落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「イエスを恥じる者 マルコ8:31-38」

2012-03-12 18:31:40 | 講釈
S12L04(L) 2012.3.18
大斎節第4主日 <講釈>「イエスを恥じる者 マルコ8:31-38」

1.大斎節第4主日について
大斎節も半分を過ぎた。私自身は今年の大斎節では3回目の礼拝奉仕である。今年の大斎節は、マルコ福音書8:34-9:1の6つのイエスの言葉を取り上げている。この部分はマルコ福音書でも特に重要な部分である。
2.小さな言葉集(「受難の六訓」)
マルコは8:34から9:1までの部分に、当時の教会で流布していた「イエスの言葉」のうちで「イエスの弟子としての生き方」に関する6つの言葉をまとめている。これらは元来はそれぞれ単独で伝えられたものと思われる。
(1) 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8:34)
(2) 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8:35)
(3) 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(8:36)
(4)「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(8:37)
(5)「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(8:38)
(6)「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(9:1)
3.このうち5番目の言葉を取り上げる。
「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(8:38)。
このテキストを一言でいうと、キリスト教の存続が危ぶまれた危機的状況におけるキリスト者の信仰告白の問題が語られている。簡単にその状況を説明しておく。
ここで述べられている言葉はイエスの時代というよりもマルコが福音書を執筆していた頃の状況を強く反映している。マルコ福音書の執筆年代は明白ではないが70年前後といわれている。おそらく60年頃から準備を始めたと推測される。60年代から70年代の前半という時代は非常に特殊な時代で、注目すべき3つの大事件が起こっている。ローマの大火(64年)、エルサレムの陥落と神殿の崩壊(70年)、それを引きずるマサダの砦での悲劇(70-73年)である。
4.歴史的状況
ローマ帝国の宗教政策は比較的に寛容で、一種の認可方式をとっており反ローマ的でない限り「公認宗教」として認められた。公認宗教にはかなりの自由が認められていた。ユダヤ教も公認宗教でキリスト教はユダヤ教の一部として認められていた。従ってその時代のキリスト教に対する迫害はユダヤ教による迫害であり、ローマ帝国もユダヤ教会内部の勢力争い、いわば兄弟喧嘩ぐらいに考え介入しない態度を保っていた。ところがネロ皇帝が即位した頃(54年)から、キリスト教とユダヤ教との対立が明確になり、キリスト教がユダヤ教から分離独立するに至った。それは同時にローマ帝国においてはキリスト教が非公認の新興宗教であると見なされるようになった。パウロ、主の兄弟ヤコブ、ペトロ等、初期キリスト教の主要な指導者たちが次々の殉死したのもその頃のことである。
最も有名な迫害がローマの大火(64年7月19日)のときで、ネロ皇帝はこの大火の原因をキリスト者による放火であるとして本格的な迫害を始める。ローマ市民の歓心を買うためにキリスト教徒を逮捕し、ローマの円形闘技場に入れて、ライオンと戦わせるなど刺激を求める市民娯楽を目的にキリスト教徒を逮捕するということも平気で行われたらしい。ちょうどその頃の有名なエピソードがある。
キリスト教徒たちの中には危険を避けるために国外へ脱出する者もかなりいたらしい。当時、ローマの教会の指導者であったペトロは最後までローマにとどまるつもりでいたが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れることになり、夜中に出発してアッピア街道を歩いていた。夜明け頃、反対方向からこちらに来るイエス・キリストとで会う。ペトロは驚き、ひざまずき、尋ねた。Quo vadis, Domine? (主よ、どこに行かれるのですか)。そのときイエス・キリストは言う。「汝、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて今一度十字架にかからん。そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」。
ペトロはしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返した。そしてローマで捕らえられ、十字架にかけられて殉教したのである。

