2008年 大斎節第2主日 2008.2.17
ニコデモとの対話 ヨハネ3:1-17
1. 「その生まれつかぬもの」
文語の祈祷書では、聖洗式の中に、洗礼について次のような勧告の文章がある。「愛する兄弟よ、我らの救い主キリストの教えたまいしごとく、人は水と霊とによりて新たに生まれざれば神の国に入ることあたわず。ゆえに、なんじら父なる神に祈り、この人々をあわれみ、その生まれつかぬものを与え、水と聖霊との洗礼を授け、キリストの聖公会に入れ、その生きたる肢となしたまわんことを、ひたすら願うべし」(p.402)。その中で、洗礼の意味を述べている部分に、「その生まれつかぬものを与え」という言葉がある。人間は本性として、あるいは生まれながらのままでは決して持っていない、しかも非常に重要なもの、それが洗礼によって与えられる、という主張がある。キリスト教の伝統的な根本主張の一つは、人間は「生まれつきのままでは天国に入れない」ということである。この言葉が現行の祈祷書ではこうなっている。
「愛する兄弟よ、主イエス・キリストは、だれでも水と霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることができない、と教えられました。今、主の導きによって洗礼を受けるためにここに来た、兄弟のために、ともに祈りましょう」。なんと浅薄な勧告であろうか。これでは洗礼式は単なる入信の儀式に過ぎなくなってしまう。「その生まれつかぬものを与え」という言葉が完全に消されている。これは単に式文の問題ではなく、聖公会における現実がそうなっているということにほかならない。
2. 「再び生まれる」「新たに生まれる」
キリスト者になるということは、単に組織としてのキリスト教会に加入することではない。「新たに生まれる」という個人的な経験を通してキリスト者になり、その経験を経たキリスト者が教会を構成する。順序を間違えてはならない。この経験を儀式化したものが「洗礼式」である。ただ、教会史の初期の段階から、教父母の代理誓約という条件により、幼児洗礼という制度を定めてきた。この場合、明らかに「新たに生まれる」という経験は軽視され、誓約という要件が重視されたことは否めない。そもあれ、ニコデモとの対話においては、「神の国を見る」ためには「新たに生まれる」ということが必要条件とされる。古い洗礼式文においては、この「新たに生まれる」という経験の内容として、生まれつきのままでは持っていない「何か」が与えられるとする。逆の言い方をすると、すべての人間が生まれながらの本性としては持っていない重要なもの、それが洗礼によって与えられる。そこで初めて「新たに生まれる」ということが成り立つ。
3. ニコデモ物語
この物語においてニコデモは、イエスに対しても充分な尊敬と礼儀とをわきまえていた賢い人物としてイエスを訪れている。二人が向かい合っている映像を想像すれば、ニコデモの方がイエスよりもはるかに賢そうに見えたに違いない。ニコデモがイエスのところを訪れた目的は、おそらく「神の国」についての議論であっただろう。「神の国についての議論」というのは、ユダヤ人社会ではいわば伝統的なテーマで、ニコデモ自身もこのことについては彼なりの理解があり、今さら「どこの馬の骨」か分からない人物に質問するようなことでもない。むしろ、ここでは若い、しかも将来性のあるイエスに会い、できればイエスに指導を与えようと思っていたのかもしれない。しかし、決して対決しようとか、批判しようとしたようには思われない。
ところが、イエスの態度はニコデモに対して初めから対立的で、「人は新たに生まれなければ神の国のことは分からない」と断定する。ここで議論は「新たに生まれる」とはどういうことなのか、という点に移るのであるが、このテーマはニコデモには理解できない。つまり、このテーマはユダヤ人社会には存在していなかったと思われる。それはいわば当然のことで、ユダヤ人たちにしてみれば、ユダヤ人であること、ユダヤ人の家庭に生まれたということが「神の民」ということであって、「新たに生まれる」必要は全くない。
ここで議論の中心は「神の国」とは何かということに移る。ユダヤ人であれば無条件で「入る」あるいは「見る」ことができる「神の国」と、ユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ、人が誰でも新たに生まれなければ、「入る」または「見る」ことができない「神の国」とは、同じ「神の国」と言っても、その意味することは全く異なる。このズレが対話の中心である。
