劇団夢桟敷 ☆2018.6〜山南ノート5

熊本アングラ万華鏡〜演劇とプライベートの徒然

熊日連載⑧「わたしを語る」(16)(17)

2020-05-04 23:34:25 | 2020-2022 日記

熊本アングラ万華鏡の「ま」
筒の中の三枚合わせ鏡に色とりどりが増えた。
光に向けて筒をくるくる回しながら覗くと、アングラの「ア」が奇妙奇天烈の「美」に代わる。

熊日連載「わたしを語る」も読まれることに慣れてきた。
「恥ずかしながら…」が体裁になり、「慣れ」に落とし穴がないかと慎重になった。
(16)国際ボランティア
(17)沖縄公演

記事ではあっさり流して語っているが、2000年前後は更にゼネレーションギャップにもがいていた。
榊先生(高校教師)との「高校生のための国際ボランティア」では演劇をコミュニケーションツールとしてプログラムに入れてくれた。…私にはそのような発想は思いもつかない。
国際ボランティアworkshopでは演劇のための活動ではない。会話レクレーションの方法を作らねばならなかった。
実は高校生たちの流行言葉に追いついて行けない。私は40歳を過ぎた頃から事象の流れに取り残されていることを高校生たちを通じて実感した。
失語だ。
犬や猫になって意思を伝えるレクレーションを繰り返した。生徒さんたちは喜んで遊んでくれたが、先生たちはメモを取ったりボランティア教育に活かせないものかと真面目に観察していた。
レクレーションですよ。遊びです。…先生たちの真剣さに冷や汗が溢れる。
榊先生は劇団をNPO(非営利法人)化を勧めながら、山南君は経済のことを考えなくていいから国際ボランティアと演劇に専念しよう!とラッパを吹き鳴らしていた。
ところが2006年に突然、亡くなってしまった。
中学校でお世話になった副島先生(中学教師)も亡くなり、劇団夢桟敷の大きなバクボーンを失ってしまった。
沖縄公演についても副島先生は演劇部生徒さんたちを劇団に送り込んでくれた。退職されてから劇団にも入団してくれ、「観客席」(寺山修司)の〈闇を塗るペンキ男〉として女子の尻を塗っていた。俳優としても真剣だった。
「アングラ」と「教育」との関係は?…志を貫く人との関係で作られる。
もっと生きていて欲しかったと…。感謝してもしきれない。


寺山修司の日(敬称略)

2020-05-04 10:41:49 | 2020-2022 日記

1983年5月4日
寺山修司(47歳没)
あの日から37年の今日。熊本の自宅窓から曇り空を眺めています。
歴史に「もしも…」があれば、
寺山修司さんが今、生きていれば何を語ってくれているだろうか。
演劇で現実をどのように挑発するだろうか。
わからないから頷ける。わからない魅力があった。
それは不安ではなく、わからないことに可能性を導く不思議さに胸を突き刺してくれた。
「百年の孤独」で見た晴海埠頭での、
空高く上っていく「穴」。…最後となった演劇公演だった。
火薬の煙が漂う。終演後にもう一つの現実を歩き始めた。
焼き付いた物語が風景となって、登場人物や音楽、美術が今でもひとり歩きし続けている。
寺山さんが亡くなる前に通った、
六本木 麻布十番、外国大使館が並ぶところに
ぽつんとあった天井桟敷館。

百年たったら 帰っておいで。
百年たったら その意味わかる。