落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 言葉の罠 マタイ 22:15-22

2008-10-13 17:24:12 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第23主日(特定24) 2008.10.19
<講釈> 言葉の罠 マタイ 22:15-22

1. 資料の分析と語義
この事件はマルコ福音書(12:13~17)も、ルカ福音書(20:20~26)にも見られる。イエスの行動を考える場合、かなり重要な事件だと思われたらしい。
資料的にはほとんど問題はない。マタイはマルコの文章をほとんどそのまま引用している。
「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています」(16節)、というファリサイ派の人々の言葉は、あまりにも丁寧すぎて気持ちが悪い。こういう場合は、敬意よりも悪意が感じられる。人間は褒められると、油断し、騙されやすい。
2. 税金問題
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか、否か」という問題は、紀元後6年にローマの支配下に入って以来、ユダヤ人の間で繰り返された議論である。単に、議論だけではなく、この問題が反ローマ運動を呼び起こしてきた。それ以前はローマはヘロデ大王を間に挟み、間接支配をしていたので、露骨な税金問題は起こらなかった。イエスの時代のヘロデ王とはこのヘロデ大王の息子である。ところが、ヘロデ大王の死後、ヘロデ王家の権力は急速に弱まり、ローマが直接支配をするようになった。そのために、イエス誕生の頃、ローマの権限で人口調査がなされたのである(ルカ2:1,2)。ローマが直接支配するようになったので、税金が高くなったという経済問題よりも、ユダヤ人にとって、外国人に税金を払うということそれ自体が耐えられないことであったらしい。従って、皇帝に税金を払うということは、民族問題であると同時に、「律法に適うか、否か」という宗教的問題でもあった。イエスの時代には、そういう議論が始まってもうすでに30年近くたっており、問題そのものはすでに風化(空洞化)していたであろうが、長い期間繰り返し議論をしてきた結果、実際に税金を払うかどうかというよりも、皇帝への税金が民族的信仰の一種の踏み絵のような役割を果たすようになっていたものと思われる。
何時の時代でも、税金制度の問題は複雑で、しょっちゅう変更され、一律に議論することはできないが、当時はローマへの税金の外に「神殿税」といわれる税金や、税金の外にも神殿への献納物もかなり厳しく庶民の生活に課せられていたといわれている。これは推測であるが、おそらくローマへの皇帝税よりも神殿税の方が厳しかったに違いない。そういう状況の中で、ファリサイ派の連中は無造作に、そういう庶民の心情を考えもせずに、皇帝への税金についてだけ取り上げて、その是非をイエスに質問したのである。
3. テキストの主題
本日のテキストを読む場合に、2つのテーマ、あるいは2つの読み方がある。1つは、ここでの会話自体がファリサイ派の人々が仕掛けた「言葉の罠」であり、これを主題としてメッセージを引き出すこともできるし、会話自体のテーマである納税問題を主題として、税金あるいは民衆を支配する権力構造について考えることも可能であるし、むしろそれも重要なテーマである。
しかし、今回は「言葉の罠」ということに視点を据えて考えたい。マタイ自身は、むしろそちらの方に重点を置いていると思われるからである。
4. 言葉というもの
「言葉の罠」について考える前に、まず「言葉」というものについて考えておきたい。言葉というものは人間にとって非常に大切なものであることは今さら改めて言うまでもない。言葉無しでは、思っていることを相手に伝えることも、難しく、まして、協力して何かをすることは出来ない。しかし、言葉というものの大切さは人とのコミュニケーションに限らない。もっと重要なことは、わたしたちが心の中で思っていること、考えていることを明白にするという働きである。
さて、この点から考えると、心の中で考えていることと、外に出してしまった考えとの関係が問題になる。理想的には、これら二つが完全に同じである、ということであろうが、そんなことは殆どありえないことで、もしあるとすればそれは「枕詞付きの正直者」ということでしょう。逆に思っていることと話していることとがあまりにもかけ離れていると、いつかどっちが本当か自分でも判らなくなって、辻褄を合わせるために嘘を付くようになってしまう。そうなると誰からも信用されなくなって、社会生活が破綻してしまう。
しかし、何でも思っていることを口に出してそのまま話してもいいのだろうか。「馬鹿でもいい、正直な方が」ということも一つの真実であろうが、それが他人を傷つけたり共同生活を破壊してしまったら大変である。お互いに、ヤコブ書第3章の言葉を心に留めなければならない。
「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままにうごかすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、ごく小さい舵で、意のままにあやつります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです」(ヤコブ3:2-5)。要するに、言葉は思っている以上に危険なものである。
5. 言葉の罠
さて、本日の福音書の物語は、パリサイ人たちがヘロデ派の人たちと共に、イエスを陥れるために「言葉の罠」を仕掛けたことが報告されている。彼らが共同戦線を張るということ自体が尋常ではない。彼らは常に意見を異にし、対立する関係にあった。特に税金問題では、正反対の立場をとっている。その彼らが共通の「敵」であるイエスに質問した。誰かに「質問」するということは、要するにその人がまだ外に出していない、その人の心の中にある考えや思想を表に引き出すということである。誰でも経験しているように、まだ外に出ていない考えというものは「形に定まっていない」、柔軟な、いわゆるもやもやとした「不定型」の思想である。ところが、それが言葉で発言されると、一つの立場として明確になり、他人にも自分にも大きな影響を与える。従って、質問をするということは、教育的な働きでもあり、思想の誕生を助ける「産婆」のような役割でもある。もし、非常によい質問をされると、その質問は今まで気が付かなかったわたしの中にある考えを産みだし、わたし自身を成長させる。
