落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「百人隊長の部下の癒し」 ルカ7:1-10

2013-05-27 10:26:06 | 講釈
みなさま
世の中、いろいろなことが次々と起こります。一つ一つ丁寧に追っていたら目が回りそうです。
先日、あることを切っ掛けに、「水道橋博士」という北野武さんのお弟子さんによる『藝人春秋』(文藝春秋)を読みました。私たちにとってはテレビ等を通して表面的にしか知らなかった「藝人の世界」の奥行きの深さに驚きました。私たちは簡単に「価値観の転倒」などという言葉を使いますが、私たちの目の前で、全然異質な世界から発信された「藝」を日常的に楽しみながら、実は私たちには全く見えない世界があるということに驚かされます。ある意味では「教会の世界」もこの世の世界から見たら、「見えない世界」なのかも知れません。

2013T04(L) 2013.6.2
聖霊降臨後第2主日(特定4) <講釈>「百人隊長の部下の癒し」 ルカ7:1-10

1.ルカ福音書の構造
聖霊降臨節に入り、「特定」の主日が始まるに際して、ルカ福音書の構造についてまとめておく。
先ず始めに序文があり(1:1-4)、それに続いてイエスの誕生から活動の準備期間が語られる(1:5-4:13)。本文の第1部はガリラヤでの活動(4:14-9:50)、本文の第2部としてエルサレムへの旅(9:51-19:27)、第3部がエルサレムでの活動(19:28ー21:38)、第4部が最後の晩餐と受難(22:1-23:56)、最後に復活から昇天(24:1-53)と順序よく並ぶ。ルカは初めからこの福音書を順序よく書くと宣言しているので、この大きな流れを頭に置いておくことが重要であろう。
序章   序文(1:1-4)
     イエスの誕生から活動の準備期間(1:5-4:13)
第1部 ガリラヤでの活動(4:14-9:50)
第2部 エルサレムへの旅(9:51-19:27)
第3部 エルサレムでの活動(19:28ー21:38)
第4部 最後の晩餐と受難(22:1-23:56)
第5部 復活から昇天(24:1-53)

これを日本聖公会の年間主日の日課として振り当ててみると以下のようになる。

先ず降臨節第1主日(年最初の主日)には終末の記事(21:25-31)
続いて、降臨節第2主日から顕現後第1主日までは第1部からのテキスト
顕現後第3主日から大斎節前主日までがガリラヤでの活動
大斎節第1主日では荒野での試み(4:1-13)
大斎節第2主日から3回の主日にはエルサレムへの旅からのテキスト
復活節の期間(聖霊降臨日、三位一体主日を含む)はヨハネ福音書からのテキスト
聖霊降臨後の主日(特定)以後はすべてルカ福音書が読まれる。
先ず特定1から特定7まではガリラヤでの活動
特定8から特定26までの長い期間はエルサレムへの旅のテキスト
特定27と28はエルサレムでの活動
1年の最後の降臨節前主日では十字架上でのイエス(23:35-43)
またはイエスのエルサレム入城(19:29-38)が読まれる。

このうち、私が担当する主日説教は降臨節第1主日から聖霊降臨後第25主日まで18回で(既に8回済)で、聖霊降臨後の期間では10回予定されている。このうち、病気の癒しの記事が取り上げられるのが3回で、今日と次週、その次が10月13日である。イエスの活動において病気の癒しという奇跡物語は重要な位置づけがなされていることは改めて言うまでもない。

2.ルカ7:1-10の資料分析
ここではカファルナウムにおける百人隊長の部下の病気癒しの事件が取り上げられている。この記事はマルコにはなくマタイ福音書に平行記事が見られる(8:5-13)。これらを比較検討してみると物語の中心部、会話の部分(6b-9)はほとんど同じで、とくに8-9節は語句もほとんど同じである。つまりルカもマタイも同じ資料を取り上げ、それぞれ独自の枠を設定していることは明白である。
通常、マタイとルカに共通しマルコにない資料をQ資料と呼ぶ。マタイとルカとの引用の仕方や特徴を考慮して、かなり専門的な資料分析を経て、元になった資料を復元すると次のようになる。

仮説Qの復元
イエスはこれらのことを語り終えると、カファルナウムに入って行った。するとイエスのことを聞いたら百人隊長が彼のところにやって来て、懇願した。「わたしの部下が家で寝込んでいて、死にそうです。」
するとイエスは彼に言った。「わたしが行って、癒してあげよう。」
すると、百人隊長は答えて言った。「先生、わたしはあなたをわが家にお迎えできるような者ではございません。ただ一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの部下は癒されます。わたしも命令下にある者ですが、わたしの下には兵士がおり、一人に、行けと命じれば行きますし、他の一人に、来い、と命じれば来ます。また、部下に、これをしろ、と命じれば、それをします。」
イエスはこれを聞いて驚き、従っていた者たちに言った。「おまえたちに言っておこう。イスラエルの中で、これほどの信頼を見たことがない。そして彼は百人隊長に「帰りなさいと言った。百人隊長が家に帰ってみると、部下は元気になっていた。(バートン・L・マック『失われた福音書~~Q資料と新しいイエス像』121頁)

