落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「休息に関する断想 ヨハネ6:24-35、マルコ6:30-44」

2012-07-30 13:33:00 | 講釈
S12T13(L)
2012年8月5日
聖霊降臨後第10主日(特定13)
<講釈>「休息に関する断想   ヨハネ6:24-35、マルコ6:30-44」

1.イエスの失踪
本日のテキストは、いわゆるパンの奇跡の後の話で、実はあの後すぐにイエスと弟子たちとはまるで隠れん坊のように姿を消してしまう。人びとはイエスと弟子たちとを探すが見当たらない。イエスに何があったのか。それがハッキリしない。パンの奇跡の後、感動した民衆はイエスを王に担ぎ出そうとする。それで急にイエスと弟子たちの姿が見えなくなったので、人びとは本当に心配したのであろう。イエスは体制派から消されたのか。
民衆は必死になってイエスを捜したところ、いろいろなことが分かってきた。ガリラヤ湖の船着き場から船が一艘なくなっていること。イエスの弟子たちはその船に乗って向こう岸に行ったらしいこと。いろいろ調べるとイエスはその船には乗っていないこと。翌朝、人びとは弟子たちを追いかけて向こう岸に行ったところ、そこにはイエスが居られたこと。イエスは一体どこに行っておられたのか。弟子たちは一晩何をしていたのか。謎は謎を生む。イエスの失踪とは人びとの目から隠れること、見えないところで時間を過ごすことである。
さて、その時のこと、私はマルコ福音書を読んでいて1つのことが思い当たる。聖書の記事から推測するに、その時イエスと弟子たちは山にピクニックに行かれたのじゃないか。その頃のイエスと弟子たちは民衆から追いかけられかなり忙しかったらしい。その忙しさは「人疲れ」というが、いつも民衆に囲まれ、民衆はイエスに何かをねだるような目を向けている。イエスはこのままでは自分自身も弟子たちもつぶれてしまうのではないかと心配した。その時の様子がマルコ福音書6:31にはハッキリと書かれている。
イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。何と優しいイエスであろう。この様な言葉は他の福音書には見られない。ここでは「あなたがただけで」という言葉が光っている。弟子たちにとってイエスと一緒にいるだけで疲れる。だからイエスはここで弟子たちと別行動を取ろうとしておられる。ところが、すぐその後に「そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った」(マルコ6:32)という言葉が続く。ここでの「一同」の中にイエスが加わっているのか、イエスもはずしての「あなたがただけで」なのかハッキリしない。この曖昧さの間にヨハネはイエスが水の上を歩いたという奇跡物語を挿入する。そのためにマルコ福音書とヨハネ福音書とではパンの奇跡と水上歩行の奇跡との順序が逆になる。まぁ、そのこと自体はそれ程大きな問題ではない。
本日はイエスが弟子たちと一緒にピクニックをしたということについて考えたい。

2.聖書における休息
働いたら休む、これは生きるための大原則である。その意味では生きるためには働くことと休むこととは同じ程度に重要なことであり価値あることである。ところが人間はしばしば働くことの価値は認めるが、休むことの価値を認めようとしない。
産業革命後のキリスト教、特にプロテスタントにおいては勤勉という倫理が強調され、労働の意義が尊重された。そのことについて詳細に研究されたのがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)である。この本が特に勤勉と禁欲というプロテスタントの倫理を強調したというわけではないが、プロテスタント、とくにスイスのカルヴィニズムにおける「節制と勤勉」という倫理が資本主義の精神に適合し、両者が車の両輪のように近代化を推進したとされる。飲み食いに代表される贅沢・浪費をできるだけ抑制し、勤勉に働くことによって資本は蓄積される。その資本はさらに機械化を進め、資本が資本を生み出す。それが資本主義の本質である。当然、労働者も生活に余裕が生まれ、豊かになるかと思われたが現実は労働者の生活は機械化の恩恵に与ることなく、むしろ機械と競争するというはめになり、生活に余裕は生まれず、貧富の差が益々大きくなるという現実を生みだしてしまった。
働いたら休むということとの関係、休むために働き、働くために休む、人間にとって働くことも重要な任務であるが、同時にそれ以上に休むということの意義も大きい。