4. 何が見えていないのか。
イエスはニコデモに対して、ニコデモに見えていない「神の国」について、風の例をとって説明する。風が吹いていることは判る。しかし、その風が「どこからどこえ」吹くのか判っていない、という。要するに、目に見える現象とその現象の背後にあり、その現象そのものを動かしている力、意志との関係である。ニコデモは現象面についてはよく理解している。そして、その現象から類推して、その背後で神が働いていることも認識している。しかし、それは類推に基づく判断であって、経験している事実ではない。ここにニコデモの弱さがある。たとえば、イエスについて、イエスの働きや生き方を見て、尊敬し、「神が共におられるのでなければ」そうなならないであろう、と推測している。それがニコデモの限界である。しかし、それはあくまでも類推であり、理性的な判断であって、実際に自分が生きていく上での力になっていない。
5. ニコデモは「神の国を見ていない」
「神の国を見る」ということは、自分自身が神の国の中で生きているということにほかならない。それは、イエスと共に生きるということ、イエスに従って生きるということにほかならない。
名前はあげられていないが、これと同じような状況の中でイエスが語られた言葉がある。ある青年が神の国に入るのにはどうしたらよいのですか、と質問にやってきた。その時のイエスの答えは「その問題については伝統的な答えがあるではないか」。それに対して、青年は「そういうことは全部やってきた。しかし、神の国が見えない」。その答えを聞いて、イエスは彼を慈しんで、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。
要するに、イエスに従って生きるという事実そのものが実現しているところに神の国が実現しているのである。イエスに神の国について質問をしたり、議論をしても決して神の国のことは分からないし、神の国は見えてこない。イエスと共に生きることが重要である。
ニコデモとの対話 ヨハネ3:1-17
1. 「その生まれつかぬもの」
文語の祈祷書では、聖洗式の中に、洗礼について次のような勧告の文章がある。「愛する兄弟よ、我らの救い主キリストの教えたまいしごとく、人は水と霊とによりて新たに生まれざれば神の国に入ることあたわず。ゆえに、なんじら父なる神に祈り、この人々をあわれみ、その生まれつかぬものを与え、水と聖霊との洗礼を授け、キリストの聖公会に入れ、その生きたる肢となしたまわんことを、ひたすら願うべし」(p.402)。その中で、洗礼の意味を述べている部分に、「その生まれつかぬものを与え」という言葉がある。人間は本性として、あるいは生まれながらのままでは決して持っていない、しかも非常に重要なもの、それが洗礼によって与えられる、という主張がある。キリスト教の伝統的な根本主張の一つは、人間は「生まれつきのままでは天国に入れない」ということである。この言葉が現行の祈祷書ではこうなっている。
「愛する兄弟よ、主イエス・キリストは、だれでも水と霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることができない、と教えられました。今、主の導きによって洗礼を受けるためにここに来た、兄弟のために、ともに祈りましょう」。なんと浅薄な勧告であろうか。これでは洗礼式は単なる入信の儀式に過ぎなくなってしまう。「その生まれつかぬものを与え」という言葉が完全に消されている。これは単に式文の問題ではなく、聖公会における現実がそうなっているということにほかならない。
2. 「再び生まれる」「新たに生まれる」
キリスト者になるということは、単に組織としてのキリスト教会に加入することではない。「新たに生まれる」という個人的な経験を通してキリスト者になり、その経験を経たキリスト者が教会を構成する。順序を間違えてはならない。この経験を儀式化したものが「洗礼式」である。ただ、教会史の初期の段階から、教父母の代理誓約という条件により、幼児洗礼という制度を定めてきた。この場合、明らかに「新たに生まれる」という経験は軽視され、誓約という要件が重視されたことは否めない。そもあれ、ニコデモとの対話においては、「神の国を見る」ためには「新たに生まれる」ということが必要条件とされる。古い洗礼式文においては、この「新たに生まれる」という経験の内容として、生まれつきのままでは持っていない「何か」が与えられるとする。逆の言い方をすると、すべての人間が生まれながらの本性としては持っていない重要なもの、それが洗礼によって与えられる。そこで初めて「新たに生まれる」ということが成り立つ。
