、袖のレース飾り、金のブレスレット等、写実的に細かく描き込まれている。

『イーゼル上の自画像』 アンニーバレ・カラッチ (1603-04年頃)

神話の主題などを、力強くダイナミックに描く画家というイメージが強いアンニーバレ・カラッチ。しかしこの画中画作品で、イーゼル上のキャンバスに描かれた、不安げな眼差しを投げかける男性がその人であるとは、私の中で上手く結び付かない。でも解説を読んでなんとなく納得。晩年は衝撃的なデビューを果たしたカラヴァッジォの存在に脅かされ、心身ともに衰弱していたという。イーゼルの足元に寄りそう犬と猫も闇に溶け込んでしまいそうなほど生命力が感じられない。

『自画像』 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ (1635年頃)



写真や映像を見るだけでも息を飲むような、超絶技巧を駆使した彫刻作品でローマを飾った巨匠。こんなお顔だったのですね。やや神経質っぽくも見えるけれど、割と普通。

『自画像』 ヨハンネス・グンプ (1646年)



自分の顔が映る鏡が左側にあり、それを見ながら筆を動かす画家の後ろ姿を挟んで、右側に自画像が出来上がっていくキャンバス。普通に肖像画を描いてもおもしろくないじゃないか、という画家の創意工夫が感じられます。

『アトリエの自画像』 ヨブ・ベルクハイデ (1675年)

オランダはハーレムの画家の自画像。と言っても、これはオランダの室内画としても鑑賞に値するのではないでしょうか。左側の窓から差し込む黄金色の光に照らされた画家のアトリエには、イーゼルに向かう画家の他に様々なものが描き込まれている。机の上にはタピストリー、石膏像、リコーダー、コンパス、パイプなど、そして壁には金色の豪華な額縁に入った自画像とヴァイオリン。期せずしてこういう絵にお目にかかれると嬉しい。

『自画像』 フランス・ファン・ミーリス(大) (1676年)



オランダはライデンの画家の自画像。ヘッドが二股に分かれた変わった弦楽器を抱えて、ひょうきんな表情でこちらを振り返っている。自分を道化師に見立てて描いているそうで、光沢のある生地の質感描写が見事な衣装も道化師の服装から採られたものとのこと。

『花輪の中の自画像(?)』 ニコラ・ファン・ハウブラーケン (1720年頃)



画面を囲む花輪の描き方から、自然とフランドルかオランダ辺りの画家の作品かと想像されたが、この画家のお祖父さんがアントワープ出身ながら本人は少年時代にトスカーナ地方のリヴォルノに移住したらしい。また、ここに描かれているのは自画像ではなく、友人のフランス人画家の可能性もあるとのこと。いずれにせよ、華やかな花に囲まれて顔を出しているのが、美しい女性や美青年ではなく、物憂げなおじさんだというのがいい味を出しているトロンプ・ルイユ作品。

第2章 ハプスブルク=ロートリンゲン家の時代 1737-1860

1737年にメディチ家が断絶し、ハプスブルク=ロートリンゲン(ロレーヌ)家が大公国の統治を継ぐ。2代目ピエトロ・レオポルド(1747-92)はウフィツィを王立美術館として一般公開。

『マリー・アントワネットの肖像を描くヴィジェ=ル・ブラン』 マリー=ルイーズ=エリザベート・ヴィジェ=ル・ブラン (1790)

チラシに使われている作品。マリー・アントワネットの肖像画を20点以上描いた画家だそうだ(随分前に私もそのうちの1点を、今はなき伊勢丹美術館で観ていたようだ)。薄く溶いた油絵具を塗り重ねることによって透明感を出す技法を用いたそうで、この作品の中でも画家は柔らかそうな細い筆を手に、うっすらとキャンバスの上に姿を現し始めた描き始めと思しきマリー・アントワネットの肖像に取り掛かっている。画家の袖口のレース飾りに絵具が付いてしまうのでは?とつい心配に。

『自画像』 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル (1858年)



重厚感溢れる正統的な自画像。右上に「1858年、ゴールの画家J.A.D.アングルは、78歳で自分自身を描けり」と署名してあるそうだ。え、78歳にしては肌の張りが随分よろしいのでは?彼の描く女性は皆、髪の毛をきっちりと真ん中分けにしているイメージがあるが、ご本人も真ん中分けだったのですね。目元が犬のバセットハウンドに似ている。

『自画像』 イポリット・フランドラン (1853年)



フランスはリヨン出身の画家。名前を聞いてもすぐには作品が浮かばなかったが、家で図録を当たってみると案の定という感じで割と日本に作品が来ていて(アングルの弟子だった)、ああ、このすべすべした絵を描いた人かと思い出した。この肖像画は未完成とのことで、確かにこれから目元や髭などに手が加えられていったのだろうな、と想像されたが、これはこれで惹かれるものがあった。

第3章 イタリア王国の時代 1861-1919

1861年にイタリア王国が成立し、ウフィツィ美術館も国立の美術館に。各国のアカデミーを通して肖像画の寄贈依頼をしていたため、印象派など19世紀の画家の肖像画が欠けており、1864年以降中央政府を通じて寄贈依頼を行う。その反面展示スペースの問題も生まれ、自画像作品はヴァザーリの回廊に移されていく。

『自画像』 フィリッポ・ガルビ (1873年)



自らが描いた、人体の集合体で形作る『解剖学的な頭部』(1854年)を背景に、何やら書き込み中のスケッチ・ブックから目を上げてこちらを見るナポリ出身の画家。思わず歌川国芳の、人体を集めて顔を描いた作品を思い出す。

『自画像』 フランツ・フォン・シュトゥック (1906年)

名前だけではピンとこなかったけれど、小さく写真で紹介されていたこの人の作品を観て、あ~、本屋でよく見かけるあの美術書の表紙の絵を描いた人かとすぐわかった。それにしても物凄い目力です。

『自画像』 フレデリック・レイトン (1880年)



