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アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

水墨画の輝き―雪舟・等伯から鉄斎まで

2009-05-18 | アート鑑賞
出光美術館 2009年4月25日-5月31日



今回は水墨画の歴史を勉強しに出光美術館に行ってきた。水墨画のみの展覧会は今回が初めてかもしれない。日本における水墨画の歴史を追いつつ、ほどよい出展作品数で構成されたこの展覧会は、各パネルの説明も丁寧で、私のような初心者にもとりあえずわかりやすく理解できるものだった。

まず、墨のみで表現する水墨画は、「自然界に溢れる色彩の再現を放棄するという立脚点」から出発しているとある。志がはなからとてもチャレンジングだ。また、「墨は五彩を兼ねる」とあるが、黒一色の濃淡を駆使して、対象物の有形・無形を問わず、質感描写までこなして"多彩"に表現しなくてはならない。しかも「描き直しのきかない、一発勝負の世界」。以前油絵の先生と「本当に画力が問われるのは日本画だ」と話をしたことがあるが、色を使わない水墨画は描き手の感性・技量が徹底的に試される高度な世界だとしみじみ思った。

展覧会の構成は以下の通り:

第一章 水墨山水画の幕開け
第二章 阿弥派の作画と東山御物
第三章 初期狩野派と長谷川等伯
第四章 新しい個性の開花―近世から近代へ

では、各章ごとに印象に残った作品を挙げていく:

第一章 水墨山水画の幕開け

水墨画は8世紀後半、唐時代の中国に山水画を描く技法として生まれた。時代と共に人物画や花鳥画なども描かれるようになり、10~13世紀頃の宋の時代になると一般的な絵画技法として普及。12世紀末に禅宗とともに日本へ伝わった。

『待花軒図』 画・伝 周文 賛・大岳周崇他八僧 (室町時代)
詩画軸(詩、書、画が一体となった作品)。屋根、戸、塀などに細かく直線がたくさん引かれているが、まさかフリーハンドなのだろうか?手に汗をかきそうだ。

『破墨山水図』 雪舟 (室町時代)
破墨という技法(ネットでちょこっと調べた限りでは、墨の濃淡、筆触で立体感を出す技法のようだ)で描かれた山水画。遠景や陰影に薄墨が使われ、山肌や崖には濃い墨が踊る。小さな作品だったが、筆の躍動感が印象に残った。




『赤衣達磨図』 伝 雪舟 (室町時代)  
肉感的な赤い唇、眉や髭の柔らかい感じ、立体感のある目鼻立ちと、とても写実的。このところ白隠慧鶴のデフォルメされた達磨像ばかり観ていたから、妙に新鮮な感じがした。

第二章 阿弥派の作画と東山御物

14世紀には道釈人物画(神仏等)が描かれるようになり、応永年間の1394年-1428年を境に日本における水墨山水画の制作が始まる。室町幕府に仕えた能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三阿弥は、水墨画家であると同時に足利将軍家の美術コレクション管理を任された、芸術顧問のような人々。日本の水墨画に大きな影響をおよぼした牧谿、玉澗らの作品も合わせて展示。

『四季鳥花図屏風』 能阿弥 (1469)
四曲一双の作品。おしどり、山じゃく、鳩など様々な野鳥が描かれているが、大きく開けた空に飛翔する鷺のフォルムが何と言ってもかっこいい。大きく広げた白い羽、下を見下ろす首の角度、風に乗ってしなやかに伸びる足の重なり具合。惚れ惚れする。

『腹さすり布袋図』 相阿弥 (室町時代)
はだけた着物から突き出すお腹を左手でさすりながら、独特の笑顔を見せる布袋。大きく開けた口元には細かい歯が並んでいる。目つきが鋭くて、何だかワルそうな顔だが。。。 頭の曲線を描くとき、よく手が震えないものだ。右から左に引いているように見えるけど、この人左利き?息を止めて一気に描くんだろうか、と不器用な私はついつい感嘆してしまう。




第三章 初期狩野派と長谷川等伯

日本の水墨表現が大きく飛躍するのは桃山時代。16世紀になると狩野正信・元信父子の登場により室町水墨画の幕開け。狩野永徳による桃山の金地濃彩画なども誕生するが、長谷川等伯により日本独特の水墨画が確立する。

『鳥花図屏風』 元信印 (室町~桃山時代)
急に画面がまろやかな感じになった印象を受けた。筆の荒々しい動き、簡素性が消え、一言でいえばとても丁寧な画風になっている。鳥の体など面的に均一的な彩色がされ、はみ出し感がない。滝や波紋も形式的だし、絵全体が造形的。

『竹虎図屏風』 長谷川等伯 (桃山時代) 
長谷川等伯といえば私でも幽玄な竹林が浮かぶが、今回は虎の作品。チラシに使われている屏風画である。右隻にいる雄の虎が、左隻にいる雌の虎に求愛をしているところ、と説明を読むまで、そんな場面とは思いも寄らなかった。そう言われて屏風を観ると、身を伏せ気味にして雌の虎を見つめる右の雄虎は思いつめているようにも観えるし、そんな必死な相手に、この、口を半開きにして後ろ足で頭をかきむしっている雌の虎は、「しょうがないわね~、そんなにまで言うならつき合ってあげましょうか?」とでも言わんばかりである。もしくは全く相手にしていないのか。虎の体に走る線が闊達。尚、同じ長谷川等伯による『竹鶴図屏風』も並んで展示されていた。

第四章 新しい個性の開花―近世から近代へ

戦国時代に入ると、それまで禅僧、幕府の御用絵師のみが描いていた墨絵に地方武士、在野の画家が出てきて、水墨画の需要も広がる。江戸時代には狩野探幽が現れ、個性的な画家、様々な表現が生まれて、琳派、文人画へと広がっていく。近代に入ると、富岡鉄斎らが出てくる。

『鍾離権図』 俵屋宗達 (江戸時代)
柔らかい線で表現された、風にたなびく髪、ふさふさの顎鬚、芭蕉扇の装飾毛や、淡く繊細な色彩。観ていると心が穏やかになる作品。

『龍虎図』 伝 俵屋宗達 (江戸時代)
通常この画題では龍が虎を見下ろすのが定番だが、この作品では虎が龍を見下ろしている。龍は垂らしこみという技法で描かれており、私はそのにじみ具合を観ているうちに思わずお茶か何かの染みがついた書類を思い出す(宗達に失礼な、誠に貧相な発想だ)。隣の親子が虎を観て「虎には観えないな」と言っている。あれ、私と同じ意見か?と耳をそばだてていると、「猫だよね」と少年。いやー、私にはどうしても人間のオヤジさまに観えてしまう。虎を擬人化しているのかとさえ思った。

この章では他に、浦上玉堂、富岡鉄斎などの作品が並んでいたが、個人的には宮本武蔵『竹雀図』、尾形光琳『蹴鞠布袋図』、仙『狗子画賛』などが印象に残った。



一瞬のきらめき まぼろしの薩摩切子

2009-05-16 | アート鑑賞
サントリー美術館 2009年3月28日-5月17日



先週末に、気になっていたこの展覧会もあと1週間で閉会ということにハタと気づき、急いでサントリー美術館に向かった。明日までの開催ですが、間に合う方は是非行かれることをお薦めします。

構成は以下の通り:

1 憧れのカットグラス
2 薩摩切子の誕生、そして興隆
3 名士たちの薩摩切子
4 進化する薩摩切子
5 薩摩切子の行方

では、各章ごとにカタログの解説をかいつまみながら、160点に及ぶ展示作品の中から印象に残った作品を数例のみ挙げていく:

1 憧れのカットグラス
「薩摩藩のガラス製造は、第10代藩主島津斉興(なりあき)(1791-1859)によって開始される。19歳で家督を継いだ斉興は、増す一方の累積赤字を解消するために財政改革に取り組み、他の藩より優れていた薬種の事業を推し進める。56歳にして「中村製薬館」を開くが、薬品の強い酸に耐えうる器としてガラス器が必要となり、今度は「硝子製造竃(かま)」が創設された。こうして薩摩のガラス産業は薬瓶から出発。特筆すべきは、斉興がかねてからガラス器に強い関心を持っていて、イギリスやアイルランド製のガラス製品を入手していたことと、ガラス製造を始める上で江戸の硝子(びいどろ)師、四元亀次郎(よつもとかめじろう)を呼び寄せたことである」

ここでは、イギリス、アイルランド、ボヘミアのガラス製品や江戸切子など、薩摩切子に影響を与えた作品が並んでいた。確かにアイルランドに行くとガラスやクリスタル製品がお土産として売られているなぁ、などと久しぶりに彼の国を懐かしく思い出した。ボヘミア製品は、まるで中世の西洋のお城の砦を思わせる縁のザクザク感と色の配色がとても装飾的。ロートなどガラス製の実験器具なども並んでいたが、薬瓶から出発してこんなに美しい薩摩切子が生まれたという背景はおもしろい。

2 薩摩切子の誕生、そして興隆
「薩摩ガラスの製造は、息子斉彬(なりあきら)(1809-1858)の代に大きく飛躍。近代的洋式工場群「集成館」にて、大砲、銃、紡績業などとともにガラス製造も推し進められ、海外輸出も視野に入れた美術工芸品として急成長した。1851年、斉彬は前述の四元亀次郎に紅色ガラスの製造を命じる。数百回の試験ののち、日本で初めての深紅の色ガラスが薩摩に誕生、大評判に。1855年にガラス工場が設けられ、贅沢品から日用品まで製造されるようになり、事業は最盛期を迎える。造形、文様など西洋のガラス器を模したものも少なくない、東西の美の融合が特徴の薩摩切子だが、その最盛期は斉彬が藩主であったわずか7年半。1858年に斉彬が急死すると事業は縮小し、1863年に薩英戦争によって工場が破壊されると衰退の一途をたどる」