おそらく原資料はこういうものであったと思われる。それをマタイはマタイなりに、ルカはルカなりに前後に独自の文章を補いそれぞれの福音書に書き残したのであろう。(参考:ヨハネ福音書にもこれとよく似た奇跡物語が記録されている(ヨハネ4:46b-54)。)
マタイの記事ではほぼ原資料のままに記録されているが、ルカの記事は興味深い設定を施している。

3.ルカの記事の特徴
さて、上記の原資料を元にルカが変更したり、書き加えたり、削除したであろう諸点を確認しておく。
(1)「民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから」という言葉を挿入することによって直前の記事とつなぎ合わせている。つまり、以下の記事は「イエスの言葉」と関連しているという気配を示している。
(2)「重んじられている部下」ということで百人隊長の心境を示している。
(3)百人隊長は直接イエスの所に行くことを避けて、「ユダヤ人の長老たち」に依頼している。ここにはいろいろな含みがあるように思われる。
(4)ユダヤ人の長老たちも百人隊長の心境や立場を理解し自分のことのようにイエスに熱心に願う。いろいろな出来事を背景に、「あの方はそうしていただくにふさわしい」という。つまり一般的なローマの兵士に対する世間の評価とは異なることを強調する。この辺りに、ルカの民族意識が現れている。使徒言行録10章のコルネリウスの人格と重なる。
同時にそれは、ルカ自身の経験も反映しているであろう。非ユダヤ人がキリスト者になるということは簡単なことではない。非ユダヤ人社会からも、またユダヤ人社会からも差別を受ける。そのような非ユダヤ人キリスト者にとって信仰の根拠とするものは、ただイエスの言葉である。
(5)「わたしが行っていやして上げよう」という言葉が削除されている。イエスは黙って長老たちと共に百人隊長の家に向かう。
(6)百人隊長はイエスが近くまで来た頃合いを見計らって「友達」を使い出す。
(7)中心部の会話をイエスと友達との会話にすり替える。
(8)最も中心的な「一言おっしゃってください」という部分が直接話法と間接話法とが混乱する。
(9)「帰りなさい」という言葉が削除されている。

4.ルカの記事に対する疑問点
以上の編集過程を見ると、いくつかの疑問点が出てくる。
第1の疑問。この物語はもともと百人隊長がイエスの所に来て部下の病気の癒しをお願いする物語である。マタイもそのように記録している。なぜこの単純な物語を、イエスと百人隊長の間にいろいろな人を介入させて複雑化しているのであろうか。その結果、ルカのストーリーではイエスと百人隊長とは一度も顔を合わせていない。
第2の疑問。ユダヤ人の長老たちは百人隊長の人となりやユダヤ人に対する好意をいろいろと語るが、イエスはそのことに何も反応を示さない。「それじゃ、わたしが行って癒して上げよう」という言葉をわざわざ削除して、ただ黙って一緒に行っている。
第3の疑問。百人隊長は何故イエスの前に姿を現さず「友達」を寄越しているのだろう。
第4の最大の疑問。この癒しの物語においてイエスは癒しの言葉を述べていない。

5.この物語のメッセージ
ルカはこの物語をイエスの説教の直後に置いている。直前の説教の主題は「私の言葉を聞き、それを行う人が皆」イエスの弟子であるということであった。イエスと百卒長をつなぐものは「イエスの言葉」だけである。そこには旧約聖書も律法もユダヤ人の習慣もすべて排除されている。その意味ではルカをはじめ非ユダヤ人キリスト者のイエスに対する立場を極端化している。ユダヤ人の長老たちは、その間に「特別な何かある」かのように語るが、イエスは一切無視する。
百卒長からの言葉は「ひと言おっしゃってください」だけである。この言葉がこの物語のカギとなっていることは明白である。
新共同訳では「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と訳されている。この文章では「そして」という言葉が、全体のバランスを崩していることは明白である。因みに、この部分をマタイ福音書では「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と訳しており、安定した文章になっている。おそらく原資料もそうなっていたのだと思われる。この単純明快な文章が何故ルカにおいてはバランスを欠いているのだろうか。参考に他の翻訳を引用しておく。
「ただ、お言葉を下さい。そしてわたしの僕をなおしてください。」(口語訳)
「ただ、お言葉をください。そしてわたしの僕をいやしてください。」(フランシスコ会訳)
「ただ御言を賜いて我が僕をいやし給え」(文語訳)
「唯一言にて命じ給へ、さらば我僕癒えん」(ラゲ訳)
田川建三氏はこの部分について、ギリシャ語原文では直接話法と間接話法とがこんがらがっていて非常に訳しにくい。というより、下手な文章だと言う。マタイ福音書のように「一言いってください」プラス「そして」ならば、それ続く言葉は「そうすればわたしの僕は癒される」(平叙文)である。ところがルカにおいては「わたしの僕が癒されよ」という言葉も直接話法の命令形になっている。つまり、「仰ってください」という直接話法の命令文と「癒されよ」という直接話法の命令文が「そして」で結ばれている。しかも後の文章を直接話法にするならば「わたしの僕」も「あなたの僕」に変えなければならないであろう。つまりルカは「ひと言仰ってください」という言葉の一言の内容を直接話法に変更したいと思いつつ、それが中途半端になってしまったのではないだろうか。ルカが言いたいことを日本語で表現するならば「『あなたの僕が癒されるように』という一つの言葉をください」となる。

