落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨日説教 約束された聖霊  使徒言行録2:1~11

2009-05-27 12:58:55 | 説教
2009年 聖霊降臨日 2009.5.31
約束された聖霊  使徒言行録2:1~11

1. 「約束された聖霊」
聖霊降臨日のキイワードは「約束された聖霊」(特祷より)である。ルカによる福音書24:49でイエスは弟子たちに「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と語られた。これが天に登られる最後のイエスの言葉であった。それを受けて使徒言行録では「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1:4,5) と繰り返されている。
この約束を受けた弟子たちにとって「聖霊を受ける」ということが一体どういう出来事なのか判らなかったはずである。それまでイエスの弟子たち、とくにガリラヤの普通の人々にとって「聖霊を受ける」ということは自分たちには無縁のことであった。「神の霊を受ける」ということは神に選ばれた特別な人々の特別な経験であって、それを受けるとき彼らは預言者になるのであった。もっと身近なことをいえば、イエスこそ聖霊を受けた神の人であるというのが彼らの認識であった。しかし自分たちは駄目な人間であって駄目だからこそ神の人であるイエスに従ってきたのである。
イエスに従うといえば、彼らはイエスに従ってエルサレムまで来てしまった。エルサレムには彼らの生活を支える何ものもない。イエスだけを頼りにしてエルサレムに来てしまったというのが彼らの真相である。なぜ彼らがその様な行動をとったのかといえば、ただ一つ「この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていた」(ルカ24:21)からである。ところが、その肝心のイエスは「エルサレムにとどまって聖霊の降臨を待て」という言葉を残して十字架上で処刑されてしまったのである。彼らに残されたのはこの約束だけである。その他に何も頼りにするものがない。勿論彼らは何もかも忘れて、ガリラヤに帰り普通の生活に戻ることもできたであろう。しかし彼はガリラヤに戻らなかった。それは逆にいえばイエスの約束にこだわったということを意味する。
待ちながら彼らがしたことはただ「熱心に祈る」(使徒言行録1:14) ということだけであった。一体彼らは何を祈ったのだろう。恐らく彼らの祈りの中心は「これからどうしたらよいのか」という不安に満ちた祈りであったに違いない。この状況を特徴付ける言葉は「心を合わせて」(1:14)「一同が一つになって」(2:1) である。この一体感は不安に基づく連帯であり、身を寄席合っている状況である。そういう出口のない閉鎖的な状況がいつまで続くのか、誰も答えられなかった。
2. 五旬祭
10日たった。五旬祭の日、ユダヤ教ではこの日は十戒が与えられたことを記念する大きな祭であった。同時にそれは収穫祭でもあった。要するに賑やかな祭である。特にこの祭では「寄留の外国人」や「孤児、寡婦」を招いて「共に喜び祝う」ことが命じられている。弟子たちはこの賑やかな祭の日を「閉鎖的な状況の中で」迎えたのである。どういう気持ちであっただろう。
ところが、この日に使徒言行録に記録されているような出来事が起こった。家の外の賑やかさをはるかに越えた騒がしさ、喜びが家の内部から起こったのである。この喜びの源は「上」である。「上から喜び」が降ってきたのである。地から出てきた「酒の喜び」ではない。過去の出来事を記念する祭の喜びではなく、未来へと開かれた喜びが内部から溢れてきたのである。
3. 約束の実現
この出来事が「約束の聖霊」の出来事であった。実際にどういうことが起こったのか良く判らない。ただこの出来事の結果ははっきりしている。第1のことは、この出来事を通して弟子たちは「語る人間」に変わった。それまでの彼らは一貫して「聞く人間」であり、受け身の人間であった。彼らは語るべき言葉を持っていなかった。言語自体も語れるようなレベルのものではなかった。彼らはガリラヤの言葉を語るガリラヤの人である。後にエルサレムの人々は彼らが「無学な普通に人」(使徒言行録4:13)であることに驚いているが、彼らは人々に対して堂々と説教できるような言葉を持っていなかった。ところが、聖霊を受け、人々に語る人間に変わった。彼らが語るとき、聞く人々はそれぞれの国の言葉で聞くように彼らの語ることを理解した。彼らの言葉が人々に通じた。これは驚くべき奇跡である。ここには言葉以上の言葉がある。必ずしも「超自然的奇跡」を想定する必要はない。「言葉が通じる」ということ自体が奇跡である。
もう一つの、特徴は「炎のような舌が分かれ分かれに現れた」ということである。彼らが集団としてエクスタシーの状況になったというのではない。一人一人が「霊を受け」全体が一つになった。使徒言行録はその後の教会の姿として「心をひとつにして」ということが強調されている(2:44、46、47、4:32、5:12)。このことはわたしたちが聖霊というものを考える場合に忘れてはならない重要な特徴である。聖霊は一人一人の個人に臨むと同時に教会全体を覆う。この全体と個人という二つの面を見失うときに非常に個人主義的なキリスト教になったり、逆に全体主義的なキリスト教になってしまう。

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