しかし、場合によっては、質問がわたし自身の心の中の思ってもいない、むしろ克服しようと願っている思いに形を与え、不用意に外に出し、わたしの考えとして定着させてしまい、わたし自身がそれに縛られてしまうこともある。特に、社会的な問題、政治的な問題には、それ相当に準備と調査を必要とするのに、不用意に口に出してしまうと、取り返しがつかなくなる。
本日の、イエスに対する質問は、そういう種類の「言葉の罠」である。質問に対する答が、イエスのこれからの行動を縛り、またイエスが何をしようとも、今日の答によって「レッテル」が張られる、そういう種類の質問である。
6. イエスの立場
「税金を皇帝に収めるのはよいか、悪いか」。まさに、それがパリサイ派とヘロデ派の論争の的であった。どちらかの答を出すことがどちらかの立場に立ち、支援することになる。しかも、その答自体が独り歩きをはじめ、イエスの立場とか、考えをふっとばして、イエス自身を政争に巻こんでしまう。この質問には、そういう罠が仕掛けられている。
人々は、かたずをのんでイエスの反応を見ている。イエスは、静かに、「税金に収めるべき金を見せよ」と言う。彼らが日常的に使っている通貨には皇帝の像が刻まれていた。ところが、まさか皇帝の像が刻まれている金を神殿に献げるわけにはいかない。これが、ユダヤ人たちの民族意識であった。
7. イエスの言葉
「皇帝のものです」という答えを受けて、イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言う。ここで、マタイは元々のマルコの言葉に重大な変更を加えている。そのため、イエスの言葉のニュアンスがゆがめられてしまっている。まず第1に、マルコ福音書では、この「では」という接続詞はない。次に、マルコでは、「皇帝のもの」という言葉が、「返せ」という命令形の動詞の前に置かれ、「皇帝に」という間接目的語が動詞の後ろに置かれている。問題はこの「皇帝のもの」という言葉の解釈である。語感としては、この「皇帝のもの」という言葉は、その直前のファリサイ派の人々の「皇帝のもの」という答えの反復である。そして、「皇帝に返せ」という命令文が続く。つまり、ここには「では」という接続詞はない。「皇帝のもの」という反復の言葉と「皇帝に返せ」という言葉の間には、何もない。非常にぶっきらぼうな答えで、「皇帝のもの、皇帝に返せ」となる。そこで、文章に非常に厳密さを要求するマタイは、マルコの文章を稚拙だと考えたのか、教師のように、文法的に整えて、「皇帝のもの」という言葉を「返せ」という動詞の直接目的語として、「返せ」という命令形の後ろに置き、その間に「それなら」という接続詞を挿入した。そのようにして修正された言葉が「それでは、皇帝のものを皇帝に返せ」という非常に整った言葉になった。しかし、同時にイエスの感情は消えてしまい、単に「皇帝のものは皇帝に」、「神のものは神に」という二つの言葉が平行関係になり、皇帝による政治的経済的支配と神殿による宗教的倫理的支配という二重構造を肯定する論理となる。それでは、イエスの言葉はただ単なる現状肯定であり、「驚き」に値しない。
イエスのこの文章を、繰り返し読むと、「皇帝のものは皇帝に返せ」という文章は税金問題としてはおかしいことに気付く。税金は「返済ではない」。収入の一部を社会に還元するというのが税金の本質である。それに対して、献金とか神殿税においては「神のものは神に返す」というのが本質である。「すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主に献げたのです」(歴代上29:14)。これは聖餐式の時唱える奉献の言葉である。だとすると、皇帝への税金にこの言葉を当てはめることはできない。ファリサイ派の人々が神殿税について口癖のように唱えていた論理を、あえて皇帝への税金について語るということは、ファリサイ派への強烈な皮肉となる。
この言葉を聞いて、ファリサイ派の人々は「驚き」退散した、と言う。これはもはや「驚く」という程度のことではない。完全な敗北である。
8. 言葉の罠にはまらない方法
言葉の罠とは、言葉と現実との乖離に根拠を持つ。ファリサイ派にせよヘロデ派にせよ、納税問題を現実から離れたところで論じている。ファリサイ派はローマの支配という現実、皇帝の像が刻まれている貨幣が象徴する現実を無視して、あるいは観念的に対立して、納税問題だけを取り出して議論をする。税金問題でもっとも重要なことは政治的イデオロギーではなく、一般庶民の生活感覚である。彼らの生活は皇帝と神殿との二重支配のもとであえぎ苦しんであり。イエスはその現実から言葉を発している。言葉の罠にはまらない方法は1つしかない。それは現実をしっかり見るということである。
イエスの答えの本当の意味は「皇帝の支配を認めるとか否定する」ということでもなく、またそれに代わるものとして「ユダヤの支配」を神の支配として受け入れるということでもない。むしろ、彼らが現実生活において使っている通貨をしっかり見ることによって、現実の支配構造を自覚させることにある。イエスは、民衆に対して反ローマ運動を示唆するわけでもなく、また現実を肯定するわけでもない。むしろ、現実をしっかり見ること、そこから後は一人一人の主体的な判断に任せる。その意味では、言葉の罠を掛けようとしている連中が、心にもなく、「おべんちゃら」として言っていること、「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれもはばからない」、「人を分け隔てしない」と言っていることが、実はイエスの生き方そのものである、ということをマタイは言いたいのである。

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