この章と次の3章は、薩摩切子の真髄とも思える作品群が並ぶ。次から次へと立ち現れる美しい作品たちに惚れぼれ。

#71 『薩摩切子 緑青色被蓋物 1合』 (19世紀中頃)
一瞬にして私の心を奪った作品。この緑青は江戸時代の吹きガラス作品にしばしば見られるそうだが、薩摩切子においては珍しく、数点を確認するのみとのこと。いずれにせよ、この色合い、フォルムは何とも言えず完璧である。展示作品中、どれでも好きなのを一品あげると言われたら、私は躊躇なくこれを頂きたい。



#76 『薩摩切子 藍色被瓶 1口』 (19世紀中頃)
画像ではわかりにくいかもしれないが、透明部分から透けて見える反対側のカットが、光の屈折で実際の大きさよりかなり細かく映る。まるで内側に別の文様があるのかと錯覚するほど。文字で書くとたいしたことないが、実際に観ると幻惑的。



#91 『薩摩切子 紅色被鉢 1口』 (19世紀中頃)
この、斜格子の中に魚子(ななこ)文を配した模様は、薩摩切子の作品に頻繁に使われている代表的な文様。英語では「ストロベリー・ダイヤモンド・カット」と呼ぶそうである。確かにこのような赤い作品を観ると、苺の表面のようである。



#97 『薩摩切子 紅色被皿』 3枚
数百回の実験ののち、薩摩藩が初めて成功した紅色ガラスを使った作品。深い紅色もさることながら、「ぼかし」のグラデーションは独特。



#99 『薩摩切子 藍色被船形鉢 1口』 (19世紀中頃)
吉祥文「蝙蝠(こうもり)」と「巴」文が彫られた船形鉢。凝った意匠。



3 名士たちの薩摩切子
「藩を代表する美術工芸品として製造された薩摩切子は、将軍家、諸大名への献上品として用いられることも多かった。斉彬の功業を明らかにするために企画された「薩摩切子陳列会」(1921年10月23日、於 東京の島津邸)には、当時薩摩切子と認定された128点が並ぶ。その多くが、侯爵、伯爵、子爵など上流階級の名士の所有だった」

やはり献上品というだけあって、一つ一つの作品にとても時間がかかっているのがわかる凝った作りの展示品が並ぶ。画像は取り込めなかったが、#112の雛道具一式には目を見張った。沢山の杯、丸皿、角皿、瓶などミニチュアの薩摩切子がずらりと並んでいて、しかも全てに繊細な手彫りのカットが施されている。おそらく篤姫所用、とのことだが、この職人技は凄いとしか言いようがない。

#105 『薩摩切子 脚付杯 1口』 (19世紀中頃)
徳川宗家に伝わる無色の脚付杯で、この作品を筆頭に#111までそれぞれカットの異なる計7個が並ぶ。無色というのも、涼やかでいいものである。その日の気分で杯を選び、冷酒を飲んだらさぞや美味しいだろう。



#120 『薩摩切子 緑色被栓付瓶 1合』 (19世紀中頃)
今度は緑色。類例は少ないそうだ。カットも彩色もどちらかというとさっぱりしていて、この色に合っているように思う。



4 進化する薩摩切子
「制作後期になると、色彩、カット、ヴァリエーションも多様になり、一層モダンなデザインへ。その一方、薩摩と交流のあるガラス職人が呼ばれて他の場所で薩摩風の作品を作るなど、現在薩摩切子と称される器の中に「集成館」以外の場所で作られたものが含まれている可能性も否定できない」

全体的にデザインも洗練されてきて、カットも色々な文様を組み合わせた複合技が主流になってくる。現代っぽい感覚を覚えた。

#126 『薩摩切子 紫色被ちろり』 1口 (19世紀後半)
「ちろり」とは、もともと湯に入れて酒を温める器具で金属製であるが、ガラス製のちろりは冷酒用に作られた、という説明を読む前に、観た瞬間に「ああ、これで冷酒をちろりといきたい」と思った私だった。



#131 『薩摩切子 黄色碗 5口』 (19世紀後半)
ちょっと黒っぽいが、黄色が新鮮。



5 薩摩切子の行方
「1863年、薩英戦争でのイギリス艦による砲撃でガラス工場は灰燼に帰した。文献によれば、集成館事業自体は再興されるもガラス製造は再開されなかった。しかし、1866年に鹿児島を訪れたイギリス人外交官、アーネスト・サトウや、公使パークスも、ガラス器製造の現場を目撃したと記しており、幕引きの時期については断定は難しい。いずれにせよ、薩英戦争以後に事業縮小となり、職人も離散」

ここでは、"薩摩系切子"とつく19世紀から20世紀にかけて作られた作品が並ぶ。紅色の作品の下に映る薄赤い影が幻影的で、ドラマティックな薩摩切子の生涯を思わせた。

最後に余談ではあるが、第三章にて展示されていた、イギリスのブリストル産の壺について書いておきたい。

     上下とも、『藍色金彩蓋付壺 1合』 イギリス ブリストル (19世紀)


薩摩硝子陳列会に薩摩切子として紛れて出陳されていたそうだ。実は私はブリストルに8か月滞在したことがあり、第二章で展示されていた、全面藍色の作品群を観ているうちにそれとなくブリストルを思い出していた。よって、第三章でこの2作品に対面したときは思わず顔がほころんだ。ブリストルはこの藍色(ブリストル・ブルー)のガラス製品で有名で、古いものは博物館などにも展示されているが、私はブリストル・クリームという甘いシェリー酒の入った現役のボトルとして親しみを持つ。

締めに、そのブリストル・クリームの思い出を一つ。ある晩、ヨーロッパの様々な国から来た同居人たちとカード・ゲームをしていて、負けるごとに罰ゲームとしてこのブリストル・クリームを小さなコップに1杯ずつ飲むこととし、10杯までいったらその人の負けというルールを設定した。私は負け続け(ただでさえノロマな私がラテン民族にかなうわけがない)、9杯まで飲み干したのだが、最後の最後にイタリア人が負けた。というわけで、どうも最後までお酒に紐づく薩摩切子展であった。

日本の美術館名品展 その2

2009-05-06 | アート鑑賞
東京都美術館 2009年4月25日-7月5日

最初に入手したチラシは、片面がフジタ、もう片面がカンディンスキー

日本の美術館名品展の公式ホームページはこちら

出品目録こちら

☆美術館連絡協議会に加盟している美術館(現在124館)の一覧はこちら

その1からの続きです。2.日本近・現代洋画3.日本画、版画の2部門にて印象に残った作品:

2.日本近・現代洋画

山本芳翠 『裸婦』(1880) 岐阜県美術館
ちょうどその日の朝の「日曜美術館」でアングル特集をやっていたので、どうしてもアングルやブグローの裸婦像を想起してしまった。西洋人の肌にはよく緑や緑がかったグレーの陰影がつけられるが、油絵の先生に「あれは血管なんですよ」と教えられ、なるほどと思った。この絵でも西洋人女性の白い肌がとても滑らかに美しく表現され、うっとり。こういう作品を観ると、新古典主義も悪くないと思ってしまう。

浅井忠 『グレーの柳』(1901) 京都市美術館
実は初秋の風景なのだが、立ち並ぶ柳(しだれ柳ではない。名前がわからないが)の葉の、輝く緑のグラデーションがとにかく美しい。グレーはフランスのフォンテーヌブロー近くの小村で、浅井は2年間のヨーロッパ滞在中、度々訪れたそうだ。さぞや気持ちよく筆が動いたことだろう。絵からすがすがしい空気が漂ってくる。

藤田嗣治 『アントワープ港の眺め』(1923) 島根県立石見美術館
これは単純に珍しかった。170x224cmもある大きな風景画。と言っても写生したわけではなく、藤田が大量に買い込んだ資料を元に描いたアントワープ港の17世紀の景色だそうだ。アントワープの銀行家から受注した作品とのこと。防波堤や建物の白っぽい石壁の質感が、彼の描く人物像の肌の陰影と同じ描き方なのでおもしろい。

岡鹿之助 『遊蝶花』(1951) 下関市立美術館
はっとするほど美しい絵だった。雪をかぶった教会や塀などが見える雪景色を背景に、緑青色の花瓶にふんだんに挿された色とりどりのパンジーが右手前に大きく描かれている。柔らかい点描の筆遣い、色彩に独特の味わい。雪と華々しい花の組み合わせは非現実的だが、まるで白昼夢を見ているような心持にさせられた。

靉光 『蝶』(1941) 広島市現代美術館
オリーヴ色のグラデーションのような渋い色彩の背景の中、画面中央にねじれて伸びる木の枝にとまる2匹の蝶。アゲハ蝶の羽の白黒の模様だけがくっきりと浮かび上がる。この苔むしたような絵の何かが私の心を引きずりこむ。

国吉康雄 『祭りは終わった』(1947) 岡山県立美術館
一瞬、あらこの馬どうしたの!と思った。どこか上方から落ちてきたかのように、背中を真下に馬が地面に落下する瞬間に観えたから。しかしよく観るとこれはメリーゴーランドの木馬で、胴を貫通する手すりの棒が地面に刺さり、体が宙に浮いている図だった。「祭りは終わった。戦争は終わった。新しい世界を待ち望んだけれど、何もやっては来なかった」とは画家の言葉。あまりに寂寞とした言葉だが、もしこの画家が今に生きていたとしても、同じような絵を描いていたのではないかと思ってしまうのは残念なことである。

牛島憲之 『邨』(1947) 府中市美術館
淡いパステル調の色彩で、藁葺き屋根の連なりを描いた作品。黄味や赤身がかったベージュ色と、陰影の若草色が柔らかく調和している。屋根の形も含め直線は見当たらず、すべてがほんわりとした世界。府中市美術館には何度か足を運んだことがあり、牛島憲之記念館には牛島の生前のアトリエがそのまま再現されていたのを思い出した。画材、イーゼルや座布団などを観ていると画家の息遣いが聞こえてきそうで、そこに画家の魂が宿っているような思いに駆られた。作品のみならずこのような形で画業を記録にとどめてもらえる画家は幸せだと思う。

山口薫 『花子誕生』(1951) 群馬県立近代美術館
母牛の大きな体躯のダイナミックな表現と、その横で生まれたばかりの子牛花子がふらつきながら初めて大地を踏みしめる様子の対比が見事。母牛が花子の体をなめる様子も微笑ましい。複数の色が混ざった微妙な色調で描かれた牛の体と、背景の朱色の調和にも見惚れる。

3.日本画、版画

狩野芳崖 『伏龍羅漢図』(1885) 福井県立美術館
羅漢の顔の表情も印象的だが、彼の膝の上で口を開けてスヤスヤと眠るこんな可愛い龍は観たことがない。強弱の効いた見事な線描にも見ほれるが、背景から浮き立つような羅漢の存在感がすごいと思った。

菱田春草 『夕の森』(1904) 飯田市美術博物館
なんだろう、この胸を締めつけられるような感覚。靄がかかったようにぼんやりと朦朧体で描かれた大きな森。その森の上をうっすらと淡い黄色に染める日の名残り。それを背後に空高く舞う鳥の群れは、森とは対照的に一羽一羽がくっきりと明確な線で描き込まれている。それらはとても小さいのに、飛ぶ姿、群れの様子がこれ以上にないというくらい完璧に映る。この鳥たちが森へ帰ってしまったあとの、しんとした森を想像するから寂しくなってしまうのだろうか?