個人的にこの絵が一番観たかった。画家がアトリエ兼邸宅としてロンドン西部のホランド・パークに建造し、30年以上手を加えながら住み続けた建物がレイトン・ハウス美術館として公開されており、私も10年近く前に訪れたことがある。その「美の宮殿」に足を踏み入れたときは陶然と立ちすくむ以外なかったのだが、その時購入した図録の表紙がまさにこの作品。その数年後にウフィツィ美術館で買った図録にこの絵が大きく載っており、ああ、いつか実物が観たいなぁ、と長いこと念じていた。

イギリスで生まれつつも父親の仕事の関係で幼少の頃からヨーロッパで過ごし、長じてフランクフルト、ローマ、パリなどで画業の研鑽を積み、貴族に叙せられた初のイギリス人画家。作品はヴィクトリア女王に買い上げられ、ロイヤル・アカデミーの学長を務め、生涯独身を貫いて「私は芸術と結婚した」と画業や公私の生活の中でひたすら美を追求したレイトン卿は、ヴィクトリア朝時代の洗練されたセレブの代表だった。

そんな卿が、深い教養を漂わす眼差しでじっとこちらを見据えている。数ヶ国語を操ったという貴方は、どんな声の持ち主だったのでしょう?

『自画像』 エミール・クラウス (1913-14年)

外光を表現するための手段としてあえて逆光の中にモティーフを切り取り続けた画家は、自分の自画像もやはり逆光の中に描いている。「いつでも陽に向かって画をすえて」と日本人画家に助言した彼も、このときばかりは陽を背後に鏡とイーゼルを据えたのでしょうね。

『自画像』 ボリス・ミハイロヴィッチ・クストディエフ (1912年)



観た瞬間、ロシア人でなくともViva Russia!と心の中で叫んでしまいそうな作品。画家のアイデンティティがこれでもかと画面から横溢しています。翻って我が日本の画家が、国会議事堂を背景に自画像を描いても世界の人はどこだかわからないでしょうね。日本の建造物としてクレムリンと同じくらいインパクトのあるものって何でしょう?

第4章 20世紀の巨匠たち 1920-1980

20世紀前半、自画像コレクションは冬の時代に。批評家による寄贈作品の質の批判があったり、第二次世界大戦下では展示が回廊に限定されたり、その回廊も1966年に大洪水で被災したりと様々な事態に直面する。しかし1973年に展示を再開し、その3年後に80歳のシャガールが自画像を寄贈したことがきっかけとなって、収集も再開。

『自画像(胸像)』 ジョルジョ・デ・キリコ (1938-39)



キリコの描く作品は、丁寧に塗られた滑らかなマチエールというイメージがあったが(実のところ実作品を観る機会はあまりないのだけれど)、この自画像では柔らかく動的な筆触が印象的。


『自画像』 マルク・シャガール (1959-68)

章の説明に書いたシャガールの自画像。あのシャガール・ブルーともいえる青い画面に、花嫁姿の最初の妻ベラ、故郷ヴィテブスクの鶏、パリの建造物などが溶け込み、左端にはパレットと筆を持つシャガールが描かれる。随分釣り目だけれど、微笑んでいるのでこちらもほっとする。

第5章 現代作家たちの自画像と自刻像 1981-2010

1981年、ウフィツィ美術館創立400周年を祝って存命の美術家に自画像の寄贈を依頼。その成果はこの年の12月にウフィツィ美術館にて開催された展覧会で発表。以来コレクションの拡充は続いているが、美術館側から寄贈を依頼する際の芸術家の選定は易しくないとのこと。

ちなみに、ここにくるまで藤田嗣治以外の日本人芸術家の作品は見当たらなかったが、この章では草間彌生、横尾忠則、杉本博司の3人の自画像が登場。本展を機に加えられたそうです。

『自画像』 ジャンニ・カッチャリーニ (2000-02)



さすがにこの辺りにくると、普通の肖像画の範疇にない多様な作品が登場してくる。自分の名前のイニシャルを殴り描くとか、鼻だけ描くといった抽象的な表現だったり、自身のレントゲン写真を据えたものだったり。

そんな中でここに挙げたのは、目元が見えないながらまるで平穏なスナップ写真のような絵画作品。特殊メイクのマスクかと見まごうアイヴァン・ル・ロレイン・オルブライト『自画像』(1981年)の強烈な顔と並ぶと、ことのほか平和に映ります。

本展は11月14日(日)まで。月曜休館(10月11日は開館)で、金曜日は20:00まで開いています。10月1日(金)「お客様感謝デー無料観覧日」だそうです。

東京展の後は大阪に巡回します:

国立国際美術館
2010年11月27日(土)-2011年2月20日(日)

シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い

2010-09-15 | アート鑑賞
東京芸術大学大学美術館 2010年7月3日(土)-10月11日(月・祝)



展覧会の公式サイトはこちら

今通っている美容室で私を担当して下さっている方は、美術がお好き。先日、まだ残暑が厳しかった日にお世話になったとき、暑いですねぇ、という挨拶もそこそこに「予約リストにYCさんの名前があると、朝からヨシッて思うんですよ~」とおっしゃって下さった(嬉)。そしてお互いが最近観た展覧会の報告をしながら髪がパラパラ切られる中、話はシャガール展の話題へ。はい、私も行きました。多分1カ月以上前に。。。

というわけで慌てて記事に取りかかります。

実は私は今まで「シャガール展」というものに行ったことがかった。決して嫌いなのではないし、美術の教科書に載っていた『私と村』(1911)は私の西洋画の原初体験みたいなものとしてずっと心の中にある特別な作品。しかしながら何となくそこで止まってしまい、リトグラフ作品などが巷に溢れているせいか、今までシャガール作品は表層的にしか観ないできてしまった。

本展はしかし、単なるシャガールの作品(今回出展の約70点は、全てパリのポンピドー・センターのコレクション)を並べたものではなく、彼と密接な関係があったという「ロシア・アヴァンギャルド運動」とのつながりの中にその画業を見ていくもの。難しい内容なのかな、と思ったが、観ていくうちに「ロシアの作家の作品と並んで自作が展示されること」というシャガールの生前の夢が理解され、私が今まで知らなかったシャガール像が立ち上がってきて、なかなか得るもののある展覧会だった。

では、構成通りにざっくりと追っていきたいと思います:

Ⅰ ロシアのネオ・プリミティヴィスム

『自画像』 マルク・シャガール (1908年)



