落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第21主日(特定23)説教 涙をぬぐう

2005-10-05 19:45:38 | 説教
2005年 聖霊降臨後第21主日(特定23) (2005.10.9)
涙をぬぐう   イザヤ書25:1-9
1. 「涙をぬぐう」
本日のテキストの9節に、「主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」という言葉がある。この「涙をぬぐう」という言葉を読んだとき、もう一つの言葉を思い出す。それはヨハネ黙示録21章の言葉である。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものはは過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。この言葉は終末の日についての、最も美しく、最も完成された表現である。ここにも「涙をぬぐう」という表現がある。「涙をぬぐう」とは一つの(悲しい)状況が終わり、新しい状況が始まることを意味している。詩編126編では「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(詩編126:5)と歌われている。この言葉は、ただ単に種まきの労苦と、収穫時の喜びが対比されているのではない。種を蒔くときの絶望的な状況は完全に過ぎ去り、刈り入れは全く新しい希望に満ちた状況になっている、ことを語っている。種を蒔くときと、それを刈り入れるときとの間で、状況そのものが全く変化したことを語る。
2. 繁栄している都(2~3節)
さて、ここの文脈で注目すべきことは、これを語る文章が「過去形」であるということである。ここで述べられている「都」がどこを指すのか具体的に特定できない。しかし、そんなことが重要なのではない。現在、誰でも「堅固な都」であると信じているその「都」が人間が住まない廃墟になり、二度と再建されることはない、と語られている。この預言は、豪壮なるエルサレムの神殿の建物を指さしながら、「一つの石も、ここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マタイ24:2)と嘆かれた情景に似ている。主イエスもまた、「終末に日」の視点から現実の神殿を見て、語っておられる。これがここで「過去形」が用いられている理由である。こういう見方を「終末の先取り」という。わたしたちも現実を見るときに、こういう視点から見る必要がある。こういう見方をすると、現実が全く違った風景となる。
3. 「その日」
さて、旧約聖書の預言者の預言というものは、現在という視点から未来の状況を予想しているのではない。歴史というものが、現在という視点から過去の状況を物語るのと同じように、未来の状況(終末の日、「その日」「成就」)という視点から現在を語るのである。終末の日の喜びという視点から今涙を流している人々に向かって語る。だからこそ、「感謝」という言葉が発せられ、「あなたは驚くべき計画を成就された」と語ることができる。そこにあるものは、「遠い昔」から「その(成就)日」までの全歴史を貫く神の「揺るぎない真実」である。
4. イスラエルの現実
預言者はこれと同じ視点からイスラエルの現実を見直す。すると今まで見ていたのとは全く違った現実が見えてくる。確かに、イスラエルは弱小国家である。外国の勢力が侵入してくると抵抗する力もない。従って、民衆の生活は苦しく、貧しく、苦難に満ちている。少し、天候が荒れると直ちに民衆の生活は破壊されてしまう。それが現実である。しかし、終わりの日から見ると、神が「弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰」(4,5節)であることが分かる。歴史の上から消えてしまいそうで、決して消えない。むしろ、今豪勢な連中が歴史からは消えていく。これが歴史の真実である。現実を現実からだけ見ているとそれが見えない。しかし、歴史を終わりから見るとその現実がはっきりと見えてくる。
5. 「待ち望む」
「待ち望む」(9節)という態度は、ここに立つ。今の視点から将来を望み見るのではない。むしろ、将来の視点から現在を見るのである。預言者イザヤはかつて「待ち望む」ということについて、このように語る。「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける」(イザヤ8:17)。今は主の御顔は見えない。見えないから無いのではない。主が御顔を現した将来から、今を見ると、主は今は顔を隠しておられる、ということが見えてくる。信仰とは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することで」(ヘブル書11:1)である。

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