落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>風は思いのままに吹く ヨハネ3:1-16

2012-05-27 16:53:28 | 講釈
S12T01(L)
2012年 三位一体主日(2012.6.3)
<講釈>風は思いのままに吹く  ヨハネ3:1-16

1.三位一体主日について
先ずはじめに、三位一体主日のことについて簡単に述べておく。この日を祝日として祝う習慣はかなり古くからあり、4世紀のヒエロニムスの礼拝書では本日の福音書のテキストが用いられている。特祷は6世紀のグレゴリウスに始まったとされる。ただし、それは聖霊降臨日と結びつき8日間(オクティヴ)の祝日の最終日という意味が強かったようである。降誕日や復活日と同様に大きな祝日(降誕日、復活日、聖霊降臨日)は8日間続くという習慣があった。東方教会では、この日をすべての殉教者の日として守っているとのことである。
この主日を聖霊降臨日と引き離して三位一体の神をほめたたえる祝日としたのは資料的には1260年のアールース教区(現在のフランス)の教区会の決議に見られるとのことである。
公会暦の流れからいうと、降臨節以後、主イエスの誕生から始まって、顕現、受難と続き、復活に至るまで、いわば主イエスの生涯を「追体験」をし、復活節から聖霊降臨日までは復活の主との出会いから教会の成立までの歴史をなぞる。いわばこれら全体を教会成立の秘儀として確認し、祝うのである。これら2つの大きな流れの中心にあるのが三位一体主日で、古い祈祷書では、この主日以後の季節を「三位一体後主日」と呼んでいた。

2.三一論における問題点
本日は三一論については語らない。一寸でも足を踏み入れると、神学というジャングルに迷い込んで出るに出られないくなる。私自身はこの歳になってやっと脱出口を見出しそこから出ようとしている状態である。本日は三一論における未解決の問題についてだけ触れて、サッと身を躱すこととする。取り上げる接点は聖霊についてである。何故三一論において聖霊問題が未解決なのか。この問題に触れると、もうそれだけで三一論のジャングルに入ってしまうことになるので、それについても論じない。
ただ、「三位一体」とか「三一論」という言葉を聞いたとき、これはキリスト教の神のことを意味している言葉だということだけを知っていれば十分である。「三位一体の神を信じるか」と問われたら、その問いの内容はごく一般的な意味で「教会で語られている神」という意味であり、他の信徒たちと同じように「その神」を信じますかという問いとして受け止めて、信じているなら「信じる」、信じていないなら「信じない」と答えればいい。もし神の三位一体性を十分に理解してから信じようとするならば、おそらく一生かかっても理解できたとは言えないであろう。重要な過ちは、理解していないのに理解しているかのような顔をすることである。ここまで言い切ってしまうと、私自身の信仰の正統性が疑われるが、それも仕方がない。私自身としてはそう言う他はないからである。本日の課題は聖霊をどう考えるのかという一点である。

<参考>
三位一体論という非常に説明の困難な神学的議論をするつもりはない。ただ、なぜこれほど三位一体論が重要視され、こだわるのかということについてだけは知っておいてほしい。三位一体論の議論の出発点は、イエスは「神なのか、人間なのか」という議論であり、その議論の続編として三位一体論が議論されたのである。この議論そのものは日本人にとってはほとんど無意味である。ところが、議論する人たちが唯一神に凝り固まったユダヤ人であり、そのユダヤ思想を背景に成立したキリスト教である。つまりキリスト教信仰がギリシャ哲学の概念を用いて議論されたということで、問題は非常に複雑になってしまった。議論の経過を見ると、キリスト教徒の間ではイエスは「神の子」であるというところまでは、ほとんど議論なしに受け入れられている。ところが、ここから複雑な議論が始まる。「神の子」とは「神」ではないのか。神と同等なのか。神より少し劣るのか。こういう議論が延々と繰り返された。最終的な結論として、イエスは完全に神であり、同時に完全に人間であるということで一応決着した。しかしこの決着は論理的には明らかに無理があり、必ずしもすべての信徒たちが納得したわけではない。それで多数派はこの信仰に反する者をすべて「異端」として教会から排除することによって決着したのであった。
イエスを天地創造の神と全く同等の神であるとする信仰は、同時に「唯一神」という信仰を脅かすものであったが、この問題にはもうこれ以上議論するエネルギーはなくなっていた。ところが、ここに新たな問題が起こってきた。それでは聖霊は「神」なのか。この聖霊論を含めて三位一体論という議論が展開する。厳密にいうとこの議論は今でも続いている。「フィリオクエ論争」がそれである。この議論はあまり生産的ではない。300年以上もかけた論争の結果、結局決着せず、コンスタンティノポリスを中心とする東方教会(ギリシャ語圏)とローマを中心とする西方教会(ラテン語圏)とが決定的に分裂(大シスマ、1054年)してしまったのである。

