落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

(講釈>新しい教え

2006-01-26 08:32:25 | 講釈
いろいろ考えた末、説教とは別に<講釈>をアップすることにいたしました。これは、聖書のテキストと説教者自身との格闘の記録です。<講釈>という言葉は恩師松村が好んで用いました。むしろ「聖書研究」に近い意味です。

<講釈>新しい教え   マルコ1:21-28

1 権威ある者
イエスは「弟子たちと共に」カファルナウムの会堂で活動を始められた。初めの頃の主イエスの活動の場所は主イエスの故郷カファルナウムのユダヤ教の諸会堂であった。そして、人々はイエスの語ることに驚いた。先ず、人々はイエスの語り方に驚いた。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と説明されている。この記述が主イエスの、いわば初舞台である。マルコは、いわば主イエスの初舞台において「権威ある者」として登場させている。では、その「権威ある者」とはいったいどういう点なのか。
当時の律法学者の話し方というのは、要するにこういう形であった。「ラビAはこの事について、こうこうこうこうと言った、とラビBは言っている」。このラビAとかラビBは出来るだけ古く、また引用は出来るだけ多いい方がよい。これが典型的な伝統依存の権威主義というものである。律法学者の権威とはこういうものである。主イエスの語り方はその様な「いわゆる権威主義的」な語り方ではなかった。しかし、まず人々が驚いたのは主イエスの語り方であったという。その語り方が「権威ある者のようであった」という。いったいどういう語り方を主イエスはしたのだろうか。なぜだろう。しかし、マルコはそのことについて直接的な説明はない。
2 汚れた霊に取り憑かれた人の癒し
しかし、説明の代わりに一つの事件を報告している。主イエスのもとに「汚れた霊に取り憑かれた男」が現れ、主イエスに対して暴言を吐く。主イエスは彼に取り憑いている「汚れた霊」に対して「黙れ、この人から出て行け」と命じられると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った(マルコ2:23-26)。この出来事自体についての解釈は別の機会にするとして、ここではこの出来事について、その現場にいた人々の反応に注意したい。「人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」(同27節)。本日は、人々のこの反応に注意したい。マルコは人々の驚きを「これは権威ある新しい教えだ」と言ったという。この言葉は面白い。病気を癒すのは、主イエスの行為である。教えではない。ところが、人々は、というよりマルコは「権威ある新しい教えだ」と言う。この事件に対する「驚き」と主イエスの話しにちする驚きとが「権威」という言葉で結ばれている。言い換えると、マルコにおいては主イエスの権威を語る際に「言葉」と「行為」とを区別していない。もう少し、突っ込んで言うと、病人を癒すという行為は、言葉によってなされる。
3 「権威」の定義
広辞苑は権威について次のように定義している。服従者を内面的に信服させる力をもつ社会的影響力や制度,人格。社会のどの分野にもみられる社会的権威,政治権力と結びついた政治的権威,産業社会化の進展で社会的権威から出てきた専門的権威などに区分される。通常は物理的強制による抑圧ではなく,命令の正しさ(正当性)を服従者に納得させる時に生じるとされる。現実的強制力をもって服従を獲得する権力の概念と重複する場合も多い。
この定義における中心点は「内面的に信服させる力」ということである。それは「現実的強制力によって服従」させる「権力」と対比されている。マルコの表現によると、「律法学者のように」ということと「権威ある者のように」との対比であろう。
例文をあげると、「AはBである」という発言に対して、ほとんどの人が「その通りだ」と納得するときに、その発言者は権威者である。特に、その場合、この「AはBである」という発言を聞くまでは、ほとんど多くの人がそうは言っていないという状況を想定する必要があるだろう。だから、「AはBである」という発言は勇気ある発言であり、特に「権威者」という尊敬の意味が加わる。そのよき例が「裸の王様」の物語における「子どもの発言」である。
英語の「authority」という言葉は、ラテン語で「生み出すこと」「支配力」を意味する言葉から出ている。この言葉は「authorship」というように派生すると、「著作者であること」「出所・根拠」という意味になる。わたしなりにこの言葉の意味をまとめると、権威とは他に出所・根源をもたない、という意味である。つまり、それ自身が他からの支えがなくても立っていること、「ありてあるもの」、人間のレベルで言うなら、「主体的であること」という意味にほかならない。
事実を事実としてハッキリというということは大変なことである。それはいわゆる「伝統的権威」とか世間体から自由になっていなければ出来ない。つまり、それが「主体的な権威」である。
主イエスの権威を「主体的な権威」というように考えることもできる。しかし、それはあくまでも考えることが出来るということであり、「成る程」ということで納得する。しかし、そこには「驚き」がない。人々は主イエスの権威に驚いた。
4 創造的権威
汚れた霊に憑かれた人を癒した出来事は、単に事実を事実として言っただけではない。その意味での言葉と現実との一致ということにとどまらない。むしろ、事実を作り出す言葉である。「黙れ、この人から出て行け」と語られたら、その言葉の通りのことが起こった。
別なところでは、主イエスが弟子たちと一緒に船旅をしておられたとき、突然激しい突風が起こり舟が沈みそうになったことがある。その時、うろたえている弟子たちの見ている前で「黙れ、静まれ」と叫ばれると、風はやみ、凪になった(マルコ4:35-41)。この時はさすがの弟子たちも、「非常に恐れて、いったいこの方はどなたなのだろうか」と叫んでいる。
主イエスの権威とは、言行一致という主体的権威のレベルを超えて、「語る言葉」が「出来事」となる。「語った言葉」が現実となり、言葉の真実性が証明される。これをわたしは「創造的権威」と呼びたい。しかし、「権威(authority)」という言葉と「作者(author)」という言葉とは同根の関係にあることを思うとき、それ程無理な命名でもないだろう。
5 わたしたちの権威
主イエスの権威について思いを馳せたときには、どうしてもわたしたちの権威についても考えざるを得ない。もし、わたしたちのことを抜きにして、主イエスの権威についてだけ論じるとしたら、それはある種の「好古趣味」みたいなものになってしまうだろう。わたしたちが今、教会において「権威」ということを考えてみたときに、率直に言って、主イエスの権威というよりも「律法学者のような権威」に近いのではないか。特に、聖公会のように伝統を重んじる教会においては、権威と言えばそれは「主教の権威」というように、主教にだけ「依存」してしまっているのではないか。
ここで、わたしは聖書から主イエスの言葉を一つ引用させていただきたい。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行ない、また、もっと大きな業を行なうようになる」(ヨハネ14:12)。 これは、主イエスが十字架を前にして弟子たちに語った、いわば遺言の様な言葉である。この言葉は主イエスの権威が、わたしたちにも、全ての信徒たちに分け与えられていることがはっきりと宣言されている。わたしたちが信じ、語ったことが事実となる。
これは驚くべき宣言である。これこそがすべてのキリスト者に与えられている権威であり、恵みである。聖職者だけではない。全ての信徒が持っている、否、持っていなければならない権威と恵みである。しかし、その権威と恵みは隣人たちと共に分かち合うときに現実となる。

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