落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>後ろを断つ

2007-06-27 20:41:51 | 講釈
2007年 聖霊降臨後第5主日(特定08) 2007.7.1
<講釈>後ろを断つ   列王記上19:15-16,19-21
1. 預言者エリア
主イエスに対する世間の人々の最大の評価は「エリアの再来」ということであった。つまり、このことは旧約聖書における多くの聖人、英雄の中でエリアという人物がしめる位置というものを示している。これは、世間の人々がそういう風に考えたというだけでなく、教会の中でも主イエスの人生の中での最も重要と思われる出来事、「変貌」(ルカ9:28-36)という事件においても、モーセと共にエリアが登場している。エリアは預言者中の預言者、最も預言者らしい人物である。
その預言者エリアが後継者を選んだときの出来事が本日のテキストである。選ばれた人物はエリシャ、彼もまたエリアの弟子にふさわしい活動をした預言者である。
2. 外套
本日のテキストにおいて興味深い点は、預言者が選ばれる場面での小道具である。ここでは、「外套」である。エリアがエリシャの側を通り過ぎるとき、彼の外套をエリシャに「投げかけた」という。これがどういう仕草で、どういう起源を持つのか、ここではわからない。ともかくこれが弟子への呼びかけのサインであったようである。エリアとエリシャの活動を見ると、この外套というものが大きな役割を果たしていることが分かる。
外套にまつわる一つのエピソードを紹介しておこう。時間的順序は逆になるが、いよいよ、エリアの時代が終わり、エリシャが一人前の預言者として活動を始めようとするとき、エリシャは何かを予感して、一日中エリアにつきまとって離れないようにしていた。彼ら二人の行動に何かを感じて50人の預言者仲間も少し離れてついてきたという。その時、彼らの行く手にヨルダン川が横たわり、向こう岸に渡れないで困ってしまったことがある。エリアは自分の外套をまるめて、ヨルダン川を叩くと、ヨルダン川は左右に分かれて、そこに道ができたという。まさにそれは、モーセの紅海渡渉や、ヨシュアのヨルダン川の渡渉と似た出来事である。「エリアの外套」は「モーセの杖」に匹敵するパワーを持つものとして描かれている。その時、エリアはエリシャに「自分が死んだとき、形見に何が欲しいか」と尋ねた。エリシャの答えは「あなたの霊の2つ分」(列王記上2:9)ということであった。つまり、これはエリヤの後継者であるということの印を求めたのである。具体的には、それはエリヤの外套を意味したものと思われる。そして、エリヤが生きたまま昇天したとき、エリシャの目の前にエリヤの外套は落ちてきた。エリシャはそれを拾い上げ、正式の後継者となった。ここでは「エリヤの外套」はエリヤの権威を示すシンボルである。
3. エリヤの祈り
さて、預言者エリアが若者エリシャを弟子にしようとして呼びかけた頃のエリヤの生活は、弟子を取るというような余裕のある状況ではなかった。時の権力者アハブ王との対立はいよいよ激しくなり、エリヤはアハブ王が支持する預言者たちを皆殺しにした。それを聞いたアハブ王はエリヤに以下のようなメッセージを送っている。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」(列王記上19:2)。これはまさにエリヤに対するアハブ王の最後通牒である。この地方におけるテロリズムは今に始まったことではない。とにかく、することが激しい。それを聞いて、「エリヤは恐れ、直ちに逃げた」(19:3)という。
エリヤは弟子たちを残して、一人で逃げた。逃げたというよりも、死に場所を探しに行ったという方が適当であろう。逃げた場所は、人里離れた荒れ野であった。そこで、丸1日歩き続け、一本のエニシダの木の下でぐったりとして、神に祈る。この祈りの言葉に注目して欲しい。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」(19:4)。さすがの預言者エリヤも、ここまで追いつめられていた。
ここからが面白い。「面白い」などというの不謹慎なような気もするが、ともかく面白い。エリヤは祈りながら眠ってしまう。ここが信仰者の強いところであろう。強いというか、「逃げ道を知っている」というか、ともかく「祈りながら眠ってしまう」。これに信仰者の秘密の力がある。その時、不思議なことが起こる。考えてみると、人類の始まりから、本当にどうしようもなくなって困ったときに、たった一人で神の向かって祈りながら眠ってしまう。その時に大きなことが起こる。アダムが木の下で眠ってしまったときに、神は「女」を造られた(創世記2:21)。