3.神が休むという思想
さて目立たないけれども聖書において休むという思想は無視できない。
先ず私たちを驚かせる記述は、創世記の冒頭の天地創造の物語の中にある。6日間で天地万物を創造された神は7日目に休む。神が休むという思想は驚きである。事実として神が休むということがあるのか。なぜ神は休んだのか、私たちの理解を超えている。驚きはそういうことではなく、古代ユダヤ人が神も休むと考えたその思想である。一般的には神は休まないという思想の方が自然である。しかし彼らは神も休息する、神も働き、神も休むと考えた。確かに聖書においても神は休まないという言葉も見られる。「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩編121:3)とか、「主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなくその英知は究めがたい」(イザヤ40:28)といわれる。後に触れるが、イエスも「わたしの父は今もなお働いておられる」(ヨハネ5:17)と言われた。聖書における神は、天地創造の初めから休む。
神も休むという思想で最も重要な点は休息とは余った時間(余暇)、何もしない無意味な状態ではなく、創造の秩序の中にキチンと組み入れられた事柄であり、時間だということである。働くことも休むことも同じ有意義な時間であり、行動である。働くために休むのでも、仕事がないから休むのでもない。あるいは何かをするために休むのでもない。ただ休むこと自体に意味がある。休んでいるときに何をするのかは完全に自由である。その時間は誰からも干渉されないその人のものである。創世記では次のように記されている。
「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(2:2-3)。仕事から離れたということが繰り返されているが、何をするのかについては触れられていない。「祝福し、聖別された」という表現は、非常に楽しく過ごし、喜んだということを意味しているのであろう。
当然、創造主である神だけではなく、神が創造された万物も働くことと休むことを必要としている。万物は休むことによって、創造されたときのエネルギーを回復する。休んでもいいということではなく、休まねばならない。そのことが何の議論もなく当然のこととして語られる。聖書はそれが創造の時以来、万物に組み込まれた本性であると言っているようなものである。

4. 安息日の規定
聖書における「休み」について考える際に「安息日の規定」を無視するわけには行かない。というより聖書における安息の思想をもっとも端的に示しているのが安息日である。先に触れた創造物語における神の休息はいわゆるP典に属し、かなり後代(バビロニア捕囚期以後)の思想を反映している。おそらく安息日規定の最も古い叙述は出エジプト記の十戒の部分(E典)であろう。まだ、確認していないが、J典には安息日についての記述が見られない。
E典においては安息日の規定について神が休まれたからという理由があげられている。が先か、神の休息が先か、かなり微妙である。原文を引用する。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:8-11)。ここでのポイントは「祝日」としての安息日である。言い換えると恩恵としての休日である。10節の「7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」という言葉を命令とか戒律と取るか。むしろ、「神さまはお休みになっているのだから、あなたたちも神さまの休息を妨げないように、休むがよい」という勧め、あるいは許可であるように思う。安息日の規定というものは本来そういうものであったはずである。誰にとって休日が祝福なのか。少なくとも働かない主人ではなく働いている人たちである。
D典で注目すべき点は、「あなたはかつてエジプトの奴隷であった」(申命記5:15)という歴史的認識から、労働者の権利としての安息日という思想が成立した。つまり、奴隷としての過重労働からの解放のしるしとしての安息日である。これはかなり説得力がある。そもそもエジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民がエジプトの王に要求したことは「荒野でわたしたちのためにまつりを行わせてください」(出エジプト5:1)であった。それに対してファラオは「お前たちはなぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちも自分たちの労働に戻るがよい」(同5:4)と答えている。つまり彼らにとっては労働からの解放ということが国是である。従って安息日の規定もこちらの方向からのアプローチの方が自然である。
出エジプト31:12-17(おそらくP典)に安息日についての最も厳しい命令が記されている。ここでの議論は非常に神学的で安息日を遵守することこそが神と民との「永遠のしるし」といわれている(出エジプト31:12)。神も6日間働いて7日目には「御業を止めて憩われた」、だからこそあなた方も安息日を厳守しなければならないといわれる。ここまで7日目の安息日が重視されるとその他の6日間とは何なのかという疑問が生じる。働くとは何か、休むとは何かという根本的な問いが出てくる。

