落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

大斎節第1主日説教 試み

2006-02-27 20:45:01 | 説教
2006年 大斎節第1主日 (2006.3.5)
試み   マルコ1:9-13
1. 大斎第1主日は「荒野での誘惑」から学ぶ
これは毎年繰り返されることであり、「荒野での誘惑」と言えば、すぐにその情景が頭に浮かぶほどである。しかし、今年は少し視点を変えて、先ず頭に浮かぶ情景を取り払って欲しい。なぜなら、マルコによる福音書にはその様な情景は述べられていないからである。ただ、マルコは主イエスは洗礼を受けられた後、「聖霊」によって荒野に送り出され、40日間そこに留まり、サタンから誘惑されたということだけが述べられているだけで、その内容について何も述べられていない。イエスは荒野で何を誘惑されたのだろう。誘惑というものは都会にあるものであって、「荒野」にはない。
わたしがまだ子どもであった頃、わたしはとても臆病者で弱虫であった。夜道を一人で歩くことは苦手であった。そういうわたしに向かって母はよく言った。「夜道は少しも危険でない。誰もいないところを歩くことは少しも怖がらなくてもいい。むしろ、怖いのは人間が居るところである」。
このことは、特に最近はっきりしてきた。人間が居ないところは怖くはない。むしろ、恐ろしいのは人間が居るところである。
2. マルコの「荒野」観
マルコは「荒野」についてどのようなイメージを持っていたのだろうか。マルコはイエスは「(荒野で)サタンから誘惑された」とだけ述べるが、誘惑の内容については一言も語らない。むしろ、荒野では、野獣と共に生き、戯れ、天使によって仕えられていた、という。荒野はイエスにとって決して悪魔との戦いの場所ではなく、誘惑の場所でもない。むしろ、旧約聖書の預言者たちが語る終末論的楽園である。
狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。(イザヤ書1:6-9)
荒野はイエスにとって「楽園」である。比喩的に言うなら「エデンの園」であり、終末論的待望の世界である。「荒野の誘惑」とは、そこに留まり続けたいという願望であろう。その思いを断ち切って、「町や村に出て行く」こと、それがイエスの使命である。「そのために、わたしは出て来たのである」(マルコ1:38)。
3. 荒野をめぐって、洗礼者ヨハネとイエス
「荒野」をめぐって、洗礼者ヨハネとイエスとは反対方向を向いている。ヨハネは「荒野の声」であり、人々を荒野へ呼びかける。それに対して、イエスは荒野を出発点として「町や村に」出て行く。荒野へ出て行くことを「出家」というなら、「荒野から」町へ出て行くことは、何というのだろう。いろいろ、言葉をめぐらして、結局「受肉」という言葉しか思い当たらない。

最新の画像もっと見る