落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 惨めな人間 ロマ7:13-25

2009-03-09 20:24:51 | 講釈
2009年 大斎節第3主日 2009.3.15
<講釈> 惨めな人間 ロマ7:13-25

1. ロマ書における7章と8章
ロマ書の7章と8章とが関係深いことは当然であるが、この関係は単に同じ文書の前後関係というよりももっと深い。松木治三郎先生は7章には「律法の下にある人間」というタイトルをつけ、8章には「聖霊のよる救い」と題して両者を関係づけている(松木治三郎『ローマ人への手紙』)。特に7:13から8:11の流れにおいては、7:25の「罪の法則」と8:2の「霊の法則」とが対の関係になっていることは明らかである。あるいは、7:24の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という問いに対して、25節の「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」という言葉は8章を先取りした言葉となっている。ということは、事柄の順序としては当然7章から8章へと流れているのである。しかし自分自身の体験そのものを深く反省すると、実は「惨めなわたし」という体験は、「霊による救い」を体験した後に自覚される救い以前のわたしである。救われて始めて、救われる以前の自己の姿をリアルにとらえることが出来る。それが宗教的体験の基本的な特徴である。救われる以前は、それが当たり前の人間の姿であって、そこには「惨めさ」はない。そう考えると、信仰の体験的順序としては7章を読む前に8章を読むということも十分に理解できる。
2. 律法の本質
本日のテキストは13節から始まるがその直前の7節から12節の部分でパウロは律法と罪との関係について論じている。この議論が本日のテキストの前提になっているので、その部分の論点を確認しておく。先ずここでの議論の出発点は5節の「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」という言葉にある。特に「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き」という部分は注意して読む必要がある。人間は生きている限り「罪へ誘う欲情」が働いており、その欲情は律法によって働かされている、という。つまり、五体に属する欲情が律法と結びつき「死に至る実」を結ばせる。ここでの問題点は欲情と律法との結合である。欲情はまだ罪ではない。欲情が欲情として活動するとき罪が発生するが、律法は欲情を活動させる原動力となる。ここから本日のテーマである「律法は罪なのか」(7節)という議論が始まる。
先ずパウロははっきりと律法は罪ではないと宣言する。むしろ律法は神から出たものであり、人間に罪を認識させるものである。逆に言うと、罪意識は律法による。ところが問題はその次である。人間は律法によって罪を認識させられた時、人間の中にある罪への欲望が活動を始める。律法には罪を認識させる働きはあるが罪から救い出す能力はない。その意味では律法は罪に対して無力であ。エデンの園におかれた「善悪の知識の木(禁断の木)」(創世記2:17)は律法を象徴する。それは神への忠誠を示す象徴であり、同時に罪を自覚せせる象徴である。そこに置かれていても無関係に生きることもできるが、それを眺めると魅惑的でもある(同3:6)。松村克己先生はこの部分を次のように解説する。「律法は無邪気にひたって居る意識を揺り醒まして罪を刺激するという経験、罪であることを知ることによってこれを避けようとする心が逆に罪への強い誘惑になるということ、この矛盾の悩み、アウグステイヌス以前においてはパウロほど鋭い心理分析をした者はいない(ハルナック)。 大切な論点はわたしたちを殺す罪の欺きは律法によって顕わとなるということである」(未公開文書『ロマ書』)。
3. 惨めな人間
禁止されるとしたくなる。ここに人間の惨めさの根本原因がある。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(24節)と嘆く。この嘆きはパウロの個人的な悩みであると共に、人間という存在そのものが哀れで悲惨であることの嘆きである。なぜそんなことになるのだろうか。不思議といえば不思議なことである。誰も禁じる者はいないのであるから、自分が望むことならば思う存分できる筈だし、したらよい。ところが、何故かそれができない。むしろ望んでいないこと、いやだと思うことをしてしまう。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。
パウロは人間の惨めさの原因をわたしの肉体の中に「善への意志」(7:18)と「罪の法則」(7:23)とが共存していることにあると言う。パウロはこの文脈で「内なる人」とか「この五体」などいろいろな言葉を使っており聖書学者たちはそれらについて細かい解釈を加えている。それらの議論は専門家に任せるとして、理屈はともかく実感としてわたしたちも理解できることである。この惨めな状況から解放されることはあるのか。
註:ここで一言「五体」という表現について批判をしておく。先ず始めに確かめておきたい点はギリシャ語原典では「五体」という言い方はない。「五体」と訳されている言葉「メロス」は身体の部分を示す。具体的には「触ったり、触られたりすることができる個々の部分」を意味する。問題は「五体」という場合の「五」という数字で、何を取り上げて「五」というのか明確ではない。日本語では「五体満足」とか「五体不満足」という表現があり、その場合身体の障害の有る無しを意味する言葉である。従って、「五体」という言葉を聞くとそちらの方の意味に引き寄せられて不快感を生じさせる。わざわざそのような言葉に翻訳する必要なない。新共同訳聖書ではこの言葉を「五体」と訳しているのはロマ書のこの部分(6:13~7:23)だけで他のところでは「体の一部」と訳されている。もっとも、ここでは部分を全体を意味するので訳するとするなら「体全体」とすべきところであろう。そのすべての部分を「義のための道具として献げよ」と語っているのである。ちなみに英語訳では「あなたのメンバーズ」と訳している。ロマ書12章では、この言葉(メロス)と体(ソーマ)この言葉が最も明確に使い分けられている。松木先生はこの言葉について「肢体というのは自然の地的な死ぬべき体の部分である。が、ここでは手や足や首など個々の肢体だけではなく、また全体としての肢体をもさす。それは全人間の行いと働きとを媒介する」(241頁)と説明している。
4. わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします
人間の惨めさについての深刻な問いについて28節では「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」とパウロは一つの答えを出している。ここでは感謝しているのであるから明らかに解放されたという経験を語っている。もはや惨めな状況ではない。自己内における分裂状況は克服された。それを感謝する。ところが、その後になお「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」という言葉が続くことから疑問が生じる。解放されてもなおまだ惨めな状況は続いているのか。聖書解釈者たちはここで悩む。最も簡単な解決法はここには何らかの理由で資料上の乱れがあり25節後半部分の正しい位置は24節の前であるとする。モファットという学者はそのように解釈している。松村克己先生や松木治三郎先生は断定はしないがその説を紹介している。あるいはドッド、ミヘル等はこの言葉は7章全体のまとめであるとする。K・バルトはこの言葉について次にように言う。
「不幸な人間―――私はそれである。我々は、この『私はそれである』という重荷にあくまでも耐えぬかなければならない。人々はこの重荷を投げ棄てない。全くのところ、パウロはここで「その回心前」の閲歴を語ったのではない。回心がこの人間全体の破却を意味するとすれば、「前」とは何のことか。むしろ、パウロは過去・現在・未来にわたる彼の存在を確認したのである」。(『ロマ書』上、489頁)。バルトが言おうとしていることはわたしたちは惨めな存在でありつつ同時に感謝する人間である。罪の法則をこの肉体に背負ったままで、同時にイエス・キリストによって克服し続けている。
日本ホーリネス教団の車田秋次先生はこの箇所について次のようなコメントを残している。
「人々は混乱し、また苦心して、しまいには、『いや、そのままでいいのだ』といっている人もいるでしょう。『それはやむを得ない。生きている限りは、それで続けていかなくてはならないのであって、この地上の生涯が終わった時に、この問題が初めて解決するのである』と言います。しかし、そのようなことばは聖霊によれる勝利の生涯というものを非常に制限した見方であると言わなければなりません。(中略)キリストの十字架は、私たちの肉体のうちに宿る罪を滅ぼすのであり、それからわれわれを解き放つのである」(『車田秋次全集』第2巻331頁)。
原罪の根絶説に基づく非常にはっきりした解釈であるが、問題は事実として内面的葛藤から完全に解放された人間が実在するのかということにある。むしろ人生におけるある瞬間の前後で完全にこの惨めさから解放されるということの非現実性をどう考えるのか。言い換えると、罪の法則が自己の内側から消滅した人間が存在したとして、それを「人間」と呼べるのだろうか。むしろキリスト者とはこの惨めさを徹底的に自覚し、戦い、時には懺悔し時には感謝する存在であるのではなかろうか。
5. 信仰における内面的葛藤(悩み)
神から義とされる人間についての面白いエピソードをイエスは弟子たちに語っておられる。
二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。ところが、徴税人は遠くに立って、目をあげようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない(ルカ18:10-14)。
人々にこのような譬え話を語るイエスは、パウロにとってもっとも軽蔑すべき人間であった。イエスを取り巻く連中は律法からもっとも遠いところにおり、社会生活もまともにできない連中ではないか。彼らが自分たち自身のことを「罪人」というのはそれが事実だからにほかならない。いわば、罪人であることを恥ずかしいとも思わない連中であり、イエスもその仲間にほかならない。イエスの教えはいわば敗北者の「たわごと」にすぎない、とパウロ思っていたに違いない。まさか、いつの日かそのイエスの教えを全世界に向かって語る人間になるとは思いもしていなかった。
6. 惨めさからの解放
パウロはこの惨めさからの解放を語る。大きな声を上げて感謝の言葉を宣言する。ほとんど叫びに近い。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。これはもはや論理立てた神学論でも、説教でもない。惨めさから解放された人間の喜びの声である。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という嘆きの言葉とこの感謝の叫びとの間には何の接続詞もない。突然、一挙に、嘆きが賛美に変わる。これがイエス・キリストによる救いの姿である。キリストによる救いとは他の人と比較して惨めさを和らげるのではなく、惨めな自分をそのままで受け入れ、認め、「罪人のわたしを憐れんでください」と神に祈ることことによって、自分自身が解放される。自由になる。
この大変化は単に頭の中だけで起こったことではない。この時の体験をパウロはその賛美の言葉に続く部分で論じている(ロマ8:1~11)。パウロの体験の核心部分だけを取り出すと、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」という。神の前に惨めな自分をさらけ出した時、神の霊が体の中に入ってきた、という体験であろう。

最新の画像もっと見る