落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第23日(特定27)説教 審判

2009-11-04 17:49:32 | 説教
2009年 聖霊降臨後第23日(特定27) 2009.11.8
審判  ヘブライ9:24~28

1. 文書というもの
人間が書き、残す文書というものは、論文であれ、文学書であれ、書かれた時代の思想、あるいは世界観というものから自由ではない。それは「永遠の書」といわれる聖書でも例外ではない。むしろ、聖書は旧約聖書であれ、新約聖書であれ必要に迫れれて、その時代の人々に向けて書かれたものであるから、その時代的背景とかその時代の人々の考え方が色濃く影響している。特に、ヘブライ書はその時代の人々の宗教生活をかなり強く意識し、イエス・キリストによる救済を弁証的(護教的)に書いているので、当時の宗教思想が前提になっている。そのため現在のわたしたちにとって、かなり専門的な解説が必要になってくる。しかも、それを理解したからといって、わたしたちの信仰が深まるわけでもない。
2. 死の一回性
ただ一点、非常に気になり、またわたしたちにとっても関係のある前提がここに凝縮して出ているので、本日はそれを手がかりとして取り上げる。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」(27節)という言葉である。ヘブライ書の著者はこのことについて論じようとしているのではない。むしろ論じるまでもない前提であり、著者も読者もそのことについては何の疑問もない前提である。少なくとも、この言葉の前半については現在でも同様であろう。現代人でも、またどんな科学者でも人間が死ぬことには異論はない。それがどんなにいやなことであり、何とか避けたいことであっても、認めざるを得ない事実である。また将来科学が発達してもこの事実が人間から取り除かれることはあり得ないと考えている。
ただ、最近、非常に気になることは、わずかな金のために安易に殺人が行われること、あるいは自分の犯罪を隠すためにいとも簡単に人を殺すという風潮である。要するに、殺人・自死を含めて死という事柄が非常に軽いものになっている。少し難しいことをいうと、死ということの一回性が尊重されていない。事実はそうではないのに、意識の中では死を繰り返されうるこのと思っている。こういう風潮は死というものの持つ厳粛さが失われた結果である。いかなる時代においても、いかなる思想においても死という出来事は厳粛である。人生の重さとは生も死も一回性という点に込められている。生にも死にも繰り返しとかリセットはない。この点が見失われていることが非常に気がかりである。
死という現象は心臓が止まるとか、脳の機能が停止するとか、科学的に説明ができる範囲にある。しかし死後のことについては現代科学の範囲を越えている。科学というものは対象を厳密に規定することから始まる。従って自己の守備範囲を越えていることについては沈黙するしかない。
ただ後半の死後のことについては、当時の人々と現代の人々の間に大きなギャップがある。本当に科学を知らない人は科学的に解明されないことは存在しないと考える。これが幼稚な科学主義である。信仰者であれ、無神論者であれ、現代人は死後の世界についてわからないというのが、最も正直な答えであろう。
3. 死後の裁き(最後の審判)
ヘブライ書の著者は「死んだ後裁きを受けること」(27節)という。いわゆる「最後の審判」と言われてきたことを指していると思う。すべての人は死んだ後、神の前に立たされて裁きを受けるという神話である。この神話が語ろうとしている最も重要なことは、その人が生きているときにどういう生き方をしたのかということが問われるということである。ここでの最後の審判という言葉のニュアンスは究極の評価という方がぴんと来ると思う。つまり、生きているときには、褒められようと、貶されようと、人々の賞賛を浴びようと、人々から軽蔑されようと、それはすべて人間の目による評価であって、不完全なものである。本当の、神による完全な評価は死後にあるとされる。人間による相対的な、不完全な評価に対して神による絶対的な、完全な、究極的評価を当時の人々は当時の世界観に従って、死後の世界へのずれ込ませた。しかし、考えてみるとこれらを時間的にずらせる必然性はない。むしろ、わたしたちが生きているその時、その瞬間、人々による人間の評価と神による評価とが平行していると考える。永遠とは死後のことではなく現在にある。むしろ、ヘブライ書の著者は現在のこの世こそ、永遠の世界の「写し」「コピー」「仮の世界」であり、この世において現実の祭司が聖所に入って犠牲を捧げるとき、それは天にある真の聖所において大祭司であるイエス・キリストによって捧げられている永遠の犠牲の写しであるという。
もっとわかりやすくいうと、わたしたちの行為がこの世において誤解され、批判されたとしても、天において神は真実の姿をご覧になっている。イエス・キリストは、わたしたちの本当の姿を見て、神に対して執り成しをしてくださっている。これが究極の評価である。だから、この世において誤解されようと、無責任に批判されようと、気にしない。ちゃんとわかってくださる方がおられる。

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