落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 見捨てられるのですか 詩22

2011-04-11 21:47:34 | 講釈
S11L06Ps022(L)
復活前主日 2011.4.17

<講釈> 見捨てられるのですか 詩22

1. 十字架上でのイエスの言葉
先ずはじめに福音書におけるイエスの言葉からはじめる。イエスの十字架の場面を最初に描いた福音書記者はマルコである。その意味ではマルコ福音書の記述がもっとも古い。マルコはイエスの十字架上での最後の場面を次のように述べている。
<三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした」(マルコ15:34-36)。>
その直後、イエスは大声を上げて息を引き取られた。マルコ福音書においては、最後の「大声」は別として、十字架上でのイエスの言葉はここに記されているだけである。
マタイもマルコの文章に添削程度の修正を加えているがほとんどそのまま受け継いでいる。
<三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った」(マタイ27:46-49)。>

2.なぜマルコはイエスの十字架上の言葉を詩22の冒頭の言葉と解したのか
イエスが十字架上で叫んだとされる「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉はは明らかに詩22の冒頭の言葉である。そのことについて異論はほとんど無い。しかしイエスは本当にこの言葉を十字架上で叫ばれたのであろうか。それを間近で聞いたローマの兵隊は、イエスがエリアを呼んでいると理解したと言われている。ペトロをはじめイエスの弟子たちはほとんどその場には居合わせていない。ましてマルコが直接聞いたとも思われない。少なくともイエスの弟子集団にとってはこのことを伝聞として聞いたにすぎないであろう。その意味では、このことについて文書として、「あの言葉は詩22の冒頭の言葉である」としたのはマルコの解釈である。
その解釈には異論があったものと思われる。もしイエスの集団においてそれが共通理解があったとすると、ルカやヨハネがそれを無視することはあり得ないであろう。ルカなどは完全に無視しているし、ヨハネは詩22の言葉を背景して十字架の状況を描く際に「聖書の言葉が実現するためであった」という言葉を連発しながら最初の1節については触れようともしない。ルカにも、ヨハネにも神の子イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」というような弱音を吐くはずがないと思ったのであろうか。
結局のところ実際にイエスが詩22の言葉を発したのかどうかということについては明確なことは分からない。しかし、そのこととは別にして原始教団の信徒たちがイエスの十字架の出来事を再構成する際に、詩22の叙述がかなり参考になったのであろうということは十分に想像できる(詩22:6、7、8、14、18等)。

むしろ私たちがここでなすべきことはマルコがなぜイエスのあの「不明な言葉」を詩22の冒頭の言葉だと考えたのかということであろう。ここに十字架上のイエスの心境、あるいはそれについてのマルコの理解と詩22をどういう詩として理解していたのかということを明白にすることであろう。繰り返すと、イエスが十字架上でこの詩を口にしたから詩22が重要なのではなく、詩22そのものが十字架上のイエスの思いを表現していると考えられるから、その点を明白にしなければならないのである。従って一先ず十字架上でのイエスの言葉という点を離れて詩22そのものを解釈すべきであろう。

3. 詩22の解読
この詩には「暁の雌鹿」に合わせてという表題がついている。おそらく、それは当時の民謡の曲だと思われる。その曲がどのような「哀調」を持っているのかは不明である。この詩は明らかに前半(1-21)と後半(22-31)とで全く調子が変わる。前半は人生の不条理を訴える嘆願であり、後半は神への賛美の言葉で溢れている。

1節の「神から見捨てられる」という思想というか不安な感情は詩編において繰り返されている。その代表的なものを拾っただけでも以下の通りである。詩27:12-13、詩38:21、詩42:11、詩43:2、詩44:23、24、詩51:11、詩71:9、18、詩74:1、詩88:14、詩119:8。考えてみるとアダムとエヴァがエデンの園から追放されたという出来事も神から見捨てられるという不安を描いている。旧約聖書においてこの思想は無視できないものを含んでいる。逆に「見捨てない」ということが神の愛の行為として強調されているのがホセア書である。

<わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられるのですか。どうして遠く離れて助けようとはせず、わたしの叫びを聞こうとされないのですか。神よ、昼、わたしが叫んでもあなたはこたえられず、夜、叫んでも心は安らぐことはない。>