マルク・シャガール(1887-1985)は、ヴィテブスク(現ベラルーシ共和国)のユダヤ人居留区に生まれた。1908年にサンクト・ペテルブルクの居住資格を得て現地の美術学校に入学。フォーヴィズムや洗練された東洋趣味に目覚めるも、主題は民衆芸術であり続け、故郷の街、家族、農民などを描き続けた。

そう説明されて改めてシャガールの作品を観ていくと、いつも必ず画面に彼の故郷の情景が溶け込んでいることに気づく。

『収穫物を運ぶ女たち』 ナターリヤ・ゴンチャローワ (1911年)



ネオ・プリミティズムとは、「ミハイル・ラリオーノフや(その妻)ナターリヤ・ゴンチャローワを中心に展開されたロシア・アヴァンギャルド運動初期の一流派」だそうです。スラヴ民族の独自性、イコン、木彫、刺繍、ルボーク(大衆版画)、店舗の看板などの民衆芸術にインスピレーションを見出し、20世紀初頭から活動。1912年にラリオーノフが組織し、モスクワで開いた「ロバの尻尾」展にはシャガールも参加。

ここに挙げたゴンチャローワの作品は、まるでステンドグラス(というよりルボークと言うべきか)の枠のように取られた輪郭線で囲まれ、画面一杯に描かれた二人の人物が、逞しい存在感を放っている。

Ⅱ 形と光―ロシアの芸術家たちとキュビスム

『ロシアとロバとその他のものに』  マルク・シャガール (1911年)



シャガールは1911年にパリに向かい、あの有名なラ・リュッシュ(「蜂の巣」という意味の、モンパルナスにあった集合アトリエ)で制作を始める。そこでキュビスムなどに出会って生まれたのがこの作品。

解説には「キュビスムの様式とフォーヴィスムの色彩が見事に結実」とあったが、まずもってなぜ女性の首が宙に飛んでいるのかが気になる。これは、夢想に動かされるままの人物をイディッシュ語とロシア語で「頭が飛び立っている」と表現するそうで、それを文字通り絵にしたもの。女性の姿をしているけれど、多分にシャガール本人が投影されているようにも思える。下の方にはロシアの教会が見え、上方はカラフルなオーロラが出ているかのように幻想的。

Ⅲ ロシアへの帰郷

『立体派の風景』 マルク・シャガール (1918-1919年)



1914年に勃発した戦争のため、滞在先のロシアで足止めを食らったシャガールは、1918年に故郷ヴィテブスクでの美術学校の設立・運営に携わる。しかし教師として招来したカジミール・マレーヴィチ(本展では、彼の建物模型のような造形物の複製が何点か展示されている)に生徒の人気を奪われてしまい、居場所を失ったシャガールは1920年にモスクワへ。

この作品は、そんな時期に描かれたキュビスム風の作品。真ん中に見えるのが、その美術学校の建物だそうだ。

尚、1915年には愛妻ベラ・ローゼンフェルトと結婚している。以降、何枚も「恋人たち」をテーマとした作品を描いているが、今回はその1枚『緑色の恋人たち』(1916-1917年)も展示。濃い緑色を背景に、女性の胸に目を閉じて顔をうずめる男性は、女性の母性愛に包まれ安心し切った赤子のよう。まぁ確かにヨーロッパではこのような光景によく出くわしますね。

『アフティルカ 赤い教会の風景』  ワシリー・カンディンスキー (1917年)



ワシリー・カンディンスキーの、モスクワ近郊で描かれた油彩の風景画6点も並ぶ。彼もまた、第一次世界大戦を機にドイツからロシアへ帰還した一人とのこと。

Ⅳ シャガール独自の世界へ

『彼女を巡って』  マルク・シャガール (1945年)



1923年に再びパリに戻って独自の路線を進むが、1940年のナチスドイツによるパリ占領に伴い、翌41年に妻ベラと共にアメリカへ亡命。しかし、その亡命中の1944年に最愛の妻が亡くなる。

シャガールは悲しみのために9ヶ月もの間絵筆が取れなかったそうだが、1933年に描いた『サーカスの人々』を二分割して、その左側部分に筆を入れて本作品を完成。真ん中に故郷の風景を置き、その右にローズ色の服を着たベラが首を傾げ、上空には彼女との幸福な日々の残像が浮遊する中、左側にいるパレットを持つ画家本人の顔は上下が反転している。

『日曜日』 マルク・シャガール (1952-1954年)



1948年にフランスに戻ったシャガールは、1950年に南仏のサン・ポール・ド・ヴァンスに居を定める。52年には65歳にして再婚。この作品はその二度目の妻を描いたものであるらしい。月明かりがかろうじて光源であった『彼女を巡って』の青ざめた絶望感を脱し、この絵では新妻の頬もバラ色に輝き、朝日が昇って幸せオーラが一杯。画面下にはパリのお馴染みの建造物群が並び(ノートルダム寺院と思しき紫色の建物と背景の黄色の対比が鮮やか)、そして上方にはいかなる状況でもシャガールの頭から消え去ることのなかった故郷の風景が描き込まれている。

『イカルスの墜落』  マルク・シャガール (1974-77年)



90歳にて完成をみた、約200cm四方の大作。天から落ちてくるイカルスを待ち受けるのは、故郷の村人や動物たち。伴侶の死や二度の大戦を乗り越え、フランスやアメリカなどを渡り歩いた自分の人生は、ここで始まり、ここで終わるのだということだろうか。最晩年にこの主題を選んだ画家の心境をいろいろ思う。

Ⅴ 歌劇「魔笛」の舞台美術

『シリーズ:モーツァルト「魔笛」 フィナーレのための背景幕、第Ⅱ幕第30場』 (1966-67年)



1964年、シャガールはニューヨークのメトロポリタン歌劇場から、新しい建物のこけら落としとして上演されるモーツァルトの「魔笛」のための舞台装飾と衣裳の素案を受注。私は「魔笛」を観たことがないのだが、壁にずらりと並んでいる約50点の色とりどりの舞台美術や衣装のデザイン画(部分的にコラージュのように布も貼りつけてある)を見渡すと、実に華やかな舞台になったであろうことが想像される。彼が描いたパリのオペラ座の天井画もそうだが、シャガールの、華やかながら毒々しくない色彩センスと柔らかい線描は、こうした万人の目に触れる装飾的作品にはまさに打ってつけだと改めて思う。