3. ニコデモ物語
この物語においてニコデモは、イエスに対しても充分な尊敬と礼儀とをわきまえていた賢い人物としてイエスを訪れている。二人が向かい合っている映像を想像すれば、ニコデモの方がイエスよりもはるかに賢そうに見えたに違いない。ニコデモがイエスのところを訪れた目的は、おそらく「神の国」についての議論であっただろう。「神の国についての議論」というのは、ユダヤ人社会ではいわば伝統的なテーマで、ニコデモ自身もこのことについては彼なりの理解があり、今さら「どこの馬の骨」か分からない人物に質問するようなことでもない。むしろ、ここでは若い、しかも将来性のあるイエスに会い、できればイエスに指導を与えようと思っていたのかもしれない。しかし、決して対決しようとか、批判しようとしたようには思われない。
ところが、イエスの態度はニコデモに対して初めから対立的で、「人は新たに生まれなければ神の国のことは分からない」と断定する。ここで議論は「新たに生まれる」とはどういうことなのか、という点に移るのであるが、このテーマはニコデモには理解できない。つまり、このテーマはユダヤ人社会には存在していなかったと思われる。それはいわば当然のことで、ユダヤ人たちにしてみれば、ユダヤ人であること、ユダヤ人の家庭に生まれたということが「神の民」ということであって、「新たに生まれる」必要は全くない。
ここで議論の中心は「神の国」とは何かということに移る。ユダヤ人であれば無条件で「入る」あるいは「見る」ことができる「神の国」と、ユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ、人が誰でも新たに生まれなければ、「入る」または「見る」ことができない「神の国」とは、同じ「神の国」と言っても、その意味することは全く異なる。このズレが対話の中心である。
4. 何が見えていないのか。
イエスはニコデモに対して、ニコデモに見えていない「神の国」について、風の例をとって説明する。風が吹いていることは判る。しかし、その風が「どこからどこえ」吹くのか判っていない、という。要するに、目に見える現象とその現象の背後にあり、その現象そのものを動かしている力、意志との関係である。ニコデモは現象面についてはよく理解している。そして、その現象から類推して、その背後で神が働いていることも認識している。しかし、それは類推に基づく判断であって、経験している事実ではない。ここにニコデモの弱さがある。たとえば、イエスについて、イエスの働きや生き方を見て、尊敬し、「神が共におられるのでなければ」そうなならないであろう、と推測している。それがニコデモの限界である。しかし、それはあくまでも類推であり、理性的な判断であって、実際に自分が生きていく上での力になっていない。
5. ニコデモは「神の国を見ていない」
「神の国を見る」ということは、自分自身が神の国の中で生きているということにほかならない。それは、イエスと共に生きるということ、イエスに従って生きるということにほかならない。
名前はあげられていないが、これと同じような状況の中でイエスが語られた言葉がある。ある青年が神の国に入るのにはどうしたらよいのですか、と質問にやってきた。その時のイエスの答えは「その問題については伝統的な答えがあるではないか」。それに対して、青年は「そういうことは全部やってきた。しかし、神の国が見えない」。その答えを聞いて、イエスは彼を慈しんで、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。
要するに、イエスに従って生きるという事実そのものが実現しているところに神の国が実現しているのである。イエスに神の国について質問をしたり、議論をしても決して神の国のことは分からないし、神の国は見えてこない。イエスと共に生きることが重要である。