落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>慚愧の霊

2007-06-18 14:13:22 | 講釈
2007年 聖霊降臨後第4主日(特定07) 2007.6.24
<講釈>慚愧の霊   ゼカリア書12:8-10,13:1

1. 事件
本日のテキストはどういう歴史的状況の中で、誰のことについて述べているのか、ということになると、資料的には具体的なことは何も分からない。ただ、この資料から読み取れる状況は、誰かはっきりしないが、一人の人物がリンチに近い形で殺害されたという事件である。その殺害が正当なものであったのか、否かということもハッキリしない。それも、国内的な事件なのか、外国から包囲されたときの事件なのか、それもよく分からない。ただ、ハッキリしていることは、彼がなぶり殺されているとき、国中のほとんどの人たちは、何も発言せず、黙ったままで見殺しにしたという事実である。ここで問題にされていることは、殺された人物のことでも、あるいは殺した人々のことでもない。それを見ていた、そして、何もしなかった人々の態度が問題にされている。
2. いじめの罪
現在の日本の最も深い病根は「いじめ」ということであろう。これは子どもの問題ではなく、日本社会の深刻な病気が特に子どもの社会に現れていると思われる。いじめの構造の問題点はいじめる者といじめられる者との関係だけではなく、それを傍観する者たちの問題でもある。一人の子どもがいじめられているとき、誰一人その子どもの側に立って、いじめる者たちを制止しないところにある。つまり、いじめられている者にとっては、その社会を構成するすべての者がいじめる側に属している、と感じる。つまり完全にそのコミュニティに自分の存在する場所がなくなる。いじめる人間をどういう形であれ、制止するということは、次ぎに自分自身がいじめのターゲットにされてしまう。一つの教室の中において、教師という立場でさえいじめのターゲットにされる。
いじめの構造においておそろしいのはいじめる人間ではなく、いじめる人間を英雄視する一般大衆である。
3. 悔い改めの祭りとしての葬儀
「後の祭り」という言葉がある。殺された人物は、11節から14節に描かれている壮大な葬儀を見るとかなりの人物であったと思われる。ここでは国民は自分たちが見殺しにしてしまった人物の死を悔やんでいることがうかがえる。その悔やみ方も尋常ではない。「独り子を失ったように、初子の死を悲しむように」、悲しみ、嘆いている。これは彼を殺してしまったということの反動であろう。おそらく殺すときも大変な興奮状況であったにちがいない。その反動として葬儀も盛大で、嘆き方もすさまじい。
これこそまさに「後の祭り」である。どんなに大騒ぎをして、葬儀を行っても、その悔いが許されるわけではない。あるいは、心の中のわだかまりが収まるわけではない。むしろ、ますますその悔いの気持ちは大きくなる。もう、彼は死んでしまった。もう、取り返しはつかない。時計を逆に回すこともできない。それぞれが、その罪を背負って生きるしかない。
去る5月28日、松岡利勝農相が衆議院赤坂宿舎の自室で自殺を図って死亡した事件について、安倍首相が6月1日に「慙愧に耐えない」と発言したことについて、読売新聞が、この発言は単に「残念です」という言葉の言い間違いではなかろうか、と指摘して、かなり問題になった。安倍首相の言葉づかいが正しかったのか、間違っていたのかはともかくとして、「慚愧」という言葉はもともと仏教用語で非常に難しい言葉である。日本における代表的仏教学者中村元先生によって編纂された「仏教語大辞典」によると、この言葉の正しい読み方は。「ざんぎ」であり、先ず普通の意味は「慚」も「愧」も同じ意味で、「恥じ入ること、罪を恥じること、罪の恥じらい」を意味する。しかし、これら2つの言葉が組み合わされた場合、様々な解釈が出てくる。中村先生は、5つほど解釈をあげているが、その第1の解釈は、「慚は自ら罪をつくらないこと。愧は他に教えて罪をつくらせないこと」。第2の解釈は、「慚は、心に自らの罪を恥じること。愧は自らの罪を人に告白して恥じ、罪の許しを請うこと。または、他に比べて自分の劣った点を自覚して、引け目を感じること」とし、この解釈が小乗のアビダルマにおける普通の解釈である、と注釈されている。第3の解釈も興味深い。「慚は人に対して恥じること。愧は天に対して恥じること」とされる。(4)、(5)は省略する。要するに、この言葉の最も分かりやすい意味は、「取り返しのつかない事をしたと強く悔やむと共に、自ら恥じ入ること」という意味であろう。仏教においては、自分自身と隣人に対して「慚愧の念」を持って生きることに人間関係の基本を置く。それはただ単に間違っていたとか、残念に思うということではなく、自分自身では取り返しの付かない間違いをしているという事実を認め、それを担い、そして他人に対しては常に自分自身を恥ずかしい存在と思うことを意味している。キリスト教の視点から考えると、仏教における「慚愧」には、赦しというメッセージは見られない。
4. 転換
エルサレムの住民たちは、あの時、「ああしておけばよかったのに」、とか「こうしておけば、ああいう結果にはならなかったのに」という思いは、どれ程盛大に葬儀を行ったからといって消すことができない。むしろ、ますます罪の結果の大きさに耐えられなくなる。
ところが、ここに罪の赦しのメッセージが届く。今さらどうしようもない悔いの気持ちを転換させるメッセージである。ここでの悔いの気持ちは、あくまでも「わたし」の気持ちであり、わたしの中から出てくる「改めるチャンスのない悔い」である。ここに、まさに、反省しても、悔いてもどうにもならない悩みの中にいるエルサレムの住民に、神の新しいメッセージが届く。
「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」という。この「憐れみと祈り」とは、深い罪の自覚である。これは犯してしまった罪に対する反省の心とか自然的に発生した悔い改めの感情ではなく、あるいは同情の心でもなく、神から示された「最も深い罪の意識」である。これをわたしは仏教用語を借りて「慚愧の霊」と呼ぶ。「慚愧の霊」は神から来る。つまり、この言葉は殺してしまった一人の人物に対する最も内面的な反省の心、自然的に発生した悔い改めの感情ではなく、あるいは同情の心ではなく、神から示された「罪の意識」である。自分たちは「とんでもないことをしてしまった」という慚愧の霊である。
5. 慚愧の霊と清めの泉
ところで、この慚愧の霊は突然人々に注がれるのではない。そんなことになったら、わたしたちは誰もその罪の重さに耐えることはできない。慚愧の念に堪えられない。つまり、つぶれてしまう。従って、この慚愧の霊が注がれるとき、「神の盾」がわたしたちを守る。それが、「主はエルサレムの住民のために盾となる」(8節)の言葉である。
それだけではない。慚愧の霊が注がれるとき、同時にわたしたちのために「罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる」(13:1)。
6. キリスト
さて、初代教会の信徒たちはキリストの十字架というものをそういうものとして理解した。主イエスの十字架の場面でヨハネはこの言葉「彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ」(12:10)を引用している。「彼らは自分たちの刺した者を見る」(ヨハネ19:37)。ヨハネ福音書の引用の方がイザヤ書の言葉より生々しい。実際にイエスを刺した人間はローマの兵隊である。しかし、ヨハネは、イザヤのこの言葉を引用することによって、実はイエスの胸に槍を突き刺したのは、わたしたちであると言う。主イエスを殺したのはわたしたちである。その、わたしたちはイエスの死に際して「何もできなかった」わたしたち自身を悔い、恥じる。本当の「慚愧の霊」は赦しのメッセージと共に神から来る。

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