高山辰男 『食べる』(1973) 大分県立芸術会館
今回の鑑賞でもっとも胸ぐらをつかまれた作品。「生きる」ことの根源をドンと目の前に突きつけられたような気がした。柔らかい暗色も配された朱色で塗りつぶされた背景の中央に、小さなテーブルとそれに向かう小さな子供が浮かびあがる。テーブルの上には飲み物の入ったコップが一つと、ご飯茶わんのような器が一つ。その器を自分の方に引き寄せ、子供は正座した腰を浮き立たせて一心不乱に器の食べ物をかき込んでいる。子供の描写は簡略化されており、まるで影絵のようで顔の表情もわからない。だからよけいにその動作が力強く迫ってくる。生きるのだ、食べるのだ、と。

三橋節子 『余呉の天女』(1975) 京都府立総合資料館(京都府京都文化博物館管理)
三橋の生涯、画業については以前「新日曜美術館」(現「日曜美術館」)での特集で観て感銘を受けたことがあり、いつか実作品を拝見したいと思っていたが、本展がその機会を与えてくれた。この画家は、30代前半で腫瘍のため利き腕である右腕を切断するという画家生命を脅かす不幸に見舞われる。それでも不屈の精神で残った左手で絵を描き続けたが(確か左手で描いた第1作目を、旦那様が「右腕よりいいじゃないか」と褒めたと聞く)、病には勝てず、本作品は35歳で夭折する三橋の絶筆となった。主題は、滋賀県の湖に伝わる羽衣天女伝説。左上に描かれた天女が見下ろす、天女が後ろ髪を引かれる想いで地上に残していく子供の面影が自分の3歳の姪にも重なり、三橋の画家、母としての無念を想い、涙が出た。

恩地孝四郎 『『氷島』の著者 萩原朔太郎像』(1943) 千葉市美術館
「竹、竹、竹が生え」の萩原朔太郎の木版画。教科書の写真でもかっこいい人だと思ったが、この髪が乱れ、シワシワのやつれ顔も絵になるといったら無礼だろうか。

橋本平八 『猫A』(1922) 三重県立美術館
お座りの姿勢で左を振りむいている猫の木彫作品。リアリズムを追求した造形で、猫の丸みのある体が柔らかい鑿の跡を残しながら形作られている。その一彫り一彫りがまるで油絵の筆触のようにも観えた。

キリがないので作品の感想はこのくらいにしておくとして、最後にご紹介したいのはハンディ・サイズの「美連協加盟館ガイドブック」。カタログとは別に300円で販売されている。美連協に加盟する124館すべてを網羅しており、各館のコレクションの紹介と共に代表1作品とアクセス・マップもカラーで載っていて、非常に見やすい。単体では有料だが、カタログを購入すれば付録としてついてくる。

以上であるが、まだ文字数に余裕があるので、締めくくりとしてその他諸々の雑感。この展覧会について思ったことを少し残しておこうと思う。

まず展覧会名とチラシ。ブロガーの皆さんからも意見が出ていたが、「日本の美術館名品展」という名称は(それに落ち着くまで紆余曲折あった旨お伺いしたが)正直なところどうしても"昭和の匂い"がして、アピール度が今一つ弱いという感がぬぐえない気がする。Museum Islandsという文字もあまり目立っていないのではないだろうか。ついでにチラシになぜ藤田嗣治の作品が選ばれたのかもお伺いしたかった。名品の一つに違いないが、一鑑賞者の意見としては、この数年に2度の大規模な回顧展が開かれている藤田の作品は、宣伝のインパクトとしてはやや疲弊感があるように思われる。

例えば、2006年に東京国立近代美術館で開かれた「モダン・パラダイス」展。岡山県にある大原美術館と、東京の近美の所蔵作品が100点以上集められ、"東西名画の饗宴"と謳われた展覧会であった。これも観方が難しい展示内容ではあったが、その名称はインパクトがあり、チラシにも複数の作品が散りばめられていて出展作品の多様性を印象づけられた。今回チラシだけでも各分野から選んだ複数の作品をコラージュのように使ったらよかったのでは?とは素人の考えかもしれないが。

もう一つ思い出すのは、去年釧路に観光で行った際に立ち寄った釧路芸術館の企画展。このとても立派な美術館では、その時地元ご出身の写真家の展覧会が開催中で、個人的には鑑賞して得るものがあったが、いかんせん鑑賞者の姿がなく、本当に閑散としていたのを寂しく思った。しかしながら、日曜日に飲食店が閉まっていたり、夜になるとあまり人気がないなど東京の生活に慣れ親しんだ者には驚くような光景を目の当たりにし、美術館以前の問題のような気もした。これは当然ながら釧路だけの話ではないと思うし、今後ますます美術館同士の多角的な共存体制が必要になってくるのではないかと思ったりもした。

バブル崩壊後は美術館の予算も削られて、作品の購入はおろか運営自体もなかなか厳しいという話を耳にするようになって久しい。そこへきてこの未曾有の経済不況。しばらく厳しい時代が続くと思われるが、「今回集められた作品は氷山の一角であり、美術館側としても今後第二弾、三弾と続けられれば」という学芸員さんの言葉が実現するよう、お祈りしている。ちなみに先に挙げた釧路芸術館から後期に出展される『彩雲』(岩橋英遠)は、私が最も楽しみにしている作品のひとつである。

月岡芳年名品展―新撰東錦絵と竪二枚続―

2009-05-04 | アート鑑賞
平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO 2009年4月4日-4月29日

閉会間際にたまたまチケットを頂き、「月岡芳年」がどんな浮世絵師なのかもよく知らないまま、いそいそと最終日に観に行った。豊洲にあるこの美術館も行くのは今回が初めて。

展示室のパネルの説明によると、月岡芳年(1839-1892)は明治浮世絵界をリードした浮世絵師。12歳で歌川国芳の門人となり、役者絵、美人画、稗史画(はいしが。稗史とは、民間のこまごまとしたことを記録した小説風の歴史)、戦争絵などに加え、明治に入ると新聞の挿絵も手がけた。1885年から89年にかけては「新撰東錦絵」「竪二枚組」シリーズに取り組み、本展はそのシリーズの作品群の展示。前者は横に2枚続けて一つの画面としたもので、歌舞伎や漫談の題材に加え時事報道的な内容を取り入れてある。後者は縦に2枚続けたもので、江戸時代の浮世絵作品の題材を明治の近代的な感覚で表現。鏑木清方は、前者を「大衆小説に匹敵する世界」、後者を「通俗的な歴史画の世界」と評しているとのこと。

横や縦に紙を2枚つなぎ合わせる手法というのも初めて知ったし(のちに調べたら3枚続きもあった)、芳年は「江戸の錦絵の良さを大切にし、受け継いでいこうとした」とあるので、正統的な浮世絵師を想像した。ところが展示室で目の前に展開するのは色恋沙汰、愛憎関係、怨恨のもつれ、猟奇的な事件の数々。今で言う三面記事やゴシップ誌が騒ぐようなエピソードのオンパレードである。確かに色彩は鮮やかできれいだし、横長、縦長の画面を存分に活用した構図も巧み。登場人物の動きはまるでバロック絵画のような躍動感に溢れている。ただしその躍動感が発揮されるのは、切りつけられてひっくり返る人であったり、喧嘩で暴れる人であったり。いろんな浮世絵師がいるものである。

以下、印象に残った作品:

「新撰東錦絵」シリーズ

『佐野次郎左衛門の話』
展示室に入って1枚目の絵がこれ。いきなり殺人の修羅場である。大きな行灯を顔の位置に掲げ持ち、長い刀を手に女郎に詰め寄る男。男の突然の登場に成す術もなくひっくり返る女郎。倒れるときに彼女の乱れた胸元から飛び出したのだろう、画面一杯に舞い散る懐紙。動きの激しさはまさにバロック絵画のようだ。よく観ると男の顔にうす赤い点々があって、一瞬返り血かと思ったら痘痕(あばた)とのこと。確かに女郎はまだ血を見せていない。行灯の横にのぞく男の顔は笑みさえ浮かべ、明らかに正気を失っているその表情は映画「シャイニング」のジャック・ニコルソンのよう。この後のことは余り想像したくない。

『長庵札ノ辻ニテ弟を殺害之圖』
極悪非道の医者のエピソード。姪の貯めたお金を横領しながらそれを患者のせいにして獄死させ、この絵はその姪の父である義理の弟重兵衛に手をかけているところ。雨の中、逃げる隙もなく突然刀で頭に切りつけられ、被っていた笠は真っ二つ。顔面には太い血の筋が額から首の方まで流れ、自分の胸ぐらを掴む重兵衛の断末魔の絶叫が聞こえてきそうだ。この医者は結局、妹、姪にも手を下す。こんな酷い人間(しかも人の命を救う医者のくせに)、あり得ない。

