落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>わたしは飽いた

2007-10-29 21:06:15 | 講釈
2007年 聖霊降臨後第23主日(特定26) 2007.11.4
<講釈>わたしは飽いた   イザヤ書1:10-20

1.  いい加減にせい
「わたしは飽いた」(1:11)。これは神の言葉である。神の口から出た神の言葉らしくない神の言葉である。10節から17節の言葉は凄く激しい。説明するよりも、その言葉を読んでもらおう。
<ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。
雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、がお前たちにこれらのものを求めたか。わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など、災いを伴う集いにわたしは耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。
お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。>
これが預言者イザヤが伝えた神の言葉である。一口で言うなら「もう、いい加減にせい」という怒りの言葉である。怒っている内容は、読めばすぐ分かる。非常に分かりやすい。この分かりやすさは怒りの度合いを示している。本当に怒っているときには、言葉は短く、激しい。ネチネチ、感情を抑えて怒っているのとは訳が違う。感情をむき出しにして、面と向かって怒っている。もう怒鳴っているに近い。「もう、あなたたちのさも信仰深そうな、畏まった、宗教行為に飽き飽きしている。あなたたちの行う宗教儀式にはヘキヘキしている。もう、我慢できん。辛抱たまらん。聞いているだけで、見ているだけ、疲れ果ててしまった。もう、やめろ。もう、絶対にあんたたちの祈りは聞かない。もし、本当に聞いて欲しいなら、先ずあなたたちがなすべきことをしてから出直して来い」。これがここの言葉である。
ここで名前があげられている、ソドムとゴモラの支配者とか民とは、もう既にこの世にはいない。彼らは、ロトの時に「火と硫黄によって」(創世記19:24)滅ぼされ、イザヤの当時にはその場所は死海になっていた。現在でも死海のままである。9節の「もし、万軍の主がわたしたちのために、わずかでも生存者を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう」という言葉を受けて、「ソドムの支配者」とか「ゴモラの民」と表現されているだけで、批判されているのはユダの民を意味している。
2. イザヤ書全体における序言である
1:2-31までの部分は、イザヤ書全体(1章~39章)に対する序言となっている。イザヤ書はイザヤが書いた文書ではなく、イザヤの後代の弟子たちがイザヤが語ったとされる「預言の言葉」を収集し、編集したものである。従って、ところどころにイザヤの生涯に関する記事が挿入されている。たとえば、イザヤの召命の記事(6:1-13)などである。
この部分の主旨をまとめた言葉が27節~28節にある。この言葉は本日は読まれないが、イザヤの預言を理解する上で、重要な言葉である。「シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。背く者と罪人は共に打ち砕かれ、主を捨てる者は断たれる」。イザヤ書全体(1章から39章まで)の預言の言葉は、この言葉にまとめられる。意味は明確である。正当な裁判によって、悔い改める者は赦され、背く者は処刑される。単純明快であるだけに厳しい。そこには情状酌量もなければ執行猶予もない。
3. 神がこんなことを言う背景
神が神の民ユダに対してここまで態度を硬化し、激しく語るのにはそれなりの背景がある。
イザヤが預言者としての召命を受けて(イザヤ書6:1)、預言者になったのは紀元前736年のことであった。その3年後、シリア・エフライム戦争が勃発している。この戦争は、当時勃興しつつあったアッシリア帝国が世界支配という野望によって諸国を侵略し始めた頃、その脅威を感じた弱小諸国はシリア・エフライムを中心として反アッシリア同盟を結成して、アッシリア帝国に対抗しようとしていた。エフライムとは北のイスラエル王国の別称で、当然南のユダ王国にも同盟軍への参加の呼びかけがなされた。このような国際情勢において国内でも、反アッシリア同盟に加わるか、独自路線をとるか、それともアッシリアの支配下に入るかということを巡って大論争が繰り広げられていた。基本的にはアハズ王は反アッシリア同盟には不信感を抱いていた。