京橋にある東京国立近代美術館フィルムセンターへ行って来た。(東京メトロ浅草線「宝町駅」下車、徒歩1分)
私と同じ誕生日である喜劇王チャールズ・チャップリン(1889―1977)が逝去して今年でちょうど30年。そのチャップリンの秘書を1916年から18年間にわたり務めた日本人秘書・高野虎市(1885―1971)は、喜劇スターから世界の映画芸術のリーダーへと羽ばたいてゆくチャップリンを献身的に支えたそうだ。そして近年発掘された虎市の遺品にフィルムセンター所蔵のチャップリン関連資料を加えて集めた展覧会「チャップリンの日本(12/27まで開催)」を見に行く為だ。
まずチャップリンの秘書が日本人であったことが意外だった。虎市は15歳で米国に移住し、1916年にチャップリンの運転手となり、まじめな人柄を買われ秘書を務めた。ちょうど「キッド」「街の灯」などが誕生した多忙な時期を支えたが、当時の妻の浪費を注意し、疎まれて1934年に退職したとのこと。親日家として有名なチャップリンは、彼の影響が大きかったのではないだろうか?
チャップリンの映画がまた観たくなった帰り道である。
有限会社やな瀬不動産
私と同じ誕生日である喜劇王チャールズ・チャップリン(1889―1977)が逝去して今年でちょうど30年。そのチャップリンの秘書を1916年から18年間にわたり務めた日本人秘書・高野虎市(1885―1971)は、喜劇スターから世界の映画芸術のリーダーへと羽ばたいてゆくチャップリンを献身的に支えたそうだ。そして近年発掘された虎市の遺品にフィルムセンター所蔵のチャップリン関連資料を加えて集めた展覧会「チャップリンの日本(12/27まで開催)」を見に行く為だ。
まずチャップリンの秘書が日本人であったことが意外だった。虎市は15歳で米国に移住し、1916年にチャップリンの運転手となり、まじめな人柄を買われ秘書を務めた。ちょうど「キッド」「街の灯」などが誕生した多忙な時期を支えたが、当時の妻の浪費を注意し、疎まれて1934年に退職したとのこと。親日家として有名なチャップリンは、彼の影響が大きかったのではないだろうか?
チャップリンの映画がまた観たくなった帰り道である。