『鬼神於松四郎三朗を害す圖』
女賊とも知らず、旅の途中で知り合ったが運の尽き。親切な四郎三郎は、旅の道すがらおそらく知り合って間もないお松を背負い、河を渡っている。と、突然短剣を背後で振りかざし、四郎三郎に切りかかろうとするお松。気配に気付いて驚愕の形相で振り向かんとする四郎三郎だが、そのまま河の中で命を落としたに違いない。横を飛ぶ2羽の鳥も、ことの次第に驚いた様子。こわい。

『佐倉宗吾之話』
重税に苦しむ農民の苦しい話。これは、主人公佐倉宗吾が意を決してお上に窮状を訴えに行こうと家を出るシーン。継ぎはぎだらけの障子が開けられており、外は雪が降っている。積もった雪が今にも屋根から落ちてきそうだ。部屋の中の行灯もボロボロ、土壁も崩れて中の木組みが見えている。妻は乳飲み子を抱いて床に突っ伏し、二人の子供は自分も連れて行けと父にすがりつく。佐倉はとてもハンサムで、その行動からとても誠実な人柄だったことが伺える。よき夫、父だったはずなのに、結局この佐倉の行動によって、本人も家族も皆処刑されてしまう。なんて惨めで暗い話なんだろう。

『一休地獄太夫之話』
お正月をさらに華やいだ雰囲気にする艶やかな花魁が、付き人を従えしゃなりしゃなりと歩いているところへ一休さん現る。「門松は冥途の旅の一里塚。めでたくいはう人のおろかさ」と唱え、髑髏を先に引っ掛けた竹の棒を笑いながら花魁の面前にかざす。少し後ろに体を傾け、明らかに引いている花魁や当惑顔のお付き人。中央の背景に描かれた松も黒々と不吉である。メメント・モリかいな、と思いつつ、一休の大口を開けて笑う愉快そうな笑顔はイタズラ小僧のようでもある。

『神明相撲闘争之圖』
町火消しの一団と江戸相撲の力士との乱闘場面。「め組」の火消したちは揃いの法被を着て、裾からは刺青の入った腿がちらりと見えたりもするが、いかんせんその華奢な体では何人かかっても巨大な体躯の力士に太刀打ちできるとは思えない。肩からふくらはぎに到るまで力士の波打つ筋肉の表現がちょっと気持ち悪いが、長い竹製のハシゴを振り上げる力士は迫力満点。

『大久保彦左衛門盥登城之圖』
老中以下(だったと思うのだがここはちょっとメモを忘れ、自信なし)は籠に乗ってはいけない、というお達しに反駁して、いわばそのプロテストとして盥(たらい)に乗ってそれを担がせ、城へ向かう大久保彦左衛門。皺の刻まれたその顔はいかにも頑固そうだ。秀忠はそれに折れて、地位いかんに関わらず、50歳以上は籠に乗ってもよいとしたという。お付の侍が、一人だけ長靴のようなものを履いていたのが気になった。

「竪二枚組」シリーズ

『田舎源氏』
一つの簾に男女がくるまり、雨を避けながら道を急ぐ図。今で言う相合傘。胴体に巻いているので歩きにくそうだという突っ込みはさておき、他の作品が作品なだけに、微笑ましい図。

『奥州安達がはらひとつ家の圖』
これはまた残虐なシーン。環の宮の病気治癒のために胎児の生き血が必要(この発想自体が猟奇的)ということで、老女岩手は臨月も近いと思われる女性を逆さ吊りにしている。しかもそれが自分の実の娘であることを岩手は知らない。足から吊るされた女性は赤襦袢をはいているが、上半身は何もつけず大きなお腹も露で、とにかく残酷。同じく上半身露な老女の体はあばら骨が浮き出し、肌も茶色で山姥のごとし。発禁になったというが、そりゃなるわ。妊婦は観てはいけない作品。

『松竹梅湯嶋掛額』
有名な八百屋お七の、クライマックス・シーン。足元に見える町にはメラメラと立ち上る炎。それを眼下に長いはしごを上るお七の着物の裾は強風にめくれあがる。これも縦長の画面を有効に使った、臨場感溢れる作品。

鯉にまたがり、川を下る金太郎の疾走間溢れる『金太郎捕鯉魚』や、馬のお尻から描いたアングルや空を蛇行して舞い上がる鳥の連帯が印象的な『一ノ谷合戦』など、竪二枚組シリーズの方が絵としては美しいものが多かったが、いかんせんインパクトという意味で 「新撰東錦絵」の作品の感想が多くなってしまった。なんだかんだ言って魅了されたということでしょうね。

日本の美術館名品展 その1

2009-05-03 | アート鑑賞
東京都美術館 2009年4月25日-7月5日



ゴールデン・ウィークも真っただ中、上野の山も大型の展覧会が目白押しで大変なことになっている。その中で私の一押しは東京都美術館で開催中の「美連協25周年記念 日本の美術館名品展 」。日本全国にある100の公立美術館のコレクションから、洋の東西を問わず近代美術作品の名品220点が集められた、壮大な展覧会である。

私自身、美術館に行くことのみが目的で関東圏を出たことがない人間であるし、都内・近郊で開催される主だった展覧会だけでも会期中に全て観るのはなかなか大変。ましてや日本全国に散らばる名品を見尽くすなんて、一般の鑑賞者にはなかなか出来ることではない。いや、それ以前に我が日本のどこにどのような作品があるのかを多少なりとも把握できる、良い機会となりそうである。始まって10日も経っていないので、大混雑必至の他の展覧会に比べればまだ余裕を持って鑑賞できると思われる。せっかくのお休みに人の波に揉まれたりせず、ゆったりとした気持ちでこんな豪華な展覧会を観ることができるのはまことに贅沢。

ではまず、本展の趣旨をオフィシャル.サイトから引用:

全国の公立美術館100館が参加し、その膨大なコレクションの頂点をなす、選りすぐりの名品を一堂に公開します。本展は、公立美術館のネットワーク組織である美術館連絡協議会の創立25周年を記念して開催するもので、教科書に載っている作品から、これまで美術館を出たことがない作品まで、西洋絵画50点、日本近・現代洋画70点、日本画50点、版画・彫刻50点の220点により、日本のコレクションのひとつの到達点をお見せします。

☆出品目録はこちらをクリック

☆美術館連絡協議会に加盟している美術館(現在124館)の一覧はこちらをクリック

この220点は、東京都美術館の学芸員さんたちが手分けして現地に赴き、所蔵先の美術館と丁寧に交渉を重ね、ただの作品の陳列にならないよう配慮して収集した多様な作品群。「日本の美術館」にある「名品」という、考えてみれば捉えどころのない括りでどのような展示構成になるのだろう?と気になっていたが、結果的に19世紀から20世紀の近代美術を辿るコンセプトのもと、「西洋絵画、彫刻」「日本近・現代洋画、日本画、版画、彫刻」の2分野で大枠を作り、1階は「西洋絵画」、2階は「日本近・現代洋画」、3階は「日本画、版画」とフロアー単位の間仕切りの非常に見やすいものとなっていた。観終わった後、皆で「1階では○○がよかった」「3階では○○が印象に残った」と言えるような展示である。彫刻作品も各フロアーに程よい間隔で並べられ、展示のよいアクセントとなってリズミカルな鑑賞の場を生み出していた。

とはいえ、さすがに220点全てを一度に並べられないので、前期・後期で展示替えをし(約40点ほどが入れ替わる模様)、バランスを取っているとのこと。大方の人気作品は通しで展示されているが、展示期間に関しては出品目録に明示されているので、もし気になる作品があるようであれば事前に参照した方がいいかもしれない。また、展示室がやや暗めになっているのは、照明も万全を期して所蔵先から指定を受けた照度よりも少し落としているためだそうだ。

もう1点の見どころは、各展示作品につけられたキャプション。通常はカタログの作品解説の概要であることが多いが、今回は所蔵先の担当者の書き下ろしによる、作品のみならず美術館のアピールをしたものも多く見られる。例えば広島県立美術館は「西洋美術に関しては、他館にない作家の作品収集に努めている」とあり、確かに出展作品を描いたフランシス・ピカビアは初めて知る画家であったし、この美術館に興味を持たされもした。また、ジョアン・ミロの作品を出展した福岡市美術館は、その作品がこの美術館によって購入が決まった時のエピソードとして、その報に際し「絵が美術館のものになったということは、つまり、みんなのものになったということです」というミロの一言を紹介。本展の趣旨にも沿った、示唆的な言葉として印象に残った。

では、ざっと個人的に印象に残った作品を挙げていく:

1.西洋画

サー・エドワード・コリー・バーン=ジョーンズ 『フローラ』 (1868-84) 郡山市立美術館



ラファエル前派、ヴィクトリア朝絵画好きには東京で出会えて嬉しいバーン=ジョーンズの佳品。かく言う私も絵の前に立ったとき、思わず笑みがこぼれた。フローラの手から撒かれる植物の種は金粉のようで、彼女が歩くそばから足元に次々と花が咲き出す。ゆるい螺旋のように宙にはためくフローラのショールは春風を感じさせる。ちなみにこの作品を所蔵する郡山市立美術館はイギリス絵画のコレクションが充実していて、今回改めてサイトを拝見したらレイノルズ、ターナーからホガース、ノリッジ派のコットマンまで所蔵する充実ぶり。

ジャン=フランソワ・ミレー 『ポーリーヌ・V・オノの肖像』 (1841-42頃) 山梨県立美術館蔵



日本でミレーといえばこの美術館であるが、同館の人気投票で3位という本作品が出展。ミレーの最初の妻の肖像画で、彼女は結婚3年後に22歳の若さで世を去ったそうだ。整えられた艶やかな黒い髪やまだ少女の面影を残す面持ちが、静謐な雰囲気の中写実的に描かれている。それにしてもやっぱり1位と2位を観に山梨に行かなきゃダメなのね。

ジョヴァンニ・セガンティーニ 『夫人像』(1883-84頃) ふくやま美術館
セガンティーニというとあの点描風の筆致が思い浮かぶが、若い頃はこのような、ホイッスラーを彷彿とさせる肖像画を描いていたことを知った。