68年、ネロ皇帝が自殺したときローマの周辺地区で反乱が勃発、ローマ帝国は内戦状態に陥る。その感激を狙って、ユダヤ人たちの反乱が始まる(第一次ユダヤ戦争)。しかしその反乱はたちまち鎮圧され、逆にエルサレムは陥落し神殿は破壊される(70年)。そのときエルサレムから脱出した約1000人のユダヤ人の過激派は廃墟になっていたマサダの砦に立て籠もり、徹底抗戦を誓う。彼らは約3年間、攻防は続けられたが73年、全員玉砕ということで終わった。以後、ユダヤ人たちは祖国から追い出され、世界中に離散することとなった。

5.「神に背いた罪深い時代」
マルコが福音書を執筆していた時代はこういう状況であった。一方でキリスト教徒に対する激しい迫害、他方においてユダヤ教の壊滅。まさに非常時であった。
マルコはこの時代のことを「神に背いた罪深い時代」と表現する。この言葉を直訳すると「淫蕩で罪深い世」(田川建三)で、元々の単語は「姦淫」という激しい言葉が用いられている。この言葉には時代に対する憎しみに近い絶望感、嫌悪感、汚いものを見るような目がある。
この特殊な時代において書かれた言葉がそのまま異なる時代においても有効であるとは限らない。むしろ当てはまらないのが普通である。38節は神に背いた罪深い時代に生きる信仰者の勧めであり、平常時の信仰とは明らかに異なる視点から述べられている。
ここでの主題は「生き残り(サバイバル)」で、キリスト教の存亡がかけられている。失敗すればキリスト教、つまり「イエスとイエスの言葉」は歴史から完全に消えてしまう。そのような危機感の中でこの言葉は語られている。従ってこの言葉はイエス自身に発するというよりも、危機的状況における存亡をかけた教会の基本方針を示しているのではなかろうか。この方針を支える根拠が今の危機はやがて終わりキリストの時が来るという希望である。その時まで何とか生き延びようということであろう。その確信を示している言葉が9:1の「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」。この言葉も平常時ではほとんど意味をなさない言葉である。ただ単に、人間の寿命の長短を述べているに過ぎない。こういう状況の中でキリスト教徒であること告白することは「死」を意味する。ということは、キリスト教徒であることを出来る得る限り「隠せ」ということであろう。
6.「わたしとわたしの言葉を恥じる者」
さて、ここでは「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、その者を恥じる」と言われている。この言葉は一致どういう意味であろう。「わたしとわたしの言葉を恥じる」とは、キリスト者であることを恥ずかしいことと思うことである。その逆はキリスト者である自分を誇りに思うことであり、イエスの仲間であるという宣言である。一見するとこの2つの態度は正反対に見える。しかし「恥じる」の反対である「恥じない」ということは、必ずしも仲間であるという宣言と同じではない。仲間であることを宣言しない者が、決して恥じているとは限らない。恥じるか、恥じないかは内面的な価値観の問題である。つまり隠せる事柄である。しかし仲間であるということは隠しておれない。本心を隠すことによって殉教者としての死を逃れて生き延びる。
7. 「人の子もまた、その者を恥じる」
殉教した信仰者への賛美はあるが、生き延びた信徒への称賛は聞かれない。
「イエスとイエスの言葉」をいい言葉、価値のある言葉、その言葉を生きたいと思いながらも、それを公に宣言することが出来ない私、イエスのとイエスの言葉を恥とはしていないが、それを公に出来ない自分を恥ずかしいと思う。その意味では「イエスとイエスの言葉」を恥とはしないが、私自身はダメな人間である。その意味では私は私自身を恥じる。しかしその私をイエスは恥とはしないと宣言する。イエスがここで私たちに要求していることは私自身が恥ずべき人間かどうかではなく、イエスとイエスの言葉を恥ずかしいものと考えているかどうかである。
実は歴史を冷徹に顧みるとき、キリスト教は本音を隠し、迫害者たちの目を騙して生き延びた信仰者たちによって現代に伝えられている。すべてのキリスト者が潔く、勇ましく殉教していたらキリスト教は日本の歴史の中で消えてしまっていたであろう。殉教した信仰者への賛美はあるが、生き延びた信徒への称賛は聞かれない。しかしキリストは生き延びた信徒たちを迎えて、私はあなた方を誇りに思うと宣言される。

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