落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 審判  ヘブライ9:24~28

2009-11-02 17:32:36 | 講釈
2009年 聖霊降臨後第23日(特定27) 2009.11.8
<講釈> 審判  ヘブライ9:24~28

1. 大祭司イエスにおける祭儀の一回性
9:1~14に天の聖所と地上の聖所との細かい比較がなされる。1節から10節で地上の聖所が語られ、11節から14節で天上の聖所が語られるが、注目すべき点は9~10節でそこには地上の聖所の限界が示されている。地上の聖所は影であり、本物の影であるにすぎない。それは実体の現れるまでの外面的な準備である。「しかし」(11節)、この「しかし」は非常に強い。即ち地上の礼拝の限界が述べられ、調子が下がったところで「しかし」と新しい世界が開かれた鐘が高らかに鳴り響く。その新しい世界の第一声は「キリスト」である。ここに天の礼拝の場が展開される。ここで、この部分(7章~10章)の聖書的土台を提供している8:7~13を見なければならない。ここにはエレミヤのあの有名な新約の預言が引用されている。この辺りの著者の論の運びは実に巧みであり、聖書的である。先ず、7節で旧約の不完全性と新約の必然性を主張し、それを聖書の上から証明し、13節において、結論的に旧約から新約への展開を述べる。
さて、この新約の成就者であるキリストの大祭司としての礼拝の場は古き幕屋とは異なり「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」であり、そこにてなされる贖いの業は鳥獣の血によるのでなく、キリストご自身の血によるのである。されば、この贖いは「良心を全うすることは出来ない」(10節)儀式とは異なり、「わたしたちの良心をきよめて、死んだ業を取り除き、生ける神に仕える者」とするのである(14節)。
しかし、そこには必然的にキリストの血が要求される。血とは生命であり(レビ17:11)、血の要求とは死の要求である。旧約においても新約においても、神に近づく礼拝には贖いの血が要求されるのである(18節、22節)。旧約においてはその血は動物の血ですんだ(レビ17:11,12)。しかし、新約においてはそれ以上の犠牲が要求される。そこにキリストの血の論理的必要性があり、それはキリストの十字架において全うされたのである。キリストの血の贖罪の完全性は9:14に示されている如くであるが、そこにキリストの贖罪の一回性は必然であり、人類の救済史における唯一の救いとしての十字架の意義がある。十字架を中心として、それ以前の全人類、またそれ以後の全人類に対する贖罪の価値は等しいのである。
2. 人生における一回性
さて、本日取り上げたいテキストは「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(27節)である。人生において決定的なことは一回である。生まれること、死ぬこと、最近では一回とは言えなくなったが結婚することなどである。昔は職業も生涯に一つということが当然のことされた。人生が軽くなるにつれ、人生の一回性が薄れていく。最近では人生さえリセットして何度も繰り返すことができると考えている人間が増えてきた。「人生はやり直しができる」という言葉は、個別的なことがらについての失敗に対する慰めの言葉ではあっても人生そのものにおける真理ではない。人生は後戻りすることはできないしリセットもできない。たとえ個別的なことであっても失敗は失敗であり、その責任は本人が背負っていかねばならない。だからこそ、人生には真剣でなければならない。一瞬一瞬は一度しかない一瞬である。それが人生という現実である。
3. 死後のこと