ピエール・ボナール 『アンドレ・ボナール嬢の肖像 画家の妹』(1890年) 愛媛県美術館



カタログの表紙に使われている作品。188x80cmの縦長の画面に、背景の森の緑に映える赤いロング・スカートが印象的な画家の妹の全身像が描かれている。彼女が手にするバスケットには梨だろうか、緑色の果物が入っており、足元には彼女と森へ行くのが嬉しくてたまらないといった風の2匹の犬が弾むように歩いている。本展のあと、画家の回顧展が開かれる南仏のロデーヴ美術館へ貸し出されるとのこと。

エゴン・シーレ 『カール・グリュンヴァルトの肖像』(1917年) 豊田市美術館



彼の作風があまり得意ではない私には、普通に良い絵だと鑑賞できるシーレの肖像画。濃紺を背景に、椅子に座る白シャツ姿の男性が浮かび上がる。色彩のゴツゴツ感(マチエールではない)はまさしくシーレ。本作品は、28歳で夭折したこの画家の日本にある唯一の油彩画だそうである。

モィーズ・キスリング 『オランダの娘』(1928年) 北海道立近代美術館
上瞼がやや落ち気味の大きな青い瞳が独特の目力で鑑賞者を吸引する。チューブの丸い口から絞り出した白い絵の具を、直接キャンバスの上に点々と置いていくキスリング独特の手法で、娘の羽織るレースの質感が立体的に表現されている。

サルバドール・ダリ 『パッラーディオのタリア柱廊』(1937-38) 三重県立美術館
ダリというと筆跡を余り残さない滑らかな絵肌を思い浮かべるが、これは油絵の具を早い筆致でラフに載せている興味深い作品。

フランソワ・ポンポン 『シロクマ』(1923-33) 群馬県立館林美術館
白大理石で歩行中のシロクマを掘り上げた彫刻作品。太い四肢を含め、まろやかな体のフォルムが可愛い。

以上、どちらかというと自分にとっての珍しさから印象に残った作品を挙げたまでで、実は他に良い作品がごまんとある。ルノワール、モネ、ピサロ、セザンヌ、ルソー、ユトリロ、シャガール、ピカソ、デルヴォー他。

長くなったので、2.日本近・現代洋画、3.日本画、版画はその2に続く。

VOCA 2009展

2009-04-21 | アート鑑賞
上野の森美術館 2009年3月5日-3月30日



毎年気になっていたものの、いつも機を逸して観られずにいた展覧会。今年も閉会してずいぶん日が経ってしまったが、今回初めて足を運ぶことができたので、感想を残しておこうと思う。

VOCA(ヴォーカ)とは、"THE VISION OF CONTEMPORARY ART"の略、要するに「現代美術の未来像」といったところか。 チラシから抜粋すると、VOCA展は1994年に始まり、全国の美術館学芸員、ジャーナリスト、研究者などに40歳以下の若手作家の推薦を依頼し、その作家が平面作品の新作を出品するという展覧会。

16回目となる今回は35名の作家が出品、この中から6名の選考委員によりVOCA賞1名、VOCA奨励賞2名、佳作賞2名、大原美術館賞1名、府中市美術館賞1名が決定。受賞者、作品名は以下の通り:

VOCA賞
三瀬夏之介 『J』

VOCA奨励賞
樫木和子 『屋上公園』『ふくろうのウサギ』

VOCA奨励賞
竹村京 『dancing N.N. at her room and at the same time in a library in Berlin』

佳作賞
今泉景 『COSMOPOLITAN』

佳作賞
櫻井りえこ 『あやとり』『金魚のおはか』

大原美術館賞
淺井祐介 『人』『今日は今日』『植物』

府中市美術館賞
高木こずえ 『ground』

個人的に印象に残った作品を挙げておく:

三瀬夏之介 『J』
本年度のVOCA賞受賞作品。先だって佐藤美術館にて拝見した個展で受けた衝撃の記憶もまだ褪せない中、三瀬作品に再会となった。整然とは対極に位置する混沌の世界が封じ込められた画面から放出されるエネルギー。この絵の周りだけ異なる気圧を感じる。

今泉景 『COSMOPOLITAN』
蜃気楼のように揺らめいて立ち上る高層ビル群を背景に、父親が二人の子供を肩車して歩いている。父親の肩の上には女の子、そしてその上に一番小さな男の子。この人間の塔は後ろのビル群と呼応しているかのようだ。3人ともビーチにいるような格好で、父親と息子は上半身裸。でも足元には美しい海の波ではなくゴミの山。ビル群とゴミの海原の境はオレンジ色に波打っており、ゴミ処理場の焼却処理作業を思わせる。人間三人の人工的な笑顔、カラフルなゴミの海にこちらも足元が危うくなりそうだ。

櫻井りえこ 『あやとり』
振り向いて『あやとり』の女の子と目が合ったときはぞっとした。画面いっぱいに少女の半身像。ストレートの長い髪を垂らした裸の少女は、ほとんど白目のない、真ん丸い両生類のような大きな両目を見開き、あやとりをしている。肩幅に開いた両手の指に掛けられた毛糸は、真ん中でこんがらがり、その一端は少女の口が引っ張り上げている。やや前かがみでこちらを凝視する少女の瞳に魂を吸い取られそう。広い美術館、しかも明るい展示室でしかお目にかかりたくないような作品だ。

高木こずえ 『ground』
遠くから観た時、マグマが噴出しているように見えた。そばに寄って観ると、画面を覆う炎のようなグラデーション(赤っぽいものから金色に近い色彩まで)の中にはさまざまなものが集積されていた。人間の手、動物、花、植物、木、などなど。手法はよくわからないが、さまざまな写真を合成、加工した作品だそうだ。エネルギッシュな美しい作品だと思った。

麻生知子 『家』
朴訥とした画風ながら実はよく構想されており、観ていて楽しい作品。3階建ての家の壁を取り払い、中の様子を描いた断面図のようでありながら、1階部分は庭も含め真上からの眺め、2階は真横から、3階部分は外からと多元的に空間が捉えられている。描かれた家人たちの情景も平和そのもの。庭で丸いビニール・プールに入り、腹ばいでバタ足をしている少年。1階の居間、ご飯や味噌汁の並ぶテーブルの前で、畳の上の座布団に座り、膝に乗せた子供にご飯を食べさせるお父さん(上から観ているので、大小の黒い丸で表された二人の頭がいい)。3階のベランダで布団たたきをしているお母さん。サザエさん的で和む。

小西紀行 『無題』
黒を背景に、子供の姿をとりながらもこの世のものとは思えない人物像が浮かび上がっている。前かがみで、前面の何かに両手をついて体を支えているかのように、両腕の肘から上を上げ、手は闇の中に溶け込んでいる。窓から部屋の中を覗き込んでいるような態勢だが、描かれているのはこの男の子のみ。男の子、と書いたが髪は白く、両目は赤い丸。着ているシャツやズボンの色も曖昧な色彩で、全身がぼんやりしている。単純な絵といえばそうだが、それでもなぜか妙に魅かれてしまうのは、黒一色に見える背景も含め、しっかり刻まれた筆の営為が訴える力のせいだろうか?

藤田桃子 『アメツチヲムスブ』 240x400cmのほぼモノクロに近い大きな画面に対峙したとき、ドシリと体にのしかかる重力のようなものを感じた。そこに描かれているのは、堆積した岩の塊のようにも、太古の森の大木の群れのようにも観える。ずっしりとした湿気、何かが宿っている濃密な気配。パワフルな日本画。

「Story of …」 カルティエ クリエイション~めぐり逢う美の記憶

2009-04-20 | アート鑑賞
東京国立博物館 表慶館 2009年3月28日-5月31日



私は普段の生活であまりアクセサリー類をつけない殺風景な人間なので(更に言えば、もともと希薄だった物欲がこの数年で著しく低下し、最近も歳下男子に「ダメですよ、物欲なくしちゃ」と諭されたばかりだ)、ましてやカルティエなどのハイ・ブランドにはほとんど縁がなく、本展も招待券がなかったらまず行かなかっただろう。

しかし、そこはやはり天下のカルティエ様。本展は単なる宝飾品の展示というよりは、1847年にパリで創業して以来現在に至るまで続く「宝飾工房」の視点から観なくてはならない。ボケーっと観に行った割には、なかなか見応えのある展覧会だった。

本展の趣旨を東博のサイトから引用:

日仏交流150周年を記念し、フランスを代表するジュエラー、カルティエが所有する1370点のアーカイヴピースを中心に、276点を展示。監修・デザインの吉岡徳仁氏が、それぞれの宝飾品に秘められたストーリーを演出します。

自分が日ごろ目にする大量生産の宝飾品などではなく、発注側の希望を酌み、意匠を凝らして創られたこの世に一点しか存在しないオーダー・メイドの「作品」の数々。よってそれぞれの作品には当然ストーリーが存在する。

そのストーリー紹介の演出の仕掛けが斬新。2Fの展示では、部屋の真ん中にある横長の大きなガラス張りのケースの両側に作品が並び、それぞれの側から作品を観ることになるのだが、各作品の前に立つと、その作品のストーリーが画像として作品の背後上方の空中に映し出されるのである。ガラス張りなので、反対側の人たちの姿が見えるのだが、説明は自分の側にある作品のもののみが空中に現れる。ケースの中にズラリと並ぶ「ダイヤモンド・ビ~ム!」的なティアラにも目が眩んだが、この洗練された展示も印象に残った。

では、自分なりに印象に残った作品:

077 ヴァニティ・ケース(1927年)
携帯電話くらいの大きさのケース。真中にヒエログリフ。その周りにさまざまな石の枠が囲むが、オレンジ色(コーラルかな?)、ラピスラズリの青など配色が実にきれい。こんな携帯持ってみたい。

090 トゥッティ・フルッティ ストラップ・ブレスレット(1928年)
プラチナの台座にダイヤモンドだけのモノクロームな作品も高貴で素敵だが、色の濃いルビー、サファイア、エメラルドなどの宝石をたわわに実らせた作品もウキウキするほど美しい。この他にもトゥッティ・フルッティ・シリーズの作品が数点。

