落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 自由 1コリント6:11b-20

2009-01-12 14:04:42 | 講釈
2009年 顕現後第2主日 2009.1.18
<講釈> 自由 1コリント6:11b-20

1. いわゆる顕現節の使徒書
面白いことに、いわゆる「顕現節」の使徒書は全部(顕現後第2主日から第8主日まで)3年周期ともコリント書から読まれる。基本的には、その主日のインテンションを直接的に示しているのが福音書であり、旧約聖書は福音書との関連から選ばれ、使徒書はそれらとは関係なく、準継続平行朗読により選ばれている(森紀旦『主日の御言葉』79頁)。なぜ、コリント書からなのかということについては考える価値がある。おそらく、コリント書がキリスト者の教会生活について最も具体的に論じられているからであろう。無理にいわゆる「顕現節」のインテンションに結びつける必要はないにせよ、キリスト者の教会生活こそがキリストのこの世への顕現の具体相を示している。
2. コリントの手紙1について
新共同訳聖書の付録「聖書について」では、この手紙について次のように紹介されている。
「『コリントの信徒への手紙』はパウロが1年半滞在して創設したコリントの教会にあてられている。その中の『第1の手紙』は、彼の出発後分裂した共同体を一致させ、提起された問題に答えている。よく知られている『愛の賛歌』は13章に見られる。『第2の手紙』は、パウロの不在中に反対者が現れたコリントの教会の危機時代をかいま見せ、パウロの和解の熱意と和解に続く大きな喜びが知られる。パウロは本書でエルサレムの教会への献金を勧めているが、後半の数章(10~12)はパウロの心を示す自伝的なものである」。
要するに、コリントの信徒への手紙とは、教会生活をめぐる牧師と信徒との関係および、信徒間のトラブルについての指導が述べられている。本日のテキストは、その中でもキリスト者とは何か、キリスト者をキリスト者として示すキャラクターは何かということが述べられている。
3. キリスト者とは
ここにはいろいろな表現が錯綜しており、複雑に見えるが実は一つのこと、「キリスト者とは(心身ともに)神の神殿である」ということしか言っていない。この単純な定義を語るに際して、聖なるものにされたとか、「代価を払って買い取られた」とか、キリスト者という場合「心だけではなく身体も含む」とか、いろいろな言葉が付随している。キリスト者についての以上の定義づけに従って、キリスト者の生き方の基本的なもの、つまり倫理が次のように語られている。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」(6:12)。
ここで、わたしたちは一つの問題に突き当たる。なぜ、キリスト者が「神の神殿」であるということが「自由」という在り方に結びつくのか。神殿とは、この世に存在しつつ、しかもこの世のものではない。この世の様々な関わりから分離された存在、特にこの世を支配する様々な権力から自由な存在、それが神殿である。その意味でキリスト者は「神の神殿」である。それを聖書の言葉でいうならば「聖なるもの」(6:11)という。
4. ルターの『キリスト者の自由』
宗教改革者ルターの代表作に『キリスト者の自由』という著書がある。学生の時、ドイツ語購読で取り上げられた思い出深い本である。この本の第1章にタイトルは「キリスト者とはどういう人か」で、ここには2つの命題が掲げられている。
1.キリスト者は万物を支配する自由な君主であって、誰にも従属しない。
2.キリスト者は万物に奉仕する僕であって、すべての人に従属する。
ルターのこの本はこの2つの命題を論じたもので、今日でもなおすべてのキリスト者にとって有益な書であると思っている。この本の出発点となった聖書のテキストはコリントの信徒への第1手紙9:19の「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」という言葉であるが、本日のテキストもこれに関連する。
5. 自由を巡る現代の問題
キリスト者とは、とりもなおさず「自由である」ということが最も基本的な特徴である。キリスト者はすべてのものから自由である。ところで、この自由であるという価値は現代社会において、特にアメリカや日本では相対的に値打ちがなくなってしまった。なぜなら、すべての人が自由になったからである。何を食べても、どこに住もうと、どこに出かけようと自由である。もし、わたしたちの自由を妨げているものがあるとしたら、それは経済だけで、お金さえあれば「何不自由ない」というのが現在のアメリカや日本の状況であろう。従って、キリスト者が自由であると言っても、何か特別に値打ちがあるわけではない。むしろ、自由をめぐる今日の問題は、いかにその自由を生かすのか、という問題であろう。