3.聖書における聖霊
「聖書における聖霊論」を問うとしても、聖書全体から聖霊についての教えを引き出そうとすると、それこそ大事(おおごと)になるので、本日はただ三カ所だけを取り上げる。
まず第一に取り上げる聖書の言葉は、本日の福音書で、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(ヨハネ3:8)である。これはイエスが聖霊について述べた貴重な言葉で、聖霊を考える場合に無視できない。人間は誰でも聖霊によって生まれ変わらなければ「天国に入られない」という。要するにまともな人間になるためには聖霊によらなければならないのだという意味である。これを裏返すと聖霊とは人間を新しく生まれ変わらせる力、生き方を変えさせる力だということである。
さて、次に取り上げたい聖書の言葉は創世記第1章2節の「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」である。1節と3節には多くの人々が注意を向けるが、その間に挟まれた2節には殆ど注意を払わない。私は聖霊を考える場合に非常に重要な言葉であると思う。この言葉は万物の創造に先立つ状況を描いている。この言葉の前には「初めに、神は天地を創造された」という言葉しかない。つまり神のことだけが述べられている。この神については造られず、生まれず、存在するという言葉も当てはまらない。この神のよって全てが始まり全てが創造された。全てのものは3節の「光あれ」という神の言葉によって存在へと呼び出された。ところが2節では万物の存在に先立って「神の霊」だけが動いていたという。まったくの「混沌の中」で神の霊だけが働いていた。これが創造以前の状況であった。これは非常に面白い状況である。そこで動いている「神の霊」を存在するという言葉で言い表していいのかどうか。単純にこれを聖霊というわけにはならないかも知れないが、私たちは聖霊について何も知らないのであるからイエスともノーとも言えない。ただ、それは「神の霊」と呼ばれている限りにおいて神そのものに属し、神そのものであろう。
この「神の霊」が次に現れるのは人間の創造においてである。神は土をこね、人間を形作り、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:8)。ここで用いられている「息(ルアハ)」という語と先に述べた「神の霊」の「霊(ルアハ)」とは同じ言葉である。土の塊に過ぎない人間の形に神のルアハが吹き込まれることによって人間は生きる者になった。この「生きる」とは生物の「生」とは異なる。神の霊によって生かされた者という意味での「生きる」である。人間は神の霊によって「生きる者」になる。
ところでこの「ルアハ」は「風」という意味でもあり、先ほど取り上げたヨハネ3:8とのの関係も非常に興味深いことである。イエスの言葉で聖霊は風のようなものだと言われている。どこが風と似ているのかという点についてイエスは「どこから吹いてきて、どこに吹いていくのか分からない」という説明がある。つまり聖霊とは捉え所がない、人間の理性で把握できないのだということがいわれている。人間の認識能力で捉えられないからと言って、ないわけではない。ハッキリと働いている。その働きは、働きかけられたものが活性化することによって分かる。
福音書をケセン語に翻訳している山浦玄嗣先生はこの部分を次のように翻訳し、解説している。「神さまの息ア、その旨の思いば乗せて風どなり、思いのままに吹いてくる。そうして其方(そなだ)アその声エ聞いでる」。これを標準語で言い直すと「神さまの胸の思いは、神さまの息吹となる。息吹は息だ。息は風だ。その風は神さまの思いを乗せて吹いてくる。その思いはわたしの心の中にそよそよと吹いてくる。お前さんの心の中にも吹いている。あらゆる人の心の中に、神さまの思いは風となって吹いている。ほら、耳を澄ましなされ。聞こえるでしょう。ニコデモの旦那? お前さんはちゃんと聞いているはずですよ」(『イエスの言葉――ケセン語訳』文春新書、145頁)。ここまでイエスの言葉を読み込んだ人は希である。神学者や聖書学者ではとうてい無理な話である。山浦先生は1940年、岩手県気仙地方で誕生し、東北大学大学院医学部を卒業後、同大学で助教授を経て、郷里に戻り開業医となられたカトリックの信徒である。