私は残念ながら時間がなくて観られなかったのだが、展示室内で52分に及ぶシャガールのドキュメンタリー映画も上映中です。とてもよく出来た作品だそうなので(冒頭の美容師さんによると、これを観るだけでも観覧料1500円の元が取れるとのこと)、お時間が合う方は是非。上映開始時間を転載しておきます:

①午前11時  ②午後12時  ③午後1時  ④午後2時  ⑤午後3時の1日5回

本展は10月11日(月・祝)までです。

アントワープ王立美術館コレクション展―アンソールからマグリットへ ベルギー近代美術の殿堂

2010-09-11 | アート鑑賞
東京オペラシティアートギャラリー 2010年7月28日(水)-10月3日(日)



展覧会のご紹介サイトはこちら

思えば、この5年間ほどの間にも東京及び近郊でベルギーの近代美術作品を観る機会は案外あり、私もいくつか足を運んでいる。そのうちに「ベルギー近代絵画」と聞くと、ヨーロッパ、とりわけフランスの芸術運動の影響の中で語られる解説パネルが浮かび、印象派やバルビゾン派っぽい風景画で幕を開け、美しくもどことなく不穏な感じの象徴派、そして線描・色面ともごっつい表現主義が続いて、最後はシュールレアリスム(マグリットとデルヴォー)で終わるという、まるでコース料理を食しているような画一的なイメージが私の中で出来上がった。

たった数回観ただけでちょっと乱暴な言いようかもしれないが、今回の展覧会も、以下の通り大方私のイメージ通りの構成でありました:

第1章 アカデミスム、外光主義、印象主義
第2章 象徴主義とプリミティヴィスム
第3章 ポスト・キュビスム・フランドル表現主義と抽象芸術
第4章 シュルレアリスム


ところでアントワープという都市はどうしても中世のイメージが強いが、チラシによると近年はファッションの中心地としても知られ、最先端のカルチャーシーンを牽引する都市の一つだそうだ。ルーベンスのコレクションで有名なアントワープ王立美術館にも質量ともに名高い近代絵画のコレクションがあるそうで、今回はその中から19世紀末から20世紀中頃までのベルギー絵画、39作家による70点が出展。うち63点が日本初公開、ということはほとんどが初公開ってことですね。

実は図録はおろかポストカードも1枚も買っていないので、走り書いたメモを見ながら感想を留めておきたいと思います。

『陽光の降り注ぐ小道』 フランツ・クルテンス (1894年) *第1章

159.0x108.0cmの縦長の画面の真ん中に、手前からすっと向こうへ伸びる森の小道。両側にはキャンバス一杯の高さに伸びる背の高い並木が繁り、幹肌や小道の上に木漏れ日が柔らかく散らばる。そこに余計なものは何もなく、画家が画面に再現したかったものがダイレクトに伝わってくる感じがする。ああ、この小道は涼しい空気が吹き抜けていくのだろうなぁ。。。

『公園にいるストローブ娘』 ジャン・バティスト・デ・グレーフ (1884-86年) *第1章



一見普通の印象派っぽい絵だけれど、少女の堅苦しいポーズと表情が面白い。明るい公園の緑の中で、この少女はなんでこんなにしゃちほこばっているのでしょうか?こちらに向ける険しい眼差しに口を結んだ硬い面持ち、ぎゅっと握りしめた左手、地面を踏みしめた足元。後ろにいる羊も何だか唐突な感じがしないでもない。

『待ち合わせ』 ジェームズ・アンソール (1882年) *第1章

ゆらゆらとした筆触で画面に立ち現れる、テーブルに座る女性の姿と、外から室内に差し込む光の表現が印象的。

『西フランドルの風景』 アルフレッド・フィンチ (1888年) *第1章

おお、これはモロにスーラですね。パネルの解説に、ベルギーで結成された「二十人会」はフランスの印象派、新印象派、ポスト印象派を積極的に国内に紹介する中、スーラの影響はとても大きく、点描が流行したとあるが、まさにそれを裏付ける作例。後ろの麦畑でしょうか、黄色っぽい色が、先のオルセー所蔵のポスト印象派展で観たスーラの作品の黄色を思わせる。

『カルヴァリーの庭』 シャルル・メルテンス (1914-19年) *第1章

イギリスのヴィクトリアン朝絵画(ヒューズあたりかな)を思わせるような主題。瀟洒な石造りの邸宅の後ろにある緑したたる庭で、女性がゆったりと椅子に座っている。傍らには、中央の甕から水の溢れる小さな池や、テーブルの上に乗った銀のティーセット。こんな細密な絵が、クレヨンで描かれているなんて。

『フランドル通りの軍楽隊』 ジェームズ・アンソール (1891年) *第2章

小さい作品だけれど、建物やその間の道を行進する軍楽隊の細密な描き込みがすごい。上方の空にうっすら入れられたピンク色が、私にはとてもアンソールっぽく感じられる。それにしてもアンソールって本当に多様な絵の描き手ですね~。

『咲き誇るシャクナゲ』 レオン・フレデリック (1907年) *第2章



私にはこの絵が象徴主義の作品と言われても余りピンと来ず、普通によい絵に見えた。クノップフスピリアールトらと同じ部屋に並ぶとなおさら。

『エドモン・クノップフ』 フェルナン・クノップフ (1881年) *第2章

部屋でくつろいでいるお父さんの横顔の肖像画だというのに、目に入った瞬間、何でこんなにギョッとするのだろう?

