落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 一緒に喜んでください  ルカ15:1~10

2010-09-07 09:54:19 | 講釈
2010年 聖霊降臨後第16主日(特定19) 2010.9.12
<講釈> 一緒に喜んでください  ルカ15:1~10

1. 3つの譬えの主題
ルカ福音書15章の3つの譬えは一つのテーマによって結ばれている。それは2節のファイリサイ派の人々や律法学者たちの「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」という批判に対する答えである。因みに、16章の譬えは「弟子たちにも」語られたものであり、一応15章の譬えとは区別される。
これら3つの譬えに共通するストーリーは自分の手の内から離れてしまっていたものが戻って来た喜びである。11節以下のいわゆる放蕩息子の譬えについては大斎節第4主日で取り上げられたので、本日ははじめの譬えが取り上げられる。放蕩息子の譬えと本日取り上げられる2つの譬えとの違いについて2点だけ述べておくと、放蕩息子の父親は手元から離れていった息子を探しに行かないが息子のほうが帰って来るのに対して、本日の2つの譬えでは「見失ったものを探す」ということに重点がかかっている。もちろん、羊にしても銀貨にしても手元から離れたのは持ち主の責任であり、持ち主が探さなければ手元に戻ってこないのである。もう一点は、2つの譬では「天における喜び」が述べられているのに対して放蕩息子の譬ではそれがない。
2. 資料問題
2つの譬えのうち第1の「見失われた羊」の譬えはマタイ福音書18:12-14にも見られる。そこでの文脈では教会内における信徒の問題が取り扱われている。つまりマタイでは「迷い出た羊」とは教会から離れた信徒を意味し、探しに出かけるのは信徒である。そして、その信徒が教会の交わりに戻ってくることが「天の父の御心」なのだということが語られる。しかしルカ福音書では、「この人は罪人たちを迎えて食事までしている」という不平(15:2)に対する答えとして語られている。つまり、見失った羊を探し回るのは神である。神が神から離れているものを探し求め、「見つけたら大喜びをする」ということが語られる。それがイエスがなぜ「罪人たちを迎えて、食事までする」理由であると語られる。
第2の無くした銀貨の譬えはルカ福音書だけに見られるものであるが、主旨はほぼ同じものであろう。
3. 「大きな喜びが天にある」
本日の福音書の2つの譬話のキイ・ワードは「喜び」という言葉であろう。しかも、その喜びはこの世の普通の感覚から見ると大したことではない。99匹も羊がいるのであるから、1匹くらい失っても大したことではないし、銀貨一枚の金額にしても今日の価値からいうと約70円程度のものである。この婦人がよほど貧しかったとしても「友達や近所の女たちを呼び集めて」喜ぶ程のことではないだろう。しかも、それは家の中で無くしたのであり、普通の感覚からいえば、「そのうち出てくるだろう」ということで済まされるものである。
ところが2つの物語の共通する点はその喜び方が尋常ではない。むしろ異常というべきだろう。その異常さは隣近所の人々を巻き込み、最終的には「天」にまで及び「神の天使たちの間に喜びがある」とまで言う。ここにこの2つの物語を解釈するための鍵がある。さらに、2つの物語が強調している共通点は、「一緒に喜んでください」(6、9節)という言葉であり、これがこれら2つの物語のメッセージである。
4. 「悔い改める1人の罪人」
もちろん、ここで取り上げられている喜びの理由は1匹の羊や1枚の銀貨の話しではない。「悔い改める1人の罪人」である。面倒な説明は省いて言えば、要するに「教会の伝道」ということである。教会の伝道ということは、まさに99匹の羊をほっておいて1匹の羊を捜し出すことであり、わずか70円程度の1枚の銀貨を必死になって探すことである。それは、この世的にいうならば、バカげた行為であり、勘定の合わない生き方である。しかし、この行為によって教会の伝道はなされるのである。そして、それが「天での大きな喜び」の源である。
さて、これらの物語の中であなたは何処に位置づけられるのだろうか。迷える羊だろうか。それを探す羊飼いだろうか。あるいは羊飼いと共に喜ぶ友だちなのか。どこに自分の姿を置こうとも、この物語は有効である。それぞれに意味がある。
先ず、迷える羊が自分だとしよう。迷っているときどんな気持ちだったのだろう。孤独ということが問題であっただろう。人生における方向感覚が失われ、どちらに向かって進めばいいのか分からない状態であった。生き甲斐を失うと言ってもいい。周りはだんだん暗くなってくる。本来あるべき場所から離れた羊であれ、銀貨であれ、それはそれとしての価値が失われている。その意味では生きていはいるが死んだも同然の存在である。しかも、その状態から自力で脱出できない。誰かが見つけ出してくれるのを待つしかない。この感覚が「迷える羊」であり「失われて銀貨」である。
羊飼いの立場から、あるいは銀貨の持ち主の立場に身を置いてみると、迷いだした羊も失われた銀貨も本来自分のものであり、自分財産である。失われたということは、損失である。そこでは金額の問題でもなく、生活を脅かすほどの問題ではないにせよ、失われたことを知っているのは自分であり、自分だけがそれを知っている。その事実を放置しておくわけにはいかない。放置することは「欠けたままの自分」を認めることになる。神の愛とはそういうものであろう。神は「欠けたままの自分」を認めるわけにはいかない。神は完全であってこそ神である。「欠けた」神はもはや神ではない。失われたものを見出した時の「喜び」は、神が神であることを回復した喜びである。
この事実、神が神であることの意味を知っているのは「天」であり「神の天使たち」である。だからこそ、彼らも神と共に喜ぶ。従って、単に失われたものを見出したという喜びではない。それなら、99匹もいるのだから、その喜びは99分の1の喜びに過ぎないであろう。そうではない。完全なのか、不完全なのか。そこが問題である。その1匹の羊は99分の1の羊ではない。
さて、この譬ではもう一人の登場人物たちが存在している。それが「友だちや近所の人たち」である。彼らは神と共に失われたものを探し求めたわけでもない。また、天使たちのように「神が神であること」をよく知っていたわけでもない。だから、この喜びの本当の意味を理解してるわけでもない。それにもかかわらず、「喜びに参加すること」を呼びかけられている。私はこれらの登場人物の中で、この「友だち」または「近所の人たち」の立場にもっとも親近感がある。私のできること、あるいはしたことはほとんど何もない。ただ、神から「一緒に喜んでください」と呼びかかけられ、その喜びのお相伴に与かっただけである。しかも、その喜びの祝宴は想像を絶するものであった。

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