弱小国の連合は所詮弱小国の集まりにすぎない。あの強大なアッシリア帝国の前では何の役にもたたないであろう。それともう一つ経済的問題もあった。当時、一つの国が他の国を攻撃して支配するということは、結局朝貢を求めてのものである(列王記下15:19以下)。アッシリア帝国の支配者はこの朝貢の取り立てにおいて、諸国間に微妙な差を作り、いわば分団政策をとってきた。シリア王国や北のイスラエル王国には莫大な朝貢を要求し、国の経済はとことん疲弊するに至っていた。それで、これらの諸国は反アッシリア同盟を結成したのであるが、南のユダ王国に対しては朝貢は無いに等しかった。この差が、アッシリア帝国に対する温度差となって、ユダ王国のアハズ王は反アッシリア同盟への加盟を躊躇していたのである。同盟への決断をしないユダ王国に対して、同盟側は武力によって同盟を迫ってきた。そのような事態になって、アハズ王はアッシリアの支配下に入る決断をして、アッシリアの保護を求めた。それが、シリア・エフライム戦争である。
それから以後は、ユダ王国はアッシリア帝国の支配を受け、いろいろな点でアッシリアの要求に従わざるを得ないこととなった。とくに、重要なことはアッシリアの宗教の強制ということであった。それは預言者たちが最も恐れていた事態であった。この戦争の結果はそれだけにとどまらず、シリア・エフライム同盟軍に参加した諸国はアッシリア帝国によって徹底的に滅ぼされ、国民は奴隷状態におかれることとなった。この時に、北のイスラエル王国も滅亡した。預言者イザヤが活動したのちょうどその頃のことであった。
この問題に対するイザヤの根本姿勢は「落ち着いて静かにしていなさい」(7:4)ということで、反アッシリア同盟にも加わらず、アッシリアにも助けを求めない。つまり、反アッシリア同盟はそれ程強くはなく、軍事的圧力もたいしたことはない。それよりもアッシリアに助けを求めることは、アッシリアの軍門に降ることになり、ユダ王国にとっては命取りになる。むしろ、アッシリアはシリア・エフライムによる反アッシリア同盟とユダ王国とを対立させることによって「漁夫の利」を策動している、と見ている。結果的には事実その通りになったのであって、同盟軍とユダ王国とがアッシリアの前に共倒れになってしまったのである。
4. アハズ王の不信仰
アハズ王は、国家的危機に際して、いわば国難に際して、主なる神を信じるよりも、アッシリア帝国の援助を頼りにした。という強大国に頼るという姿として、イザヤは批判した。その神に対する不信がここでいう罪である。この不信がある以上、そしてそれは結果的にはアッシリアの宗教を受け入れるということになることを知っているにもかかわらず、行われる「盛大な宗教行事」は空しい。11節から15節までの祭儀批判は基本的にはそのことによる。大国に対する朝貢を治めるために国費の大半を使い、そのことによって国民の生活がどのように圧迫されようとも顧みることをしない国、どのように盛大に宗教行事を行っても、そこには本当の宗教心はない。神はそれを受け入れない。
5. 悔い改めのチャンス
しかし、イザヤの時代(8世紀中頃)にはまだ悔い改めのチャンスはあった。しかし、そのチャンスも6世紀後半の第2イザヤの時代(イザヤ書40章以下)になると、なくなる。第2イザヤにおいては「悔い改め」ではなく、神による救済への希望が主題となる。悔い改めて赦されるのと、神の一方的な恵みによって救われるのと、どちらの方がいいのか。もちろん、現実の中ではそんな選択の余地はない。ただ、イザヤ書において39章までの預言と、40章以降の預言とが並べられると、そんなことを考えさせられる。新約聖書のメッセージはもちろん第2イザヤの預言を受け継いでいる。しかし、神と人間との「正しい関係」を主題とする聖書全体のメッセージとしては、「悔い改めによる関係の修復」の方が優先するテーマである。神の一方的な恵みによる救いは神の最後の手段であって、できるだけそうではない方が望ましいことである。18節から20節の言葉はそのことが論じられている。
論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。
神が望んでいるのは、「おまえたちが進んで従う」ということである。現代的な言い方をすると、主体的に神に従うことを神は期待し、待っている。神は、わたしたちが完全に打ちのめされて、どうしようもなくなってから、救済の手を伸ばすことを望んでおられるのではない。悔い改めのチャンスのあるうちに、悔い改めよ。それがイザヤのメッセージである。キリスト教の信仰というものはいつもその点が逆になっている。

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