さて、次の問題「その後に裁きを受けること」に入る前に確認しておかねばならないことがある。それは過去の文書を読む場合の基本的な問題である。人間が書き、残す文書というものは、論文であれ、文学書であれ、書かれた時代の思想、あるいは世界観というものから自由ではない。それは「永遠の書」といわれる聖書でも例外ではない。むしろ、聖書は旧約聖書であれ、新約聖書であれ必要に迫れれて、その時代の人々に向けて書かれたものであるから、その時代的背景とかその時代の人々の考え方が色濃く影響している。特に、ヘブライ書はその時代の人々の宗教生活をかなり強く意識し、イエス・キリストによる救済を弁証的(護教的)に書いているので、当時の宗教思想が前提になっている。そのため、現在のわたしたちにとって理解困難な前提に立っている。そのことを考慮しなくては著者が語ろうとしている本当の問題が見えてこない。例えば、「死後の裁き」、つまり最後の審判といわれている神話に対する理解である。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」(27節)という言葉である。ヘブライ書の著者はこのことについて論じようとしているのではない。むしろ論じるまでもない前提であり、著者も読者もそのことについては何の疑問もない前提である。少なくとも、この言葉の前半については現在でも同様であろう。現代人でも、またどんな科学者でも人間が死ぬことには異論はない。それがどんなにいやなことであり、何とか避けたいことであっても、認めざるを得ない事実である。また将来科学が発達してもこの事実が人間から取り除かれることはあり得ないと考えている。
ただ、最近、非常に気になることは、わずかな金のために安易に殺人が行われること、あるいは自分の犯罪を隠すためにいとも簡単に人を殺すという風潮である。要するに、死という事柄が非常に軽いものになっている。少し難しいことをいうと、死ということの一回性が尊重されていない。事実はそうではないのに、意識の中では死を繰り返されうるこのと思っている。こういう風潮は死というものの持つ厳粛さが失われた結果である。いかなる時代においても、いかなる思想においても死という出来事は厳粛である。人の人生の重さと同じ重さが死という事実には込められている。
死という現象は心臓が止まるとか、脳の機能が停止するとか、科学的に説明ができる範囲にある。しかし死後のことについては現代科学の範囲を越えている。科学というものは対象を厳密に規定することから始まる。従って自己の守備範囲を越えていることについては沈黙するしかない。
ただ後半の死後のことについては、当時の人々と現代の人々の間に大きなギャップがある。本当に科学を知らない人は科学的に解明されないことは存在しないと考える。これが幼稚な科学主義である。信仰者であれ、無神論者であれ、現代人は死後の世界についてわからないというのが、最も正直な答えであろう。
4. 死後の裁き(最後の審判)
ヘブライ書の著者は「死んだ後裁きを受けること」(27節)という。いわゆる「最後の審判」と言われてきたことを指している。すべての人は死んだ後、神の前に立たされて裁きを受けるという神話である。この神話が語ろうとしている最も重要なことは、その人が生きているときにどういう生き方をしたのかということが問われるということである。ここでの最後の審判という言葉のニュアンスは究極の評価という方がぴんと来ると思う。つまり、生きているときには、褒められようと、貶されようと、人々の賞賛を浴びようと、人々から軽蔑されようと、それはすべて人間の目による評価であって、不完全なものである。本当の、神による完全な評価は死後にあるとされる。人間による相対的な、不完全な評価に対して神による絶対的な、完全な、究極的評価を当時の人々は当時の世界観に従って、死後の世界へのずれ込ませた。しかし、考えてみるとこれらを時間的にずらせる必然性はない。むしろ、わたしたちが生きているその時、その瞬間、人々による人間の評価と神による評価とが平行していると考える。永遠とは死後のことではなく現在にある。むしろ、ヘブライ書の著者は現在のこの世こそ、永遠の世界の「写し」「コピー」「仮の世界」であり、この世において現実の祭司が聖所に入って犠牲を捧げるとき、それは天にある真の聖所において大祭司であるイエス・キリストによって捧げられている永遠の犠牲の写しであるという。
もっとわかりやすくいうと、わたしたちの行為がこの世において誤解され、批判されたとしても、天において神は真実の姿をご覧になっている。イエス・キリストは、わたしたちの本当の姿を見て、神に対して執り成しをしてくださっている。これが究極の評価である。だから、この世において誤解されようと、無責任に批判されようと、気にしない。ちゃんとわかってくださる方がおられる。これが最後の審判という神話のメッセージである。

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