先祖ヤコブも父の家に居られなくなり、家出をして、たった一人で眠ってしまったときに、枕元から天に通じる梯子を見た(創世記28:12)。
預言者エリヤは行き詰まり、どうしようもなくなり、死にたくなり、神に祈りながら眠ってしまった。その時、天使が現れ、エリヤを起こし、「起きて食べよ」と言う。見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった(同9:16)。面白い。食べて、また眠ってしまう。余程疲れたのか。丸一日何も食べないで歩き回っていたのであろう。人間は食べるべき時に食べなければならない。食べなければ、何も始まらない。眠ることと、食べること、これが人間が生きる基本である。天使はよく眠っているエリヤの姿を見て、しばらく眠らせていた。
しばらくたって、天使はもう一度戻って来てエリヤを起こし、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした(19:7-9)。まぁ、なんとよく眠る預言者であろうか。
見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。今度は天使ではない。神ご自身の登場である。神は言う。「何をしているのか」。お前は預言者であろう。預言者がこんなところで眠りこけていていいのか。エリヤは弁解する。わたしは預言者として一生懸命働きました。しかし、誰もわたしの言葉に耳を傾けてくれませんでした。もう一人ではどうにもなりません。完全な敗北です。
ここからあの有名な場面が始まる。神はエリヤに命じる。「この洞窟から出ろ」。エリヤが、洞窟の外に出ると、「非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。 「エリヤよ、ここで何をしているのか。まだ、諦めるのは早い。もう一度、町に出ていって預言者として活動せよ。今はまだ、隠れているが、国内には「バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者」が7000人残っている(11-13)。エリヤは自分はたった一人であると思っていた。しかし、神は7000人の味方を残しておられる。
これを聞いて、エリヤは元気を乗り戻し、もう一度町に出て働き始める。しかし、現実的な状況が変わったわけではない。未だに預言者エリヤの周りはすべて敵である。たった一人で、神の言葉だけを頼りにアハブ王に対抗し、ヤハウェ神への信仰を呼びかける。そこで、紙がエリヤに示した人物がエリシャである。エリヤはさっそくエリシャを訪ねる。
4. エリシャの献身
エリヤの呼びかけは唐突であった。エリシャもさぞ驚いたことだろう。もちろん、預言者エリヤという人物について知らないわけではなかった。何しろエリヤは有名人である。当時、いろいろな預言者が存在し、それぞれが弟子集団を形成し、活動していたものと思われる。それらの多くの預言者の中でもエリヤは最もラディカルな預言者であったものと思われる。エリシャの前に現れたエリヤは王から命を狙われ「単独で放浪する預言者」であった。おそらく、それ程多くはいなかった弟子たちもエリヤについて行けず離れてしまっていた。というよりも、アハブ王から命を狙われるようになってから、エリヤ自身が弟子たちを解散させ(列王記上19:3)、単独行動に入ったようである。
預言者の弟子になるということ、その中でも特にエリヤの弟子になるということは、一般人としての安定した生活を放棄することを意味する。特に、預言者エリヤから呼びかけられたとき、エリシャは12頭の牛が引く農機具を使って仕事をしていたというから、かなり裕福な農民であったらしい。従って、エリシャにとっても、また彼の両親にとっても、これは大変なことであった。