『フランドルの冬景色』 ヴェレリウス・デ・サデレール (1928年) *第2章

実は心の中で、フランスやらドイツやら言ってないで(ああ、また暴言)自国フランドルの巨匠たちのDNAを溢れさすベルギーの近代画家っていないのだろうか、と思っていたところ、この絵が目の前に。おお、近代のブリューゲルよ!と言われて画家本人が(そして墓の中のピーテル・ブリューゲルが)ハッピーかどうかわからないが、これはまさにあの静謐な冬の世界であります。ただしサデレールの作品の方は空の占める割合が広くて(上方から闇と冷気が降りてくるよう)、人物も一切排除され、木々も滑らか(右側の数本の木々は歩いているようにも)。外来の表現主義と自国の伝統美が美しく融合しているように私の目には映りました。

『海辺の女』 レオン・スピリアールト (1909年) *第2章

スピリアールトの作品が、その繊細で気難しそうな表情を湛えた自画像なども含め数点並ぶ一角は、えも言われぬ神秘的な雰囲気を醸し出していた。この絵は、黒いドレスを着た女性が海の防波堤の手すりに両手を置き、やや首を垂れて海面をじっと見降ろしている後ろ姿。ほとんどモノトーンの世界で、さめざめとした波と共に女性の懊悩が渦巻いているようだ。ちょっとムンクを想起した。

『リキュールを飲む人たち』 グスターヴ・ファン・デ・ウーステイネ (1922年) *第3章

一瞬、一人の男性が二人の女性とテーブルを囲んでエレガントに語らっているのかと思いきや、男性の手にはパレットと筆が握られ、女性二人は周りを額縁で囲まれている。いわゆる画中画です。ポストカードを買おうかと思ったら、肝心の画中画の額縁部分が切れてしまっていたので止めてしまった。同じ角度に首を曲げる女性二人の空虚な表情がちょっと不気味。

『嵐の岬』 ルネ・マグリット (1964年) *第4章

地中の中に埋まった木箱の中で、おじいさんがまるで家のベッドで寝ているがごとく毛布にくるまり、枕を当てがって横向きに寝ている。その真上の地上にはドカンと大きな岩。チラシに使われている『9月16日』(1956年)も美しい絵だったけれど、今回はこちらの方が印象に残った。

尚、本展のチケットで観られるオペラシティの収蔵品展「幻想の回廊」も、シュールレアリスムの延長で楽しめる作品が沢山並んでいるので是非お立ち寄りを。

『冬の旅Ⅱ』 川村悦子 (1988)



結露した水滴が流れる暖かい部屋の窓から覗いている景色かと思えば、その景色には緑があって冬とは思えず。なんていろいろ考えながら。。。

また、「project N」と呼ばれる展覧会シリーズとして、廊下には川見俊の作品がズラリ。私は2009年度のVOCA展で出会った画家だが、のっぺり平坦に塗りたくられた家と、それを取り囲む草木の柔らかい筆触とのアンバランスさが面白い画面を生み出している。実はこれらの家は愛知県や静岡県に実在する、ペンキで塗装された木造民家だそで、画家は試行錯誤の上、ペンキで板の上に描くという手法でこの『地方の家』シリーズを追及している。

『地方の家51』 川見俊 (2010)


スウィンギン・ロンドン 50’s-60’s ミニスカート・ロック・ベスパ―狂騒のポップカルチャー

2010-09-07 | アート鑑賞
埼玉県立近代美術館 2010年7月10日(土)-9月12日(日)



本展のご案内サイトはこちら

この間の日曜日(9月5日)は久しぶりに埼玉近代美術館へ。企画展もなかなか面白そうだし、この日は関連イベントで映画『レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ』の無料上映もあり、涼しい館内でしばし時を過ごしてきた。

映画の方は語り出すと止まらないので置いておくとして、今回は展覧会の感想のみを留めておきたいと思います。

まずは、展覧会の概要の一部をパネルから(青字部分):

本展はロンドンで1950~60年代にかけて日常生活に取り入れられた各国のインダストリアル・デザインを紹介することで、この時代を見つめ直すとともに、ファッションや音楽をベースとした若者文化を取り上げ、当時のライフスタイル全般を振り返ります。

そんなわけで、会場にはそれこそ当時製造された車、スクーター、家具などの大物から、ラジオ、テレビ、カメラ、洋服、キッチン用品など諸々の日用品に加え、エレクトリック・ギターや初期マーシャル・アンプ、レッド・ツェッペリンのギタリストであるジミー・ペイジのギターや衣装、ビートルズ他のレコード・ジャケットなどなど、この頃の勢いあるロンドンのカラフルな様相が想像される品々が所狭しと並んでいた。

一応5年ごとくらいに区切って、パネルに各時代の事象が下記のような感じで説明されている:

1950年
朝鮮戦争が始まる。
世界初の量産型ソリッド・ギター「ブロードウェイ」発売。

この二つの史実が並列されているあたりが、本展の趣旨を明確に物語っていると思われます。

では、目が留まった作品をざっと挙げてみます:



『スクーター ベスパ125cc』 ピアッジョ社 (1951)

第二次世界大戦終結後、1950年代半ばにはヨーロッパ経済が急激に復興し、モビリティの大衆化が進んだ、という解説が入り口にあったが、まさに世の人々がスクーターに跨り、颯爽と街中を移動していたことを想像させる乗り物(画像中、12番がそれです)。あの「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーンが乗っていたのもこのベスパだそうだ。シートや足を置くスペースも広く、スカート姿の女性でも足を揃えて乗れるし、フォルムが全体に丸っこいのは、種を問わずこの時代の製品に共通する意匠かもしれない。私もこれに跨って、ヨーロッパの田舎道とか気ままに走ってみたいなぁ。

『自動車 ミニ・ヒーリー カブリオレ』 BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション) (1959)

赤いミニのカブリオレ。展示では屋根が開けられ、中が見えるようになっていた。普通のミニなら助手席に乗ったことがあるが、車体が低くて本当にこじんまりと座席に収まる感じだった。久しぶりにミニの正面に立ってみたが、愛嬌のある表情してますね~。

『ポケット・トランジスタ・ラジオ 2R-21』 ソニー (1965)

ソニー製の小さいトランジスタラジオがいろいろ並んでいて、どれも軽快なデザインで手に取りたくなるものばかり。ここに挙げたのは(画像はないけれど)正方形のもので、手のひらにすっぽり収まりそうなサイズ。赤と黒の2色あり、オブジェとして飾っておきたい。

『デイ・ドレス』 マリー・クワント (1964-65年頃)

