落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

復活節第3主日の説教 水の中を通るときも

2005-04-04 20:08:55 | 説教
2005年 復活節第3主日 (2005.4.10)
水の中を通るときも  イザヤ書43:1-12a
1. 人生苦
ロマン・ローラン(1866-1944)という20世紀の前半に活躍したフランスの小説家がいる。彼は「ジャン・クリストファ」、「魅せられた魂」という作品を書いたが、同時に平和運動家としても知られている。何も、本日はローランのことを語ろうと思っているわけでもないが、本日は彼の次の言葉を紹介したいので名前をあげただけである。
「人生というものは、苦悩の中においてこそ最も偉大で実り多く、かつ最も幸福である」。
なかなか味わい深い言葉である。この言葉が書かれたのは、「ベートーヴェンの生涯」という作品の序文の中である。このこと自体もなかなか興味あることである。ベートーヴェン自身も友人への手紙の中で次のように書いている。
「わたしたち有限の人間どもは、ひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこう言えるでしょう。最も秀れた人々は苦悩を突き抜けて歓喜を獲得するのだと」。(参照:中野孝次監修「人生に関する60章」p.255,256)
個人的な趣味であるが、わたしはクラシック音楽が好きで、その中でも交響曲が一番好きで、これを聴いているときに幸せを感じる。いろいろな音楽の中で、たった一つだけを選べ言われたら、わたしは何の躊躇もなくベートーヴェンの交響曲第9番「歓喜」を選ぶ。これを作曲した当時、彼はほとんど耳が聞こえなくなっていた。従って、彼の「人間は苦悩を突き抜けて歓喜を獲得する」という言葉は真実となり、わたしたちに感動を与え、今、現在苦しみの中にある人々に希望を与えと慰めの言葉となる。
2. 水の中を通るときも
旧約聖書の民族イスラエルの民には、苦しいときに思い出し、お互いに励まし合う共通の経験があった。共通の経験といっても、イスラエル人一人ひとりが実際に経験したことと言うよりも、民族としての経験で、イスラエル人であれば誰でも知っていること、今日彼らが存在していることの根拠になったこと、もしこの経験がなければ、彼らも彼らの父親も、その祖父も存在しない出来事である。だから、彼らは民族として苦しい経験をしているとき、また個人的にも苦しい、悲しい状況にあるとき、このことを思い出してその苦しさを乗り越える。こういう共通の経験を持っているということはすばらしいことであり、幸せでもあり、力でもある。また、それがその共同体の連帯感の根拠ともなる。
イスラエルの民の場合は、それが出エジプトという経験であり、その中でも特に紅海徒渉という出来事であった。出エジプトしたイスラエルを最初に襲った生きるか死ぬかという大事件が紅海徒渉である。後からは重装備をしたエジプトの軍隊が無防備なイスラエルの群集を殲滅すべく砂ぼこりを立てて迫ってきている。その足音が不気味に響いてくる。もう一刻の余裕もない。彼らの前には広く、深く、逆巻く紅海が横たわっている。前に進むことも、後退することもできない。彼らには逃げ道はない。進退きわまる、とはこういう状況であろう。
その時、「モーセが手を海に向かって差し伸べると」(出エジプト14:21)、紅海が真っ二つに割れ、その間に道が開けた。両側に水が逆巻く間をイスラエルの民は歩いて渡った。この情景は、満潮とか干潮ということで説明が付くものではない。まさに奇跡である。両側に水が逆巻く間を歩くということは納得して出来ることではない。
何年か前に立山から富山に抜けるバス・ドライブをしたことがある。もう春だというのに、バスは両側に雪がそびえ立つ間を縫って走った。雪は、バスよりもはるかに高く聳えていた。非常に珍しい経験であった。「水の中を歩く」とはこれと比較にならない。紅海の真ん中に出来た道の両側には逆巻く水が聳えている。落ちてきて当然である。その中を歩くことが出来るのか。彼らは神を信じてその中を歩いた。というより、それ以外の選択肢がなかった。彼らを追ってきたエジプトの軍隊が同じように水の間を渡ろうとしたとき、両側の水は軍隊の上に雪崩のように崩れ、全滅した。この経験は民族の血の中に染み渡り、彼らが困難に直面したときに、民族の声として涌き上がってくる。旧約聖書を読むと、いろいろな場面でそのことが繰り返し、繰り返し語られる。本日の旧約聖書の中でも語られる。2節。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」。
3. 「いつも共に」
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。これは、聖書に記されている主イエス・キリストの言葉である。わたしたちはこの言葉をあまりにも軽く言いすぎるので、いざというときに威力を発揮しない。この言葉を気安く口にしてもらいたくない。「水の中を歩く」というような危機状況の中で、このことだけしか頼りにするものが何もない時に、口にすべき言葉である。しかし、そういう状況の中で、なおこの言葉を共に頼りにする仲間がいること、この言葉を共有し、分け合い、励まし合う共同体があることは喜びである。
4. 足跡
最後に、一つの詩を紹介したい。この詩の作者は不明である。不明であるが、この詩を一度聞いた人は、もう二度と忘れることが出来ない。そして、多くの人々の、特に苦しみの中にある人を励まし、力になってきている。そしてまた、その人を通じて他の人の励ましとなる。そういう形で、この詩は、共通の経験となっている。皆さんも、よくご存じの詩である。

足跡
ある夜、夢を見た。
主と共に浜辺を歩んでいる夢を
空の向こうには歩んできた人生のさまさまなシーンが映し出されて、
でも、いつも二筋の足跡がくっきりと浜辺の砂に残されている。
一つはわたしのもの、もう一つは主のものと
人生の最後のシーンが映し出されて、
砂の上に残された足跡を振り返る。
過ぎ去った人生の幾年月
苦しかったあの時
悲しかったあのころ
だが、ああ、その時の足跡は、
ただ一筋だけだった。
わたしは主に尋ねた。いぶかりながら
主よ、わたしがあなたに従いますと、
決心しましたときに、
あなたは、いつでも、どこでも、
お前と一緒にいるよ、と
あのように堅くかたく言われました。
それなのに、何故
あの足跡を見て下さい。
ただ一筋の足跡を、
わたしが最も苦しかったときに、
主よ、何故に、あなたはわたしを見放されたのですか。
主は答えられた。
わが子よ、愛するわが子よ、
わたしは決して、けっして 離れはいないよ。
あなたが、苦しみあえいでいたときに、
あなたが、悲しみの底にあったときに、
わたしは、いつも、あなたを抱きしめて、
あなたを背負って、歩いていたのだよ。
見てごらん、あの一筋の足跡を

いろいろな翻訳があるが、本日は高田キリスト教会の松尾克巳さんが翻訳し、同教会の百年誌に掲載されているものを紹介した。こういう詩を百年誌に掲載している教会を誇りに思っていい。この詩がこの教会の共通の経験となり、励ましとなり、慰めとなることを祈る。

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