193 ネックレス(スペシャル・オーダー/1928年)
チラシにも使われている絢爛豪華なマハラジャ・ネックレス。この作品が収められたケースの上に逆ピラミッドのような形の物体があって、そこにストーリーが映像で映し出される。このネックレスをまとったマハラジャの姿も。インド人の彫りの深く端正な顔立ちには、ヴォリュームのある煌びやかな宝飾品がよく似合う。創り手にとっても、潤沢に宝石を使えるマハラジャからの発注品はやりがいのある仕事だったことだろう。

画像にはまた、まだ宝石が入る前のネックレスの土台を丁寧に広げて石を嵌めていくシーンがあるが、このネックレスを自分もまとってみたいとは少しも思わないのに、最後の一番大きな石を自分の手で台座にパカっとはめ込んでみたい、という衝動に駆られた。

229 「鳥」ブローチ(1956年)
「ブローチ」と確かに書いてあるのに、どう見ても我々のいうブローチの範疇を超える大きさの作品が多い中、これは本当に小ぶりというか、普通の大きさのブローチで、巣に入った卵が真珠でできているのがなんとも愛らしかった。

234 月面着陸船モデルの精巧なレプリカ(1969年)
変わり種の作品。言うまでもなく、1969年のアポロ11号の成功で人類が初めて月面に立ったのを記念して造られたのだろう。ピカピカ光るメカニックな造形がまばゆいばかりにきれいだった(なんとなくヤノベケンジ氏が浮かんでしまった)。

展示の終わりの方に宝飾品が出来上がるまでの工程をほどよいテンポで紹介するコーナーがあり、最初から最後まで観入ってしまった。デッサンに始まり、石の選定、粘土での土台の模型作り、と工房における作業はやはり芸術的だなぁ、と思う。モザイクの意匠にも似て。

最後には、暗い中に銀河のごとく宝石が並ぶという宇宙的な雰囲気から一転して、真白かつ香しい部屋が待っている。

展示をすべて観終わり、今回初めて表慶館の裏から出てみたが、庭園の美しさもまた格別であった。





六本木アートナイト

2009-04-11 | アート鑑賞


六本木 2009年3月28日-29日

春というにはまだまだ冷たい風の吹く3月最後の土曜の夕方、冬のコートを着ていそいそと六本木に向かった。目指すイベントは、この日の夕方から夜通し翌日の夕方まで六本木界隈で開催される「六本木アート・ナイト」。大まかにサイトをチェックし、「アーティスト・ファイル2009」「ジャイアント・トらやんの大冒険」、野外の展示作品をザッと観られればいいや、というノリで出かけた。

最初に向かったのは、国立新美術館にてこの日だけ無料で夜10時まで開放されていた「アーティスト・ファイル2009」(5月6日まで開催)。ちなみに六本木エリアで開催されていたその他の展覧会、「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち」(国立新-6月1日まで開催)と、「U-Tsu-Wa うつわ」展(21_21 DESIGN SIGHT-5月 10日まで開催)も22:00まで、「一瞬のきらめき まぼろしの薩摩切子展」(サントリー美術館-5月17日まで開催)は23:00までと、この日はみな普段より遅くまで開館。

降り立った乃木坂の駅が余りに閑散としていたのでやや心配になったが、国立新美術館に足を踏み入れるとバンドの演奏で盛り上がっているところで、「アーティスト・ファイル2009」の展示室の中も若い人たちを中心に賑わいをみせていた。この晩20時からのギャラリー・トークにいらしていた村井進吾氏のお話のさわり部分だけ拝聴。重量感のある黒御影石の作品のイメージに合わせたがごとく上下黒で決めた村井氏は、長身でがっちりした体躯の作家さんであった。単純に切り出されているように見える作品も、よく観るといりこに細かくカットされているとのこと。ふむ。

この展覧会については別途書くとして、ちょうど一通り観終わった頃に赤坂からタクシーを飛ばしてやってきた友人が合流、六本木ヒルズへ。取り急ぎジャイアント・トらやんの元へ向かおうとエスカレーターを降りていると、後ろに立つ友人が私の腕を引っ張る。なにごとかと思ったら、下からカルロス・ゴーン氏が上がってくるところだった。すれ違うときに友人が「ハロー」と手を振ると、氏もラブリーな笑顔で手を振り返してくれた。昨今の経済危機で、経営者としてとても大変な日々を送られていることと思うが、普段はこのようににこやかな笑顔を返してくれる余裕に氏の高感度アップ。

そうこうしているうちに、眼下にジャイアント・トらやんの後姿が。私にとって初めて観る立ち姿だ。が、ウキウキしたのも束の間、スタッフに尋ねると火を噴くのは夜中の12時半とのこと。こりゃだめだ、と肩を落としていたところ、突然トらやんが火を噴いた。火炎の威力はそれほどではなかったが、何発か小出しに噴射してくれた。22時にヤノベケンジ氏のトークがあるというので、とりあえずそれまで野外展示の作品を観ようか、と端っこで友人とパンフレットに見入っていると、なにやら背後で関西弁で指示を出しながら動き回っている人が。振り向くとヤノベ氏だった。ああ、お元気そうで何より。

ということで、まずはちょうど横にある毛利庭園へ。入ってすぐ、右手の小高くなった芝の上に鎮座するのは、森万里子による内照式ガラスの大型彫刻作品『プラントオパール』。長円形の大きな物体が横たわり、オパールのように幻想的に色を変えながら怪しくも美しい光を放っている。帰りに観ると、2歳児くらいの男の子が芝地の中に入って、作品の手前で這い這いを途中で止めたような格好で作品にじっと観入っていた。発光体とそれを動かずじっと見詰める幼児の姿は、それ自体SFチックなインスタレーション作品のようであった。

その斜め左では、これまた怪しげな白い煙がモワーっと立ちのぼっている。霧の彫刻と紹介されている、中谷芙二子による霧とライトのインスタレーション『霧の庭 #47662』。薄暗くてよく見えないが、結構な大きさの池全体から霧がもうもうと立ち込めているように見える。池沿いに少し奥へ進んでみると、池の端からパイプが数本出ていて、そこからシューシューと人口の霧が盛大に噴き出ていた。そばにあった桜はかろうじて数本花をつけていたが、満開でライトアップされていたら「黄泉の国」のような雰囲気が出たかもしれない。

建物の方へ戻ると、大屋根プラザにドゥ・ジェンジュンによるインタラクティブアート『私はあなたの跡を消す』。裸の人々が四つん這いになって、両手に持った雑巾か何かでごしごし拭く姿を上から映した映像が床に映し出される仕掛けになっている。自分がその床に足を踏み入れると、その拭き拭き集団の人がさっと自分の足元に現れ、そこに立つ自分の存在、痕跡を拭き取ってしまう、というインスタレーションらしい。一応端から端まで歩いて、一歩ごとに自分の足元に現れてごしごしやる人の裸の背中を見て楽しんだ。

ウェスト・ウォークでは、藤原隆洋による回転式巨大バルーン『into the blue』と、丸山純子による花と泡のインスタレーション『泡花壇』。前者は、ソフトクリームのように段々になった青色の三角錐のバルーンが天井から吊るされ、くるくる回っていた。最大直系8.5mの大きな作品で、中は空洞。真下に立って見上げていたら、何だかどんどん上の方へ吸い込まれていくような感覚に襲われた。西洋の教会建築の、天上へといざなうクーポラを見上げたときとちょっぴり似たような効果を感じたのは私だけだろうか?後者は、プラスティック製の白い花々と、その中ところどころに小ぶりな白いポリ容器が配置された花壇。まばらに照明が当てられ、ポリ容器からは泡がブクブク溢れている。不思議な雰囲気を醸し出す花壇だった。

    左が『into the blue』、右が『泡花壇』

そろそろ時刻は22:00。ヤノベ氏の登場に合わせて絶対火炎放射があるはずだと思い、再びトらやんの元へ。既に大勢集まっており、正面は諦めて向かって左手にスタンバイ。司会者の前フリが終わり、いよいよヤノベ氏が登場、というときだった。それまで正面を向いていたトらやんが、急に私のいる方向にドンピシャの角度で顔の向きを変え、ゴーッと何度か火を噴いた。炎の熱波を頬に感じながら、これは私への挨拶に違いない、と一人浮き立つ私はアホである。

少し氏の話を聞いていたが、連れが風邪をひいていてちょっと辛そうだったので、ここは先ほどのトらやんの挨拶でよしとし、その場を後にした。ヒルズの周りに点在する2m四方のコンテナ、アート・キューブの中でくるくる回転するおもしろい作品群を覗き込みながら、再びミッドタウンの方へ。入り口でもコンテナを一つ観たが、ミッドタウンの方は屋内の展覧会やイベント以外はちょっと寂しかったかもしれない。ちなみにこのアート・キューブは、六本木界隈に全部で20個ほど展示されていたそうだ。

余り深く考えないで行ったイベントだったが、寒かったわりには集客率も悪くなく、面白い試みであったと思う。願わくば、第二弾、第三弾、と続けて欲しい。

と、話をまとめたようで実はここで終わらない。

翌29日。18:00にジャイアント・トらやんの最後の火炎放射があるというので、新宿で別の展覧会を観たあと、それだけを観にまた六本木に行ってしまった。10分前くらいに到着したのだが、今回トらやんはパーカッション・バンドとコラボしており、ちょうどクライマックスに向かって沢山のパーカッションから繰り出される雪崩のようなビートに反応して踊っているところだった。こちらも自然にリズムをとって体が動き出し、独特の高揚感に。もうこれは儀式である。ヤノベ氏の「トらやんは徹夜で頑張ったので、最後に『トらやんありがとう!』と皆で言いましょう」という呼びかけで、会場に集まった皆で何度か練習し、やっと声がまとまってきたところで本番。

トらやん、ありがとう!