画像中、10という番号がついているドレス。襟元や脇に走るラインなどなかなかしゃれたデザインで、明るいマロン色も素敵。細身に見えるデザイン、というか、実際細身じゃないと着られないサイズ。この時代のイギリスの若い女の子たちは、きっと皆ツイッギーのようになりたくて、ダイエットに励んだのでしょうね。他人さまの国に対して大変失礼な言い方だけれど、現在ヨーロッパ一の肥満大国となってしまったイギリスにこんな時代があったなんて、と思ってしまった。

ジミー・ペイジの所蔵品

   

ピンクのヴェルヴェット・スーツを着こなせる人って、そうザラにはいないでしょうね。私は金ボタンが並んだフロック・コートが断然かっこいいと思ったけれど、それにしてもパンツが何て細身なこと!ジミー・ペイジって若い頃こんなに細かったんだなぁ、としみじみ(でも60歳代後半になった今も、さほどお太りになっていないようにお見受けしますが)。

ギターに関しては、古いものもあるにはあるが、ギブソンのレスポールは2000年代製造のものだし、『天国への階段』での演奏で有名な、あの6&12弦のダブルネック・ギターもクローン・モデルだったので(復刻版という意味だと思うけれど、ギターにもクローンという言葉を使うのですね)、私としてはちょっと期待過多だったかもしれない。

レコード・ジャケット

LPレコードのジャケットが連なるディスプレイを見上げて、ああ、この正方形の中にはアートがあったなぁ、と感慨を覚えた。昔、CDの大きさに縮小された時も一抹の寂しさを覚えたが、今やそれすらも消滅しそうな勢いの音楽メディア。音楽とアートの結びつきが希薄になるのは何か間違っているような気がする。そういえば本展のチラシも、LPジャケットを模したデザインをしていて、企画者のセンスを感じます。

 これが広げたチラシ  

本展は今度の日曜日、9月12日まで。もしご興味のある方は、お急ぎ下さい。

ついでながら、次回の企画展は「アンドリュー・ワイエス展 オルソン・ハウスの物語」9月25日(土)-12月12日(日)です。



丸沼芸術の森」が所蔵するワイエス・コレクションの全貌を紹介する、最初で最後の機会となるそうです。

誇り高きデザイン 鍋島

2010-09-02 | アート鑑賞
サントリー美術館 2010年8月11日(水)-10月11日(月・祝)



本展に絡んで「お皿に絵を描く」という体験教室のイベントがあり(8月22日(日)終了)、それに参加した母と共にサントリー美術館に行ってきた。母が鍋島の講義を受けたり絵筆と格闘したりしている間に、私はゆったりと展示室を回って涼やかに鑑賞。

鍋島の優れた作品は東博や出光などでよくお目にかかれるし、それなりにイメージもあったのだが、このようにまとまって観るのは初めて。焼き物の知識のない私には、本展のように一つのジャンルに絞った展覧会はとてもわかりやすく、解説と作例を観ながら楽しく学べる。

では早速、個人的に印象に残った作品を少し挙げながら、各章を順に見ていきたいと思います:

1. 鍋島藩窯の歴史

解説を元にざっと歴史をみると、「鍋島」開発の目的は、佐賀藩が徳川将軍家に献上していた高級な中国磁器に代わるやきものを藩内において生産するため。その歴史は1640年代後半から始まって200年余り続くが、18世紀の初めにかけて最盛期を迎え、採算を度外視して作られた色鍋島や鍋島青磁の多くがこの頃に生まれる。18世紀前半以降は幕府の倹約令により、色鍋島に代わって染付と青磁を主体とする落ち着いた作風へ。1774年には徳川将軍家お好みの鍋島絵柄の「手本」が幕府から佐賀藩へ示され、毎年の献上品にその中から2~3種を含めるよう指示があったとのこと。

『色絵輪繋文皿』 江戸時代 18世紀中葉



花びらのような形(「如意頭型」というらしい)の赤い輪と、シンプルな薄青の輪が知恵の輪のようにつながって画面を二分し、上半分だけ青い文様が覆っている。下半分は全くの余白で、ややアール・デコの作風を想起させる斬新な印象。

『色絵竹笹文大皿』 江戸時代 18世紀後半



清々しい笹の葉の紋様、と思いきや、しなる枝が連動して、真ん中に白抜きの梅の花が浮かび上がっている。さり気なく高度な計算がされたデザインにしびれます。

2. 構図の魅力

今度は紋様の構成に着目し、「連続紋様」「散らし紋様」「割付紋様」「中央白抜き構図」その他に分けて展示。鍋島藩窯はその意匠が1693年頃からマンネリ化し、いかにめずらしい絵柄を考え出すかに苦心するようになり、民窯の作品の紋様も参考にされたそうです。

『色絵更紗文皿』 江戸時代 17世紀後半



花をモティーフにした連続紋様をあしらった、色とりどりの色絵更紗のラヴリーなお皿が並び、心が浮き立つ。この日はこの作品が一番お気に入り。

『染付雲雷文大皿』 江戸時代 17世紀後半~18世紀前半



解説に「朧月が光を発しているよう」とある通り、幻想的で美しい作品。きっちりと敷かれた雷文が、中心の余白との境界線でぼかされているテクニック、まさに芸術的ですね。

『染付月兎文皿』 江戸時代 18世紀前半



まん丸いお皿ではなく、左に余白部分が付け足されたような変形皿。その余白部分は、そうです、兎さんですから三日月です。染付の濃淡で柔らかく描かれた兎自体も愛らしく、毛並みなどとても繊細に表現されている。これは民窯からデザインを採用した作例とのことだけど、身分を問わず、誰でもこのお皿には笑みをこぼすことでしょう。

他に、表紙に全て異なる紋様があしらわれた7冊の絵草子が宙に舞う『色絵絵草子文皿』(江戸時代 17世紀後半-18世紀前半)、赤、黄、青、緑の糸巻きがランダムに散らばる『色絵糸巻文皿』((江戸時代 17世紀後半-18世紀前半)、花のようにも、メカニックな部品のようにも見える雪輪が折り重なる『青磁染付雪輪文皿』(江戸時代 17世紀後半-18世紀前半)など、何となくCGで図案化されたようにも感じるモダンな絵柄も面白かった。きっと職人さんたちは、将軍様の嗜好にプライオリティを置きつつ常に世の流行にアンテナを張り、頭をひねりながら、こうしたデザインを生み出していたのでしょうね。しかし、これらが鑑賞用の食器ではなく、将軍家実用の高級食器であるという事実にはため息が出る。盛られる料理も豪勢だったのでしょうけど。