5. 土地の休息
聖書における休息ということを考える際にもう一つ視野に入れておくべき問題がある。それは天地創造との関連において被造物全体の休息、特に農地の休息という問題である。
旧約聖書の農業を見ると、理想的な姿として全ての農地に対して7年目を休耕することが命じられており、しかもそれが7回繰り返されて49年の次の年、つまり50年目には全ての農地を休ませねばならない。この年のことを「ヨベルの年」と呼び、その年には全ての土地の所有権が50年前の所有者に戻されるとされている。現代では常識になっているが、農地を休ませるという思想がすでに旧約聖書の中にあるということは驚きである。農地も休ませなければやせる。この思想の根底には、自然環境にも限界があるということに繋がっている。
この農地を休ませるという制度は農地だけではなく、すべての経済関係にまで及ぶ。奴隷の所有権、資産の貸借関係等はヨベルの年にすべてご破算になるという。つまり、すべての経済関係はヨベルの年に50年前に戻る。従ってヨベルの年を規準にして、それまでの残余期間によって価値が減少するので、貧乏人は金持ちから金を借り出そうとするし、金持ちは貸し渋る。
この制度は実際には実行されなかったようであるが、少なくとも理想的な姿としてイスラエルの人々は考えていた。これも旧約聖書における「休み」の思想の一つであろう。

6. 休ませないのは人間の問題
安息日を鎖や足かせに変えたのは人間の罪である。ヨベルの年を「絵に画いた餅」にしたのも人間の欲である。人間は自分自身も休まなければ他のものにも休ませない。アモス書に面白い言葉がある。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ」(アモス5:8)。要するにここで言っていることは新月祭だとか安息日という宗教的戒律のために思うように商売ができないことを嘆いているのである。もちろん預言者アモスはそういう嘆きを持つ人々を批判している。人間は休んでいる時間を非生産的な時間、無駄な時間と考えている。しかし、神は休む時間を祝福の時(創世記2:3)と考える。聖書においては究極の休みが終末の祝福である(ヘブル書4:1,5,11、黙示録14:13)。
人間は休むことに祝福というよりも恐怖を感じている。勿論そこには「失業」による生活の破綻の恐怖も含まれているだろうが、それよりももっと根本的な恐怖がある。働いている時間とは、他人によって、あるいは社会的義務によって拘束され、強制されている時間であり、その意味では「私の時間」ではない。ところが休んでいる時間は「私の時間」であり、自由な時間である。自由な時間に何をしたらいいのか分からないのではなく、休みの時間こそ、その人自身の本質が露わになる時間でもある。それが恐ろしい。人間は誰かから強制されて何かをしている方が気休めになる。だから人間は自分自身も休まないし、他人も休ませようとしない。そこにこそ人間の本質的な罪がある。

7. イエスは休むことを勧める
だからこそイエスは自分も休むし、弟子たちにも休むことを勧める。休むことによって、人間は自由を回復し、自分自身を取り戻す。イエスは人々に呼びかける。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28-30)。この言葉についての解説は他日に譲る。ただ一言、イエスの福音の中心的メッセージは「休ませる」ということにある。
しかし残念なことに、本日の福音書のテキストにおいては、弟子たちもイエスも休めなかった、というのが真相である。彼らが休めなかった理由は「大勢の群衆」が「飼い主のいない羊のような有り様」であったからである。「飼い主のいない羊」は休める状況にあっても「休めない」人々である。こういう人々が一人でもいる間はわたしたちは休めない。世界中の全ての人々が休めるようになるまで、私たちの祈りは終わらない。

8.最後に
イエスが安息日を守らないというユダヤ人からの批判に対して、イエスはこういう言葉を残している。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)。この言葉は必ずしも神も休むという思想を否定するものではない。むしろ働くとか休むとかいうレベル以上に重要なことが神にもあり、同時に人間にはあるということを示している。それは命に関わることである。命に関わることは、あらゆる事情を超えて守らねばならないルールである。旧約聖書には神について「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩編121:3)と述べられ、また「主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなくその英知は究めがたい」(イザヤ40:28)と語られている。


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