山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

壊れたのは橋本派だけか

2003年09月24日 | 政局ウォッチ
自民党総裁選は下馬評通り、小泉首相の圧勝という味気ない結果に終わった。最初から最後まで反小泉勢力の「悪あがき」だけが目立った選挙だった。むしろ意外だったのは、その後の人事だろう。自民党役員人事で、小泉氏は、意地でも続投させると思われた山崎拓幹事長を更迭し、後任に安倍晋三官房副長官を抜擢したのだ。

さらに内閣改造人事では、「大幅改造」との期待を裏切り、主要閣僚に竹中、川口両氏の民間人を留任させ、議員でありながら「政治的実行力がない」と批判の強かった石原、石破の両氏も閣内にとどめた。

★森前首相の高笑いが聞こえる

「山拓で譲って、竹中を取った」と言われた今回の人事は、小泉氏と青木氏の双方が妥協した結果とみられている。それだけに、人事発表後の両者の重い表情が印象的だった。そうした「バーター人事」の裏側で、一人だけ笑いをこらえられずにいる人物がいる。森喜朗前首相である。

小泉氏の後見人を自認する森氏は、総裁選で小泉支持に回った青木氏の顔を立てるため、小泉首相に対し山崎、竹中両氏の更迭を再三にわたり強く迫ったとされる。しかし、実際には、森氏の標的は「山拓」一本に絞られていたのだ。

山崎氏は、かつて小泉首相、加藤紘一氏と「YKK」と呼ばれる盟友関係を結んでいた。YKKは、3人がそれぞれ渡辺派、三塚派、宮澤派を代表する「次世代の領袖」候補だった頃に、数の力で海部俊樹首相(当時)をコントロールしていた竹下派(経世会)に対抗するため結成された。

その後、三塚派を継承した森氏が、経世会の手で、急死した小渕首相の後継に担ぎ出されたため、小泉氏は派閥会長に就任。山崎、加藤両氏との連携も影を薄めた。さらに、首相としての資質を問われていた森氏に対し、加藤氏が公然と辞任を要求するに至り、YKKは分裂状態に追い込まれた。世に言う「加藤の乱」である。

当時、山崎氏は加藤氏と行動をともにし、逆に小泉氏は彼らの動きを徹底的に弾圧した。結果は小泉氏側の勝利。森政権は延命し、山崎、加藤両氏は非主流派へと転落した。

小泉氏の暗闘のおかげで命拾いした森首相だったが、その後も「えひめ丸」事件の対応などで失態を続け、参院選を前に、青木幹雄参院幹事長と野中広務前幹事長が率いる経世会によって引導を渡されてしまった。

自分たちの都合で担いだ森氏を、自分たちの都合で引きずり降ろした経世会―。このときの青木氏らの行動が、後継総裁を決める選挙に出馬するに当たっての小泉氏の「大義」となった。

総裁選では橋本竜太郎元首相が最有力と見られていたが、党員からの圧倒的支持を得て小泉氏が当選。小泉氏は組閣に当たり、総裁選で貢献した田中真紀子氏を外相という重職に迎えた。

田中氏はかねてから森政権を露骨に批判し、森氏から睨まれていた。内心不愉快な森氏は、この外相人事を、懇意の民放女性記者に意図的にリークするなどして潰そうとしたが失敗。国民は拍手喝さいで田中外相を迎えた。

さらに小泉首相は、自民党幹事長に盟友の山崎拓氏を指名し、「加藤の乱」での対立を乗り越え、盟友の絆を新たにした。謀反の主犯格に当たる加藤氏については、さすがに無役としたものの、その側近であった中谷元氏を防衛庁長官に抜擢。小泉政権は「アンチ橋本派」「アンチ森」の色彩を強く打ち出し、さっそうと船出したのだった。

★YKK同盟の終焉

それから2年5カ月。かつて森政権を批判した加藤氏も田中氏も、今は永田町から姿を消した。そして最後まで残った山崎氏が、今回の自民党人事で政権中枢から去った。

聞こえてくるのは森氏の高笑いだけだ。竹中、川口両氏は改造内閣に留任したが、そもそも2人を政界に登用したのは森氏である(彼は大学教授だった竹中氏にIT担当相を打診したが、本人が固辞したためIT戦略会議の委員に任命した。またサントリー常務だった川口氏も、森氏の抜擢で環境庁長官に入閣した)。

2人は「人事上手」を自認する森氏にとって自慢の息子であり、娘だったのだ。従って、これら民間閣僚への思いでは青木、森両氏は一枚岩でなく、森氏にしてみれば、かつて自分に歯向かった山崎氏さえ幹事長職を更迭されれば目的を達したも同然なのだった。

こうして見ると、一連の総裁選、党人事、内閣改造で崩壊したのは、橋本派だけではなかったように思えてくる。それは同時に、経世会(現橋本派)に対抗して結成された「YKK」の最終的崩壊をも意味していたのだ。

青木氏の支持を受けて発足した新しい小泉政権は、2年5カ月前に生まれた政権とは、まったく似て非なる政権へと変質することだろう。 (了)


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