落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「驚くべき方」マルコ6:1-6

2011-12-13 15:23:52 | 講釈
S12A04(L)
2011.12.18
降臨節第4主日 <講釈>「驚くべき方」マルコ6:1-6

1. 何故マルコでないのか
B年の福音書はマルコであるはずなのに、何故ルカなのか。調べてみると、B年の主日でルカ福音書が読まれるのはこの主日だけである。答えはいたって単純でマルコ福音書にはイエスの誕生に関する記事がないからである。なぜマルコはイエスの誕生について何も語らないのだろうか。実はここに非常に重要な事柄が隠されている。もっとも、イエスの誕生について無関心なのはマルコだけではなくヨハネ福音書も「哲学的な受肉論」はあっても、いわゆるクリスマス物語はない。

2.マルコ福音書に誕生物語がないというわけ
マルコが福音書を書く前の教会では権威ある文書といえばそれはヘブライ聖書(恐らくギリシャ語訳、通常は旧約聖書のいわれている)だけで、徐々にパウロの書簡などが一部の教会でそれに類する文書として取り上げられたに過ぎないであろう。使徒たちが説教をする場合には主にヘブライ聖書がテキストとなり、いわゆるイエスの語録(ロギア)などが一種のエピソード(思い出話)として語られたのであろう。その中には当然イエスの誕生物語やその類の伝説などもあったものと推測される。このあたりのことは既に何回か述べているので省略する。
問題は何故マルコはイエスの誕生物語あるいは生育史に類するものを福音書に書かなかったのかということである。勿論、マルコはイエスの伝記を書くつもりは全くなく、マルコが福音書を書く目的はただイエスの言葉と行為とをまとめ、それを「福音」として提示するということにあった。その意味では、かなり意図的にイエスの誕生物語、あるいは幼児期の出来事を書かなかったのであろう。マルコの中ではそれらは福音とは無関係だという認識があった。
マルコ福音書ではイエスは突然「ガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(1:9)という。いわば、「どこの骨か分からない人間」として登場する。マルコが描くイエス像で、この「どこの骨か分からない人間」というイメージが非常に重要である、と私は思っている。素性のわからない人間、由緒がはっきりしない人間としてイエスは私たちの前に立っている。それがマルコがイエスの誕生物語を書かない第1の理由である。第2の理由について次に述べる。

