落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>婚礼の喜び

2007-01-12 20:48:55 | 講釈
2007年 顕現後第2主日 (2007.1.14)
<講釈>婚礼の喜び   イザヤ書62:1-5

1. 聖書テキストの切り取り(ペリコーペ)
降誕後第1主日の旧約聖書テキストと本日の旧約聖書テキストとは一部重なっている。前者ではイザヤ61:10-62:3であり、後者は62:1-5である。非常に面白い。聖書という膨大な文書から、一つの主日のためにテキストを切り取り、その日のペリコーペにする。これは、意図するとしないとに関わらず、明白に教会の礼拝という場面を考慮した上での聖書の解釈である。特に、信仰生活という目的のために、教育的配慮を持った「切り取り作業」である。
同じテキストが、切り取り方によって大きな意味の変化をもたらす。61:10-62:3における62:1-3の意味は、62:1-5における意味とはかなり異なる。意味というのが強すぎるとすれば、印象が異なる、と言い換えてもいい。前者については、既に以下のようにわたしなりの解釈を施した。
「神とわたしとは恋人同士なんだ。神はわたしにいろいろなものをプレゼントしてくれて、わたしを着飾ってくれる。しかも、そのことを他の人の前でもおっぴらにするので、わたしは鼻たかだか。誰かがわたしの悪口を言うと神は本気になってその人と喧嘩さえしてくれる。神はわたしを二人だけの秘密の名前で呼ぶ。わたしは神にとって『輝かしい冠』とか『王冠』だという」。
この部分での「わたし」とは信仰者一般の一人としての「わたし」であり、この内、「誰かがわたしの悪口・・・」以下が、62:1-3の部分に当たる。「シオン」とか「エルサレム」という固有名詞も、「神と向かい合うわたし」の旧約聖書的表現である、と解釈しても不自然ではない。ところが、この部分を、62:4-5と組み合わせると、神が愛の対象としているものがかなり具体的になる。4節の「捨てられた女」とか、「荒廃」とかという象徴的表現が「土地」に結びつけられている。つまり、62:1-5のユニットでは、神の愛は「シオン」あるいは「エルサレム」という土地に向かっている。この土地が、今は夫に捨てられ、荒廃している。
聖書テキストから、特定の日のペリコーペとして切り取られると、もう既にその時点でそのテキストの解釈の方向性はある程度決定してしまう。このことは、聖書研究としての聖書の読み方と、礼拝説教としての聖書の読み方の違いを生み出す。
2. 第3イザヤについて
イザヤ書56章から66章までの部分は、第3イザヤと呼ばれる。イザヤ書55章までは、いわゆる第2イザヤと呼ばれる無名の預言者によってまとめられたと思われる。彼は、彼より約200年前の預言者イザヤの事績や預言集をまとめ(1章から39章まで)、その思想的影響のもとに、彼自身の預言(40章から55章まで)を付加して、もともとの「イザヤ書」を著したものと思われる(この部分については、専門学者による確認は得ていない)。そのもともとの「イザヤ書」に対して、その約4、50年後に「続編」を付加した無名の預言者がおり、彼を一応第3イザヤと呼ぶ。
第3イザヤが活動したのは第2神殿が完成(前515年)した頃と思われる。つまり、バビロン捕囚解放(前538年)から20年ほどたった頃である。
普通に旧約聖書だけを読んでいると、バビロン捕囚から解放されたイスラエル人たちのほとんどは喜び勇んで祖国に帰還し、その頃既にその地域に住み着いていた人々、つまりサマリア人と呼ばれる人々の妨害に対抗しつつ、神殿と城壁との建造に取り組み、非常な苦労を経て、遂にそれらを完成させた。そして、イスラエルの民は政治的には独立できなかったが、ユダヤ教という宗教的共同体として民族形成がなされた、というように考えてきた。
しかし、どうやら実態はかなり異なり、捕囚後、祖国に帰還した人たちよりもバビロンに残留したイスラエル人の方が多かったようで、その点で、第2イザヤは祖国への帰還を呼びかけることに苦労したようであり、さらに第3イザヤに至っては、もはや帰還を呼びかけるというよりも、残留し、さらに地中海世界に拡散していったイスラエル人たちに対して、イスラエル人としてのアイデンティティを確保することに心を砕いたようである。この「離散したイスラエル人」のことを「ディアスポラのユダヤ人」と呼ぶ。ディアスポラについては、もっと詳細に論ずべきだと思うが、それは別な機会に改めて論じる。
ただ、この「イスラエル人」という言い方と「ユダヤ人」という言い方との関係はかなり複雑で、単純に使い分けるわけにはいかない。通常は捕囚後のイスラエル人のことを「ユダヤ人」と呼ぶことになっている。これらの言葉づかいについては、田川建三さんが詳細に説明しているので参照のこと。田川建三著「書物としての新約聖書」(勁草書房)202~204頁。(このような「多少初歩的な常識」について、わざわざ田川建三氏の著作を参考書にあげるのは、いかにも田川ファンみたいで抵抗を感じるが、このような初歩的な常識でもいざ自分の言葉で説明しようと思うと、なかなか巧くいかないもので、さすが熟練の手にかかると、こんなにスッキリと説明できるものかと驚く。ぜひ、直接この書を読んで貰いたいと思う。最近、ウエッブ・サーフィンしていたら、本書のダイジェスト版を発見した。(http://inu40.web.infoseek.co.jp/syumi/syomotu.html)全体のアウトラインを知るためには便利であるが、残念ながら、田川氏の鋭い論調は犠牲になっている。
3. 「捨てられた女」