そして最後の火炎大噴射。

ヤノベ氏は、「何度も火を噴くから(実際20発目くらいまでは私も数えていた)、シャッター・チャンスは沢山あります」とおっしゃったが、私は写真を撮る気にならず、連射される炎をただひたすら見詰めていた。最後の炎がか細く終息されていくまで。

 二日間のパフォーマンスをすべて無事にこなしたトらやんの後姿。"ヒルズや、兵どもが夢の跡"

尚、トらやんファイヤーの他に、トらやんウォーキングというパフォーマンスもある。私は見逃したが、ありがたいことにテツさんのブログに動画があるので、ご興味のある方はご覧あれ。

のちに同僚が、朝のワイドショーでこのイベント後に解体されて運搬されるトらやんの様子を見たと教えてくれた。「ねぇ、なんであんなロボットがアートなの?」と真顔で尋ねる彼女。"あんなロボット"、他に誰も造れないでしょう?そこがアートなのよ。



第28回 損保ジャパン美術財団 選抜奨励展

2009-04-02 | アート鑑賞
損保ジャパン東郷青児美術館 2009年3月7日-3月29日



まずは本展覧会の趣旨をオフィシャル・サイトから引用しておく:

全国の推薦委員より推薦された若手作家と、美術団体が開催する公募展で「損保ジャパン美術財団 奨励賞」を授与された作家の作品約80点を一堂に展示、会場審査により優秀作品を選出、表彰いたします。

今年は奨励賞受賞作家が36名、推薦作家26名の平面作品が並んだ。各賞は以下の通り:

損保ジャパン美術賞 
弓手 研平(ゆんで けんぺい) 『梅雨色田植図(憲法前文三部作その二)』

秀作賞
細川 憲一(ほそかわ けんいち) 『Trace 紋章』

山本 雄三(やまもと ゆうぞう) 『祈り―温もりに包まれて』

大矢 加奈子(おおや かなこ) 『line-girls』

以上4名、すべて推薦作家。

過去にも何度か足を運んでいる展覧会だが、今年は見損ねそうになっていたところ、私が油絵を教えて頂いている実石江美子先生(三軌会にご所属)からご案内のメールを頂いて、最終日の閉館前に駆け込んだ。

個人的に印象に残ったのは、以下の作品:

長内さゆみ 『秋の水辺』

画面を右上から左下へ斜めに二分した構図で、右下には水辺に浮かぶ睡蓮がこんもりと茂り、左上には紅葉した赤い葉をつける秋の木立が湖面に映りこむ。まずは睡蓮の見事な写実的描き込みに目を奪われた。葉の外側の枯れた部分、日の光に透けて見える葉脈、葉の上で光る水滴。真摯に運ばれる筆の動きを感じ、水辺の息遣いが伝わってくる。

白井洋子 『毀れゆく刻(こわれゆくとき)』

今までも何度か作品を拝見したことのある作家さん。一瞬平和な静物画かと思うが、台の上に載る様々なモティーフをよく観るとどれも不穏。ガラスの器に入ったイチゴの一つはこぼれ落ちたところで宙に浮かぶ。三つあるワイングラスは一つは倒れ、一つは斜めに傾き、もう一つは台の下へ落下するところ。不安定に置かれたヴァイオリンには弦が1本しかない。そう、右端のフクロウの横に描いてある文字"VANITAS"を観るまでもなく、これはヴァニタス画。美しく舞う蝶が時の儚さを強調し、背景にはいつものように金箔も貼られ、沈澱した空気を醸し出す。水彩ならではの深く沈む画面が魅力的。

株田昌彦 『Round About』

工場と象が一体化した、シュールレアリズムの絵。モクモクとクリーム色の煙を吐き出す煙突が横に並ぶ工場そのものを胴体に、右側から虚無感を漂わせる象の顔が出ており、下からは前足2本が覗く。少ない色数で建物部分のメカニックな描き込みと、象のドカンとした重量感の対比が表現され、形而上の意味とか難しく考える前に、単純に絵の造形がおもしろかった。

岩田壮平 『花泥棒』

ニット帽に迷彩色のパンツを履いた今風の男の子が、大輪の赤い花束を抱えて自転車で疾駆している様子を、斜め頭上から捉えた日本画。鮮やかな花束の赤に目を奪われ、顔の表情は見えないものの、必至に自転車を漕いでいる様子が伝わってくる。大きい画面に展開されるアングルがおもしろく、感性のままにこのままダイナミックな日本画をじゃんじゃん描き続けて頂きたい作家さん。

大矢可奈子 『line-girls』

大きく口を開けて楽しそうに笑う若い女の子が6人横に整列し、恐らく背後で互いの背中や腰に腕を回してピッタリ寄り添いながら、膝下の高さの水の中を行進している。人物の肌は茶味を帯びた赤い色の濃淡で描かれ、顔の輪郭ははっきりしない。が、女の子たちが笑う口元にこぼれる歯や、短い丈のスカートから覗く、前に踏み出された足の腿の部分に入れられた白のハイライトが効いて、絵にリズムが生まれている。あっけらかんとした健康的なイメージと、なんとなく逆光のような暗さが混ざったおもしろい感覚を呼び起こす作品。

渡辺まり 『ギャロップ』

不思議な絵。何もないクリーム色の背景に、紫がかったグレーで描かれた頭部のない幼児体型の裸の肢体(ラファエロの描く天使のようにモチモチした体)が、アンバランスな姿勢で真ん中に大きく描かれている。左足が軸となって踏ん張り、まるで反動をつけるように反り返りつつ、右足が大きく前へ踏み出さんと宙に浮いている。高く掲げた左腕と下に下がる右腕でバランスを取ろうとしているようだ。肢体と同じ色で描かれた、左側の水溜りのようなものは何だろう?ギャロップとは疾駆を意味すると思うが、その第一歩を踏み出す一瞬なのだろうか?

ましもゆき 『前夜祝』

紙にペンでコツコツと構築した、緻密な作品。一見して植物が描かれているようだが、反復して現れるモティーフは、上を向いていると椿のような花に見え、下を向いていると雄しべが植物の根のように絡み合いながら長く下がり、クラゲのようでもある。描き込みのバランスもいいと思った。

開山無相大師650年遠諱記念 特別展「妙心寺」

2009-03-31 | アート鑑賞
東京国立博物館 平成館 2009年1月20日-3月1日

  初期に入手したチラシ

  後期に入手したチラシ

前売り券2枚を購入し、年初から楽しみにしていた妙心寺展だが、なんとか前期、後期と1回ずつ足を運ぶことができた。40点ほど入れ替えがあり、前・後期それぞれに大きな目玉があるので、やはり両方観ないわけにはいかない。

もうとっくに閉会してしまったが(実は後期は閉会日に駆け込んだ)、学んだことや印象に残った展示品を記しておきたいと思う。

本展の構成は以下の通り:

■第1章 臨済禅 ―応燈関の法脈―
■第2章 妙心寺の開創 ―花園法皇の帰依―
■第3章 妙心寺の中興 ―歴代と外護者―
■第4章 禅の空間1 ―唐絵と中世水墨画―
■第6章 妙心寺と大檀越 ―繁栄の礎―
■第7章 近世の禅風 ―白隠登場―
■第8章 禅の空間2 ―近世障壁画のかがやき―

*本来、400年遠諱の再現を試みた第5章があるそうだが、東京では展示室の構造上、第1・2・4章に振り分けられれているとのこと

では、それぞれの章で印象に残った展示物を挙げていく:

第1章 臨済禅 ―応燈関の法脈―

『関山慧玄坐像』 吉野右京種次作 江戸時代(1656) 妙心寺

入り口でこの像に出迎えられる。木彫に彩色、玉眼。垂れ目気味の、端正な顔立ち。とはいえ、慧玄は自分の肖像を造ることを許さなかったので、実際の容姿は不明(ちなみに慧玄は臨終に際して頂相を描かないよう弟子に遺言、よって無相大師)。いずれにせよ、この像はプロポーションもよく、着物や袈裟の襞、模様なども美しい。何となくフィレンツェのバルジェッロ博物館にある、ドナテッロ作とされるテラコッタの胸像を想起した。また、この慧玄像の前には『銅三具足』(江戸時代・1664)も置かれていた。 三具足とは、仏前への供養の基本となる香、花、燈を供えるための、香呂、花瓶、燭台を一具としたもの。鳳凰がデザインに使われている燭台が装飾的に美しかった。

『六代祖師像』 西礀子曇賛 鎌倉時代 13世紀

禅宗の初祖達磨から六祖慧能までの六代祖師の頂相。これら六人の祖師が中国禅宗の源流をなすとみなされ、六代祖師をセットとしてまとめて描くことは、南宋時代から元時代に盛んに行われたそうだ。私がこのような頂相を観ていてどうしても気になるのは、僧の靴の脱ぎ方。たまに履いたままの人もいるが、たいてい脱いだ靴が足台(正式な名称わからず)の上に載っていて、揃っている人もいれば左右がバラバラに明後日の方向へ向いている人も。ここにも何か意味があるのだろうか?

