落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>仕える

2006-10-19 21:18:59 | 講釈
2006年 聖霊降臨後第20主日(特定24) (2006.10.22)
<講釈>仕える   マルコ10:35-45

1. 先頭に立って
この個所をより深く理解するためには、まずこの場面をしっかりと押さえておかねばならないだろう。本日のテキストの一寸前にこういう言葉が記されている。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(32節)。彼らの旅の目的地エルサレムを間近にして、イエスは「先頭に立って進んで行かれた」。注意を払わなければ、読み過ごしてしまう言葉である。イエスが弟子たちの先頭を歩くということはそれ程珍しいことではなかったであろう。ところが、ここではわざわざそのことが言葉で語られる。十分に注目するに価するであろう。しかも、その時弟子たちは、「それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とある。いつも一緒に行動している弟子たちが、その姿を見て驚いたのである。この場面で、イエスが「先頭に立って歩く」ということが尋常ではないことを示しているのだろう。例によって、マルコはそのことを何も説明をしようとしない。従って、ここからはわたし自身の妄想に近い想像である。
聖書に慣れ親しんでいるユダヤ人たちにとって「主が先頭に立つ」という姿は、大変なことを意味した。だから、彼らは驚いたのである。旧約聖書のミカ書にこういう預言の言葉がある。
「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。打ち破る者が、彼らに先立って上ると、他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」(ミカ2:12-13)。おそらく、いや間違いなく、弟子たちはこの言葉を思い出していたのだろう。そして、この預言者ミカの言葉と今彼らが目の前に見えているイエスの姿とを重ね合わせて、見ていたのだろう。これがその時の場面である。
2. 栄光をお受けになるとき
何か非常に緊迫した雰囲気がイエスの周りにただよい始めた。弟子たちはそれを身をもって感じていた。いよいよ、「その時」が来たのか。弟子たちの間でかなりの動揺が見られる。その中で、「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」は他の弟子たちを出し抜いて、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と申し出てきた。恐らく、他の弟子たちの居ない所でやって来たものと思われる。マタイによる福音書では、本人たちではなく彼らの母親が頼みに来たことになっている。頼みの内容は「あなたが栄光をお受けになるとき、その右と左とに座らせて欲しい」(マタイ20:20-28)ということであった。これを知った他の弟子たちは腹をたてた。
要するに、このエピソードは弟子たちがすべて「その時」とは、イエスが栄光をお受けになる時である、と考えていたことを示している。つまり、イエスがメシアであるという意味は、現状を打破し、権力者を転覆させ、「王になる」ことであった。これが彼らの期待であった。それに対して、イエスは「あなた方は自分が何を願っているか、分かっていない」と述べられる。そこまで言われても、彼らはなお「できます」と言う。本当に分からないということはこういうことである。分かっていないことが分かっていない。しかし、分からなくても、分からないままで、彼らはイエスの弟子である。イエスを棄てて、弟子であることをやめない限り、彼らはイエスと共に苦難の道を進み、最後には彼らが想像もしていなかった、栄光をイエスと共に受けることとなる。
3. 一同を呼び寄せて
ここで、イエスは座り直して弟子たちに重要なことを語り始める。その情景を福音書はこう表現している。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた」(42節)。この「一同を呼び寄せて」という言葉にはその時の弟子たちの気まずい情景が美事に描かれている。彼らは同じ場所にいながら、心はバラバラで、それぞれが自分のことだけを考えている。以前にも同じような場面があった。その時も、イエスの方から「何を議論していたのか」(9:33)と声をかけておられる。イエスは一人ひとりの顔を見回しながら、大変なことを語り始めた。
ここでイエスが語ろうとしている話の内容から考えると、この「あなたがたも知っているように」(42節)という出だしの言葉は注目すべきである。イエスはここで誰でも知っていること、常識的なことを語ろうとしているのではない。むしろ、誰も考えもしないこと、非常識なことを語ろうとしてる。しかし、出だしは、誰でも知っていることから話し始める。弟子たちはイエスが何を話し始めるのか、ドキドキしながら耳を傾けていたに違いない。自分たちのことだろうか。今、彼ら自身が言い争っていてことが気になる。
