落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降臨後第2主日説教 パウロの祈り

2008-12-30 08:16:28 | 説教
2009年 降臨後第2主日 2009.1.4
牧会者パウロの祈り エフェソ1:3~6、15~19

1. 使徒パウロの祈り
1年の初めの主日ということで、パウロがエフェソの信徒のためにどういう祈りをしたのか、ということについてともに学びたい。それは、今日でも牧会者が信徒のために祈る祈りの原型だからである。その祈りが、本日の使徒書の後半にある。
まず、パウロはエフェソの信徒のことを思い出すごとに感謝している、と言う。牧師がそこの信徒のことを思い出す度にまず「感謝」の気持ちが出てくるということは、牧師にとっても信徒にとってもすばらしいことである。思い出す度に「いやな思い」がするとしたら、本当にいやなものです。信徒は牧師が居なくても信徒であるが、牧師は信徒が居なくては無用な存在である。羊のいない羊飼いのようなものである。しかし、牧師が信徒に対して抱く感謝の気持ちというものは、もっと深いものがある。牧師は信徒によって生活が支えられているだけではなく、信徒たちによって信仰的にも人格的にも成長する。
2. 「心の目を開いてくださるように」
さて、その上で、パウロは信徒たちが「神を深く知ることができるように」、「将来与えられる神の約束がどれほど豊かなものか悟らせてくださるように」、最後に「キリスト者のために働く神の力がどれほど大きいものなのか、悟らせてくださるように」と祈る。要するに、ここで強調されている祈りの中心は「深く知る」「心の目を開く」「悟る」ということである。これら三つの点はただ単に祈るというだけではなく、それこそが牧会という仕事の中心である。
わたしたちの祈りは、しばしば「今持っていない何かを与えてください」という祈りになる。しかし、それは本当の祈りではない。本当はわたしたちにはすでにわたしたちが願う以上のものを与えられている。ただ、それに気付いていないだけである。だから、パウロの祈りは「与えてください」という祈りではなく、「心の目を開いてください」というところにある。
3. 心の目を開かれる体験
実は、パウロ自身がキリスト者になったときの経験は、心の目が開かれる経験であった。キリスト教へ回心する以前のパウロは熱心な律法主義者であった。彼は、律法こそが神から恵みを得る唯一の道であると確信していた。
ところが、熱心な律法主義者であるパウロにとって、許せない人物が登場した。歳の頃はパウロと同世代である。それがイエスであった。イエスは、神の恵みは空を飛ぶ小鳥たちにも、野に咲く一本の百合の花にも、注がれているのだ。わたしたちは「幼な子のように」ただ、神を見上げて「アッバ父よ」と叫べばそれが信仰なのだと人々に教えている。当時のパウロにとって、こういう教えは「人間をダメにする」ものであり、イエスの教えはユダヤ教の伝統を堕落させる邪教であると確信していた。従ってイエスが十字架刑により処刑されたことは喜ばしいことだと確信したものと思われる。ところが、イエスの死後、イエスの弟子たちの集団が活発に活動を始め、イエスの教えを広め始めた。このことはパウロにとって許せないことであった。それで、イエスの弟子たちを迫害するために生涯を捧げようと思ったらしい。使徒言行録9:1によると、パウロはそのために、大祭司からキリスト者殺害のライセンスまでもらっている。いわば、公認のテロリストである。
「殺しのライセンス」を手にして、キリスト教の拠点と見られたダマスコに向かって出発する。その途中、突然強い光りが照り、目が見えなり、地面に倒れる。その時、パウロはイエスの「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9:4)というイエスの言葉を聞いたという。サウロという名前はキリスト教に改心する前のパウロの名前である。ともかく、旅を続け、ダマスコの町に入って、静養する。パウロは3日間、目が見えなかったという。この間に彼の心の中で何が起こったのか、誰も知ることはできない。
その時、彼の前に一人の人がやって来た。その人こそ、この地方でのキリスト教の指導者の一人アナニヤであった。キリスト者がパウロの前に来るということは、自殺行為である。アナニヤはパウロに神の命令に従ってやって来たと言い、「神はあなたを必要としておられる」と言って、パウロのために祈り始めたのである。おそらく、アナニヤは「アッバ父よ」という言葉で祈り始めたのであろう。それがキリスト教的な祈りのパターンであった。その祈りの言葉を聞いたその瞬間、パウロの目から「うろこのようなもの」が落ちた。その時、パウロが悟ったことは、キリスト教信仰の核心は「幼子が父親を信頼しているように神を信じること」であったのであろう。律法主義においては人間側の努力によって神に近づくのであるが、福音においては神からの近づきを受け入れることにある。これはまさに180度の転換である。神の恵みは「自分の努力によって獲得する」ものではなく、「(子どもが親から)受けるもの」である。パウロは言う。
「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(18~19)。

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