6. 自由の制限
パウロはここで「しかし」という言葉を2回繰り返す。この「しかし」が重要である。一見「完全な自由」への制限に見える「しかし」ではあるが、むしろ、この「しかし」は「完全な自由」をより拡大する「しかし」である。
この部分をよく見ると、「わたしには、すべてのことが許されている」の部分が括弧でくくられており、それに対して「しかし」以下はくくられていない。ギリシア語本文では括弧はなく、この言葉を括弧でくくるのは一種の解釈で、田川健三氏はこの点を翻訳者の行き過ぎであるとして批判している(田川『訳と註』276頁)。この文章を括弧でくくむ解釈者の意図は、この言葉はパウロの言葉ではないという主張を含むと考えられる。この言葉がパウロの意図に反するのかどうかということはともかくとして、当時のコリントの教会の中にこれを主張をする人々がいたことはたしかで、ここではパウロは彼らの主張に対して忠告ないしは批判をしているのである。おそらく、この言葉を一種のモットーとしてグループが形成されていたのであろう。しかも、非常に複雑な点は、この主張はもともとパウロから出たもので、いわばコリントの教会の内部における「パウロ主義者」であったと想像される。しかし、すべての思想には行き過ぎというものがあり、この集団もかなり行き過ぎて、一般の信徒たちから顰蹙を買っていたと思われる。従って、この言葉は彼らに向けてのパウロの指導と思われる。弟子は多くの場合、師よりも極端化する。マルクス主義者がマルクス自身よりも極端化しているのと同様である。
ここで繰り返されている2つの「しかし」をさらに詳細に分析すると、初めのほうの「しかし」はよく理解できる。何をしても許されているが、その中には益にならないだけではなく害になるものもある。従って、完全に自由であるが、自由であるからこそ、益になるか害になるかという視点に立って、選択することができる。この場合の「益」についてパウロは10:24で「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい」と教えている。
具体的な例として、パウロは食べ物に関することを取り上げている。これは非常に面白い例である。食べ物に関してはいろいろな文化や宗教によってさまざまな規定があり、「食べていい」とか「食べてならない」など、それぞれに対立している。それに対して、パウロは驚くべきことを言う。「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、なんでも食べなさい」(10:25)。「他人の利益」というのは、キリスト者がそれを食べているのを見て、不快感を持つかどうかということである。簡単に言えば、食べようと食べまいと自由であるが、周りの人々に合わせておけ、ということでしょうか。それだからといって、それを不自由と感じることもないし、慣習への妥協と考えることもない。あるときは食べ、あるときは食べないからといって、一貫性がないとか、いい加減であるというような「自分の良心の問題」にしてはならない。
7. 何事にも支配されない
それに対して、後半のすべてが許されているが、「何事にも支配されない」という言葉は、しっくりしない。自由とは、何事にも支配されないことであるということは、いわば当然のことである。この言葉が、いわばそんなに当然のことを繰り返しているとは思えない。実は、これとほぼ同じ文章が10:23にも繰り返されており、ここでは前半は同じであるが、後半はこうなっている。「すべてのことは許されている」。しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。この場合、「造り上げる」という意味は「人格形成ということで、自由が本当に意味をもつのは「人格形成」ということであることが述べられている。これと比較しても、この部分の「しかし、わたしは何事にも支配されない」という言葉の意味は明白ではない。前後の文脈を読み、パウロが言いたいことを推察すると、結論として、「支配されない」という言葉の意味は「一つの集団、派閥」を意味し、その集団に加わって、行動を共にすることを否定しているように思う。自由であるということの本当の意味は、「自由主義」というような集団を作ることではない。本当に主体的に自分が正しいと信じることをたった一人になっても貫くというのがキリスト者の自由である。

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