しかし、彼は躊躇することなく、「牛を捨てて、エリヤの後を追い、『わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います』」(19:20)と言った。この申し出に対して、エリヤは「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」(19:21)と言う。エリヤのこの返答は何か素っ気ない感じがする。つまり、この時点では、まだエリアとエリシャとの間に師弟関係が成立していないということであろう。この点は十分に注目しておくべきだろう。エリシャの「父とは母とに別れの接吻をさせてください」という願いは決して未練ではない。むしろ、預言者の弟子になるための身辺整理である。言い換えると、死を覚悟して両親と分かれの盃を交わすと言うことであろう。事実、彼は家に戻ると「牛を屠り、牛の装具を燃やした」とある。もう二度と家には帰らない。親や親族を頼りにしない。つまり「後ろを断つ」ている。聖職になるということは「後ろを断つ」ということである。その聖職が本物であるか、そうではないかの分かれ目は、ここにある。
5. 荒野に出るということ
わたしはこの度初めて「定年退職」ということを経験した。これは、「わたしの決断」というよりも日本聖公会の法規による規定である。しかし、わたしはこれを「わたしの決断」に変えた。もちろんそれはわたしの願望の実現ということでもあったが、むしろわたしという人間の生き方としての定年退職にしたかった。
実は、今年の年賀状に「肥えた豚ではなく、荒れ野に叫ぶ猪たれ」という言葉を書いた。いわば、定年退職ということを「荒野に出ること」と意味付けをしたのである。この点については、今年の元旦礼拝の説教で触れているので省略する。<ブログ「落ち穂拾い」参照>
その気持ちは今も少しも変わっていない。誤解のないように、またわたしが訪れた九州教区の諸教会の信徒の方々に感謝を込めて言い添えておきたい。現在わたしが住んでいる九州の地はそれ自体決して「荒れ野」ではなく、むしろ食べ物も豊かで美味しいし、人情は非常に厚く、住みやすい地である。医療機関も充実しており、訪れた教会では心から歓迎され、とても楽しい交わりの時間を持つことができたし、これからもますます豊かな交わりが期待される。だから、「荒れ野」で生きるというのはわたしの心の持ちようの問題である。今も、わたしは「荒野で」生きる生活を続けているつもりである。つまり、ここで生きているわたしには帰るべきホーム(故郷)はなく、守ってくれる組織もない。言い換えると、バックギアのない自動車に乗っているようなものである。前進はあるが後退はない。その意味では、本当の意味での聖職者の生き方が定年退職と共に始まったということも言えるのかも知れない。
6. イエスの言葉
ある人が主イエスのところにやって来て、弟子入りを志願した。が、その前に「まず、家にいとまごいに行かせて下さい」と頼んできた。その時、主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた(ルカ19:61)。このテキストについての専門的分析は省略するが、結論としてこのテキストはエリシャの召命のテキストをルカ的に再解釈してイエスと弟子との関係に置き換えたものであると思われる。ところが、単純に比べると、エリヤの態度と主イエスの言葉は、逆のことを言っているように見える。エリヤはエリシャの申し出に「OK」し、イエスは反対した。単純に読むならば、弟子に対するエリヤの態度に対して主イエスの弟子に対する要求はより厳しいものとなっている。つまり、両者の違いは厳しさの程度の差なのだろうか。わたしにはそうは思えない。むしろ、主イエスがここで問題にしているのは、「従います」という決断と、「いとまごい」をすることとの順序の問題である。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、」ということの順序に注意すべきである。彼の場合は、もう既に弟子としての生活を始めていたのであろう。既に弟子になっているのに、親に「いとまごい」をするということは、彼の中でまだ「後ろが断たれていない」。ここに問題がある。親への「いとまごい」を含む身辺整理は弟子になる前にしておくべきことである。一旦、弟子になってしまったら、もう後には戻れない。ここで、順序を間違うと、決断が計算あるいは計画になってしまう。「従う」ということは前進方向であり、「いとまごい」とは後ろを向くことである。しかし、エリシャの場合は、「後ろを断って」前進する。つまりここでは「いとまごい」は決断の前の処理である。言い換えると、エリシャは後ろも前もすべてから自由になってエリヤに従う。
両親に別れの挨拶をするにせよ、あるいはしないにせよ、あるいは友人知人の葬儀に参列するかしないか、そのことが問題なのではなく、主イエスの弟子であるためには「後ろを断つ」ということが原則である。

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