3.鍋島の色と技

この章では、「色」と「技」の観点から作品を観ていく。鍋島の最も重要な色は染付の「青」で、墨弾き、濃み、瑠璃釉などの技法を用いて幅広い青の表現を駆使。墨弾きとは、平たく言えばマスキングの一種で白抜き部分を残す技法。濃(だ)みは太筆に呉須液をたっぷり含ませて溜め塗りする技法、瑠璃釉とは透明釉の中に呉須をまぜたもの。

色鍋島は、染付の青色に上絵の赤・緑・黄を加えた4色以内で構成(他の色はそれらの混合技で表現)。金彩、紫、黒は用いない。

『青磁染付七壺文皿』 江戸時代 17世紀後半~18世紀前半



白磁、青磁の壺が2つずつに、模様の入ったものが3つ、計7個の壺がシュールに並んでいる。のっぺりとモティーフを塗りつぶした青磁壺の表現はいかにも鍋島。

『色絵椿繋文皿』 江戸時代 17世紀後半



白い椿の花がリズミカルに画面を横切っていくさまが可愛らしい。

特別展示 十四代 今泉今右衛門作品

江戸期の佐賀藩で御用赤絵師を務めた家柄で、代々色鍋島の伝統を継承し続けてきたという今泉家。1962年生まれで、2002年に14代目を踏襲した今泉今右衛門さんの作品が8点ほど特別展示。

シャープな星型の造形が大胆ながら、その白い面に目を凝らさないと感知できないような雪の結晶の紋様が散りばめられた『雪花墨はじき雪文鉢』(2007年)、顕微鏡でのぞいたような雪の結晶が、線香花火の瞬きのように繊細に浮き出る『色絵薄墨墨はじき時計草文鉢』(2010年)など、私の眼には何となくデジタル世代の感性を思わせる作品群だった。

4.尺皿と組皿

この章では、直径約30㎝の「尺皿(大皿)」と、「組皿」を展示。「尺皿」は例年2枚ずつ、小物は20客ずつ、徳川将軍家に献上されたとのこと。

『色絵桃文皿』 江戸時代 17世紀後半~18世紀前半 重要文化財



私は焼き物の絵付けでこんなに写実的に描かれた桃にお目にかかったことがない。果物の表皮の微妙な色合いを、精巧な点描で見事に表現。背景の薄い青も清々しい。

『色絵三壺文皿』 江戸時代 17世紀後半



5組の組皿。三つの壺が並ぶ同じ図柄が描かれるが、「器形や意匠の不揃いを「のびやかさ」あるいは「おおらかさ」ととらえることを鍋島は許さなかった」と解説にあり、この作品でも1枚1枚手描きで、寸分違わず複製しているとのこと。いやはや、スパルタなすごいプロフェッショナル集団ですね。

『色絵蜘蛛巣紅葉文皿』 江戸時代 17世紀後半~18世紀前半



墨弾きで描かれた蜘蛛の巣の上に、3色の紅葉が散る組皿。造形とデザインが美しく調和しているように思う。

5.鍋島の主題 四季と吉祥

最後の章では、鍋島皿に採用された絵柄のうち、四季の花卉草木図案と吉祥図案の作品を観ていく。吉祥図案として典型的なのは、宝尽文・桃文・松竹梅文・瓢箪文などで、同じ図案を色鍋島と染付の2パターン作っていることも少なくない。

『色絵三瓢文皿』 江戸時代 17世紀後半~18世紀前半



画面からはみ出さんばかりに並ぶ瓢箪三つの大らかさ。瓢箪は水筒や徳利として使われていたとのことで(だからこのように紐が括りつけられている)、背景の波や縁の波濤文は瓢箪から流れ出る水や酒を表わすそうだ。ポップで楽しい図柄。

とりあえず以上ですが、ちょっとご紹介と思っても作品を選ぶのは至難の業。他にも重文として有名な作品も並んでいるし、展示替えもありますので(私は『薄瑠璃染付花紋皿』(江戸時代 17世紀後半)が観られなくて残念)、ご興味のある方は是非会場に足をお運び下さい。10月11日(月・祝)までです。

平城遷都1300年記念 奈良の古寺と仏像 會津八一のうたにのせて

2010-08-28 | アート鑑賞
三井記念館美術館 2010年7月7日(水)-9月20日(月・祝)



2010年は平城遷都1300年の節目に当たるということで、ここ東京でもそれに関連して本展が開催。チラシから概要を抜粋すると、「奈良の古寺20寺院に伝わる飛鳥時代から室町時代の仏像46点、仏教工芸品19点(うち国宝3点、重要文化財45点)が一堂に展示される仏教美術の大展覧会」だそうです。

展覧会名にある會津八一(1881-1956)は、私も不勉強で今回初めて知ったのだが、解説によると、明治時代の廃仏毀釈の嵐の中、荒廃の危機にさらされた奈良の古寺や仏像の価値を見出し、再評価した人であるらしい。元々英文学を修めたが、のちに奈良美術に魅せられ、以降その魅力を歌人、書家、美術史家としての活動を通じ、世に伝播し続けた。

ちなみにこの展覧会は、新潟、東京、奈良と3ヶ所で開催される巡回展。場所ごとに内容も工夫され、もう終わってしまったが、會津八一の故郷である新潟では彼にちなんだ出展品がとても充実していた模様。

仏像と仏教工芸品に重きが置かれたという東京展の構成は、以下の通り:

展示室1 金銅仏
展示室2 金銅仏
展示室3 會津八一関係資料
展示室4 奈良の古寺と仏像Ⅰ(東大寺・西大寺・唐招提寺・薬師寺)
展示室5 仏教工芸品
展示室6 會津八一関係資料
展示室7 奈良の古寺と仏像Ⅱ(長谷寺・室生寺・當麻寺・橘寺・法隆寺・大安寺・秋篠寺・元興寺)