6.癒しの言葉がない
ルカはこの物語においてイエスの言葉による癒しを強調している。百人隊長の友人は「言葉だけください」という。これは百人隊長の意志でもある。重要なことは「あなたの部下の病が癒されるように」というイエスの一言が重要である。百卒長の友人はその言葉を受け取りにイエスの元に来た。ところがルカの物語ではその「一言」が記録されていない。ルカでは家にも行かず、百人隊長にも会わず、何も語られず、家に帰ってみると、癒されていた。つまりこの物語においては癒しの言葉が抜けている。
ルカ福音書におけるイエスの癒しの出来事を検証してみると、ほとんどすべてイエスの癒しの言葉が発せられている。
これに続く物語では「若者よ、あなたにいう。起きなさい」と言われたとあり、7:36以下の罪深い女の場合は「あなたの罪は赦された」と言い、レギオン物語では、悪霊どもは、「底なしの縁へ行け」(8:31)という命令の言葉を語らないようにイエスに願う。面白いのはイエスの服に触れた女の場合でイエスの言葉はなくて女が内緒で触ったときに癒され、その後に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(8:48)と言う。ヤイロの娘の場合は「娘よ、起きなさい」(8:54)と言われている。9章の悪霊に取り憑かれた子を癒す場合には「汚れた霊を叱り」(9:42)とある。
ところが、イエスの言葉が強調されているこの物語においてはイエスの癒しの言葉がない。何故だろうか。
これと同じ癒しの出来事を述べているマタイの場合は「帰りなさい、あなたが信じたとおりになるように」(マタイ8:13)という言葉がかけられている。おそらく原資料にはそれがあったのであろう。なぜ、ルカはこの事件の時だけイエスの癒しの言葉を省略したのであろうか。

7.何故?
ただ単にルカが書き落としたのか。書き忘れたのか。まさか。確かにルカは書く必要はないと思った。書かなくてもいいと思った。なぜ書かなくてもいいと思ったのか。
一つのことが言える。ルカの設定ではイエスの元に来たのは、先ず「ユダヤ人の長老たち」であった。イエスは彼らの頼みを聞き入れて一緒に出かける。次にやってきたのは「百人隊長の友だち」である。その友だちが百人隊長の言葉を「そのまま」イエスに伝える。従ってイエスが聞いている言葉は百人隊長の言葉のままである。つまり1人称は百人隊長であり、2人称はイエスである。「『あなたの部下は癒されよ』と一言仰ってください」。具体的な出来事はそこまでである。イエスと百人隊長とは顔を合わせていない。まして病気の部下の姿はどこにもない。しかし確かに百人隊長の言葉はイエスの元に届いた。つまりユダヤ人の長老も、友だちも、百人隊長の言葉をそのまま実行している。百人隊長は彼らが「そのまま」行動することを少しも疑っていない。と同じように、イエスも百人隊長の願いを「そのまま」聞いてくれると信じている。ここの場を支配しているのは完全な信頼関係である。百人隊長とイエスとは「まだ、そしてこれから」も会うことはない。会う必要はない。この信頼関係の中では「言葉」は不要である。イエスは、この関係を「言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない」と群衆に向かって語られた。ここでイエスはイスラエルにおける律法主義を暗に批判している。彼らは律法の言葉を重視する。それは同時に言葉に縛られるという事態を生み出している。言葉は重要である。しかし、言葉は同時に「真の言葉」を固定化することでもあり、同時に呪術化する場合もある。
何でも言葉にしないと信用できない人がいる。何でも書類の形にして正式に申し込んだり、契約しないと信頼関係は成立しないと思っている人がいる。しかし本当の信頼関係とは言葉や書類の必要のない関係である。夫婦の関係、親子の関係においてお金を貸したり借りたりすることがある。その場合に借用書を書くとしたら、それは「水くさい」関係という。
イエスとの関係において、言葉に依存しつつ、言葉を超克した関係。




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