落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 悪魔に反抗せよ  ヤコブ4:7~12

2009-09-21 09:44:18 | 講釈
2009年 聖霊降臨後第17日(特定21) 2009.9.27
<講釈> 悪魔に反抗せよ  ヤコブ4:7~12

1. 争いごとの根本的原因
文脈としては単純に前週の続きである。ここでは教会内における危機的な人間関係が取り扱われている。中心的な問題は、「自分を愛するように隣人を愛する」ということをカンバンにしている信徒たちの間で、なぜ争いごとがあるのかということである。実際に起こっている争いごとをつぶさに観察すると、どんなに些細なことでも争いの原因になる。つまり、争いごとというのは原因が問題なのではなく、むしろ争う人間の内部に潜む動機が問題である。争う人間の内部に、この世を支配しているのと同じもの、つまり利己心や嫉妬心があり、それが争いの動機となっている。この問題をどのように克服するべきかということが緊急にして根本的な課題である。
この問題についてはエフェソの信徒への手紙(以下「エフェソ書」という。)でも取り扱われ、この世で正しく生きるためには「悪魔の策略に対抗して立て」(エフェソ6:11)ということが語られた。ヤコブ書でも同様で「神に服従し、悪魔に反抗しなさい」ということが勧められる。非常に興味あることはヤコブ書もエフェソ書もこの世界を支配し、また人間の内部に入り込む力を「悪魔(ディアボロス」と読んでいる点である。ディアボロスとサタンとの関係はほぼ同意語であるが、荒野でイエスを誘惑したものはディアボロスであり、イエスが「退け」と言ったのはサタンに対してである。ディアボロスのもう一つの訳語は「そしる者」で、これは1テモテ3:11,2テモテ3:3、テトス2:3で用いられている。「そしる」という言葉と「悪魔」という言葉とが同じ単語が用いられているのは面白い。
2. ヤコブ書のユニークさ
ヤコブ書のユニークさは、人間が悪魔に反抗したら悪魔は逃げるという点にある。この悪魔が逃げるという考え方は面白い。人間は悪魔より強い。悪魔と喧嘩したら人間が勝つ。この思想はパウロにはない。パウロの神学では「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ7:23,24)という言葉で代表されるように罪に対して、つまり悪魔に対して惨めな人間が強調されている。しかし、ヤコブ書では人間は悪魔よりも強い。
その意味では、荒野で悪魔と対決したイエスが悪魔に勝利したことを思い起こして欲しい。人間イエスは悪魔に勝った。マタイ福音書4:11では「悪魔は離れ去った」と記されている。人間は悪魔に勝つ。しかし、悪魔もそうやすやすと負けるわけではない。悪魔に勝つためにはそれだけの覚悟と訓練が必要である。パウロも同じようなことを言っている。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ロマ8:31)。自力で悪魔に対抗しても勝てるはずがない。しかし、そこに神が介入してくると事態は全く変わる。悪魔に勝つ秘密はイエスの荒野における戦いが示しているように、神に対する絶対的服従である。今日のテキストでは「神に服従し、悪魔に反抗しなさい」と語られている。これは二つのことではない。神に服従するということが、同時に悪魔に反抗することである。「神に近づくこと」が悪魔を遠ざけることである。
3. 笑いを悲しみに変えよ
今日のテキストの中で9節の言葉は何か変である。「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」。聖書を読んでいて「変な言葉」が出てきたら要注意である。多くの場合、そこに深い真理が隠されている。これは「罪人たち」、「心の定まらない者」に向けて語られた言葉であるが、彼らは決して教会の外の人間ではない。教会の内部にあり、キリスト者と呼ばれているが「心が定まっていない人たち」を意味している。神側に立っているのか、悪魔側についているのか、それがどっちつかずの状態である。その意味では「罪人たち」という言葉はきつすぎるので、「心が定まっていない者」と言い換えたのであろう。彼らに対して、「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」という。その意味ではこの言葉は非常に強烈な皮肉である。どっちつかずぐらいなら、「あっちへ行け」。悲しかったら泣けよ。無理して、何もなかったかのように、笑うな。
4. 逆説的行動
この文章を読むと、山上の垂訓などに見られるようなイエス特有の逆説的な表現を思い起こす。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3~10)。
この逆説は、負け惜しみとか、皮肉ではない。神による転換への期待、信仰である。人間の現実は悲しみや憂いに満ち、喜んでおられるような状況ではない。その意味では涙に満ちている。そのような状況の中では神に対する絶対的な信頼がなければ「幸い」などとは言えない。神を信じているからこそ、安心して悲しみ、嘆き、泣くことができる。悲しみを押し隠して笑うこともなく、喜んだ振りをすることもない。神の膝元で安心して悲しみ、憂うことができる。いや、むしろ迷い子が親の元に帰ってきたとき、思いっきり泣くように、神の前に淋しかったこと、悲しかったことをはき出す。それが「へりくだり」である。これがここでいう「神に服従し、神に近づく」ことである。強がりを言っている間は、神は遠い存在である。

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