20の寺院も記しておきます:

秋篠寺・岡寺・元興寺・興福寺・西大寺・正暦寺・新薬師寺・大安寺・當麻寺・當麻寺奥院・橘寺・唐招提寺・東大寺・能満院・長谷寺・般若寺・法隆寺・法起寺・室生寺・薬師寺

では、個人的に印象に残った展示品を挙げていきます:

展示室1 金銅仏

#102 『菩薩半跏像(伝如意輪観音)』 奈良時代後期・8世紀 (岡寺) 重要文化財



まずは飛鳥から奈良時代にかけて作られた金銅仏たちが出迎えてくれる。金銅仏とは、銅で鋳造した上に金鍍金(めっき)を施した仏像。どの仏様も1000年以上の時を経てほとんど表面の鍍金は剥がれ、深く沈んだ鈍い光沢を放っている。この像に限ったことではないが、ここに並ぶ小さな仏様たちの顔の表情、手や指の動き、衣の襞や紐の結び目などのディテールに、観れば観るほど吸い込まれていく。

右にやや首を傾げたこの像は、同じ時代に作られたほぼ同じ大きさの東大寺『菩薩半跏像(伝如意輪観音)』(奈良時代後期・8世紀)と仲良く並んでいたが、猫背の東大寺の仏様と比べてこちらは背筋がまっすぐ伸び、姿勢が正しい。

#10 『押出阿弥陀三尊及び僧形像』 奈良時代前期・7世紀 (法隆寺) 重要文化財



「鋳出した浮彫状の原形に、薄い銅板を当てて図様を打ち出す」技法を押出(おしだし)というそうだ。細かい文様もきれいに打ち出されており、像とは異なる柔らかい仏教美術の世界に心が休まる。このような押出像は全部で4点ほど展示されているが、この作品では中央に阿弥陀様、両脇に菩薩様、その間に僧が二人合掌している。

展示室4 奈良の古寺と仏像Ⅰ(東大寺・西大寺・唐招提寺・薬師寺)

#36 『四天王立像(持国天)』 鎌倉時代・弘安3~4年(1280~1281) (東大寺) 重要文化財



四天王像が四体全て揃って展示されているうちの、これは持国天。各像とも寄木造りで、広目天のみ桜の木、他はヒノキだそうだ。友人も本展でこの像が一番良かったと言っていたが、私も一目惚れ。何てかっこいいのでしょう。右足に重心を置き、クロスした両腕の袖が宙にはためき、内なる力をため込んでいるような表情。刀を振りかざすポーズより迫力があるのでは?

#41 『五劫思惟(ごごうしゆい)阿弥陀如来坐像』 鎌倉時代・13世紀 (東大寺) 重要文化財



正直、ビックリした。チラシの裏に掲載されていた写真でうすうすこの仏像が気にはなっていたのだが、実際対面したら想像以上に大きくて(高さ106cm)、その存在感に息を呑んだ。なぜそんな頭に?と思うのは私だけではないと思うので、解説を引用すると、阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩が、五劫(一説に21億6000万年)の長い間修業をしているうちに、こんなに髪が伸びてしまった、という表現らしい。しかもヒノキの一材から丸彫りの一木造りというのも驚きです。

余談ながら、この秋東博で開催される「東大寺大仏」展(10月8日(金)~)にも、これととてもよく似た像が出展されるようです。

#63 『如来形立像』 平安時代・9世紀 (唐招提寺) 重要文化財



この像は、ギリシャやローマの遺跡から出土する頭部と手足を欠いた彫像“トルソー”になぞらえ、「唐招提寺のトルソー」と呼ばれるそうだ。木彫ながら確かにトルソーだが、頭部や手足がないだけでなく(頭部なしでも高さが154cmある)、厚い胸板(横から見るとかなり張り出している)、足の長いプロポーション、身体に張りついた衣の流れるような襞など、ヘレニズム彫刻を思い浮かべずにはいられない。とても美しいです。

展示室5 仏教工芸品

#11 『金堂天蓋天人』 及び『金堂天蓋鳳凰』 奈良時代前期・7世紀 (法隆寺) 重要文化財

 

法隆寺金堂の内陣の、ご本尊の上の天蓋を飾る飛天2軀と鳳凰。そばで鑑賞しても美しいこの作品が、頭上の天蓋の装飾に使われているのか、とちょっと気になって、思わず法隆寺のサイトをのぞいてみた。画像はなかったけれど、「天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊され」とあり、その様子をどうにも見たくなった。

国宝である西大寺『金剛宝塔』(鎌倉時代)もこの章に展示。

展示室7 奈良の古寺と仏像Ⅱ(長谷寺・室生寺・當麻寺・橘寺・法隆寺・大安寺・秋篠寺・元興寺)

#103 『伝日羅立像』 平安時代・9世紀 (橘寺) 重要文化財



日羅(にちら)は、聖徳太子信仰に支えられた橘寺において、太子の仏法上の師となった百済僧とされた人だそうだが、本像は日羅像として作られたとは考えられないとのこと。プロポーションや衣襞の表現などは、同時代に作られた前出の#63『如来形立像』に酷似しているが、この像では手足の爪や手相に至るまでくっきりした彫りが印象に残る。切れ長の目、弓なりの眉の根元が寄った先にすっと続く小さな鼻と口は顔の中央にまとまり、整ったお顔立ち。

#8 『観音菩薩立像(夢違観音)』 奈良時代前期・7世紀 (法隆寺) 国宝



悪夢を見たら、この夢違観音(ゆめちがいかんのん)様にお祈りすると善夢に変えてくれるという伝承が江戸時代前期に成立したとのこと。確かにそのたおやかな立姿に穏やかなお顔立ちは、そんな信仰をも生むかもしれない。でも、東京の美術館の展示ケースの前でお祈りしたら逆に罰が当たるのでは、なんて思ってしまった。やはり仏様がいらっしゃるお寺まで詣でないとご利益がなさそうな気がしますが、はて。細部を見ると、手と足の指の先がずいぶん上にしなっていますね。

本展は9月20日(月・祝)まで。東京の後は奈良に巡回します。

奈良県立美術館
2010年11月20日(土)-12月19日(日)