落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>輝き

2007-02-17 13:16:39 | 講釈
2007年 大斎節前主日 (2007.2.18)
<講釈>輝き   出エジプト記34:29-35

1. 十戒の授与
本日のテキストが語っていることは、十戒が記された2枚の石板をもって山を下りてきたとき、彼の顔が輝いていたということである。少なくとも本日のテキストの範囲ではそれ以外のことは語られていない。なぜ、大斎節前主日にこのテキストが読まれなくてはならないのだろうか。大斎節とこのエピソードとはどういう関係にあるのだろうか。その点がまず確認されなければならない。
通常、大斎節の40日間ということは主イエスの荒野での40日間の試みとか、出エジプトしたエルサレムの民が荒野で放浪した40年間の苦労とかとの関係が語られるが、ここではむしろモーセが神と語り合った輝く40日間(出エジプト34:28)が取り上げられている。これは大斎節の40日間の本質に関わる重要なポイントであろう。伝統的に大斎節は紫色を祭色とし、断食とか克己ということが主題となる。しかし、本日の旧約聖書テキストが指し示している大斎節とはむしろ栄光に輝く神とのかけがえのない交わりの40日間であり、祭色としては黄金色を用いたいくらいである。要するに、大斎節の目標、大斎節を通してわたしたちが到達すべきことは、「輝く」ということに他ならない。
従って、十戒の内容ではなく、それが授与されたときの問題、特にその時モーセの顔が輝いたということについて、集中的に考えたい。本日のテキストを整理すると以下の4点に絞られる。
2. その時、モーセは輝いていた
神と語り合っているとき、モーセの顔の肌は光を放っていた。この輝きについては、どのような輝きであったのか誰も分からない。モーセ自身もそれには気が付いていなかったとされる。しかし、ユダヤ人の伝統の中では、この輝きは神の栄光の反映(第2コリント3:18)であると考えられていたようである。その反映としての輝きが神の面前を離れてもその残映として輝いていたものと思われる。残映というものはしばらくは続くが、やがて徐々に消えていくものである。
3. 畏れ
2枚の石板を抱えて山を下ってきたときのモーセを見て、人々は恐れて近づけなかったという。残映でさえ、それ程輝いていた。この恐れは、宗教的権威に対する畏れであろう。2枚の石版を抱えて山を下りてくるモーセの姿は2回ある。最初のときは、モーセが神と語り合っているとき、山の下ではモーセの帰りが遅いので、イスラエルの人々は、金の子牛の像を造り、それを神として祭りどんちゃん騒ぎをしていた。ヤーウェなる神はそれを見て非常に怒り、モーセは大急ぎで下山した。宿営に近づき、金の牛の像を中心に踊り狂っている民衆を見て「モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた」(出エジプト32:19)この時のモーセの顔の怒りは、まさに「怒りそのもの」であっただろう。怒りの形相には輝きはない。しかし、神と共に過ごしたものだけが持っている輝きには霊的畏れが伴う。この畏れには赦しの力がある。
4. 自分の顔に覆いを掛けた
あまりのもその輝きは強烈なので、人々はモーセの顔をまともに見ることはできなかった、という。そのために、モーセは「自分の顔に覆いを掛けた」(33節)。人々に話しかけているときにモーセは覆いをしていたのか、それともはずしていたのか。どうも、この部分では資料に混乱があるようの思う。モーセはシナイ山で主が彼に語られたことを語っている間は、覆いをはずし、「語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた」ようにも思える。ともかく、ここで「覆い」のことが大いに問題になっていることは注目すべきことであろう。
5. 自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。
この件でもう一つ重要なことは、モーセは神と語らっている間、彼の顔が輝いていたことを知らなかった、ということである。知ったのは、むしろ下山して後、人々から言われてわかったことであったという聖書の叙述は注目すべき点であろう。より、大きな輝きに満ちている場所においては、より小さな輝きは気付かれない。神と共にすごして与えられた栄光の輝きは、現実世界の中で輝く。
下山したときのモーセの顔が輝いていた、という伝承は、十戒と共に語り継がれてきたことであろう。こういう形で、人格の輝きということが、親から子へ、孫へと伝承され、ユダヤ人社会のおける律法というものの重要性と共に、品性というものが形成されたということは重要なことである。文字による律法だけではなく、輝きとしての人格がセットにされている。人格の尊厳性というものが「輝き」として語り継がれる社会はすばらしい。
6. パウロの解釈
ところで、このテキストについてはコリントの信徒への第2の手紙のなかで、パウロが独自の解釈を展開している。ここで展開されている解釈の方法は、それ自体、大いに学ぶべきものがあるように思う。というよりも、聖書を読み、解釈するということの自由さというか、大胆さというか、そんな風に解釈してもいいのかというようなものがある。
まず、このテキストが登場する文脈は、パウロ自身の使徒職に対する疑義に対する批判として、パウロ自身の使徒職の正当性は、権威者からの推薦状というような文書に基づくものではなく、コリントの信徒たち自身の生き方において証明されている、ということが論じられている。その文脈において、重要なことは文字による文書ではなく人間の心に刻み込まれた「霊」である、とされる。ここまでが、前提である。7節の「ところで」で始まる部分において、「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか」(7節)というようにこのテキストを解釈、引用する。ここでの解釈の鍵は「つかの間の栄光」という言葉である。確かに、律法を抱えるモーセの顔は輝いていたであろう。しかし、それは「つかの間の栄光」にすぎない。それに対して、わたしたちの、つまりパウロたちは「霊に仕える務め」であり、モーセ以上に輝いている、という。本当にそうか。パウロはモーセ以上に輝いていたのか。パウロの姿勢は「輝いているはずだ」という論調である。パウロは、さらに「顔覆い」に言及し、モーセの顔を覆っていた「顔覆い」は、まぶし過ぎたので覆っていたというよりも「消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛け」(13節)ていた、と解釈する。これは大胆な解釈である。解釈というよりも、自分の反律法主義を主張するための強引な引用である。さらに、この「覆い」について、聖書を読む者の理性を鈍くするものとして展開する。つまり、覆いは律法の有限性を隠しつつ、同時に律法を読む者の理性を鈍くするものであり、むしろその覆いこそキリストにおいて「取り除かれる」(14節)べきものである。
7. 輝きは消える
パウロの解釈はかなり大胆で、現代的視点から見ると解釈の限界を超えているように思う。しかし、ただ一点だけ参考になる点がある。それはモーセの栄光の輝きは消え去るときがある、という指摘である。これは、モーセだけではないだろう。どのような輝きであれ、光源から切り離されたら、徐々にであれ、急激にであれ、消え去る。従って、輝きを持続させるためには、常に、繰り返し、光源に触れなければならない。本日のテキストの最後の一言が何かその辺りのことを示唆しているように思う。「モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた」(35節)。モーセは日毎に、繰り返し、神の御前に行って主と語った。
これはわたしたちにとっても同様である。わたしたちの輝きの源泉は礼拝にある。ここで受けた輝きが日常生活の中で輝く。

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