落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

復活節第2主日説教 十字架、復活、その後で

2010-04-07 12:49:57 | 説教
2010年 復活節第2主日 2010.4.11
十字架、復活、その後で  ヨハネ20:19~31

1. イースターの経験
先主日わたしたちはイースターを祝った。一般に言えることであるが、わたしたちが「すごい経験」をした場合、その経験はその場では「どういうことが起こっているのか」、その当事者には分からないものである。ただ右往左往するだけ。大災害、交通事故、人間関係でも同じ。むしろ、その出来事や経験は「後になって、ぞーとする」、あるいは「心の奥底から、喜びがわきあがって来る」。これが本当にすごい経験である。今週はイースター後の弟子たちのイースター経験が述べられている。イースターとは弟子たちにとってどういう経験であったのか。ここでは1週間後のこととして述べられているが、内容から考えるとかなりの時間を経過して、長い議論を繰り返した結論であろう。ヨハネ文書の著者の時代になって、やっと到達した復活信仰についての理解が述べられている、と考えるべきであろう。
2. 弟子たちの直接経験
復活したイエスとの出会いにおいて弟子たちが経験したことをルカとヨハネとは3つあげている。1つはイエスが弟子たちの真ん中に立たれたこと、第2は復活のイエスは「あなた方に平和があるように」と言われたということ。第3は、ルカは「手と足」、ヨハネは「手と脇腹」という違いはあるが、ご自分の身体を「お見せになったこと」である。これら3つの経験を通して「弟子たちは、主を見て喜んだ」という。ルカは「喜びのあまり信じられなかった」と逆説的な表現をする。これらのことが復活のイエスの顕現に関する弟子たちの証言である。これら3つのポイントを中心にして弟子たちが語る復活という出来事を考えたいと思う。
3. 弟子たちの真ん中に立つイエス
鍵のかかった部屋の中で、弟子たちは彼らの「真ん中に立つ」イエスを見た。先ず、どのようにしてイエスはその部屋に入ったのかということを弟子たちは問題にしていない。また「真ん中」とはどういう位置なのかということも語られない。これはいったいどういうことか。つまり、この「真ん中」とは具体的、物理的な位置関係ではない。その時の弟子たちがかかえている深刻な問題の真ん中、不安の真ん中、ばらばらになりそうな弟子たちの真ん中を意味する。復活のイエスが立つ位置とは、まさにそういう位置である。
4. 平和があるように
復活のイエスは不安の中にある弟子たちの真ん中に立ち「平和があるように」と語られる。そこがイエスの立つべき位置であり、そこから語るメッセージが「平安」である。この「平和があるように」といういわばありふれた挨拶の言葉を軽く考えないで欲しい。ユダヤ人の通常の挨拶の言葉「シャローム」と同レベルに考えないで欲しい。
ここで思い出して欲しい。十字架にかかる直前、最後の晩餐におけるイエスの最後の言葉はこうであった。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。ここに、この世におけるイエスと復活のイエスとの連続性がある。
5. 復活の身体
第3に注目すべきことは、その時イエスは手とわき腹とを「お見せになった」ということである。しかも弟子たちはそれを「見て喜んだ」とある。一体これはどういうことであろう。イエスの「手とわき腹」とは、イエスの苦しみそのものを象徴する。弟子たちはそれを見て喜んだということは異常である。そんなものを見て喜ぶことは出来ない。まさに、それはイエスの苦しみが意味することぬきでは、グロテスク以外の何ものでもない。その苦しみが「わたしたちの救い」の根拠として信じることなしに、他人の苦しみを喜ぶということは異常である。従って、「手とわき腹とをお見せになった」という証言(叙述)の背景には、当時イエスを霊的存在とみなすグノーシス主義との厳しい対立がある。復活したイエスは肉体を持って現実に生きたイエスであり、十字架上で死んだ、そのイエスが今、わたしたちの前に立っている。
6. 見ないで信じる
この物語では、弟子たちは触れと言われながら、触っていない。恐れ多くて触れないというのが真相であろうが、これが「見ないで信じる」ということを意味している。復活されたイエスを前にして、弟子たちは見て、触って、信じたのだろうか。おそらく、ここではイエスの圧倒的な存在感により、「見て信じる」ということと、「見ないで信じる」ということの区別が出来ない。わたしたちは、聖餐式において一枚のウエハーをキリストの肉として、舌先に触れるワインをイエス・キリストの血としていただく。これは見たことになるのだろうか。「見た」とも言えるし、「見ていない」とも言える。それがサクラメントの秘密(奥義)である。信じていない者にとっては、ただの物質にすぎないものが、信じる者にはキリストの体となり、血となる。
ついでに、もう一言付け加える。トマス以外の弟子たちの経験とトマスの経験との間が丁度1週間であったということは、非常に興味がある。この週日イエス・キリストはどの弟子たちにもお現れになっていないということは注目の価値する。つまり主日ごとの聖餐式がかなり初期の段階から定着していたということの証拠である。弟子たちが復活のイエスとの出会うのは日曜日ごとの礼拝においてであった。否、むしろ弟子たちはごく初期の段階から、復活のイエス・キリストに触れるために日曜日ごとに、そのことを楽しみにして、必ず集まった。そして、その日曜日の経験が、次の言葉のエネルギーとなった。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす。」不安におののき、扉を堅く締めて、ひそかに集まっていた弟子たちが、勇ましく世に出て、キリストの福音を語る者となり、今日のキリスト教の礎となったエネルギーは、この聖餐式にあった。

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