4.霊性ということ
国際連合、いわゆる国連にWHO「世界保健機構 ( World Health Organization ) と呼ばれる専門機関がある。この機関は健康を基本的人権の一つとして捉え、その達成を目的とした組織である。1946年に国際保健会議(WHA)で設立され、日本は1951年に加盟している。
WHOの委員会で「健康とは何か」という定義が検討され、1998年に次のような結論に達した。「 Health is a dynamic state of complete physical,  mental, spiritual, and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. (健康とは、肉体的、精神的、霊的および社会的に充実した完全な状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない)」(15頁)。それまでの定義では「肉体と精神の健康」だけが取り上げられていたが、ここに「霊的健康」が導入されたのである。ところが、この定義は1999年のWHA総会では否定されてしまった。これに反対したのは主にいわゆる先進国で、その中には日本も含まれている。この問題については、その後も引き続いて議論されている。人間が健康であるとはどういうことか。そこに「霊的健康」が含まれているのか、いないのか。実は現在先進諸国における深刻な諸問題の根本に霊的不健康ということがあるのではないか、ということが宗教家だけではなく、心理学者をはじめ教育者たちの間でも課題とされている。そのような「現代的課題」を受けて一昨年、一冊の本が出版された。これがかなり評判になり多くの人たちに読まれた。内田樹・釈徹宗『現代霊性論』(講談社)である。本日はただ紹介だけにしておく。
今は一種のスピリチュアルブームであるといわれている。いったいそのスピリチュアル、あるいはスピリチュアリティ、日本語で言うと霊性とは何なのか。一言でいうと、人間が人間であることの印としての「いのち」とで言えばいいのか。もう少し「宗教」に引き寄せて言うならば、鈴木大拙先生(1870-1966)は霊性とは「誰もが持っている宗教心とか宗教性」を意味し、それは「佛教とかキリスト教とか神道とは関係なく、脈々と人間に流れている」地下水のようなものであり、その地下水を吸い上げるための井戸みたいな装置、回路」が宗教である、と言う(119頁)。
シャーロック・ホームズの作者コナンドイル氏(1859-1930)は「スピリチュアリズムとはどんな宗教にも入れない人のための宗教である」と定義している。
これをどう名付けてもいいが、私は、人間の内部に地下水のように流れ人間を生かす働きを「霊性」と理解し、それを一応「根源的宗教性」と名付けておく。人間は自己の内部にある根源的宗教性(霊性)と外部にある宗教とが響き合って、あるいは出会って宗教者(信仰者)になる。さらに、現実にある宗教にはそれぞれ特有の問題性が含まれている。その問題性を批判的に克服して、自らの内部にある根源的宗教性に目覚める。それが「成人した信仰者」である。

5.「わたしの霊を御手にゆだねる」
最後にもう一つ聖書のテキストを取り上げる。それはイエスが十字架上で口にした最後の言葉にである。マルコとマタイは十字架上の最後の言葉について「大声で叫んだ」とだけ述べ、その内容について語っていない。ヨハネは「成し遂げられた」と言って頭をたれたと述べられている。これも意味深長であるが、この言葉は神の子と呼ばれるイエスと父なる神との特別な関係を背景として意味を持つ言葉である。
今日取り上げたい言葉はルカの言葉(23:46)である。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」。実際イエスがこういう言葉を述べて息を引き取られたのかどうかは分からない。4つの福音書の記述を並べて見ると、ルカの記録は記録というよりも人間としての理想的な死に方が描かれているように思われる。キリスト者が自分の人生を閉じる際にこうありたい、いやあるべきだというような教育的配慮を感じる。それだけに霊ということを考えるときには重要である。人間は死ぬとき「霊が抜ける」。逆に言うと、産まれたとき霊が注がれ人間となる。霊が内部で活動している限り人間として生きている。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉には、神と人間と霊との関係が見事に描かれている。人間は神の霊によって人間となり、人間としての一生を過ごし、最後に神に神の霊をお返しする。勿論ここで、人間という言葉をイエスと置き換えればイエスの一生ということになるし、ここに私とおけば私の一生となる。この言葉はキリスト者だけではなく、全ての人間に当てはめられ、あるいは当てはめるべき理想の死を描いている。
私は神の霊によって生かされ、私の人生を送る。私の一生は神の霊によって私の一生となり、私は神の霊によって私である。

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