『宗峰妙超墨蹟 「関山」道号』 鎌倉時代・嘉暦4年(1329)

この道号(禅僧が本師や恩師から授与される称号)は、宗峰妙超が弟子の慧玄に与えたもの。妙超48歳のときの墨蹟で、この道号により、慧玄蔵主は「関山慧玄」と名乗れるようになった。関の字の左側がしなっているのが印象的な、骨太で力強い筆致。慧玄と妙超の印可状も出展されていたが、かすれ気味で柔らかく、どちらかというと女性っぽい慧玄の筆致に比べて、妙超の墨蹟はくっきりしていて男性的。

『絡子 関山慧玄料』 南北朝時代・14世紀

絡子とは五条袈裟の一種で、いわば労働着。この飾り気のない、疲れた風合いの絡子を慧玄は愛用していたのだろう。形式にこだわることを嫌い、ひたすら弟子の指導に心血を注いだという慧玄の、質実剛健な人柄がしのばれる。

『瑠璃天蓋』中国 明時代・15~16世紀

ガラスの小玉(どちらかというと、色とりどりの不揃いのビーズといった感覚)で出来た天蓋。円筒の形をした内蓋の外側に、六角形の外蓋がかぶさるように出来ている。外蓋は、花など様々な形に編み込まれた長い「ビーズ作品」が、まるでアクセサリーのように上部の六か所のフックから吊り下げられているように見える。銅針金にビーズを通しているので、真っ直ぐ下がらず、全ての線、形が微妙に歪んでいるのがいい。柔らかい照明に照らされ、下の台に投影されていたガラス小玉の濃淡の影が、これまた幻想的で良かった。

■第2章 妙心寺の開創 ―花園法皇の帰依―

『山水楼閣人物図螺鈿引戸』中国 明時代・16世紀

精巧な螺鈿細工で描かれた山水楼閣人物図がはめ込まれた、絢爛たる引戸。それぞれ異なる絵図を持つ引戸は4枚並び、1枚180cmx72cmもある。螺鈿細工には夜光貝の薄貝を使っているそうだ。楼閣のきっちりした線、人物や山水、木々などの細かい描写に目を瞠る。すごい仕事ぶり。

■第4章 禅の空間1 ―唐絵と中世水墨画―

『菊唐草文螺鈿玳瑁合子(きくからくさもんらでんたいまいごうす』 朝鮮 高麗時代・12~13世紀

「洲浜形」と言われる、円を横に三つ並べて左右をちょっと下にずらしたような形の合子。高麗時代の希少な作品。横幅9.3cm、高さ3.5cmのとても小ぶりな入れ物だが、繊細な細工で黒地に朱色の花がたくさん散りばめられ、典雅。

『瓢鮎図(ひょうねんず)』 大岳周崇等31名賛、如拙筆 室町時代・15世紀

元旦から観るのを楽しみにしていた国宝。「丸くすべすべした瓢箪で、ねばねばした鮎をおさえ捕ることができるか」を主題に、足利義持が如拙に描かせたもの。空気遠近法ともいえる遠方にかすむ山並み、手前のしなる竹。やはり実作品でないと、絵の風格がわからないものだ(瓢箪の持ち方が変ではあるが)。絵の上には、五山の名僧31人による賛があり、「鮎は竹竿に上る」という故事に言及していると思われるものもある。いずれにせよ、いくら絵を観つめたところで私なんぞには何の考えも浮かびませんでした。

『鍾呂伝道図』 伝狩野正信筆 室町時代・15世紀

呂洞賓(りょどうひん)が、鍾離権(しょうりけん)から仙術の指南を受ける図。でっぷりした体格の鍾離権は色が黒く、目がギョロギョロしていて、足もとを崩してでんと座る。対峙する痩せた呂洞賓は、きちんと正座し、手もとの巻物に目を落とす。右手の人差指で呂洞賓を指しながら語っている鍾離権の様子は、「なぁ、よく聞けよ」と口調が荒っぽそうなイメージ。背景の松の木の描写は見事。

『浄瓶てき倒図』 狩野元信筆 室町時代・16世紀

「唐の懐海(えかい)禅師が、霊祐(れいゆう)禅師に瓶を示し、「これを瓶と呼ぶべからず。では何と呼ぶか」と問うたのに対し、霊祐は無言でその瓶を蹴り倒して去った」という故事を描いた作品。人の作ったこの世の概念など意味がないという禅の悟りをあらわすのだそうだ。倒れて転がる瓶の後ろで「おやおや」といった風情の懐海たちを尻目に、霊祐は目を吊り上げ、頬を膨らまし、口をへの字に曲げて憤然と去っていく。禅の悟りというと、あらゆる感情を克己した穏便な精神世界をイメージしていたので、プンプン怒りの感情を露わに足早に去っていく霊祐の表情が意外でおもしろかった。

■第6章 妙心寺と大檀越 ―繁栄の礎―

『玩具船』 安土桃山時代・16世紀

豊臣秀吉と側室淀殿(茶々)との間に、秀吉が50歳を過ぎて初めて授かった待望の息子が棄丸。ところが、棄丸は2歳2ヵ月という可愛い盛りに亡くなってしまう。その棄丸の葬儀が行われたのが妙心寺。

この玩具船は、その棄丸のために作られたもの。本体は木でできており、漆箔や彩色も施された、立派な作り。船の上の前後に社のような屋根の装飾がされ、真ん中にちょうと幼児が座れるようなスペースが設けてある。この船は車輪のついた台の上にしつらえられており、引っ張って動かせる仕組み。ふと、イギリスの某サッカー選手が息子に買い与えたという、高価なミニチュアのレーシング・カーを思い出してしまった。もとい、秀吉の息子に対する溺愛ぶりを如実に物語る玩具であり、またこの小さなスペースを見ると夭折した幼い棄丸の姿が偲ばれ、切なくもなった。

『桐竹雪文様打敷』 安土桃山時代・16~17世紀

橙色の地に、苔色や水色で刺繍された桐紋と笹の葉、間に白い雪が散る安土桃山のイメージにピッタリな文様。褪色が激しく、橙色に見えるのは本来紅色だったようだが、今の落ち着いた色彩、特に橙と苔色の対比がいかにも和的な色彩の調和を見せ、美しいと思った。

『瑠璃天蓋』 中国 明時代・16~17世紀

ガラス玉と針金で作られた六角形の天蓋。一つ目の天蓋と比べるとガラス玉の粒がそろっていて、六面それぞれが同色で固められていたり、色の配列が規則的だったりとより洗練された印象。ガラスというのはきれいなものだ。

『春日局消息』 江戸時代・17世紀

ほとんど読めないが、しなやかで勢いのある線がアートを感じさせる筆跡で、印象に残った。

■第7章 近世の禅風 ―白隠登場―

『雲居希膺墨蹟 法語』 江戸時代・17世紀

日常を後悔のないように生きよ、と平易な十の条文で戒める法語。誰が見ても読みやすい文字で、整然と十行。その条文の後に「万事一失悔不回」、後悔先に立たず。セネカの『人生の短さについて』までも思い出し、胸に染み入った。

『達磨像(だるまぞう)』 白隠慧鶴筆 江戸時代・寛延4年(1751)

縦222.8cm、横136.3cmの大画面にドンと墨で描かれた達磨の上半身像。大きな目玉は左上方をギョロリと見据えている。首から上はほぼ右半分に納まっているが、蛇行する川のように右から左へ太い筆で力強く引かれた線一本で見事に表された衣服の線は、左端まで届く。空間表現が効いた、ダイナミックな達磨像。

■第8章 禅の空間2 ―近世障壁画のかがやき―

『楼閣人物螺鈿座屏』伊勢谷直七 江戸時代・嘉永2年(1849)

美しく装飾された台足および透かし彫りの額に、精緻な螺鈿細工の飾り板がはめられた一対の座屏風。エメラルド、ルビー、サファイヤの如く、緑、ピンク、青の魅惑的で微妙な光を放つ楼閣や人物たち。つま先立ちしたり、しゃがんだり、斜めから観てみたりと、しばしその魔法のように美しく色を変える螺鈿の世界を堪能した。

『枯木猿猴図』 長谷川等伯筆 安土桃山~江戸時代・16~17世紀

マニエリスムのように引き伸ばされた猿の肢体。チョンチョンと描かれた顔。子を肩車する親の猿は笑っているし、一人で木にぶら下がって戯れる猿は、まるで次のいたずらを考えているようなヤンチャな顔。フサフサと柔らかそうな毛並みのデリケートな表現と、木の枝の流れるような筆捌きが印象的。

『龍虎図屏風』 狩野山楽筆 安土桃山~江戸時代・17世紀

妙心寺の図屏風は、標準サイズの屏風に対して縦25cm弱大きいそうだ。図録に京都国立博物館の山下氏の「ふつうの屏風のつもりで持ち上げようものなら、ぎっくり腰を起こす危険さえある」というご苦労話が載っているが(前任者に「妙心寺図屏風をひとりでかかえられるようでないと、京博の近世担当は勤まらない」と言われたとのこと)、購入する際に販売員の方が「重いのでお気をつけてお持ち下さい」と手渡してくれた図録の重さに驚いている場合ではないのである。25cmと言われてもピンとこないが、実際に対面するとかなり大きいのがわかる。その大画面を遺憾なく活用し、大迫力で迫ってくるのがこの『龍虎図屏風』。右隻には、天からまるで隕石が落ちてくるような疾走感で降りてくる龍の頭部。左隻には虎のつがいがいて、雄は背後の雌を守るがごとく、首をねじりながら龍に向かって目をむき、大きな口を開けて咆哮している。繊細な筆遣いで描かれた毛並みに目をこらし、しなる背中を背後から目で追って、牙をむき出す顔に行き着いたとき、ゾクゾクした。

『花卉図屏風』 海北友松筆 安土桃山~江戸時代・17世紀

左隻には苔むした岩を前景に、左に梅の木が立ち、上へ伸びる梢はいったん画面上では寸断されながら、中央で再び枝が下りてくる。梅の木の周りには椿の幹、花をつけた枝。右隻には、たわわに開花した牡丹の花が画面一杯に咲き誇る。『龍虎図屏風』と共に、チラシに使われていたもう一つの作品。ちょうど近くにあった、同じ作者による『寒山拾得・三酸図屏風』と比べると、金地の色がより濃く、黄土色に近いのに気づく。まさに装飾の美。

『寒山拾得・三酸図屏風』 海北友松筆 安土桃山~江戸時代・17世紀

様々な作品で見かけるちょっと異様な風貌の寒山と拾得の二人は、中国唐時代末頃に天台山清寺に住んだ隠者。この作品では、寒山が両腕をいっぱいに広げて持つ、U字型にたわむ経巻を、背後から箒を持った拾得が覗き込んでいる。もう一つの『三酸図屏風』共々、ほぼ全面に渡って金箔で覆われた中に墨で人物や背景が描かれており、普通は平面性が強調される金箔の中に奥行きが出ている。

『老梅図襖』 旧天祥院障壁画 狩野山雪筆 江戸時代・17世紀 アメリカ・メトロポリタン美術館蔵

苔の貼りつく幹や枝が、あり得ない角度であたかも増殖していくように画面左方向へ伸びていく。山という字のごとく、90°にカクカクと生える枝ぶりは強烈な印象。今にも画面からこちらの方角へニョッキリ枝が出てきそうだ。瀕死の老木が最後の力を振り絞り、執念で花を咲かせているようでもあり、あるいは絡みつくような妖気を発する老木の精霊であるようにも感じた。