落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 「主はわたしの牧者 詩23」

2011-10-04 14:38:27 | 講釈
S11T23Ps023(L)
2011.10.9 戸畑聖アンデレ教会
聖霊降臨後第17主日(特定23)<講釈> 「主はわたしの牧者 詩23」

1.詩23のテキストについて
詩23は今年の5月の復活節第4主日にも取り上げられた。また11月の降臨節前主日(教会暦での最後の主日)にも取り上げられる。5月の時には特別な趣向として文語訳聖書の訳をテキストとして用いた。本日は素直に祈祷書の翻訳をテキストとする。

2.テキスト(聖公会の祈祷書を持っていない人ために)
1 主はわたしの牧者、わたしは乏しいことがない。
2 神はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴なわれる。
3 神はわたしの魂を生き返らせ、み名のゆえにわたしを正しい道に導かれる。
4 たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共におられ、あなたの鞭と杖はわたしを導く。
5 あなたは敵の見ている前でわたしのために食卓を整え、わたしの頭に油を注ぎ、わたしの杯を満たされる。
6 神の恵みと慈しみは、生きている限り、わたしに伴い、わたしは永遠に主の家に住む。

3. 主はわたしの牧者
詩23がどれだけ多くの人々を慰め、励ましてきたであろうか。この詩で描かれている神と私の関係の美しさは他にたとえようもない。詩編の中でも最も愛されてきた詩であることはほぼ間違いがないであろう。今日はじっくりと詩23を味わいたいと思う。
先ず、冒頭の一句が衝撃的である。「主はわたしの牧者」。この句は説明でもなければ、賛美でもない。宣言である。全世界に対する「私」の宣言である。主がわたしの牧者であると宣言することによって、私という存在と神との関係が語り尽くされている。神との関係だけではない、私と世界との関係、私という存在が世界に対してどういう存在なのかということも宣言されている。
この「主」という言葉はもちろん、通常の「主人」という意味ではなく「神」という言葉の代理語である。少し説明がいるだろう。ここで「主」と読まれている単語は、いわゆる「聖なる四文字」である。ユダヤ人社会においては、神の名をみだりに唱えてはならないという伝統に従って「神の名」が出てくると、その言葉を唱えずに代わりに「アドナイ」と読んだ。「アドナイ」という言葉は「主人」を意味する普通の単語であるが、その単語の読みを「聖なる四文字」に当てはめたのである。そのため、ユダヤ人たちはこの単語の本当の読み方を忘れてしまった。その後、ヘブライ語そのもの研究が進み、どうやらこの聖なる四文字は「ヤハウェ」と発音するらしいということがわかってきたが、これを「アドナイ」と読む習慣は残ったのである。従って、この「ヤハウェ」という単語は神についての普通名詞であるのか、固有名詞であるのか大いに議論がある。従って、これを日本語に翻訳する場合に「ヤハウェ」と音訳するか「主(アドナイ)」という伝統的な訳語を使うかということでも議論がある。
ここで一言余分なことに触れておく。キリスト教では成立した初期段階からイエスのことを「主イエス」(使徒1:21、1コリント11:23))あるいは「主」と読んで来た。もちろん、この場合の「主」とはギリシャ語の「キュリオス」であるが、一応それは旧約聖書の「主(アドナイ)」とは区別される。従って詩23の冒頭の「主」と新約聖書においてイエスを「主」と告白する場合の主とは異なる。しかし現実的には旧約聖書の「主(アドナイ)」と「主イエス」という場合の「主」とは厳密に区別されていない。使徒言行録の2章における詩16の引用の部分である。ここでは「ダビデは、イエスのことを『主』と呼んだ」ということが論じられている。従って、詩23における「主(アドナイ)」を「主イエス」と重ねて解釈することも必ずしも間違いだとは言えない。
今回は話をややこしくしないために、ヤハウェという言葉を用いず「主」で通すこととする。
詩人は「主はわたしの牧者」と宣言する。意味は「神はわたしの牧者」と変わらないが、詩人はあえて「神はわたしの牧者」ではなく「主はわたしの牧者」と宣言する。「神」という言葉が出てくると、すぐに人びとは「神の存在について」、「神の定義づけについて」議論を始める。しかし詩人はここで「主」という言葉を用いることによって、それらのすべての議論を封じ込める。私にとって神とは主である。私にとって主と呼ばれる神以外に神を知らない。神を主と呼ぶことによって、神についてのすべての議論を「わたしの牧者」という述語が吸収してしまう。この「わたしの」とは「この私」である。私が産まれたときか今日までのすべてを導いた方、もっとはっきり言うと、この方が在って、私がある。私という存在のすべてがこの方に依存している。それが主であり、私の牧者である。
さて詩23はこの堂々たる宣言で始まる。というより、これがすべてである。それは詩23を超えて私の生がすべてここに凝縮されている。それが「わたしは乏しいことがない」という言葉によって語られている。主がわたしの牧者である限り、私には欠けているもの、なくてならないのにないものは何もない。必要なものはすべて備えられている。この言葉が「豊かである」ではないところが重要である。「あり余っている」のではない。「乏しくない」のである。