ところが、イエスは「異邦人の間」でのことであるが、と言う。自分たちのことではなかった、ということでホッとしたのかも知れない。「支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」とイエスは言う。それこそ、それは誰でも知っている事実である。ローマの皇帝カエザルは絶大な武力によってすべての民族を支配し、世界を支配している。カエザルが正しいと言えば、それは正義であり、カエザルが「ならず者国家」と言えば、それはならず者国家である。
しかし、改めてそう言われると、それは「異邦人の間」だけのことなのか。ユダヤ人社会だって同じことではないか。ユダヤ人社会においても「偉い人たち」が民衆を支配し、民衆を奴隷のように扱っている。「偉い人」とはそういう人たちのことである。支配される者より、支配する者の方が偉い。だからこそ、すべての人たちが偉くなりたいと願っている。チャンスさえあれば、少しぐらい悪いことをしてでも偉くなりたい。それが民衆の願いである。イエスの弟子たちは確かに支配者になったことがなく、常に支配される側に立っている。だから、イエスのこの話は自分たちのことではない。世間一般の話しである、と思っていたかも知れない。おそらく、ここでかなり長い沈黙があったものと思われる。
4. しかし、あなたがたの間では
十分間をおいて、イエスは弟子たちの一人ひとりの顔を真っ直ぐに見ながら、「しかし、あなたがたの間では、そうではない」(43節)と言う。口語訳聖書では「そうであってはならない」と訳されている。文法的には「そうではない」の方が正しいが、これは文法的な正しさが問題なのではない。むしろ、問題は「そうではない」と言えないような状況に対して、「そうではない」と語ることは「そうあってはならない」といういうことを意味している。ここには強烈なアイロニーがある。
ローマを始めユダヤ人社会を含め世間一般では、「偉くなり、他の人たちを支配すること」が人生の目的になっている。ほとんどすべての親たちが子どもが偉くなることを期待している。そのこと自体は決して悪いことではない。子どもも親の期待をバネにして日々勉学に励む。それが人間の向上心のエネルギーである。努力の結果、得られた実力によって、それなりの社会的地位につくことは決して批判されることではない。むしろ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがしたように卑怯な手段によって他人を出し抜いたり、不正なコネを利用して社会的地位を獲得し、自己の利益のために他人を利用することが問題である。
しかし、ここの文脈においては、「あなたがたの間ではそうあってはならない」という言葉は、「偉くなり、他の人を支配すること」そのものが否定されている。もっと厳密に言うと「偉くなること」が否定されているのではなく、「他の人を支配すること」が否定されている。もっとも、ここでいう「支配する」という言葉の厳密な意味はホテルの支配人というようなマネージメントを意味するのではなく、他人に対して支配者になること、言い換えると他の人を「奴隷にすること」を意味している。「奴隷」という言葉が大げさすぎるとしたら、「他人を自分のために利用する」と言えば、納得するであろうか。「他人を自分のために利用する」という人間関係がこの世においては一般的である。しかし、あなたがたの間、つまり教会においてはそうあってはならない。教会においては、お互いに仕え合う関係でなければならない。
5. 仕えられるためではなく仕えるため
イエスは、わたしは「仕えられるためではなく仕えるために来たのである」(45節)と言う。つまり、これがイエスの人生の目的である。そのために生まれてきた。ここで用いられている「仕える」という言葉は「奴隷になる」という意味である。要するに、イエスはこの世のほとんどすべての人たちは「偉い人になって、多くの人々を支配する」ということが人生の目的になっている、という事実を確認している。言い換えると、この世においては、他人を自分のために利用する、働かせる、奴隷にすることが人生の目的になっている。それに対して、わたしは人々に仕えること、他の人々のために働くこと、奴隷になることが人生の目的だと言う。そして、その生き方の極みが十字架の死であった。
イエスの人生は大失敗であったのではないのか。奴隷になることを目標とする人生が魅力的なはずがない。ところが、ここからが本当に不思議なことである。このイエスの生き方に従う者がイエス以後絶えない。むしろ、この生き方こそが人間としての最も崇高な生き方として、それに従う者が後を絶たない。少なくとも、その生き方を自分自身は実現できなくても、その生き方こそ最も賞賛されるべき生き方だと多くの人々は信じている。それが、イエスが「あなたがたの間ではそうではない」という意味である。あなたは、「仕えられるために」生きるのか、それともイエスと共に「仕えるために」生きるのか、それが問題である。
わたしの卒業した関西学院大学のモットーは「マスタリー フォー サービス」であった。入学したときから、卒業するまで、いろいろな場面で、この言葉が繰り返された。「奉仕のための錬達」という意味で、これが建学の精神であった。これこそがキリスト教精神の真髄である。

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