3.人間を理解するということ
さて、私たちの前に突然素性のわからない人間が立ったとしたら、私たちはどうするだろうか。彼は私たちに取って害ある人間か、あるいは有益な人間か、敵か、味方か。私たちは瞬時に考え、判断しなければならない。あるいは、それ程緊迫した状況でないにしても、未知の人間に会った場合、私たちはその人物がどういう人物か考える。そういう種類の出会いを私たちは常に経験している。私たちが社会生活を営むということは実は未知の人たちとの出会いの連続である。
人間が人間を判断し、理解するとはどういうことであろう。いろいろな場面を想像したらいい。私たち自身はどういう風にして相手を理解しているのだろうか。この問題について述べている非常に重要な文献がある。有名な作品であるので、知っている人も多いことだろう。私が今日ここで取り上げたい作品は、サン・テグジュペリは『星の王子さま』(サン=テグジュペリ、内藤濯訳)である。そのこで著者は非常に重要なことを指摘している。
<おとなというものは、数字が好きです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。<どんな声の人?>とか<どんな遊びがすき?>とか、<チョウの採集をする人?>とかいうようなことは、てんできかずに、<その人、いくつ?>とか、<きょうだいは、なん人いますか?>とか、<目方はどのくらい?>とか、<おとうさんは、どれくらいお金を取っていますか>とかいうようなことを、きくのです。そしてやっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。」(21頁)
これは「ぼく」と「王子さま」との会話の中で「ぼく」が地球の事情を説明している部分である。「大人の人は肝心要のことは聞きません」という言葉は実に厳しい。人間の何が「肝心要のこと」なのだろうか。結婚の相手とか、新入社員とか、友だちなど、私たちはその人と将来に渡って長く関係しようとする時に何を基準にして選んでいるのだろうか。今、その人を目の前にしながら、その人にいろいろなことを質問する。その時にその人の過去の様々な情報を聞き出そうとするが、肝心要のその人を見ようとしない。経歴といえばその人の氏素性、生まれとか、両親の職業とかを聞き出そうとする。その人自身についても学歴、財産、職業、身長、体重、服装等々、どうでもいいとは思わないが、それらが肝心要のものとは思えない。その人がどういう考え方をするのか、その人の関心事は何か、その人を支えている信念のようなものは何か、いざという時どういう行動するのか、等々について見ようとしない。
『星の王子さま』では、新しい友だちになる方法について、次のようなことが語られている。
「しんぼうが大事だよ。最初は、おれからすこしはなれて、こんなふうに、草の中にすわるんだ。おれは、あんたをちょいちょい横目でみる。あんたは、なんにもいわない。それも、ことばっていうやつが、勘ちがいのもとだからだよ。一日一日とたってゆくうちな、あんたは、だんだんと近いところへきて、すわれるようになるんだ・・・・・」(94頁)。
現代の忙しい社会においてそんなに悠長なことはできないと思っているかもしれない。重要なことは時間の長さではない。ここでは言葉による情報の虚しさ、数量化できる情報の怪しさを述べているのである。
肝心要のこととは、いま目の前にいる人を素直に(有りの儘に)見ることによって得られる印象である。むしろ、そのために最も邪魔になる情報とは、その人についての先入観である。偏見ともいう。偏見にはいい偏見と悪い偏見とがある。どちらにしてもその人自身を正しく理解するためにはマイナスである。あの人は非常にいい人だと思っていた場合、一寸した悪いことでも、非常に悪く感じるし、悪い人だと思い込んでいる場合には一寸していいことが非常に良く思う。いずれの場合でも、それはその人を正しく評価したことにはならない。特にその人の誕生に関する噂話は、その人の責任でもないのに、大きな先入観を抱かせる。過去の経歴についても同様である。私たちはその人の背景にあるものをほとんど何も知らず、ただ表面的な情報だけが一人歩きをしてその人についての偏見を生み出す。重要なことは、いま目の前にいるこの人を私たち自身の目でしっかり見ることである。

4.「しっかり見る」とはどういうことか
マルコは「福音」とはイエスをしっかり見ることから始まる、と考えている。というより、イエスその人が「福音」なのである。マルコの師パウロは「イエスが死んで復活したこと」が「福音」であるという。しかしマルコは「死んで復活したイエス」が「福音」だという。言葉をひっくり返しただけのように思われるが、ここには根本的な違いがある。パウロにとってイエスがどこで生まれ、どういう生涯を送ったかということにはほとんど興味はない。もう既に何回か引用しているが、パウロの基本的な立場は、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(2コリント5:16)という言葉に凝縮されている。しかしマルコはそう考えない。キリスト教にとって、従って「福音」を理解するためにはイエスがどうのように生きたのか、そしてどのように死んだのかということを抜きにしては語れないと考えている。マルコにとってイエスとはどういう人物であったのかということはその生き方にすべてが凝縮されていると考えている。
その場合に、あらゆる先入観、偏見を捨ててイエスを見なければならない。マルコ福音書を読むとき、読者の思惑をすべて無視して、淡々とイエスの語ったこと、それを聞いた人々の反応、あるいはイエスが行った行為とそれを見た人々の「驚き」を述べている。恐らくここで述べられていることのほとんどはマルコが直接経験したことというより、マルコ自身がいろいろな場所に出かけ、ひろひろな人と出会い聞き集めた情報であろう。マルコの編集姿勢は、それらの情報をマルコ自身の思いをまじえずに、そのまま語るという姿勢に徹している。
マルコがイエスの誕生について語ろうとしないもう一つの理由がここにある。イエスの誕生物語を書くということは、イエスを通常の人間ではないということを書くことになる。イエスがもし特別な人間、たとえば「神の子」であるとしたら、イエスが語るすべての言葉、イエスの行うすべての行為は、「当たり前のこと」になってしまう。単純な話、ヨハネ文書がその典型であるが、イエスは神の子だから、奇跡を行えるということですべての問題が消えてしまう。
イエスの言葉、イエスの行為に人々は驚ろいた。イエスの教えは今まで彼らが「偉い人」として尊敬していた人々と全然違った。今まで彼らが知っている権威者とは全然異なる権威をもっていた。その権威は悪霊までも従った。彼らの驚きは彼らの持っていた既成概念を破る種類の驚きであった。この人は今まで知っていた誰よりも凄いという驚きであった。この驚きはただちに広い範囲に広がっていった。それが広がることを誰も阻止できなかった。マルコ6:14を見ると、イエスの評判はヘロデ王の耳に入るほどであった。

