落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降臨節第4主日説教 インマヌエル

2004-12-13 07:19:45 | 説教
2004年 降臨節第4主日 (2004.12.19) 
インマヌエル  イザヤ7:10-17
1. 処女降誕について
本日のイザヤの預言はいわゆる「処女降誕」の預言として有名である。ここで言われている「おとめ」(14節)いう表現が処女を意味するのか、そうではないのかということについては、古来よりいろいろな解釈があり、正しい答えはない、というのが最も正しい答えであろう。あの有名なマルチン・ルターは、「処女降誕」を立証するために、この言葉が「結婚している女性」を意味しているという聖書的根拠を発見した者に100グルデンを与えると懸賞金を出したという噂があるほどである。もっとも、この100グルデンという金額がどれほどの値打ちがあるか分からないし、その結果について何の報告もないので、嘘か本当か不明である。ともかく、このイザヤ書7章14節の「おとめ」という言葉については確定したことは何も言えない。
2. イザヤの預言
ここでのイザヤの預言そのものは、神を信じているのか信じていないのか「煮え切らない人間(アハズ王)」に対する神のもどかしさについて語っている。イザヤは言う。「あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」(13節)。そういう「煮え切らない人間」に対して、もうあなたたちの信仰を待ってはおれない。あなたたちが信じ
ようと、信じまいと、つまり人間の信仰には基づかないで、神はあなたたちを救うと決意し、約束された。その約束の「しるし」(14節)がインマヌエルという名前の男の子の誕生である。
神がこのように決意なさったのは、つまりアハズ王を救われたのは、アハズ自身の信仰ではなく、彼がダビデの血を受け継いでいるということに基づいている。この言い方には、何か「血筋」とか「家柄」というものが、重視されているような感じがするし、それは新約聖書では否定されている思想でもある。しかし、ここで重視されている点は、血筋や家柄ではなく「神の約束」である。神は人間側
がどのように「ふらふら」しても、その約束を絶対に守られ、実行される。それが「インマヌエルの預言」である。
3. インマヌエル
ところで、イザヤの「インマヌエル預言」は初代教会において、主イエスについての預言として解釈され、当てはめられた。マリアから生まれる「イエス」こそ「インマヌエル」であるという解釈である。(マタイ 1:18-25)主イエスにとって「インマヌエル」という名前は、いわゆる呼び名ではない。おそらく主イエスのご生涯において、「インマヌエル」と呼ばれたことはないと思われる。むしろ、この名前は主イエスがわたしにとって何であったのかということについてのキリスト者たちの告白である。主イエスはわたしにとって「インマヌエル」であった。
では、インマヌエルとは何か。その説明がマタイによる福音書の1章23節である。「神は我々と共におられる」。主イエスと出会い、主イエスを知り、主イエスを信じたとき、わたしたちは「神は我々と共におられる」ということを体験した。この「共に」という言葉であるが、ギリシャ語の聖書でも、また欧米系のどの翻訳でも、特別な意味合いを込めているとは思えないが、明治時代の日本人キリスト者たちはこの「共に」という言葉に特別な思いを込めたようである。明治時代に翻訳された文語訳聖書では、この「共に」という言葉の漢字に「偕」という字が用いられている。この「偕」という字は「つれだつ」とか、「同伴」という意味で、古語に「偕老同穴」という言葉があり、これは夫婦のちぎりが非常にかたく、永遠に変わらないこと、仲良く年を取り、死んで一緒に葬られるという意味である。「一緒に居るならば、どんなに苦労しても、そこは天国である」というときの「一緒にいる」というのが、このインマヌエルである。神がその様にわたしたちの共におられるということが主イエスにおいて実現した。これがクリスマスである。
いよいよ今週の土曜日、わたしたちはクリスマスを迎える。わたしたちと共にいてくださる神の誕生である。

最新の画像もっと見る