4.「緑の牧場に伏させ」
2節と3節は、「乏しくない」ということを具体的に述べている。細かい説明は不要であろう。「神はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴なわれる。神はわたしの魂を生き返らせて、御名のゆえにわたしを正しい道に導かれる」。羊にとって緑の牧場とは豊かな食物であると同時に身体を休ませる場所でもある。羊たちは草で満腹し、草の上に伏す。動詞「伏させ」は未完了・使役・能動態で、それが毎日のことであることを示している。この部分での主語はすべて「神」である。厳密に訳すとここで用いられている「神」は原文では「主」である。主が私のためにしてくださることであり、主と私との基本的な関係がここにある。「憩いの水辺」も「緑の牧場」も生きるための基本的な条件を満たす場所である。その場所に私たちを伴われるのは主である。ここで用いられている「伴われる」という言葉は、まるで主とのデイトを思わせる。主に伴われて憩いの水辺でデイトをする。その意味では、そこは「魂が生き返る場所となる。信仰的には神との交わりの場所でもある。「御名のゆえにわたしを正しい道に導かれる」という言葉は、羊と羊飼いとの枠を超えている。思わず比喩的表現を超えてしまったのであろう。

5.「死の陰の谷」
4節の「たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない」という言葉は、ここまでの穏やかな、牧歌的な雰囲気を打ち破る。人生には山もあれば谷もある。緑の牧場もあれば死の陰の谷もある。陽の差す日々もあれば、涙する夜もある。憩いの水辺もあれば、戦いの戦場もある。ここで詩人は、「たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない」と言い、その理由として「あなたがわたしと共におられる」と言う。
通常ヘブライ語では「ともにおられる」という単語は「イム」が使われる。ところが、ここでは「インマード」という単語が用いられている。この「インマード」という単語は詩篇では4回(23:4、50:11、55:18、101:6) しか使われていない。この「インマード」の後に神という単語「エル」が付加されると「インマヌエル(神共にいます)」(イザヤ7:14、マタイ1:23)という言葉になる。
この「あなたがわたしと共におられる」のは死の陰の谷だけではなく、緑の牧場でもそうであったし、憩いの水辺でもそうであった。その意味では、この言葉は「主はわたしの牧者」という言葉の言い換えでもあるし、発展でもある。

6.「あなたとわたし」
実はこの詩は、この言葉(4節後半)を回転軸としてぐるっと廻る。ここまでは羊飼いと羊との関係で描かれてきた。ところがここからは「羊飼い」から「あなた」に変わる。「あなたがわたしと共におられ、あなたの鞭と杖はわたしを導く」。つまり詩人は主を「あなた」と呼ぶ。そこではもはや私は「羊」ではない。「わたし」である。つまり、主と私との関係が「あなた」と「わたし」という関係に転換する。この転換がこの詩を一段深いものにする。ここから詩23はのどかな牧歌的な詩から人生の苦悩における私と主との関係の詩に変わる。もう少し細かくいうと、4節は3節までの締め括りであると同時に、5節以下の出発点でもある。4節後半の「鞭と杖」は羊飼いにとって、羊を外敵から守り、羊の群れを導く必需品であると同時に、5節以下の「敵」に対する「力」を意味する。
「あなたの鞭と杖」がわたしの慰めとなる。羊飼いが「鞭」と「杖」の2種類の装備を持っているように思われるが、実は羊飼いの持っている「杖」は外敵に対する武器の役割をすると同時に羊の群れを導く杖でもある。つまり羊飼いの権力と権威の象徴である。それはもはや羊飼いの武器ではなく、「あなた」のものである。あなたが共にいるということの安心感の象徴である。

7.「敵の見ている前で」
この詩の本当のメッセージは4節までの羊飼いと羊との牧歌的な情景描写ではなく、5節以下の詩人のかかえている「敵」との関係である。ここでは詩人の「敵」についての描写は全くない。しかし詩人の問題は「敵の存在」であった。この「敵」が何を意味し、誰を意味するかについては何もわからない。しかし「敵」がいたことだけは明白である。詩人は常に「敵」に脅かされていた。それは4節では「死の陰の谷」という言葉で表現されていたのであろう。「敵」はストーカーのように詩人につきまとう。詩人は表面的にはどんなに楽しそうに生きていたとしても、心の奥底では常に「敵」に脅かされていた。
しかし今、詩人はその「敵」をも恐れない。なぜなら主が共に居られるからである。しかもその主は力強い。頼りになる。主と共にいるということは「わたしのために食卓を整え」てくださるようなものである。「敵」の前での宴会。しかも、それは主が主催する宴会である。これは単なる食事会ではない。主が客をもてなす「宴」であり、それは主人が他の者、全世界、とくに「敵」に対して、主と客との親密な関係を宣言する行為である。主が私を友と認め、私の敵は主にとっても敵であるという宣言である。これではさすがの「敵」も手が出せない。
ここでは次の言葉が楽しい。「わたしの頭に油を注ぎ、わたしの杯を満たされる」。「頭に油を注ぐ」なんて言われると何か気持ちが悪く思うが、その油が香油だったらどうだろうか。イエスがベタニヤのマルタ、マリアの家に招かれたとき、マリアは「純粋で非常に高価なナルドの香油」をイエスの足に塗ったといわれている(ヨハネ12:3)。別の資料によると、その際「イエスの頭に注いだ」(マルコ14:3)ともいわれている。この個所を読むと、私はプロ野球で優勝が決定したときの祝勝会を思い浮かべる。この時の油とはビールだったのではないか。お酒だったかも知れない。ともかくこの場面はお酒を浴びるように飲み、ビールを頭から掛け合うようなどんちゃん騒ぎの描写である。それを今まで私を苦しめてきた連中の前でするというのである。そこは完全にセイフティゾーンになっている。全く無防備なパーティー。主と共にいるという状況とはそういう状況だという。
6節の言葉は次の機会に取り上げる。

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