5.驚きとは
驚きとは「意外性の経験」である。今、目にしていることが自己の経験の中で意外(想定外)であること、今まで想像もしていなかったことに出会って人々は驚く。その驚きにおいて心(内面的自己)が揺さぶられる。その驚きがあまりにも大きいと、自己の中では処理不能となり、自己自身を変革しなければならなくなる。イエスとの出会いにおける信仰とはその経験に外ならない。その場合にイエスに対して一定の先入観があると、あるべき驚きが驚きにならず、かえって先入観は深まり偏見になる。何か分からないが怪しい。裏がありそうだ。マルコはイエスに出会っても驚けない2種類の人々を取り上げている。

6.イエスを見ても驚けない人々
多くの人々はイエスの教えを聞き、その働きを見て驚いた。しかし驚けない人々もいた。驚けない人々とは自分自身の先入観が強すぎて、そこから自由になれない人々である。彼らは自分たち自身が持っている認識のカテゴリーにイエスを当てはめて納得しようとした。それが「あの男は気が変になっている」(3:21)、あるいは「彼は汚れた霊に取り憑かれている」(3:30)という判断である。そういう風に考えることによって驚きを解消してしまう。
もう一種類の人々が、今日取り上げる郷里の人たちである。彼らはイエスの教えを聞いて驚いた。彼らは「あのイエス」がこういうことを教えているということに驚いた。彼らの驚きはイエスに対する驚きというより、「あのイエス」と「今ここにいるイエス」とのギャップに驚いている。そして、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」(6:2)と言う。驚きを自己の内部の問題にせずに、イエスの経歴に対する疑問とする。つまりイエスに対する認識の変更へと向かうのではなく、驚きの原因を外部要因に求める。故郷の人々が強調する点は、私たちはイエスのことをよく知っているということである。彼らはイエスの子どものときからのことを知っており、父親が死んだことも知っており、イエスが父親の跡を継いで大工になったことも知っており、イエスの母親のことも兄弟たちのこともよく知っている。
恐らく彼らはイエスがある日突然、母親と兄弟たちとを残して出ていったことも知っているであろう。そのこのためにイエスに対する批判もあったかもしれない。ともかく彼らはイエスのことをよく知っていると思っていた。その後、村の外からはイエスについてのいろいろな噂が聞こえてくる。心配もするし、誇らしく思うこともあったかもしれない。彼らはイエスが帰郷する日を待っていたのであろう。
どれほど月日がったのか、とうとうイエスが帰ってきた。人々はある種の期待を抱いて集まってきた。話を聞いた。そこにいたのは、自分たちの知っているイエスではなかったそのギャプは大きかった。人々の期待と認識を遙かに超していた。あまりにもそのギャップの大きさに、人々はかえってイエスに対して不審を抱いた。それが人間である。今までイエスのことなら誰よりも私の方がよく知っているという意識が叩き破られた時、人々は不信に陥る。イエスはもはや「私の知っているイエス」ではない。「私のイエスではない」。
それ程イエスの「経験」は大きい。私たちはその「イエスの経験」を知らないし、知りようもない。ただ知っているのはその経験を象徴する洗礼で、洗礼後のイエスだけであり、マルコはそれで十分だと思っている。これは私たちキリスト者同士の交わりにおいても同様であるが、今日はそのことには触れない。

7.普通の人
マルコが語ろうとするイエスの姿の基本は「普通の人」ということである。普通の人だからイエスの行為と言葉は驚くべきものである。だからこそ最後の最後に非ユダヤ人であるローマの百人隊長が述懐する「本当に、この人は神の子だった」という告白に迫力がある。マルコ福音書では「神の子」という言葉は4回しか用いられていない。1:1は写本上の問題があり別として、3:11と5:7は悪霊の言葉であり、イエスによって「言うな」と言われている。その意味では15:39の百人隊長の言葉は重要な意味を持つ。マルコは最後の最後に初めてイエスが「神の子」であるということを語る。

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