落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第4主日 召命

2007-01-27 19:42:27 | 説教
2007年 顕現後第4主日 (2007.1.28)
召命   エレミヤ記1:4-10
1. 預言者エレミヤの召命
エレミヤという預言者は、旧約聖書の中でも、イザヤに次いで、あるいはイザヤと並んで有名であり、また人気がある。預言者イザヤはいかにも預言者の代表らしく威厳もあり、社会的地位(宮廷付預言者)もかなり高かったと思われるが、エレミヤは地方の祭司の家庭の出身で、時代の荒波に揉まれ、後に「涙の預言者」と呼ばれた預言者である。本日のテキストはエレミヤがどのようにして預言者になったのかという、いわゆる召命の場面が描かれている。
さて、わたしたちはエレミヤがどういう時代に生き、どのような預言を語ったのかというような知識を詳しく知ったとしても、大して意味があることとは思えない。むしろ、預言者エレミヤの生き方を通して、わたしたちの生き方を学ぶことがより重要であろう。その意味で、預言者エレミヤの召命の場面を通して、召命とはいったい何なのか、ということについて学びたい。召命ということはわたしたちの生き方にとっても重要な事柄である。
召命という言葉を、預言者とか聖職者とか、つまり神のために特別な働きをするために呼び出された意識ということに限定してしまうと、それ以外の一般的な生き方をする人たちとは無関係になってしまう。むしろ、召命とは、誰でも人間として生きるときに必ずもっている生き方の基礎を示しているものである。生き甲斐とか、生きる意味というようなもの、自覚していようと、無自覚であろうと、人間が人間として生きるときにそれなしには生きられないものである。預言者においては、召命感を特に強烈に意識しているが、それはわたしたちとは強度の差であって、質の差ではない。
2. どこでも、誰に対しても
本日のテキストにその召命感を示す言葉がある。7節と8節の言葉である。「しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた」。ここは預言者エレミヤへの言葉であるから、「わたしが命じることをすべて語れ」という言葉になっているが、何も演説することだけが召命ではない。重要なことは、誰に対しても、どこでも、同じことをする、ということにある。一貫性というか、いつでも、どこでも誰に対しても常に同じ生き方をすることである。右の人にも、左の人にも、上の人にも下の人にも、自分は常に同じである、ということがその人自身の独自性である。相手によって、ころころ変わっていては自分自身というものを失ってしまう。その一貫性を支えているもの、それが召命感である。まさに、エレミヤはそういう生き方をした。時代や世論に動かされることなく、常に一貫して、同じことを語った。世間への迎合は微塵もなかった。「馬鹿」といわれるほど、そのことについては純粋であった。
新興国バビロニアが勢力を伸ばし、祖国は危機的な情勢にあるにもかかわらず、国の政治的指導者たちは「わたしたちにはエジプトがついているから大丈夫」という。多くの権威ある預言者たちも彼らと歩調を合わせて、「平気、平気」(6:14)と演説する。エレミヤだけが、民族の危機を語り、悔い改めを勧める。これが彼のメッセージである。
3. 召命感(生き方の一貫性)
何がこの生き方の一貫性を支えるのか。自分自身の中にある意志か。性格か。正義感か。人間はそれ程強くはない。というよりも、自分自身も「時代の子」であり、基本的には同時代の人々と共通の感覚を持っている。従って、他の預言者との対立というよりも、自分自身の中で、変化するものと変化しないものとが対立し、争う。つまり、迷う。世界に対する視点が動き、心が「千々に乱れる」。わたし自身の生き方の一貫性を支えるものは、わたしの外から来る。預言者は、そのことについて、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」という神の言葉を語る。こんなところで神を持ち出すなよ、という感じがしないでもないが、何しろ古代イスラエルの歴史での出来事である。
4. 神とは
しかし、現代においても、開き直って、「では、わたしたちの生き甲斐を支えているものとは何か」と問うならば、「上にあるもの」とか、存在の根底」とか、あるいは「無」と言おうと、結局は「神」という言葉がもっとも相応しい。預言者エレミヤの召命の記事においては、この神についてこのように語られている。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(5節)。つまり、ここでは神が1人称で語られているが、要するに神とは、わたしを母の胎内で造った方であり、わたしが母の胎から生まれる前からわたしをわたしとした方である。その方がわたしに生き甲斐も与えてくれた。神についてのこれほど明確な定義はない。この神が、わたしと共におられる。この神がわたしを「諸国民の預言者として立てた」のである。このほかに何が必要だろうか。

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