1節には「どうして」という言葉が2度繰り返される(原文では1回)。詩人は今、神から見捨てられていることに納得していない。なぜ、神は私を見捨てたのか。神はなぜ私の祈りに耳を傾けてくれないのか。その悩みはヨブの悩みと共通する。「 神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」(ヨブ30:20)。
3節から5節までの部分では、あるべき神、今までそうであった神、これからもそうであって欲しい神の姿が描かれている。

<あなたは聖なる方、イスラエルの賛美を住まいとされる。わたしたちの先祖はあなたを信じ、あなたは彼らを救われた。彼らは助けを求めて聞き入れられ、信じて恥を受けることはなかった。>

ところが6節から8節で、今ここで私が受けている苦しみは理不尽であると訴える。新共同訳では、6節の後半に「人間の屑、民の恥」という言葉があり、7節の後半には「唇を突き出し、頭を振る」という仕草が書かれ、かなり生々しい表現となっている。
8節の罵りの言葉も原文では強烈である。岩波版では「ヤハウェにまかせろ、彼を逃れさせ、彼を救い出すだろう、お気に入りなんだから」と訳されている。

<わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。>(新共同訳7-8節)

9節と11節は詩人の個人的な神信仰、生まれたときからの関係が述べられ、今ここでこのような不当な扱いを受けていることが納得できないと重ねて訴える。にもかかわらず、神は答えない。ここに詩人の悩みは倍加する。いや倍加どころではない。決定的な苦悩となる。

<あなたは母の胎からわたしを取り出し、その乳房でわたしを育てられた。この世に生を受けたときからわたしはあなたのもの、母の胎にいたときから、あなたはわたしの神。わたしから遠く離れないでください。悩みはわたしに迫り、助けに来る者もない。>

12節から15節のは詩人の内面的な苦悩を猛獣に襲われるという病状にたとえて語っている。事実、内面的な苦悩が身体的変調をきたしていたのかもしれない。

16節から18節は詩人を取り囲む社会的状況が描かれている。

19節から21節は、死期が迫る断末魔の祈り。もう猶予がない。命が絶たれようとしている。殺される直前である。19節の「急いで」という言葉が鍵である。
<主よ、遠く離れないでください。わたしの力よ、急いでわたしを助けてください。わたしの魂を剣から、命を敵の手から救ってください。ししのきば、野牛の角から、わたしを助け出してください。>

4. 詩22のメッセージ
以上見てきたように、詩22の詩人は自分自身の罪に悩んでいるのではない。むしろヨブのように、なぜ義人が苦しまなければならないのか、という人生の不条理を訴えている。ところが、この詩においては自分を苦しめている者に対する裁きや呪いの言葉がない。浅野順一先生はそのことに触れ「ここの歌われている苦しみは、罪なき者の苦しみであり、しかも苦しみを受けて他を呪わない人、いわば聖者の苦しみと解することが出来よう」(『詩編選釈』上、173頁)と言う。

さて、新共同訳によると、21節と22節との間に「わたしに答えてください」という言葉が挿入されている。この言葉を新改訳では「あなたは私に答えてくださる」と平叙文に訳しており、カトリックの典礼委員会訳では「あなたはわたしに答えられた」という完了形に訳した言葉があることを示唆しつつ、省略したとコメントしている。なせ省略したのか不明。岩波版では「あなたは私にお答えになった」と訳し、こうして人生の不条理を訴える嘆願から、答えてくださったという感謝・賛美の詩に転換すると説明している。
つまり、この言葉を前半の最後にくっつけるのか、後半の冒頭に置くのかという議論がある。
関根先生はこの句は詩本体からはみ出した一種の間投詞的な挿入句であるとした上で、この詩全体の最後の句と呼応関係にあると言う。21節後半を「あなたはついにわたしに答え給いました」と訳し、31節後半を「まことに彼はそのみ業を果たし給うた」と訳している。
この点については祈祷書訳では不明瞭で、21節後半の句を省略し、31節後半の言葉を「神のみ業、その救いを告げ知らせる」というように全く異なる文脈に置いてしまっている。