本日のテキストでは、ユダヤ人の祖国、現在のパレスチナを「捨てられた女」と言う。祖国を捨てた人々がいる。捕囚期間は約50年から60年であるが、この長さは微妙である。民族の歴史としては短いが、一人の人間の人生から見るとかなりの期間になる。捕囚直後に産まれた子ども、つまり故郷を見たことのないユダヤ人でも既に50歳ないしは60歳になっており、次世代はもちろん次々世代も生まれていたことだろう。捕囚期間の末期においては当然、言語も習慣もかなり異なった経験を経てきた世代がユダヤ人社会の中心になっていたことは容易に想像できる。
その後の歴史を見ると、バビロンに残留したユダヤ人と、祖国に帰った人々との間に、経済的にも、文化的にもかなり格差があったように思われる。捕囚のユダヤ人の中で、積極的にバビロン社会の進出し、経済的にも文化的にも積極的に活動した人々は、それなりに社会基盤を築いたことであろう。彼らは、それらの社会資産を放棄してまで、祖国に帰るモチベーションをもつことは困難であったであろう。
4節で、あなたたちにとって、祖国は「捨てられた女」である。しかし、神は決してパレスチナを捨ててはいない、と語る。5節は少し論調が変化し、解くに「あなた」という二人称には、あなたがたこそが「捨てられた女」ではなかろうか、という響きが感じられる。彼らは異国で豊かな生活をしながらも、意識の奥底で祖国から捨てられた、と思っているのではなかろうか。パレスチナを捨てない神は、あなたたちも捨てない。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(62:5)。
4. 花婿を待つ花嫁
旧約聖書において、神と民との関係を花婿と花嫁のイメージで語ることは案外少ない。それらしい言葉は次の3個所である。「主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」(エレミヤ2:2)。ここでは、神とイスラエルとの関係というよりも神に対するイスラエルの愛の純粋さを表現する比喩として用いられている。神とイスラエルとの関係、しかも将来に実現する関係として、花婿と花嫁との関係を語っているのは第3イザヤの次の2個所だけである。61:10では、「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」(61:10)。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(62:5)。
第3イザヤによって語られる「神の民」とは「花婿を待つ花嫁」のイメージは、ユダヤ人社会ではあまり大きな影響を与えなかったように思われる。むしろ、キリストを花婿というイメージで捉えたのは原始教団である(エレミアス「イエスの譬え」、52頁)。ただ、原始教団がキリストと教会との関係を夫婦関係(エフェソ書5:21-)としてとらえた聖書的根拠としてイザヤ書62:5があったことだけは確かであろう。
5. 婚礼の喜び
一寸、先に行きすぎたので、話しを第3イザヤに戻して、預言者は捕囚からの解放令後のユダヤ人社会の問題を嘆いている。折角、解放されたにもかかわらず帰国しないユダヤ人がいる。祖国は荒れ果て、「捨てられた女」のようになっている。もう彼らは帰ってこないだろう。それでは、祖国はどうなるのか。この現状を預言者は嘆くだけでは、預言者ではない。根拠はないが、預言者は神による祖国の回復を信じ、語る。必ず喜びの日は来る。
この嘆かわしい現状を、預言者は婚約中の花嫁とみなす。必ず花婿は迎えに来る。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」62:5)。将来、必ず訪れる喜びを表現するのに、婚礼の喜びを比喩とするのは興味深い。喜びを表現するのに、いろいろな比喩があるだろうが、預言者は婚礼を取り上げている。
ユダヤ人社会においては、女性は12歳から13歳頃、男性は18歳から24歳頃、婚約するとのこと。婚約した女性は法的には既に「妻」と呼ばれるが、現実的には父親の権威のもとにある。婚約期間はかなり長く、その間に婚約破棄ということもあり得るし、その場合には妻側は夫側に損害賠償を請求する権利がある。万が一、夫が死亡した場合には、妻は夫の兄弟と結婚しなければならない。(義兄弟結婚)婚約中の不貞は姦淫とみなされた。妻にとって、夫が迎えに来て行われる婚礼の式こそが人生におけるクライマックスである。その日から、妻は夫と共に生活することになる。(「旧新約聖書大事典」教分館)婚礼までの花婿と花嫁は非常に不安定な身分である。つまり、「欠けた存在」であり、婚礼式によって「一つになる」。つまり、完全なものになる。これが婚礼の喜びである。
預言者が、ユダヤ人社会の現状を嘆き、将来の喜びを語るのに、婚礼の喜びを引き合いに出した理由はここにある。イエスが、「断食」という行為を「婚礼の喜び」を引き合いに出して語ったのも同様である。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」(マルコ2:19a)。生きることに満足し、充実している人間には断食というような宗教行為は無意味である。
つまり、婚礼式において表現されている喜びとは、欠けたものが満たされる、という喜びである。アダムの憂いもそこにあった。何か分からない欠如感。結局それは一人でいるということの欠如感であった。従って、イブが目の前に登場したとき、その欠如は満たされた。妻を得たことの充実感、それがアダムの喜びであった(創世記2:23)。
第3イザヤはディアスポラのユダヤ人が抱く「アイデンティティ不安」に対して、その欠如感は必ず満たされる日が来ることを語る。

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