私は21節後半の句は前半の最後の言葉と考える。神は詩人の訴えを確かに聞き、答えた。しかし、その答えの内容については一切触れていない。神は詩人の悩みを聞き、「分かっているよ」と答えた。ただ、それだけである。それが神の答えである。その後、神がどうするのかということについては一切触れない。しかし詩人は神が答えたというだけで、満足して死んでいける。22節以下の感謝・賛美の言葉は詩人には不要である。神が「分かった」と言えば、人間はただ「すべてをあなたにお任せいたします」でピリオドである。ルカはイエスの最後の言葉として「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉を記録する。これがルカの「エロイ、エロイ」に対する解釈であろう。

5. 復活前主日のテキストとしての詩22
ところで復活日前主日のテキストとしては1節から11節までか、あるいは1節から22節までが選ばれている。この際22節をどう理解するかということが問われるべきであろうが、おそらく22節は21節までの嘆きを受け止めた上で22節以下全体を代表する意味を含めているのであろう。従って、この日の詩編テキストとしては1節から11節までが主眼となっているのであろう。
私も今回は21節までの部分を一つの独立した詩として取り上げる。もちろん、現行の詩としては1節から31節までが一つの詩とされているのであるから、それを無視する訳ではない。

6. 初期のキリスト者たちの十字架理解
以上見てきたように詩22は罪なき者が苦しめられ、惨殺される直前の詩である。詩人は神に向かって「なぜ」と問いながら殺される。しかし、21節後半の「神は答えられた」という言葉によってこの詩は感謝・賛美の詩へと転換される。初期のキリスト者たちも、イエスがなぜ殺されなければならなかったのかということについて答えのないままイエスを見送る。その意味では、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられるのですか」という言葉は、十字架上のイエスの言葉というよりも、彼ら自身の言葉であったと言える。それに対する答えは22節以下にあった。その視点に立つとき、彼らは何らの疑問もなくこの詩を、とくに1節から21節までの詩を十字架上のイエスの言葉として受け止めることが出来た、のだろう。その証拠が使徒言行録におけるペトロの最初の説教にはっきりと示されている。ペトロは詩16の8節以下の言葉を引用して「『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』、と語りました」という。これがイエスの復活についての教会の最初の宣言である。明らかに詩16は詩22の22節以下を受け継いでいる。

7.十字架の情景を描く際に採用された詩22
7節後半の「頭を振る」という表現はそのままマルコ福音書15:29に引用されている。
8節の言葉もそのままそっくりマタイ福音書の27:43の民衆のセリフとして引用されている。
15節の「あごは土器のかけらのように乾き、舌は上あごにつく」という表現はヨハネ福音書19:28で「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」というように引用されている。
18節の「彼らはわたしの衣を分け合い。着物をくじ引きにした」という言葉は、マルコ15:24、マタイ 27:35,ルカ23:34、ヨハネ19:24と4つの福音書がすべて引用し、ヨハネ福音書は丁寧に「聖書の言葉が実現するためであった」と注釈まで付けている。
上に触れているように12節から18節までがイエスの十字架の情景と重なっている。

8. イエスの最後の言葉
イエスが死ぬ間際に何を言ったのか。それは永遠の謎であろう。ローマの兵隊は「エリア、エリア、」と解し「エリヤを呼んでいる」と記録した。おそらく、それはないであろう。マルコはそれを「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられるのですか」と言ったのだと解釈した。そうかも知れない。ルカやヨハネは、そんなことはないだろうと思って異なった言葉を残している。ここからは私の独断と偏見である。おそらく「わが神よ、わが神よ」と叫んだと思う。もしかすると、「アバ、アバ」だったかもしれない。むしろその時のイエスの心境を想像すると「神よ、私の人生はこれでよかったのですか」と言ったのではなかろうかと想像する。イエスは徹底的に神の御心を実現することに専心した。そしてその結果が十字架の死であった。おそらく最後にイエスの心にあったことは「果たして私の人生はこれでよかったのか」という疑問であったのではなかろうか。
これはもはや「歴史的な解明」ではなく、イエスの生涯についての私の想像である。私は思う。すべての信徒が自由に自分自身のイエス像を描き、そして十字架上での最後の言葉を想像してもいいのではないだろうか。それこそが、私の信仰である。

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